黒田官兵衛は幽閉されていなかった
『黒田官兵衛から荒木村重への書簡の写し発見 本能寺の翌年』
通説では、「織田信長に謀反を起こした村重の説得に訪れた官兵衛は1年間幽閉された。」と伝わります。
しかし、兵庫県伊丹市立博物館は2日、戦国武将、荒木村重(道薫)に幽閉された黒田官兵衛が、後に村重
に送った書簡の写しが見つかったと発表しています。
この書簡は、幽閉から4年後の手紙ですが、文面からは親しげな関係がうかがえ、研究者は「幽閉は過酷な
ものではなく、2人は変わらずに親しい関係だったのでは」と分析しているそうです。
黒田官兵衛(1546-1604年)

当時、官兵衛は秀吉の配下で、茶人となっていた村重は茶道を通じて秀吉との関係を深めていた。書簡は、
村重から光源院の領地問題の相談を受けた官兵衛が返書を出し、これを村重が書き写し、交渉が順調だと
伝えるために光源院に送ったものだという。
「秀吉様のお考えどおりに間違いのあるわけがありません」と秀吉をたたえる言葉や「姫路へのお供をされ
るのであれば、この地へお出(い)でになるだろうと存じていたところ、お出でになられず、とても残念」と再
会できなかったことを惜しむ文がつづられいるという。
黒田官兵衛が荒木村重(道薫)に宛てた書状の写し(相国寺光源院所蔵)

<クリックで拡大>
神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)は「文面からは遺恨は感じられない。茶人となった村重が政治
に関与し、秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする2人の関係を示す貴重な資料だ」と評価してい
るそうです。
(毎日新聞電子版 2013年12月03日)
来年の大河ドラマはどう展開するのでしょうね。
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いつもありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:観音寺城
安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭と言われ、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となっています。
≪本日の問題≫
通説では、「織田信長に謀反を起こした村重の説得に訪れた官兵衛は1年間幽閉された。」と伝わります。
しかし、兵庫県伊丹市立博物館は2日、戦国武将、荒木村重(道薫)に幽閉された黒田官兵衛が、後に村重
に送った書簡の写しが見つかったと発表しています。
この書簡は、幽閉から4年後の手紙ですが、文面からは親しげな関係がうかがえ、研究者は「幽閉は過酷な
ものではなく、2人は変わらずに親しい関係だったのでは」と分析しているそうです。
黒田官兵衛(1546-1604年)

当時、官兵衛は秀吉の配下で、茶人となっていた村重は茶道を通じて秀吉との関係を深めていた。書簡は、
村重から光源院の領地問題の相談を受けた官兵衛が返書を出し、これを村重が書き写し、交渉が順調だと
伝えるために光源院に送ったものだという。
「秀吉様のお考えどおりに間違いのあるわけがありません」と秀吉をたたえる言葉や「姫路へのお供をされ
るのであれば、この地へお出(い)でになるだろうと存じていたところ、お出でになられず、とても残念」と再
会できなかったことを惜しむ文がつづられいるという。
黒田官兵衛が荒木村重(道薫)に宛てた書状の写し(相国寺光源院所蔵)

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神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)は「文面からは遺恨は感じられない。茶人となった村重が政治
に関与し、秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする2人の関係を示す貴重な資料だ」と評価してい
るそうです。
(毎日新聞電子版 2013年12月03日)
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:観音寺城
安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭と言われ、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となっています。
≪本日の問題≫
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「浅井 長政」の義 2
魔王・信長に挑んだ戦国一の勇者
『最後まで筋目を通した男』
長政と信長は敵対関係となり
1570年 織田・徳川連合軍が裏切りの報復とばかりに 近江へと侵攻を開始
長政は朝倉と組み姉川にてこれを迎え撃つ 数で勝る織田軍に対し長政は奮戦 姉川が真っ赤に
染まるほど両軍とも多大な死者を出すが 長政はなんとか織田・徳川軍を退けることに成功する
この後 長政には対信長の急先鋒として期待をかけられるが 「姉川の戦い」での被害は甚大で
あり浅井軍には戦う力は残されていなかった
1573年 織田軍は居城の小谷城まで攻め込み 信長は長政に対して何度も降伏勧告をするが
長政はこれを頑として聞き入れず ここを死に場所と覚悟を決めた
妻の「お市の方」(信長の妹)も長政と運命を共にしようとするが 長政は不びんに思い配下に
命じて「お市の方」を織田軍へと送り返させる
そして織田軍による怒涛の総攻撃がはじまり 果敢に迎え撃つ長政であったが 進退窮まり父の
久政とともに自刀して果てる
享年29歳という若さであった 最後まで男らしく戦った長政であったが この時代を生き抜く
にはあまりにも清廉潔白すぎた
もし長政が朝倉ではなく 信長を選んでいたら歴史はまた違った方向へと歩みを進めたのかも知
れませんね
浅井長政の小谷城です
「熊出没注意」のカンバンがあります。
夏はハチ&蚊がたくさんいますので、長パンツ&長ソデは必須です
写真は 平成21年9月20日百名城めぐりで撮ったものです

番所跡です 「お市の方」はここを通り信長の元へ 送り出されたのでしょうか

琵琶湖が良く見えます

一乗谷城(一乗谷朝倉氏遺跡)
1573年 信長の軍勢によって火を放たれ 一乗谷は灰燼に帰した
写真は 平成20年9月20日百名城めぐりで撮ったものです

「応仁の乱」により荒廃した京から 多くの公家や高僧 文人 学者たちが避難してきたため一乗谷
は飛躍的に発展し 華やかな京文化が開花した
最盛期には人口1万人を超え 越前の中心地として栄えていた

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<参考文献:戦国武将がよくわかる本>
『最後まで筋目を通した男』
長政と信長は敵対関係となり
1570年 織田・徳川連合軍が裏切りの報復とばかりに 近江へと侵攻を開始
長政は朝倉と組み姉川にてこれを迎え撃つ 数で勝る織田軍に対し長政は奮戦 姉川が真っ赤に
染まるほど両軍とも多大な死者を出すが 長政はなんとか織田・徳川軍を退けることに成功する
この後 長政には対信長の急先鋒として期待をかけられるが 「姉川の戦い」での被害は甚大で
あり浅井軍には戦う力は残されていなかった
1573年 織田軍は居城の小谷城まで攻め込み 信長は長政に対して何度も降伏勧告をするが
長政はこれを頑として聞き入れず ここを死に場所と覚悟を決めた
妻の「お市の方」(信長の妹)も長政と運命を共にしようとするが 長政は不びんに思い配下に
命じて「お市の方」を織田軍へと送り返させる
そして織田軍による怒涛の総攻撃がはじまり 果敢に迎え撃つ長政であったが 進退窮まり父の
久政とともに自刀して果てる
享年29歳という若さであった 最後まで男らしく戦った長政であったが この時代を生き抜く
にはあまりにも清廉潔白すぎた
もし長政が朝倉ではなく 信長を選んでいたら歴史はまた違った方向へと歩みを進めたのかも知
れませんね
浅井長政の小谷城です
「熊出没注意」のカンバンがあります。
夏はハチ&蚊がたくさんいますので、長パンツ&長ソデは必須です
写真は 平成21年9月20日百名城めぐりで撮ったものです

番所跡です 「お市の方」はここを通り信長の元へ 送り出されたのでしょうか

琵琶湖が良く見えます

一乗谷城(一乗谷朝倉氏遺跡)
1573年 信長の軍勢によって火を放たれ 一乗谷は灰燼に帰した
写真は 平成20年9月20日百名城めぐりで撮ったものです

「応仁の乱」により荒廃した京から 多くの公家や高僧 文人 学者たちが避難してきたため一乗谷
は飛躍的に発展し 華やかな京文化が開花した
最盛期には人口1万人を超え 越前の中心地として栄えていた

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<参考文献:戦国武将がよくわかる本>
「浅井 長政」の義 1
魔王・信長に挑んだ戦国一の勇者
『 織田信長を殺せるチャンスは 二度あった 』
1560年 弱冠15歳にして家臣たちに持ち上げられる形で浅井家の家督を継いだ長政は奇襲
や騙し討ちなど当たり前の戦国時代のなかにおいて 義を重んじ 義を貫いた男である
長政の終生のライバルといえば 義兄である織田信長をおいて他にいない
そして長政には この信長を労せずして殺せる機会が二度もあった
一度目は信長の妹 「お市の方」との婚姻の儀のときである この重要な儀式に信長が引き連れて
来た配下の数はわずか数百
寝首を掻こうと思えばいつでも可能であった 実際長政の配下のなかには 信長は油断ならぬ相手
ゆえ 今のうちに殺しておくべしと進言した者もいた
しかし信長は 長政を信頼できる人物であると見ているからこそ わずかな手勢で訪れているので
ある
それを察している長政にとって この場で信長を襲うなど言語道断
この婚儀によって 浅井と織田の間には固い同盟関係が結ばれた
この同盟の条件として 織田は浅井と懇意にしている「朝倉の領土には攻め込まない」との約束を
交わしていたが 信長はこれを破棄
徳川家康と連合を組んだ織田軍は 越前へ進軍を開始する
この時 長政は織田と朝倉のどちらにつくべきか迷うが 父・久政から先祖代々交流のある「朝倉
に義を立てるべし」と進言され 信長との決別を決意する
この時が信長を殺す二度目の好機であった いきなり背後から織田軍を襲えば楽に信長を討ち取る
こともできた
しかし 長政はお市の方よりの陣中見舞いとして 信長の元へ両端を縛った大豆入りの袋(朝倉と
浅井に挟まれて織田に逃場なしの意味)を届けさせ 暗に裏切りの旨を伝えたという
これにより 浅井の真意を悟った織田軍は即時に撤退を開始 辛くも逃げ仰せることができた
「お市の方」は、ここにもアップしております
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『 織田信長を殺せるチャンスは 二度あった 』
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や騙し討ちなど当たり前の戦国時代のなかにおいて 義を重んじ 義を貫いた男である
長政の終生のライバルといえば 義兄である織田信長をおいて他にいない
そして長政には この信長を労せずして殺せる機会が二度もあった
一度目は信長の妹 「お市の方」との婚姻の儀のときである この重要な儀式に信長が引き連れて
来た配下の数はわずか数百
寝首を掻こうと思えばいつでも可能であった 実際長政の配下のなかには 信長は油断ならぬ相手
ゆえ 今のうちに殺しておくべしと進言した者もいた
しかし信長は 長政を信頼できる人物であると見ているからこそ わずかな手勢で訪れているので
ある
それを察している長政にとって この場で信長を襲うなど言語道断
この婚儀によって 浅井と織田の間には固い同盟関係が結ばれた
この同盟の条件として 織田は浅井と懇意にしている「朝倉の領土には攻め込まない」との約束を
交わしていたが 信長はこれを破棄
徳川家康と連合を組んだ織田軍は 越前へ進軍を開始する
この時 長政は織田と朝倉のどちらにつくべきか迷うが 父・久政から先祖代々交流のある「朝倉
に義を立てるべし」と進言され 信長との決別を決意する
この時が信長を殺す二度目の好機であった いきなり背後から織田軍を襲えば楽に信長を討ち取る
こともできた
しかし 長政はお市の方よりの陣中見舞いとして 信長の元へ両端を縛った大豆入りの袋(朝倉と
浅井に挟まれて織田に逃場なしの意味)を届けさせ 暗に裏切りの旨を伝えたという
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