南部 師行(根城)
八戸の基礎を築いた南部師行
南部師行は 鎌倉時代後期から室町時代初期の武将で根城南部氏の当主
元々は甲斐の国に所領を持っていたが 1333年5月に鎌倉幕府が滅亡し 後醍醐天皇の建武の新政が
開始されると 同年10月に陸奥守の北畠顕家が後醍醐天皇の皇子の義良親王を奉じて陸奥国多賀城に
下向するのに目代として随行
糠部郡八戸に根城を築いて拠点とし 行政の管掌を担当した
1335年 足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると 顕家は尊氏を追討するために義良親王とともに陸奥
の地を離れたが 師行は陸奥に残留し 尊氏に与した曽我貞光と戦った
1336年3月 顕家と義良親王が再び陸奥に下向した
1338年1月 美濃国青野原での青野原の戦いでは北朝方を破ったが 同年5月22日の和泉国石津での
石津の戦いで南朝方は北朝方の高師直の軍に敗北し 師行は顕家とともに戦死した 家督は弟の政長が
継承した
八戸博物館前の南部師行公
百名城スタンプは、この博物館に設置してあります。

南朝方につき陸奥国司代となった南部師行が築いた城
奥州における南朝方の拠点となる城であることから「根城」と命名したという
写真は、平成21年8月2日に百名城めぐりで撮ったものです。

平成6年に主殿、工房、番所などが復元されています。

東善寺館の東側に位置する堀跡で、館全体の外側を巡っています。

「南部師行公」は、城めぐりするまで知らなかったよ! 戦国時代より前の人だからね。

いつも散歩に来る水公園だけど、天気がいいから魚釣りのオッチャン達がいっぱいいるな~。

僕は泳げないから水は怖いんです! 思わず腰が引けてしまいます~。

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南部師行は 鎌倉時代後期から室町時代初期の武将で根城南部氏の当主
元々は甲斐の国に所領を持っていたが 1333年5月に鎌倉幕府が滅亡し 後醍醐天皇の建武の新政が
開始されると 同年10月に陸奥守の北畠顕家が後醍醐天皇の皇子の義良親王を奉じて陸奥国多賀城に
下向するのに目代として随行
糠部郡八戸に根城を築いて拠点とし 行政の管掌を担当した
1335年 足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると 顕家は尊氏を追討するために義良親王とともに陸奥
の地を離れたが 師行は陸奥に残留し 尊氏に与した曽我貞光と戦った
1336年3月 顕家と義良親王が再び陸奥に下向した
1338年1月 美濃国青野原での青野原の戦いでは北朝方を破ったが 同年5月22日の和泉国石津での
石津の戦いで南朝方は北朝方の高師直の軍に敗北し 師行は顕家とともに戦死した 家督は弟の政長が
継承した
八戸博物館前の南部師行公
百名城スタンプは、この博物館に設置してあります。

南朝方につき陸奥国司代となった南部師行が築いた城
奥州における南朝方の拠点となる城であることから「根城」と命名したという
写真は、平成21年8月2日に百名城めぐりで撮ったものです。

平成6年に主殿、工房、番所などが復元されています。

東善寺館の東側に位置する堀跡で、館全体の外側を巡っています。

「南部師行公」は、城めぐりするまで知らなかったよ! 戦国時代より前の人だからね。

いつも散歩に来る水公園だけど、天気がいいから魚釣りのオッチャン達がいっぱいいるな~。

僕は泳げないから水は怖いんです! 思わず腰が引けてしまいます~。

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最上 義光
最上家を57万石の大名に成長させて 全盛期を築く
『調略による敵陣営の切り崩しを得意とした』
1570年 原因は明確でないが 当主の義守と嫡男の義光父子の間で争いが生ずるが 5月に重臣・
氏家定直の仲裁で父子が和解して 8月には義光が家督を相続する
家督を相続した義光はさっそく一族や家臣に対する統制を強化する しかし急な支配力の強化は反発
を招き トラブルが絶えなかった
1595年 豊臣支配下にあった 最上家に危機が訪れる
愛娘・駒姫を妻妾として嫁がせていた豊臣秀次が切腹を命じられたのである 秀次の妻妾ら30余人
も処刑され 駒姫も首を刎ねられた
義光は娘の助命を嘆願したが許されず そればかりか義光自身も秀次の謀叛に与したとの嫌疑を受け
てしまう
この窮地を義光は徳川家康のとりなしで脱する この事件以後 義光は次男の家親を家康に仕えさせる
などして家康に近づいていく
そして 関ヶ原でも東軍につき上杉軍をよく抑え 戦後処理によって出羽57万石を領する大名へと上り
詰めたのである
だが またも最上家で一族の争いが起こる義光が嫡男・義康を廃し 家康に近い次男・家親に家督を継
がそうとしたためである
結果として かつての義守と義光のように親子で争うことになってしまったのである 1603年義光は義康
を殺害してしまう そして、義光は1614年1月8日 大阪の陣を待たずして69歳で世を去る
粛清に明け暮れた一生であった
義光の死後 家親の嫡男で若干12歳の義俊派と義光の4男の義忠派に分かれて争い始めてしまう
幕府がとりなしても鉾を納めないため 山形57万石は召し上げられ わずか1万石に改易されてしまう
その後、義俊も早世し子が幼かったため5千石に減封され もはや大名ですらなくなった
もはや親子や兄弟で殺し合う戦国は終わったことが 義光の子供やその周囲はわからなかった
最上家を57万石の大名に成長させた義光公
写真は、平成21年5月6日に百名城めぐりで撮ったものです
山形城は、記念すべき第1城目です。

平成3年に木造で再建された、二の丸東大手門

二の丸東大手門(城内から)


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<参考文献:戦国武将あの人その後>
『調略による敵陣営の切り崩しを得意とした』
1570年 原因は明確でないが 当主の義守と嫡男の義光父子の間で争いが生ずるが 5月に重臣・
氏家定直の仲裁で父子が和解して 8月には義光が家督を相続する
家督を相続した義光はさっそく一族や家臣に対する統制を強化する しかし急な支配力の強化は反発
を招き トラブルが絶えなかった
1595年 豊臣支配下にあった 最上家に危機が訪れる
愛娘・駒姫を妻妾として嫁がせていた豊臣秀次が切腹を命じられたのである 秀次の妻妾ら30余人
も処刑され 駒姫も首を刎ねられた
義光は娘の助命を嘆願したが許されず そればかりか義光自身も秀次の謀叛に与したとの嫌疑を受け
てしまう
この窮地を義光は徳川家康のとりなしで脱する この事件以後 義光は次男の家親を家康に仕えさせる
などして家康に近づいていく
そして 関ヶ原でも東軍につき上杉軍をよく抑え 戦後処理によって出羽57万石を領する大名へと上り
詰めたのである
だが またも最上家で一族の争いが起こる義光が嫡男・義康を廃し 家康に近い次男・家親に家督を継
がそうとしたためである
結果として かつての義守と義光のように親子で争うことになってしまったのである 1603年義光は義康
を殺害してしまう そして、義光は1614年1月8日 大阪の陣を待たずして69歳で世を去る
粛清に明け暮れた一生であった
義光の死後 家親の嫡男で若干12歳の義俊派と義光の4男の義忠派に分かれて争い始めてしまう
幕府がとりなしても鉾を納めないため 山形57万石は召し上げられ わずか1万石に改易されてしまう
その後、義俊も早世し子が幼かったため5千石に減封され もはや大名ですらなくなった
もはや親子や兄弟で殺し合う戦国は終わったことが 義光の子供やその周囲はわからなかった
最上家を57万石の大名に成長させた義光公
写真は、平成21年5月6日に百名城めぐりで撮ったものです
山形城は、記念すべき第1城目です。

平成3年に木造で再建された、二の丸東大手門

二の丸東大手門(城内から)


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