「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」
『戦術を「旗印」にして戦った武田信玄と甲州兵』
「名将言行録」には次のような記述があります。
「信玄、常に人に語っていわく、およそ軍勝は五分をもって上となし、七部を中となし、十部をも
って下となす。人その故を尋ねければ、五分は励みを生じ、七部は怠りを生じ、十部は驕りを生ず
と言われけり。故に信玄、つねに六、七分の勝を越さず」
これは信玄が、戦いを大局的、長期的な視点からとらえた戦略領域の話です。
甲府駅前の信玄公

これに対し、信玄が「孫子」からとった武田軍旗の有名な14文字
『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』
「疾(はや)きこと風の如(ごと)く、除(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)する
こと火の如く、動かざること山の如し」
は、戦術に相当します。
信玄は孫子のこの章句を愛し、「其疾如風」、「其徐如林」、「侵掠如火」、「不動如山」の4本
の旗を作っています。
最初に「其疾如風」の旗が仕上がると、信玄は重臣・馬場信房、高坂昌信らに示し、感想を聞いた
という。
信房が
「風の文字を旗にされたのは、いかなるわけがございましょうか。風ははげしくはありますが、朝
に気が鋭く、夕べには気が帰す、と申します。」
というと、信玄が答えた。
「確かにそうである。しかし、旗は、つねに先陣にあるもの。それは、疾きことをよしとする。本
陣がその風を継いでいけばよいだろう」
この言葉からも、信玄がいかに「風林火山」の章句を戦術に生かしていたかわかります。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
ボクは食器の中で食事します。

<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会)>
「名将言行録」には次のような記述があります。
「信玄、常に人に語っていわく、およそ軍勝は五分をもって上となし、七部を中となし、十部をも
って下となす。人その故を尋ねければ、五分は励みを生じ、七部は怠りを生じ、十部は驕りを生ず
と言われけり。故に信玄、つねに六、七分の勝を越さず」
これは信玄が、戦いを大局的、長期的な視点からとらえた戦略領域の話です。
甲府駅前の信玄公

これに対し、信玄が「孫子」からとった武田軍旗の有名な14文字
『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』
「疾(はや)きこと風の如(ごと)く、除(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)する
こと火の如く、動かざること山の如し」
は、戦術に相当します。
信玄は孫子のこの章句を愛し、「其疾如風」、「其徐如林」、「侵掠如火」、「不動如山」の4本
の旗を作っています。
最初に「其疾如風」の旗が仕上がると、信玄は重臣・馬場信房、高坂昌信らに示し、感想を聞いた
という。
信房が
「風の文字を旗にされたのは、いかなるわけがございましょうか。風ははげしくはありますが、朝
に気が鋭く、夕べには気が帰す、と申します。」
というと、信玄が答えた。
「確かにそうである。しかし、旗は、つねに先陣にあるもの。それは、疾きことをよしとする。本
陣がその風を継いでいけばよいだろう」
この言葉からも、信玄がいかに「風林火山」の章句を戦術に生かしていたかわかります。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
ボクは食器の中で食事します。

<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会)>
スポンサーサイト
人は城、人は石垣、人は堀
『信玄が城を築かなかった理由』
武田信玄が、川中島に海津城を築いて上杉謙信を強烈にけん制したのは有名な話です。
一方、信玄が領国の甲斐に城を築かなかったという説も、研究者の間では有力なようです。
その説には、どんな根拠があるのでしょうか。
躑躅ヶ崎館の堀

第一に、信玄の居館であった躑躅ヶ崎館の遺構は、長辺が280m、短辺が190mで、この構え
は武田氏の軍学書「甲陽軍艦」にある「甲州4郡のうちに城郭を構えず、堀一重の御館に御座候」
とある一説にピタリと当てはまります。
もちろん、城郭を構えぬ堀一重の館を城と呼ぶなら、呼べないことはありません。
余談ですが、秀吉が側室・茶々のために淀川のほとりに建てた居館も、淀城と呼ばれていたので
す。茶々を淀君、淀殿というのはそこからきています。
とはいえ、戦国武将の城というからには、それなりの構えと規模がなくてはなりません。
信玄の躑躅ヶ崎館は、同時代の後北条氏の小田原城、上杉氏の春日山城、六角氏の観音寺城など
に比べると、城とは呼べないほど小さい。
「甲陽軍艦」の品第39には、有名な一文があります。
「或人の伝、信玄公御歌に、人は城人は石垣人は堀、情けは味方アダは敵なり」
つまり、大きな城砦よりも、鍛え上げられた軍隊こそが城であり、石垣であり堀であるというの
です。
裏返せば、信玄があまり城を重視していなかった証拠なのでしょう。
そもそも甲斐は「峡」の地であり、国自体が山に囲まれた要害をなしているのです。
そのことも信玄が甲斐に城を築かなかったという説の大きな根拠なのかも知れません。
また、躑躅ヶ崎館の北方2.5kmの地点には、信玄の父・信虎が築いた城・積翠寺城が建って
います。甲斐には、信玄が城を築くまでもなく、すぐれた要害城があったのです。
以上を考えてみれば、信玄が甲斐に城を築かなかったという説は、極めて信憑性が高いのでしょう。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
Tiggerの初登場です。

<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会)>
武田信玄が、川中島に海津城を築いて上杉謙信を強烈にけん制したのは有名な話です。
一方、信玄が領国の甲斐に城を築かなかったという説も、研究者の間では有力なようです。
その説には、どんな根拠があるのでしょうか。
躑躅ヶ崎館の堀

第一に、信玄の居館であった躑躅ヶ崎館の遺構は、長辺が280m、短辺が190mで、この構え
は武田氏の軍学書「甲陽軍艦」にある「甲州4郡のうちに城郭を構えず、堀一重の御館に御座候」
とある一説にピタリと当てはまります。
もちろん、城郭を構えぬ堀一重の館を城と呼ぶなら、呼べないことはありません。
余談ですが、秀吉が側室・茶々のために淀川のほとりに建てた居館も、淀城と呼ばれていたので
す。茶々を淀君、淀殿というのはそこからきています。
とはいえ、戦国武将の城というからには、それなりの構えと規模がなくてはなりません。
信玄の躑躅ヶ崎館は、同時代の後北条氏の小田原城、上杉氏の春日山城、六角氏の観音寺城など
に比べると、城とは呼べないほど小さい。
「甲陽軍艦」の品第39には、有名な一文があります。
「或人の伝、信玄公御歌に、人は城人は石垣人は堀、情けは味方アダは敵なり」
つまり、大きな城砦よりも、鍛え上げられた軍隊こそが城であり、石垣であり堀であるというの
です。
裏返せば、信玄があまり城を重視していなかった証拠なのでしょう。
そもそも甲斐は「峡」の地であり、国自体が山に囲まれた要害をなしているのです。
そのことも信玄が甲斐に城を築かなかったという説の大きな根拠なのかも知れません。
また、躑躅ヶ崎館の北方2.5kmの地点には、信玄の父・信虎が築いた城・積翠寺城が建って
います。甲斐には、信玄が城を築くまでもなく、すぐれた要害城があったのです。
以上を考えてみれば、信玄が甲斐に城を築かなかったという説は、極めて信憑性が高いのでしょう。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
Tiggerの初登場です。

<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会)>
【甲斐の虎 武田信玄】 その14
『信玄は享楽的な怠けものだった?』
勝頼の妻が死ぬと、信長は長男の信忠のために、信玄の末女・松姫をもらう約束をして、縁を固
めています。
武田信玄公 (1521-1573年)

これと同時に、しげしげと丁重な贈り物をしているのは言うまでもありません。
信玄はこれのコロリと騙されて気が付いたのは、信玄はもう52歳という年になっていた。
手切れを宣言して攻め上がろうとしたのですが、途中、病気で没しているのです。
信玄ほどの人ですから判らないことですが、信玄の本性に親譲りの享楽的な怠け根性があったの
かも知れません。
怠け者ほど欲が深くて、新しい仕事をすることは怠け、すでに成しえた仕事からは徹底的に利益を
得ようとする。
信玄の政治上手はこれで解釈ができるのでしょう。
甲斐の虎・武田信玄のダイジェスト版にお付き合い戴き、ありがとうございました。
次回の戦国武将は、『豊臣秀吉の出世街道』を記事にしたいと思います。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
勝頼の妻が死ぬと、信長は長男の信忠のために、信玄の末女・松姫をもらう約束をして、縁を固
めています。
武田信玄公 (1521-1573年)

これと同時に、しげしげと丁重な贈り物をしているのは言うまでもありません。
信玄はこれのコロリと騙されて気が付いたのは、信玄はもう52歳という年になっていた。
手切れを宣言して攻め上がろうとしたのですが、途中、病気で没しているのです。
信玄ほどの人ですから判らないことですが、信玄の本性に親譲りの享楽的な怠け根性があったの
かも知れません。
怠け者ほど欲が深くて、新しい仕事をすることは怠け、すでに成しえた仕事からは徹底的に利益を
得ようとする。
信玄の政治上手はこれで解釈ができるのでしょう。
甲斐の虎・武田信玄のダイジェスト版にお付き合い戴き、ありがとうございました。
次回の戦国武将は、『豊臣秀吉の出世街道』を記事にしたいと思います。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
【甲斐の虎 武田信玄】 その13
『信玄の長けた政治力』
信玄は戦争が上手であっただけでなく、政治手腕も卓越していたといいます。
彼は新しく占領した土地は、決して武士の行賞の対象にせず、自分の直轄地として民政に熟練し
た者を代官として治めさせたので、新付の土地でも彼の生きている間は決して離反しなかったと
いう。
武田信玄(1521-1573年)

今日でも甲州の人は、彼が築いた堤防を信玄堤防と称して治績を称えています。
政治は確かに上手であったことは間違いないことでしょう。
金山を開発していたため、川中島の戦いを続けても経済的には余裕があったといいます。
甲州の金堀人夫は江戸初期まで有名であったといいますから、採掘技術に長けていたのでしょう。
信玄は、大変賢く、しかもドライで、油断も隙もならない性質でありながら、不思議に織田信長に
は、コロリと騙されています。
信長が最も恐れていたのは、信玄と謙信であったので、この2人に信長は卑屈なくらい機嫌をとっ
ています。
とくに信玄は近くにいますから、念入りだったようです。
一族の娘を養女にして、頼んで勝頼の妻にして貰っています。その娘と勝頼の間に生まれたのが
信勝で、信玄はこの孫を最も愛して
「おれに似ても、信長に似ても、名将になるはず。おれの後継ぎはこの子だ。勝頼は後継人となれ」
と、生まれて7日目に決めています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
信玄は戦争が上手であっただけでなく、政治手腕も卓越していたといいます。
彼は新しく占領した土地は、決して武士の行賞の対象にせず、自分の直轄地として民政に熟練し
た者を代官として治めさせたので、新付の土地でも彼の生きている間は決して離反しなかったと
いう。
武田信玄(1521-1573年)

今日でも甲州の人は、彼が築いた堤防を信玄堤防と称して治績を称えています。
政治は確かに上手であったことは間違いないことでしょう。
金山を開発していたため、川中島の戦いを続けても経済的には余裕があったといいます。
甲州の金堀人夫は江戸初期まで有名であったといいますから、採掘技術に長けていたのでしょう。
信玄は、大変賢く、しかもドライで、油断も隙もならない性質でありながら、不思議に織田信長に
は、コロリと騙されています。
信長が最も恐れていたのは、信玄と謙信であったので、この2人に信長は卑屈なくらい機嫌をとっ
ています。
とくに信玄は近くにいますから、念入りだったようです。
一族の娘を養女にして、頼んで勝頼の妻にして貰っています。その娘と勝頼の間に生まれたのが
信勝で、信玄はこの孫を最も愛して
「おれに似ても、信長に似ても、名将になるはず。おれの後継ぎはこの子だ。勝頼は後継人となれ」
と、生まれて7日目に決めています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
【甲斐の虎 武田信玄】 その12
『忍人・信玄』
信玄は北条氏と組んで、謙信の関東入りにあたることにしたが、子供っぽい正義漢め、俺の邪魔
ばかりしておると、やりきれない気持ちであったことでしょう。
謙信は大敵ですから苦労も大きかったのでしょう。
甲府駅前の信玄公

その信玄に思いもかけず、南方に領土をひらく機会が開けます。
今川義元が桶狭間で戦死したのです。
武田・今川の両家は重縁の間柄ですが、ドライな彼はそんなことに縛られることはありません。
駿河計略を計画します。
しかし、今川家から妻を娶っている長男・義信が反対し、信玄の父を追い出した時に、今川家と交
渉にあたった老臣・飯富兵部も大反対するのです。
ついに信玄は、2人に反逆の罪名を着せて殺してしまい、義信の妻は駿河に送り返しています。
むごい話です。
戦国乱離のこの時代でも信玄のことを
「忍人(冷血漢)」といったといいます。
そうしか言いようがありません。
その翌年、駿河に入り今川氏を亡ぼしたのです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>
信玄は北条氏と組んで、謙信の関東入りにあたることにしたが、子供っぽい正義漢め、俺の邪魔
ばかりしておると、やりきれない気持ちであったことでしょう。
謙信は大敵ですから苦労も大きかったのでしょう。
甲府駅前の信玄公

その信玄に思いもかけず、南方に領土をひらく機会が開けます。
今川義元が桶狭間で戦死したのです。
武田・今川の両家は重縁の間柄ですが、ドライな彼はそんなことに縛られることはありません。
駿河計略を計画します。
しかし、今川家から妻を娶っている長男・義信が反対し、信玄の父を追い出した時に、今川家と交
渉にあたった老臣・飯富兵部も大反対するのです。
ついに信玄は、2人に反逆の罪名を着せて殺してしまい、義信の妻は駿河に送り返しています。
むごい話です。
戦国乱離のこの時代でも信玄のことを
「忍人(冷血漢)」といったといいます。
そうしか言いようがありません。
その翌年、駿河に入り今川氏を亡ぼしたのです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:覇者の条件(海音寺潮五郎薯)>