平重盛は有能か無能どちらなの?
『平重盛は有能か無能どちらなの?』
清盛の次男・基盛は1156年の保元の乱で活躍しています。嫡子・重盛や基盛は病役していなければ清盛を
上回る武将・政治家になっていたのかも知れません。
重盛は1177年の鹿ヶ谷事件の際に、清盛が後白河上皇の幽閉を公言するや、涙を流して諌めたという一事
で有名です。
しかし、重盛に関しては時代を代表する人物であった評価する見方と、ひどく妬む性格でとるに足らない人物
であったとみる見方に評価が分れるところでしょう。
時代を代表する人物であったと評価する意見は、涙を流して諌め、父に後白河上皇の幽閉を思い留まらせた
点や、平氏一門が色めき立つなかで重盛一人が平服を身に纏って冷静に振舞ったなどという点を評価してい
ます。
平 重盛(1138-1179年)

これに対して、重盛が酷く妬む性格でとるに足らない人物であったとみる見方は、1170年の殿下乗合事件
の際に公家・藤原基房の謝罪を拒絶し、基房の家臣に恥辱を与えたことなどを問題視してのものです。
この事件は基房の家臣が平資盛(重盛の次男、清盛の孫)に恥辱を与えたことに端を発します。後に基房は
相手が清盛の孫、重盛の次男であることを知って青くなり、重盛に謝罪を申し入れています。
しかし、重盛は謝罪を認めなかったばかりか、わが子・資盛に対する仕打ちを酷く妬み、基房の家臣の髻を
切り落とすなどの報復を行ったのです。
日頃から重盛の人物を高く評価してきた公家たちも、この報復行為に関してのみは眉をひそめたという。

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本日は、「戦国クイズ」はお休みにさせて頂きます。
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
清盛の次男・基盛は1156年の保元の乱で活躍しています。嫡子・重盛や基盛は病役していなければ清盛を
上回る武将・政治家になっていたのかも知れません。
重盛は1177年の鹿ヶ谷事件の際に、清盛が後白河上皇の幽閉を公言するや、涙を流して諌めたという一事
で有名です。
しかし、重盛に関しては時代を代表する人物であった評価する見方と、ひどく妬む性格でとるに足らない人物
であったとみる見方に評価が分れるところでしょう。
時代を代表する人物であったと評価する意見は、涙を流して諌め、父に後白河上皇の幽閉を思い留まらせた
点や、平氏一門が色めき立つなかで重盛一人が平服を身に纏って冷静に振舞ったなどという点を評価してい
ます。
平 重盛(1138-1179年)

これに対して、重盛が酷く妬む性格でとるに足らない人物であったとみる見方は、1170年の殿下乗合事件
の際に公家・藤原基房の謝罪を拒絶し、基房の家臣に恥辱を与えたことなどを問題視してのものです。
この事件は基房の家臣が平資盛(重盛の次男、清盛の孫)に恥辱を与えたことに端を発します。後に基房は
相手が清盛の孫、重盛の次男であることを知って青くなり、重盛に謝罪を申し入れています。
しかし、重盛は謝罪を認めなかったばかりか、わが子・資盛に対する仕打ちを酷く妬み、基房の家臣の髻を
切り落とすなどの報復を行ったのです。
日頃から重盛の人物を高く評価してきた公家たちも、この報復行為に関してのみは眉をひそめたという。

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<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
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孤立した清盛の窮地を救ったのは誰か
『孤立した清盛の窮地を救ったのは誰か』
生涯を通してあまり軍事的、政治的な面で孤立しなかった清盛ですが、1147年の祇園乱闘事件、1159年
の平治の乱、1179年のクーデター、その翌年の源頼朝の挙兵などの際には、窮地に追い込まれています。
なかでも、平治の乱の勃発時には紀伊熊野参詣の最中であったため、清盛は生命の危険すら感じたようで
す。
紀伊・熊野大社

何しろ、当時の清盛の傍には、清盛の子・重盛、宗盛や僅かな家臣がいるだけの状況でした。
このうち重盛は22歳でしたが、3男・宗盛は13歳の少年でした。
この時の遠出は熊野参詣が主目的であったため、清盛一行は甲冑の類も一切携行していなかったそうです。
しかも京都からもたらされた情報によると、平治の乱を起した藤原信頼、源義朝は既に御所占拠して後白河
上皇や二条天皇を幽閉し、清盛と親しかった藤原信西を血祭りにあげたというのです。
強気の清盛ですが
「一旦、鎮西(九州)へ亡命し、再挙を図るべきであろうか…」
などと口にしたという。
絶体絶命の窮地に陥っていた清盛に、地元の武士・湯浅宗重らが救いの手を差し伸べます。この時、宗重
らは清盛に対して、兵力の提供、甲冑の貸与などという支援を申し出ています。
これで清盛は迷いを棄て、信頼や義朝を討つべく本拠・六波羅へ帰還することを決意します。
この段階で清盛は、信頼に偽りの名簿(誓約書)を提出して油断させます。この作戦は公家・三条公教の
助言に従ったものとも言われ、信頼や義朝が京都を制圧した段階でも、密かに清盛に通じるものが他にも
いたようです。
さらに清盛は御所の官吏などと密かに連絡を取り、二条天皇を女装させ幽閉先から救出することに成功し、
後白河上皇は自ら仁和寺へ脱出しています。
同じ頃、清盛は摂津源氏の源頼政などと密かに連絡をとり、頼政を平氏方に引き込むことにも成功します。
このように、「平治の乱」の勃発後に宗重や頼政などといった人々の支援や来援を得たことで、清盛は生涯
最大の窮地を脱出しています。
昨日は久しぶりに天気が良かったので、近くで開催されている「菖蒲まつり」に行ってきました。
花菖蒲は、やや満開過ぎになっていました。

土手には、ラベンダーの香りが流れていました。

おまつり会場には、地元野菜の即売が行われていましたので、うさーずへのお土産をゲット!
余分に葉っぱだけを頂いて帰りました。^^


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 天領地
1601年より、天草郡は唐津藩領となっていたが、島原の乱の責を咎められ天草郡を没収された。その後、天草は明治に至るまで天領地になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
生涯を通してあまり軍事的、政治的な面で孤立しなかった清盛ですが、1147年の祇園乱闘事件、1159年
の平治の乱、1179年のクーデター、その翌年の源頼朝の挙兵などの際には、窮地に追い込まれています。
なかでも、平治の乱の勃発時には紀伊熊野参詣の最中であったため、清盛は生命の危険すら感じたようで
す。
紀伊・熊野大社

何しろ、当時の清盛の傍には、清盛の子・重盛、宗盛や僅かな家臣がいるだけの状況でした。
このうち重盛は22歳でしたが、3男・宗盛は13歳の少年でした。
この時の遠出は熊野参詣が主目的であったため、清盛一行は甲冑の類も一切携行していなかったそうです。
しかも京都からもたらされた情報によると、平治の乱を起した藤原信頼、源義朝は既に御所占拠して後白河
上皇や二条天皇を幽閉し、清盛と親しかった藤原信西を血祭りにあげたというのです。
強気の清盛ですが
「一旦、鎮西(九州)へ亡命し、再挙を図るべきであろうか…」
などと口にしたという。
絶体絶命の窮地に陥っていた清盛に、地元の武士・湯浅宗重らが救いの手を差し伸べます。この時、宗重
らは清盛に対して、兵力の提供、甲冑の貸与などという支援を申し出ています。
これで清盛は迷いを棄て、信頼や義朝を討つべく本拠・六波羅へ帰還することを決意します。
この段階で清盛は、信頼に偽りの名簿(誓約書)を提出して油断させます。この作戦は公家・三条公教の
助言に従ったものとも言われ、信頼や義朝が京都を制圧した段階でも、密かに清盛に通じるものが他にも
いたようです。
さらに清盛は御所の官吏などと密かに連絡を取り、二条天皇を女装させ幽閉先から救出することに成功し、
後白河上皇は自ら仁和寺へ脱出しています。
同じ頃、清盛は摂津源氏の源頼政などと密かに連絡をとり、頼政を平氏方に引き込むことにも成功します。
このように、「平治の乱」の勃発後に宗重や頼政などといった人々の支援や来援を得たことで、清盛は生涯
最大の窮地を脱出しています。
昨日は久しぶりに天気が良かったので、近くで開催されている「菖蒲まつり」に行ってきました。
花菖蒲は、やや満開過ぎになっていました。


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1601年より、天草郡は唐津藩領となっていたが、島原の乱の責を咎められ天草郡を没収された。その後、天草は明治に至るまで天領地になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
清盛VS義朝の「平治の乱」
『清盛VS義朝の最終決戦となった平治の乱』
1159年(平治元年)12月9日、公家・藤原信頼と清和源氏の源義朝とが結託し、京都で兵を挙げる。
当時、信頼は後白河上皇の側近でしたが、同じ側近の藤原信西と対立関係にあった。
この信頼が右大将に就任しようとした時、信西がこれを阻止しています。信頼はこの出来事がきっかけで、
信西をひどく憎むようになったという。
また、義頼は1156年の“保元の乱”で活躍し、乱後は敵対した源偽義を自ら斬りますが、その後は清盛
よりも格段に冷遇されます。
以上のような理由で、信西や清盛を苦々しく思っていた信頼と義朝は、12月9日に信西らの打倒を掲げ
て挙兵したのです。
六波羅蜜寺
この付近に「六波羅殿」と呼ばれた平家一門の屋敷があったそうです。

この当時、清盛は平重盛らと僅かな家臣を伴って紀伊熊野へ参詣に趣いていた。つまり、軍事面で侮り
難い存在の清盛が今、京都にいなかった訳です。
信頼や義朝はこういった状況を千載一隅のチャンスと捉え、この時期にことを起したのでしょう。
開戦時、義朝は京都市中にあった後白河上皇の御所・三条殿へ放火し、後白河上皇や二条天皇を幽閉
します。
さらに逃亡を図る信西を追跡し、遂に討ち取っています。
熊野で変事を知った清盛は、一時は鎮西(九州)への亡命も考えますが、幸いにも地元の湯浅宗重らの
支援が得られたことから、信頼に偽りの名簿(誓約書)を提出して油断させ、無事に本拠である京都・六
波羅へ帰還しています。
また、清盛は御所の官吏などと密かに連絡をとり、二条天皇を幽閉先から救出し、後白河上皇は自ら仁
和寺へ脱出します。
これを確認した清盛は、12月26日、御所に籠城する源氏方を誘き出すべく、先鋒の重盛らに意図的な
退却を命じます。
そうとは知らない源氏方は重盛らを追撃しますが、五条大橋付近で平氏方に行く手を阻まれます。驚く
ことに、平氏方は橋を解体し、用材でバリケードを築いていたのです。
源氏方の義朝は奮戦しますが、摂津源氏の源頼政が離反したことなどもあり、六条河原の戦いで清盛
が率いる平氏方に大敗します。
乱後に信頼が斬られ、義朝も翌年に横死を遂げたことから、勝者である清盛は従来に増して中央政界
で勢力を伸ばすことになります。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
前回の正解: 豊前国
豊前国の領域は福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉北区・小倉南区・門司区)、筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築地方の全域を中心に、大分県北部(中津市・宇佐市)にまで跨っていました。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
1159年(平治元年)12月9日、公家・藤原信頼と清和源氏の源義朝とが結託し、京都で兵を挙げる。
当時、信頼は後白河上皇の側近でしたが、同じ側近の藤原信西と対立関係にあった。
この信頼が右大将に就任しようとした時、信西がこれを阻止しています。信頼はこの出来事がきっかけで、
信西をひどく憎むようになったという。
また、義頼は1156年の“保元の乱”で活躍し、乱後は敵対した源偽義を自ら斬りますが、その後は清盛
よりも格段に冷遇されます。
以上のような理由で、信西や清盛を苦々しく思っていた信頼と義朝は、12月9日に信西らの打倒を掲げ
て挙兵したのです。
六波羅蜜寺
この付近に「六波羅殿」と呼ばれた平家一門の屋敷があったそうです。

この当時、清盛は平重盛らと僅かな家臣を伴って紀伊熊野へ参詣に趣いていた。つまり、軍事面で侮り
難い存在の清盛が今、京都にいなかった訳です。
信頼や義朝はこういった状況を千載一隅のチャンスと捉え、この時期にことを起したのでしょう。
開戦時、義朝は京都市中にあった後白河上皇の御所・三条殿へ放火し、後白河上皇や二条天皇を幽閉
します。
さらに逃亡を図る信西を追跡し、遂に討ち取っています。
熊野で変事を知った清盛は、一時は鎮西(九州)への亡命も考えますが、幸いにも地元の湯浅宗重らの
支援が得られたことから、信頼に偽りの名簿(誓約書)を提出して油断させ、無事に本拠である京都・六
波羅へ帰還しています。
また、清盛は御所の官吏などと密かに連絡をとり、二条天皇を幽閉先から救出し、後白河上皇は自ら仁
和寺へ脱出します。
これを確認した清盛は、12月26日、御所に籠城する源氏方を誘き出すべく、先鋒の重盛らに意図的な
退却を命じます。
そうとは知らない源氏方は重盛らを追撃しますが、五条大橋付近で平氏方に行く手を阻まれます。驚く
ことに、平氏方は橋を解体し、用材でバリケードを築いていたのです。
源氏方の義朝は奮戦しますが、摂津源氏の源頼政が離反したことなどもあり、六条河原の戦いで清盛
が率いる平氏方に大敗します。
乱後に信頼が斬られ、義朝も翌年に横死を遂げたことから、勝者である清盛は従来に増して中央政界
で勢力を伸ばすことになります。

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前回の正解: 豊前国
豊前国の領域は福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉北区・小倉南区・門司区)、筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築地方の全域を中心に、大分県北部(中津市・宇佐市)にまで跨っていました。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
平清盛 「保元の乱で清盛に助言した女性」
『去就を迷う清盛に助言した2人の女性』
保元の乱は父子や兄弟、一族が敵、味方に分かれて戦った殺伐した戦いでしたが、名のある武将は去就
に迷う者がいました。
清盛もそのなかのひとりでしたが、既に平忠正(清盛の叔父)が、崇徳上皇に側に馳せ参じていた。
崇徳上皇は後白河天皇を倒し、重仁親王の即位を実現させたいと考えていたとされます。
清盛の父・忠盛は、この重仁親王の教育係りをしていた関係もあり、伊勢平氏には忠正のように崇徳上皇
に心を寄せる者もいた。
平清盛像(京都・若一神社)

清盛は崇徳上皇、後白河天皇のいずれの側につくか悩んでいたという。
そんな矢先、清盛と関わりが深い2人の女性が、相次いで後白河天皇の側へ加担を勧めたという。
その2人の女性というのは、池禅尼(清盛の継母)と美福門院(鳥羽上皇の皇后)の2人です。
池禅尼は忠盛の未亡人である池禅尼は、伊勢平氏と崇徳上皇とを繋ぐ唯一の人物です。この池禅尼は
忠盛の異例の出世を支え、猟官運動を続ける若き日の清盛を助けたという賢夫人でした。
この時、池禅尼は情勢を的確に分析して崇徳上皇の側の劣勢を見抜いたうえで、清盛に後白河天皇の
側へ馳せ参じるよう勧めたとされます。
さらに池禅尼は自身が産んだ平頼盛に対し、兄の清盛と同一行動をとるように命じることも怠っていませ
ん。
以上のように、古い人間関係に一切目もくれず冷静に情勢を分析して適切な助言を行ったのですから、
池禅尼は伊勢平氏の軍師的役割を果たしたといえます。
一方、美福門院は後白河天皇の側が勝利するには、どうしても清盛の力が必要と考えていたようです。
美福門院が調べたところ、清盛はまだ後白河天皇の側へ馳せ参じていなく、危機感を抱いた美福門院
は使者を送り、「鳥羽上皇の遺言」と称して、清盛に後白河天皇の側へ加担するよう勧めます。
このように池禅尼と美福門院の相次ぐ勧めを受けて、清盛は後白河天皇の側へ加担を決意したのです。
近くのバラ園で今日から「バラまつり」が開催されますので、雨降る土曜日に一足お先にバラを堪能して
きました。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 菅原道真
右大臣であった菅原道真は901年に、左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、903年に同地で没しています。
道真の墓所の上に社殿を造営され、これが大宰府天満宮の始まりといわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
保元の乱は父子や兄弟、一族が敵、味方に分かれて戦った殺伐した戦いでしたが、名のある武将は去就
に迷う者がいました。
清盛もそのなかのひとりでしたが、既に平忠正(清盛の叔父)が、崇徳上皇に側に馳せ参じていた。
崇徳上皇は後白河天皇を倒し、重仁親王の即位を実現させたいと考えていたとされます。
清盛の父・忠盛は、この重仁親王の教育係りをしていた関係もあり、伊勢平氏には忠正のように崇徳上皇
に心を寄せる者もいた。
平清盛像(京都・若一神社)

清盛は崇徳上皇、後白河天皇のいずれの側につくか悩んでいたという。
そんな矢先、清盛と関わりが深い2人の女性が、相次いで後白河天皇の側へ加担を勧めたという。
その2人の女性というのは、池禅尼(清盛の継母)と美福門院(鳥羽上皇の皇后)の2人です。
池禅尼は忠盛の未亡人である池禅尼は、伊勢平氏と崇徳上皇とを繋ぐ唯一の人物です。この池禅尼は
忠盛の異例の出世を支え、猟官運動を続ける若き日の清盛を助けたという賢夫人でした。
この時、池禅尼は情勢を的確に分析して崇徳上皇の側の劣勢を見抜いたうえで、清盛に後白河天皇の
側へ馳せ参じるよう勧めたとされます。
さらに池禅尼は自身が産んだ平頼盛に対し、兄の清盛と同一行動をとるように命じることも怠っていませ
ん。
以上のように、古い人間関係に一切目もくれず冷静に情勢を分析して適切な助言を行ったのですから、
池禅尼は伊勢平氏の軍師的役割を果たしたといえます。
一方、美福門院は後白河天皇の側が勝利するには、どうしても清盛の力が必要と考えていたようです。
美福門院が調べたところ、清盛はまだ後白河天皇の側へ馳せ参じていなく、危機感を抱いた美福門院
は使者を送り、「鳥羽上皇の遺言」と称して、清盛に後白河天皇の側へ加担するよう勧めます。
このように池禅尼と美福門院の相次ぐ勧めを受けて、清盛は後白河天皇の側へ加担を決意したのです。
近くのバラ園で今日から「バラまつり」が開催されますので、雨降る土曜日に一足お先にバラを堪能して
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昨日の正解: 菅原道真
右大臣であった菅原道真は901年に、左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、903年に同地で没しています。
道真の墓所の上に社殿を造営され、これが大宰府天満宮の始まりといわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
平清盛 「保元の乱は後白河天皇側が凱歌」
『後白河天皇方が凱歌をあげた理由は』
保元の乱は、後白河天皇の側の勝利、崇徳上皇の側の敗北は戦前から予想されたことでした。
そもそも崇徳上皇は謀叛の噂を吹聴されたため、側近・藤原頼長と謀議の末、清和源氏の源為義、為朝、
あるいは大和源氏といった武士たちを自陣に呼び寄せようとします。
しかし、挑発に乗るような恰好で不意に行動を起したためか、これらの武士との連絡が旨く行かなかった
という。
源義朝(1123-1160年)

例えば、為義や為朝は地方に拠点を持っていたが、崇徳上皇が急に行動を起したため、それらの家臣を
呼びよせることができなかったのです。
また、大和から出撃した大和源氏は各地で後白河天皇の側に捕捉され、過半が崇徳上皇の御所・白河
殿へたどり着いていません。
以上の点は、後白河天皇の側の清盛が畿内近国から、源義朝が東国から、それぞれ大人数の家臣を呼
び寄せたのとは、対照的であったといえます。
さらに開戦後は作戦や用兵の面でも、後白河天皇の側が常に優位にたちます。
例えば、義朝の献策した白河殿への夜襲作戦は、後白河天皇の側近・藤原信西によって採用され、すぐ
さま実行に移されます。
反面、崇徳上皇の側は夜襲を想定した防御体制を全く敷いていなかったのです。
無論、崇徳上皇の側でも機先を制するべく、敵方の牙城・高松殿を夜襲するべきという声が上がっていた
けれども、頼長は開戦直前に夜襲の献策を退けた上に、一旦都落ちして再起を目指そうという献策すらも
握り潰していた。
著しく士気が下がった崇徳上皇の側が僅か一刻(約2時間)で敗走したのも、当然の出来事であった。
宮崎で唯一の日本百名城96 飫肥城

大分市内から飫肥まで、結構ありました。
宮崎は雨でしたが、登城に時間だけは小ぶりに回復してくれました。
今日は、長崎・佐賀を廻る予定です。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 家盛に似ていたため
『平治物語』では、頼朝が早世した我(池禅尼)が子家盛に生き写しだったからとしています。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
保元の乱は、後白河天皇の側の勝利、崇徳上皇の側の敗北は戦前から予想されたことでした。
そもそも崇徳上皇は謀叛の噂を吹聴されたため、側近・藤原頼長と謀議の末、清和源氏の源為義、為朝、
あるいは大和源氏といった武士たちを自陣に呼び寄せようとします。
しかし、挑発に乗るような恰好で不意に行動を起したためか、これらの武士との連絡が旨く行かなかった
という。
源義朝(1123-1160年)

例えば、為義や為朝は地方に拠点を持っていたが、崇徳上皇が急に行動を起したため、それらの家臣を
呼びよせることができなかったのです。
また、大和から出撃した大和源氏は各地で後白河天皇の側に捕捉され、過半が崇徳上皇の御所・白河
殿へたどり着いていません。
以上の点は、後白河天皇の側の清盛が畿内近国から、源義朝が東国から、それぞれ大人数の家臣を呼
び寄せたのとは、対照的であったといえます。
さらに開戦後は作戦や用兵の面でも、後白河天皇の側が常に優位にたちます。
例えば、義朝の献策した白河殿への夜襲作戦は、後白河天皇の側近・藤原信西によって採用され、すぐ
さま実行に移されます。
反面、崇徳上皇の側は夜襲を想定した防御体制を全く敷いていなかったのです。
無論、崇徳上皇の側でも機先を制するべく、敵方の牙城・高松殿を夜襲するべきという声が上がっていた
けれども、頼長は開戦直前に夜襲の献策を退けた上に、一旦都落ちして再起を目指そうという献策すらも
握り潰していた。
著しく士気が下がった崇徳上皇の側が僅か一刻(約2時間)で敗走したのも、当然の出来事であった。
宮崎で唯一の日本百名城96 飫肥城

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一昨日の正解: 家盛に似ていたため
『平治物語』では、頼朝が早世した我(池禅尼)が子家盛に生き写しだったからとしています。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>