fc2ブログ

前田利家 その64 『前田利家の評価』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【前田利家の評価】

作家・海音寺潮五郎氏は、「槍の又佐」を次のとおり評価しています。

「利家は幸運な武将であったと言えるのであろう。

若いとき、彼は武勇の武将として名が挙がったが、武将としての働きは末森城の後巻き以外には見るべき

ものがない。

金沢城
ka.20100404 金沢城 001-1

大きな戦を指揮したこともなければ、その力量もなかったと思う。

彼は智謀の人ではなかったからある。

しかしながら、よき友・秀吉を持ったために、そしてまた秀吉の政治的機略が必要としたために、彼は大大名

となり得、大納言となり得たと僕は見る。

けれども、彼は世に稀な篤実さ、信義心がなかったら、秀吉といえども、彼をあれほどまで重用しなかったで

あろう。彼の幸運は、その篤実さと信義心を持って得たものであろう」


う~ん、同感ですね。

長い間、前田利家にお付き合い頂きありがとうございました。

金沢城には幾度も登城しましたが、また行きたくなってしまいました。

9月初旬に金沢に行きたいと思っています。



『戦国武将の人気投票状況』(中間報告)

たくさんの方に投票して頂きまして、ありがとうございます。

27日0時現在の投票状況です。

◇ 石田三成:16票

◇ 加藤清正:10票

◇ 徳川家光:8票

◇ 前田慶次郎:13票

◇ 直江兼続:7票

sakura 20120726 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:宇喜多秀家
豪姫は15歳で秀吉の猶子であった岡山城主宇喜多秀家の妻として嫁ぎ、2男2女を産んでいます。
秀家が関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍方に属していたため、戦後に宇喜多氏は息子2人と共に1606年に八丈島に流罪とされる。豪姫は他家へ嫁ぐことなく金沢西町に移り住み、賂を秀家に送り続け余生を送っています。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
スポンサーサイト



テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

前田利家 その63 『利家の終焉』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【利家の終焉】

利家の終焉については、以下のような記録が残っています。

正室・まつがその枕元に来て

「おまえ様は若いころから千軍万馬の間を駆け巡り、自ら槍、刀を振るってあまたの人々を殺生しおいで

なるゆえ、これをお召しになって、あの世とやらへお旅立ち願いとう存じます」

と泣く泣く訴えたところ

「わしは乱世に武士として生まれ合わせたため、合戦にも出馬せねばならず、人を殺しもせねばならなか

ったが、不義不道に理由のない殺生をした覚えはない。なんの罪があって地獄に堕ちることがあろうか。

もし、間違って地獄に堕ち、鬼どもが呵責しようとするならば、わしに先立ってあの世へ旅立った家臣たち

を集めて、地獄征伐をしてやろう。らちもない心配は無用。あの世のことより、わしはこの世に心残りがあ

る。秀頼様のことだ。あと5・6年もわしがこの世に居られたら、必ず秀頼様の天下になることの見極めが

ついて死んだであろうに、心残りでたまらぬ」

利家はそう言ったが、いよいよ病苦がさしせまって臨終になると、側においた新藤五国光の脇差をとって、

鞘をつけたまま胸に突き立て、2声3声うめいて絶息したという。

前田利家墓所
ma.前田利家墓所

1599年閏3月3日、午前6時ごろのことで、享年62歳であった。

遺言のとおり、遺骸は長持に納められて、大坂より金沢へ送られ、葬儀は4月8日、金沢の宝円寺におい

て行われ、野田山の墓所に埋められた。

pig 20120725 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:利家が自ら財務を担当していた
前田家の決済はすべて利家自身が行い、愛用の算盤が家宝として残っています。
利家は人斬りによる2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。利家のこのような性格から前田家の財政は健全であり続けることができたという。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

前田利家 その62 『利家の遺言』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【利家の遺言】

今日の記事は長文になりますが、利家の遺言状に彼の全てが出ていると思いますので、お付き合いください。


3月の中旬になって一時的に小康を回復した利家は、有名な遺言状を正室“まつ”に口述記させています。

思慮深く堅実な心がけの戦国武将であったことを示す周到な遺言状ですので全文を記してみます。

前田利家(1538-1599年)
ma.前田利家 001

一、自分の病気はいよいよ回復がおぼつかない。近々死ぬかも知れない。死んだら長持に入れて金沢へ

  送り野田山に墓を造って葬って欲しい。死骸といっしょに女や子供は加賀へ連れていくように。


一、2男の孫四郎利政を金沢へ帰らせ金沢城の留守役にせよ。利長、利政兄弟の下に兵力は1万6千ほど

  有るだろうから、そのうち8千は大坂に詰めさせ、後の8千は金沢に居る兵力は利政の命令で動くように

  せよ。自然のなりゆきで大坂にいざこざが生じ秀頼様へ謀叛する者がでたら、利政は国もとの8千の兵

  を連れて上洛し、一手になって働くように。金沢の留守は藤原出羽一孝と利長の腹心の者一人を添え

  るように、出羽は子供のときから召す仕え心はよくわかっている。頑固なところもあるが律儀者だから城

  を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦ではまだ若年ながらよく働いてくれたので、自分の弟

  ・良之の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にした

  ので青山佐渡吉次を聟にしたらよかろうと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。


一、利長に子もないことであり、兄弟といっても孫四郎ばかりであるから、義理の悪いことはしないと思うが、

  念のため孫四郎には大納言つまり自分同様に父とも兄とも思うように誓詞を書かせてあるからご覧にい

  れる。今後子供とも弟とも思って万事行儀の良くなるように意見するがよい。


一、自分の隠居料として貰っている加賀石川・河北および越中氷見郡の知行は利長へ差し上げる。能州

  口郡の1万5千石は利政へつかわしたがよかろう。


一、判金千枚、脇差3振、刀5腰に札を付けておいたから利政につかわしてくれ。そのほかは一々書面に

  書いてあるから残らず利長へ譲る。


一、金沢にある金銀諸道具はみな帳面に書いてあるから利長に譲るが、死んでから3年間は加州に帰っ

  てはならない。そのうち家康との対立も解決するであろう。


一、利長、利政の兄弟に申し付ける。第一は合戦の場合は敵の畔でもいいから踏み込んで戦え。他国か

  らの押し込みは草の根の陰たりとも許してはならない。信長公は少人数でも敵地へ踏み込んで勝利

  をえられた。


一、奉公人は20年ほど召し抱えた者は、その家の作法をよく心得ているから本座者すなわち譜代の家臣

  として扱ってもよい。利長の兵士が佐々内蔵助成政と戦ったとき、または関東松枝八王子の合戦で仲

  裁に入ったり、または攻めたてた時分も、新参でも過分の知行をやって呼び寄せて家臣としたが、本座

  者には劣っている。我が家ばかりでなく信長公や尾張一円を手に入れた折り以来本座者は新参に越さ

  れたことがない。万事本座を大切にせよ。人間は生まれつき出来、不出来はあるものだが、もうその方

  ・利長は加賀・能登・越中3ヵ国の主であるから万事によく気を配るべきだ。近習にえこひいきのしない

  者4・5人に誓紙をした上で召し抱えさせ、外様でも家系のよい者を探して召し抱えることは良いことだ。

  その上新参は家の威勢のよいときは奉公するものだが少し傾くと自分の都合のよい方へかたよる者だ。

  本座者は平常ぶつぶつ言っていてもいざというときは御家を大事に思い逃げるようなことはない。

  この儀は申すに及ばないことだが申し聞かせておく。信長公死なれたとき、安土から家内を連れて逃げ

  た道々でも本座新参の区別が良くわかったろう。その時の心持を忘れてはならない。


一、武道ばかりを本とするのはいけない。文武二道の侍は少ないが分別のよいものだ。見たり聞いたりして

  探せ、新参にても情をかけて召し抱えさせた方がよい。余も一代本座に処置し。合戦のときは先手にさせ

  てもついに落ち度がなかった。第一諸侍の生活ができるよういたわって使ったら良い。


一.長九郎佐衛門連流竜と高山南坊すなわち切支丹大名で高槻城主であったが秀吉の忌諱にふれ茶人と

  して利家の客分になっている高山右近は、他家に目をくれず余一人を守り律儀人であるから隠居しても

  少しずつ茶代を遣わし情をかけてやってよい。片山伊賀は身上よりもぜいたくする者であるから成り行き

  では謀叛することもあろう。旨いことを言っても油断してはいけない。徳山五兵衛は目をくれて余にそむき

  知人になっていると聞いている。しかし余が存命中は叛くこともあるまいが死んだら必ず叛くから左様に

  処置しておくといい。山崎長門は善い者で成政との戦いでも鳥越峠をよく攻めた。

  しかし、片意地な武者だから侍30・40の頭は務まるが一軍の将には向かない。


一、村上豊後と奥村伊予は子供に家を渡し楽をさせてある。しかし、余が死んでも一層情をかけられ髪もそ

  らされるようなことはせず、祝い事などのときはこの両人家の老臣として取り扱うようにしたらよい。

  その上大事な合戦すなわち大坂出陣のようなことがあったときには兵士千人ほどあて預けておき身辺を

  守らせよ。伊予はひところ、というのは荒子城明け渡しのとき余と仲たがいし浪人であったが敵首を取っ

  て帰参した者だ。

  その上内蔵介との取り合い、つまり末森合戦のとき末森城を預けたが良く持ちこたえて忠節をつくした。

  関東陣でも先陣として落ち度なく戦った。豊後は江州金ガ森で佐久間玄蕃(盛政)と一緒に居合わせて

  一番乗りをやり、その上よき首を取り信長公のお目にかけた。大坂大森口合戦のときも余の傍に居てか

  なりの手柄を立てた。

  長篠合戦のときは余の眼前で太刀打ちをし、名のある者の首をとりおった。このことは常々その方へも

  話した。越中佐々内蔵助と合戦のとき、末森後巻の先手をさせ、また越中蓮焼きのときも度々先陣をい

  たし忠節をつくした。別にしてこの者に情をかけられるのは最ものことだ。岡田長右衛門は算用の上手

  な者で身分不相応とは思うが、なじみ深い者だから隠居料として2千石をやっている。ただし貴殿の考え

  でいかようにも取り扱ってよかろう。

  次に青山佐渡に魚津城を預けてあるが、この者は律儀者だから情をかけられてよいと思う。新谷信濃へ

  中川宗半娘つかわすかどうかと娘しょう姫が言っているが、貴殿の考えひとつだ。


右の条々心つきたることであるが口上には後先忘れたこともあるから、書きつけにした。

余が死んだら心持ちをしっかり持ってくれ。

以上。

慶長4年3月21日

  筑前利家

羽柴肥前守殿


羽柴肥前守とはもちろん前田利長のことです。

平生から用心深く緻密で実際に即応した利家の心構えが、そのまま読み取れることができます。

sa-ko 20120724 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:忍藩
「武蔵三藩」と呼ばれるのは、川越藩、忍藩、岩槻藩で江戸の防衛として重臣が配されていました。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

前田利家 その61 『家康の見舞い』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【家康の見舞い】

秀吉の死の公式発表は、朝鮮へ派遣されていた日本軍将兵の帰国を待って行われたが、この度の利家と

家康の握手によって正式に1599年2月18日から19日にかけて行われた。

生前派手であった秀吉の葬儀としては、参列者の人数こそ多かったが、なんとなく淋しいものであったという。

関白太政大臣秀吉は、「豊国大明神」の神号と「国泰祐松院殿雲山俊竜」といういかめしい仏号に隠れ去

って、やがて春風にそよぐ候になっていた。

豊国神社
ho.豊国神社 002

病躯を押しての私婚政略問題やそれに続く秀吉の葬儀と、無理に無理を重ねていた利家は、ついに病患

悪化して重態に陥った。

3月8日に利家を見舞うため、家康が伏見から大坂へ訪問することになった。

家康は、有馬則頼と細川忠興を供につけ、屋形船で淀川をくだった。この両名はいずれも利家と懇親関係

のある人物であり、仲介人として付き添っている意味もあった。

もちろん警固の衆として、井伊直政や榊原康政など徳川家の譜代の武士たちが、川岸に沿って陸路から弓

・鉄砲を揃え、家康の船を絶えず警備していた。

大坂城内にある前田屋敷でも厳重な警戒態勢をとっていた。

家康が入城した機会をうかがって、襲撃しようとする蜜某があるらしいという風聞があったためです。

重態の病床でこれを知った利家は

「はてさて、何者がどこから攻めて来るというのか」

と、城内に横行する疑心暗鬼の風説を叱り警戒態勢を撤去させたという。

やがて家康の行列が到着し、家康は有馬則頼を一人連れただけで、なかの居間へ通った。

利家は病床に半身を起しただけで、客を迎えた。

人払いをしてあったので、戸口の脇に村井勘十郎ひとりが控えていた。

家康は病床の利家をひと目見て涙ぐんだ。病みやつれて、ひどく憔悴していた。

儀礼的な挨拶の言葉が短く交わされた。改めて対面しても、両巨頭に間に特に話題がある訳ではなかった。

「これが今生のお別れになりましょう。肥前がこと、よしにたのみ申します」

利家が淡々と言ってのけた。肥前とは、嫡男の羽柴肥前利長のことです。

家康は言葉もなく落涙し、ちょっとうなずいた。

その席に酒が運ばれてきた。

利家がまず酌をし、家康がこれを返した。

「大納言殿は、料理上手であった。お顔の色もよろしい。まもなくご回復なされようから、いずれはお手

料理をいただきまするぞ」

家康は言って、涙を拭いた。

次の間でも、前田家の家老たちと家康に従って来た面々の間で酒宴が始まっていた。

わずかに一時間足らずの訪問を終わって、家康一行は前田家を辞去すると、宿舎である藤堂高虎の屋敷へ

引き揚げた。


sakura 20120719 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
前回の正解:小倉城
細川忠興は、徳川家康から戦後の論功行賞で丹後12万石から豊前33万9,000石に国替のうえ加増となった。
豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので豊前中津藩39万9,000石の大大名となっています。豊前入りした忠興は九州の要とすべく小城であった小倉城の大規模改修に取り掛かり、その後、黒田氏が築いた中津城から工事が完成した小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となっています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

前田利家 その60 『私婚政略問題の決着』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【私婚政略問題の決着】

万一、伏見と大坂の間に紛争が拡大するようになれば、つまり家康と利家が対決することになったら、最

も当惑するのが細川忠興であった。

次には加藤清正や浅野幸長たちであった。

細川忠興たちが必死に努力して利家と家康の間を調停したのは、利家のためというよりも、むしろ自家の

存続のためであった。

細川忠興は長岡幽斎を父とし、明智光秀を舅に持ち、織田信長のころから百戦の将であり、また忠興は

千利休の高弟の一人として茶の湯の達人で風流大名であった。

そうした忠興の嫡子・細川忠隆の室は、前田利家の6女・千世姫であった。

このように前田家との縁故は浅からぬものがあったし、さらに徳川家康との関係では、前関白・秀次への

借財返済に苦慮した末に、家康の援助によって難を免れていた。

武勇の面に風流の裏を張ったような細川忠興は、測り知れない機心を持つ当代きっての策士でもあった

ようです。

細川忠興(1563-1646年)
ho.細川忠興

利家の健康状態はますます悪化して、すこぶる衰弱していた。

忠興はすでに影の薄い利家を動かす手段として、利家の嫡子・利長に接近し、工作します。

忠興は利長や亡き蒲生氏郷らの萌輩です。そして、利長の場合は、利家に比較すれば豊臣家に対する忠

義心は冷淡であり、反比例して、自家に対する愛着心は濃厚であることを忠興は知っていたので、この面

から利長を通じて利家に働きかけた。

利家としても、いたずらに家康との拮抗対立を望むものではなく、むしろ当初から家康と対決するという

気魂はなく、家康ともども自家の安全を子々孫々まで継続させたいという意向は、この時代のすべての武

将たちと共通するところであった。

さらに62歳という年齢でもあることに加えて、自ら心身の衰弱を悟っていたので、ここは有力武将の斡旋

を受入れて、調停に踏み切るべきであると決意した。

もちろん、その方が豊臣家のためであるとも判断したのです。


まもなく、家康を除く4大老・5奉行と家康一人との間に正式に調停が成立した。

その段取りは、家康の側から、

『このたびの縁組のことは、理屈どおりであって、重々もっともで、当方が悪かった。向後は何ごとによらず、

以前のとおり、昵懇にして頂きたい』

という意味の文書を提示し、これに対し大坂側から、

『われらの申し入れに納得されて、満足である』

という意味の文書を持って回答したという。

結局のところ騒々しく粉叫した私婚政略問題は、家康の形式的な謝意表明によって、一応決着したわけ

です。


『日光東照宮』
日光東照宮はご存知のとおり、1617年徳川初代将軍徳川家康公を祀った神社です。
平成24年6月30日に、中禅寺湖・千手ヶ浜に行った際に立ち寄って来ましたので、数日かけて観察してみた
いと思います。

陽明門 【国宝】
日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられています。
いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など
500以上の彫刻がほどこされています。

陽明門 01 陽明門 02

pig 20120717 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:織田信長
織田信長は、赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母の乳房を噛み切ったという逸話があります。
家中では乳母捜しに大変苦労したという。また「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られます。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム