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前田慶次郎 その60 「慶次郎の威嚇」

戦国風流武士 「前田慶次郎」 その60

【慶次郎の威嚇】

翌日、人々は新たな志願者も加えて10人ほどとなって宿舎を出た。

銭湯は神田にあった。

当時の風呂屋は遊楽の場所となっており、単に入浴を楽しむだけでなく、風呂を出ると座敷に通り、適当に

飲食して楽しむことになっていた。

ゆる~い慶次郎
ma.前田慶次郎(ゆる~い慶次郎)

先ず座敷に行って風呂場の様子を聞いてみると、徳川家の武士らが7、8人来て、今ちょうど入ったところで

あるという。他家の武士らがいつもいびられることを知っているらしく、亭主は気の毒そうな顔をしている。

「そうか、そうか、良くわかった」

慶次郎は亭主をさがらせて、

「これからわしが邪魔者どもを追っ払うから、貴殿方は暫くしたら来ていただきたい」

と人々に言っておいて、風呂場に向った。

当時の入浴は今日のように素っ裸で入るものではなく、男は「ふんどし」をしめ、女は湯具を腰に巻いて入っ

ていました。

風呂場の中には先客の徳川武士らが傍若無人の高話と高笑いで鳴りどよめいていた。

慶次郎は「ごめん」とだけ言って、人々の間をおし通って奥に入った。

人々は無礼と咎めるような目つきになったが、ふと慶次郎の腰に脇差があることに気づいた。

割れるような喧騒だったのが、一瞬の間に凍りつくように静まったのに、慶次郎は知らぬ顔で一番奥に背を

もたれ、大あぐらをかいて目をつぶった。

「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ…、ああ、いい風呂じゃ」

と慶次郎は、つぶやいている。

念仏は坊主の頭にいかにもふさわしいが、腰に脇差はなんともいえず無気味だ。

しかし、暫くの静寂の後に人々は、また談論爆笑を始めた。

とたんに慶次郎が、

「むーッ」

とうなった。

人々が凝視して見ると、脇差の柄に手をかけ、片膝を立て、

「むーッ、むーッ、むーッ…」

と続けさまにうなりながら、カッと目を見開き、今にも脇差を抜かんばかりの態勢になっている。

人々は驚きながらも、斬ってかかってきたら、手桶で防いでやるとばかりに手桶のふちを掴んで様子を覗って

いたが、うなりがいつまでも続くので、たまり切れなくなって、ひとり、また一人と風呂場を這い出してしまった。

pig 20121031

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解:豪姫
子供のいない秀吉夫妻のために、豪姫を養女にさせています。その豪姫は15歳で秀吉の猶子であった岡山城主・宇喜多秀家の妻として嫁いでいます。

≪本日の問題≫


                          <参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

前田慶次郎 その59 「お風呂に入れず」

戦国風流武士「前田慶次郎」その59

【お風呂に入れず】

翌日の昼ごろ、風呂志願者は揃って宿舎を出て行ったが、2時間ばかり後、誠に面白くなさそうな顔で帰っ

て来た。出かける時の楽しげな様子はまったくない。

宿舎に居残っていた者らが様子を聞くと、徳川家の武士らが5、6人来て傍若無人に振る舞い、悪くすると

喧嘩になりそうであったので、早々に引き上げて来たという。

「江戸はイヤなところじゃ」

「早う帰りたいのう」

と、話はいつも嘆きになっていた。

前田まつ(尾山神社石碑)
ma.前田まつ

この日、慶次郎は叔父・利家の未亡人・芳春院(まつ)の屋敷にご機嫌伺いに行った。芳春院は昨年の関ヶ原

の戦いの2、3ヵ月前から前田家の人質として江戸に来ているのであった。

久しぶりに叔母・甥が会ったので、積もる話しが色々出て来て、夕方近くに宿舎に帰って来ると、人々の

風呂ばなしを聞かされた。

「ふうん、そうか、くだらん奴じゃな。どうだな、わしと明日もう一度行きなさらんか。もしそいつらが

いたら、追っ払って、わしらだけで伸び伸びと入る工夫があるが」

「工夫とは?」

「天機は漏らすべからず。この胸三寸にある」

慶次郎は自信ありげに笑って、胸を叩いてみせた。

慶次郎の奇策縦横は、みな知っている。行こうということになった。

sakura 29121030

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解:お寺の風呂
日本では仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られています。これは、もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれています。。
貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式でした。

≪本日の問題≫


                           <参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

前田慶次郎 その58 「江戸には、銭湯があった」

戦国風流武士「前田慶次郎」その58

【江戸には、銭湯があった】

宿舎と定められた芝の浄土宗の寺で、上杉家の家臣等は外出から帰ると、陰鬱な会話ばかりボソボソと交

わしていた。

ある日のこと、一人が外出先から帰って来た。ひどく綺麗で血色のよい顔になっている。

「おや、おぬし、えらいいい顔をしとるのう。酒でも飲んできたか」

と聞くと、

「風呂に入って来たのじゃ」

と答えた。

むし湯(大分鉄輪むし湯)
te.鉄輪むし湯

「風呂? 誰がそんなご馳走をしてくれたのじゃ」

「誰のご馳走でもない。銭を出して入って来た」

「銭を出して?」

「ああ、銭湯というものがあるのじゃ」

「なんじゃと?」

この問答を聞いて、皆がゾロゾロと集まってきた。

「そりゃ本当か」

「本当に銭を出せば風呂に入れてくれるところがあるのか」

「どこにあるのじゃ、それは」

寄って集って質問する。

「ほんとうじゃとも、永楽3文で入れるのじゃ」

「どこじゃ、それのあるところは」

「どこというて、口では言えん。行くなら、明日わしが連れて行こう」

「ぜひ連れて行ってくれい。頼むぞ」

われもわれもと志願者が出て来て、たちまち5、6人になった。

風呂は当時ではなかなか貴重なものでした。

この頃は「風呂」とだけ言った場合は、“むし風呂”のことで、今日の風呂はとくに「水(すい)風呂」といった。

「風呂」はその装置も複雑であり、これを焚くには相当多額な費用を要したので、普通の家庭には勿論ない。

うんと裕福な家だけが湯殿を持っていて、そういう家がご馳走として入れてくれる以外に一般の人は入る機

会はなかったのです。

ですから、上杉家の家臣等も、もし銭を出して入れるものなら、一浴して旅の垢を落したいと思ったのでしょう。

sa-ko 20121029

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解:3000人
景勝は直江兼続に2万~2万4千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始した。
これに対抗する最上軍は7,000余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく3,000余)でしかなかったが、上杉軍に対して義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦しています。

≪本日の問題≫


                           <参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>

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前田慶次郎 その57 「江戸城下」

戦国風流武士「前田慶次郎」その57

「江戸城下」

上杉景勝は帰国の途についたが、途中、秀忠にお礼言上のために江戸に立寄った。

実質的にはペテンにかけて降伏させられたのですが、名分は徳川内府の寛容によって、命を助けられた

ばかりか、家名を取り留めることが出来たことになっている。

不平はあっても言ってはならない。

秀忠に拝謁して、詫びを言い、礼を言わなければならない。

江戸に着いたのは9月末。今の暦では10月末から11月初めの季節です。

江戸城
ed.江戸城 001

京へ上る時は中仙道をとったので、江戸はいく年ぶりであった。

一行は江戸の急激な変化に驚いた。

一行の大部分は、秀吉の小田原征伐に従軍しているから、徳川家の城下町になる前のことを知っている。

その頃のここは奥州街道沿いも寂しい宿駅で、戸数も100戸程度、城といっても太田道灌の居城であった

頃の面影はさらさらになかった。

また、一行のある者は、江戸が徳川家の城下町になってから見ている。

なんと言っても日本一の大大名の城下であるから、その発展は急速であった。

家康自身は用心深く、まだ征夷大将軍になることを遠慮しているが、その城下町はひと足先に日本の中心

になりつつあった。

一番目立つのは、徳川家の家臣等の人も無げな姿であった。

天下はもう放っておいても自分らの旦那のものになるという自負からであろう、肩で風切る勢いだ。

こちらは降伏者であるだけに一層それを強く感ぜられる。

「ああ、早く帰国したいのう」

「帰国すれば国替えだ。禄を5分の1か6分の1に減らされ、米沢に移らねばならんのだ。あてがわれる屋敷

もうんと小さくなるのだろう」

「禄を減らされ、小さな屋敷でも貰える者はまだよい。お暇を出されるかも知れんのだぞ。譜代の衆は安全

であろうが、御当代になって召抱えられた者は危いな」

「それに、あちらはもう雪だ」

「ええい!腹の立つことばかりだわい」


pig 20121025

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解:遊女歌舞伎
阿国一座が評判になるとこれを真似た芝居が遊女によって盛んに演じられるようになり、遊女歌舞伎となった。
このころの歌舞伎は、女性によるセクシャルなもので、儒学を重んじる徳川幕府などにより、女性による歌舞伎は禁止され、少年歌舞伎から、現代の野郎歌舞伎(役者が全員成年男子)へと変遷しています。

≪本日の問題≫


                          <参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>

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前田慶次郎 その55 「出雲阿国」

戦国風流武士 「前田慶次郎」 その55

「出雲阿国」

両手をついて聞いていた山三郎は、暫くうつむいて平伏していたが、直ぐ涙ぐんだ声で言った。

「嬉しいことを申してくださいました。てまえも相当強い覚悟を持ってこの道に踏み込んで来たのであります

が、かれこれと世の人や知り人らに言われますと、つい迷いが出まして…しかし、かねてからてまえが最

も羨しいと申し上げているお二方にそう言っていただいて、この上の喜びはございません。もう迷うことでは

ございません。ありがとうございました。」

「この上とも、しっかりおやりください。歌舞伎踊りは、これからももっともっと栄え、日本人の一番大きな楽

しみになることに相違ありませんぞ」

酒が勢いよくまわり始めた。

出雲阿国
iz.出雲阿国

今日の演技の批評やら、山三郎の将来の抱負やら、活発な談話が交わされている時、左右に歌舞伎女を

2人従えて、新しい膳をささげ持って阿国が出てきた。

山三郎は阿国を紹介した。

阿国は仔細を見ると、そう顔立ちのよい女ではなかった。

下ぶくれ気味のその顔は鼻は低いし、口が大きすぎるし、どちらかというとお多福めいていた。

しかし、恐ろしく華やかな美しさがあった。

抜けるように色が白く、唇が紅く、真っ黒でみずみずしい大きな目をし、大がらで肉付きのよい体であったが、

舞で鍛えた身のこなしが際立っていたからであったのかも知れない。

三味線と笛が持って来られ、山三郎が器用な手つきで三味線を弾き、女ひとりが笛を奏で、阿国が舞扇を

持って立ち上がり、酒宴はにぎやかに続けられた。


sakura 20121024

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解:藩内のトラブルに巻き込まれた
名古屋山三郎は、森忠政から関係の悪化していた重臣・井戸宇右衛門の殺害を命じられますが、逆に宇右衛門に切り伏せられ死亡しています。享年は28とも32歳とも伝わります。
山三郎は武士を続けていたので、阿国とは結婚していないという説もあります。

≪本日の問題≫


                           <参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>

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Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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