【戦国英雄の性格解剖】 その13

「謙信・信玄・信長・秀吉・家康の解剖」 その13

秀吉と反対に家康は下淫のチャンピオンです。

正妻の築山殿を除いては、彼の愛した女たちは、ひとりとして上流階級の出身者はいません。

みな下層民の出身です。

下級武士や下級神職の娘であったり、百姓の後家さんだったのです。

駿府城の家康(1543-1616年)
to.家康 駿府城

正妻の築山殿は、今川義元のいとこであった。

義元は、家康の幼少時代から20歳頃まで、彼にとっては恐い人であった。

従って、築山殿も家康には一目置かなければならない煙たい存在であり、しかも年上で恐ろしく嫉妬深くて、

気の強い女であっという。

家康は、もの凄くこの人に苦しめられた。

だから、今川氏が滅んだ後は、煙たい存在がなくなると別居して夫婦の道を絶ってしまったが、そうしたら

姦通したり、反逆を企てたり、ついには長男の信康を非業に死なせなければならないという羽目に追い込

みまでした。

「もうコリゴリだ。身分の高い女など妻にするものではない。また、いくら愛しても決して女に権力を持たせ

るようなことはしてはならない。ともあれ、下層民の女が一番無難だ」

と、でも考えたのでしょうか。

この家康が、また大変なヤキモチやきであったという。

1607年の冬、家康の隠居所であった駿府城が焼けた時、大奥に走りこんで女人を助け出した武士たち

全員を処罰している。

英雄の心事というものは妙なものです。

pig 20130605 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:醍醐寺
醍醐の花見は、1598年4月20日に豊臣秀吉が京都の醍醐寺において、豊臣秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約1300名を従えて盛大に催した花見の宴でです。
秀吉は、この花見で人生を仕上げるかのように数ヶ月後に没しています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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【戦国英雄の性格解剖】 その12

「謙信・信玄・信長・秀吉・家康の解剖」 その12

秀吉は無理な勤勉によって、あれほどの出世をすると同時に、その過労にして63、4歳で没したともいい

ます。

その老衰は、過度の女食も原因であったともいいます。

当時は、女食だけでなく男食もあったが、秀吉は、男食は嫌いで専ら女食であったという。

こんな話が伝わります。

ある時、羽柴長吉という少年という少年が、初めてお目見得した。

非常な美少年であったので、秀吉がそれを閑所に連れていくので、人々は驚いた。

「上様もあの少年の美しさには、お気が動いたのであろうか」

と、ささやき合った。

間もなく少年が帰って来たので、聞いてみると、秀吉にこう聞かれただけであったという。

「その方に、姉か妹はないか」

こんな風だから、石田三成が少年の頃、秀吉の寵童だったという説は異なものでしょう。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉 001

上淫、下淫という言葉があります。

身分の高い女を欲するのが前者。その反対が後者です。

秀吉は、上淫好みであった。

正妻の“ねね”は、そう高い身分の出生ではないが、それでも結婚当時においては、秀吉よりはるかに

身分の高い家の娘であった。

その他の側室たちは、まず淀君は信長の妹・お市と浅井長政の間の娘、加賀殿は前田利家の娘、三の

丸殿は信長の娘で蒲生氏郷の養女となった人、松の丸殿は京極高吉の娘、みな高貴の家の出なので

す。

秀吉がこの上淫好みは、彼がその本質においてロマンチストであるところから出ていると思われたりして

いますが、ひょっとするとコンプレックスが裏返しになって現れているもかも知れません。

素性の高貴な女性に対する卑賤者の憧れが、権力が増すにつれて征服欲となって来たのではなかとの

推測もできます。

これら美女たちは、みな非常に若いので、老齢な秀吉の御し得べきところではなかったのです。

彼の老衰は、加速度的に加わらざるを得なかったとも言われます。

sakura 20130605 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:高松城
秀吉は、1582年には備中国に侵攻し(中国攻め)、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めしています。(高松城の水攻め)
中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して、味方の勢力を温存する秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮しています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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【戦国英雄の性格解剖】 その11

「謙信・信玄・信長・秀吉・家康の解剖」 その11


豊臣秀吉の前半生は殆ど分かりません。

秀吉が信長に仕えた後すら、18歳説と23歳説などがあって、よく分からない。

また、生年も1536年説と1537年説があるくらいです。

信長に仕える前、遠州で今川氏の家臣であった松下嘉右衛門之綱の家に奉公していたことだけは、秀吉が

偉くなってから松下夫婦を招いて厚遇している記録から事実らしいですが、それ以外のことはまるで分からな

い。

長浜駅前の秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉・三献の茶

異常なほどの成功者という者は、その出世前のことを、それが悲惨であればあるほど、自慢話として語りた

がるものであり、秀吉は陽気で大ホラ吹きですから、大いに昔のことを語りそうですが、まるで語っていない。

信長に仕えるまでの秀吉の生活は、悲惨すぎて、彼自身が思い出すのも不愉快だったのでしょうか。

世は戦国時代です。家を飛び出して放浪して歩く少年に、吹く風が温かい筈がないのです。かっぱらいもし

たろうし、泥棒もしたろうし、タカリもしたろうし、乞食もしたのでしょう。

つまり、放浪する戦災孤児のような生活であったのかも知れません。

こんな想像をするのは、信長に仕えてからの秀吉の奉公ぶりが勤勉すぎるからです。

できるだけ、信長の目にふれるようとして出シャバリもしており、気に入られようとして実に無理な奉公もし

ています。

同輩や先輩をおしのけて口出しをするし、人が二の足を踏むような困難な仕事を進んで引き受け、引き受け

るや、シャニムニ仕上げています。

こういう働きは普通な人にはできない。

人生のどん底の経験をしてきて、再びあのような境遇には転落したくない。という堅い信念を持っていて初め

てできることであったと思われます。

秀吉が社会に最下位から出発して、信長に仕えるや、急坂を駆け上がるような立身をなし得たのは、運の

よさもあり、努力もあったに違いないが、根本にこの悲惨な経験からきた覚悟のすわりの良さがあったから

だと思います。

sakura 20130604 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:海津城
景虎(謙信)が関東で北条氏康と戦っている間に、武田謙信は川中島に海津城(松代城)を完成させてこれを前線基地とし、信濃善光寺平における勢力圏を拡大させています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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【戦国英雄の性格解剖】 その10

「謙信・信玄・信長・秀吉・家康の解剖」 その10


「三成の関ヶ原」のファイナルでしたので、暫く間が空いてしまいました。 (前回は「こちら」です。)


信長に狂気的素質のあったことは、古来よく言われています。

普通に伝えられている信長の愛憎の激しさや、猜疑心の強さや、残虐さや、刻薄さ以外に、その狂気を物語

る話が数々あります。

荒木村重が叛旗をひるがえして、伊丹城に籠もったとき、信長自身がこれを征伐に行っていますが、その時

の話としてこんな話が伝わります。(信長記)

1579年4月8日に信長は戦陣の暇を見て、摂津の池田方面に鷹狩りに行ったが、供の者どもを騎馬隊と歩

兵隊に分けて、騎馬隊は歩兵隊に駆け入ることとし、歩兵隊はこれを防ぎつつ逃げ回ることとして遊んだとい

う。

この時、信長は46歳。右大臣であった。

この月の26日には、またここへ来て同じような遊びをしています。彼の年齢といい、身分といい、何か物狂

わしい気がします。

上杉謙信(1530-1578年)
ue.上杉謙信 001

狂気といえば、上杉謙信もおかしいです。

彼が戦争好きであったことは周知のところですが、そのため女まで禁っていたというのは、彼が戦争に対し

て芸術家が芸術に対するような執心と献身をしていたことの証拠で、一種の狂気の心理でしょうが、彼の

日常の生活を見ても普通人と違っている。

謙信は春日山城の頂に毘沙門堂を営んで、いつもここに人を遠ざけて律僧のような生活をしていたという。

軍議はこの毘沙門堂でやるのです。

殆ど諸将にものを言わせない。

軍神の啓示を受けたと称して、彼ひとりが申し渡すだけだったという。出陣にあたっては、諸将をここに集

め、護摩を焚き、軍令を言い渡し、それから出発した。

こんなところはジンギシカンに似ています。

彼も、時々、天の啓示を受けると称して、ただ一人で山に上がって3日くらい下りてこなかったという。

古塔の頂に籠もって、菜食をしながら政略や戦術を練ったというヒットラーにも似ています。

ジンギシカンもヒットラーも狂人だと思われますが、同じ意味で謙信も狂人だったのでしょうか。

sakura 20130603 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫ (6月1日)
正解:皎月院
三成の正室は、皎月院(こうげついん)で、で石田重家、石田重成、辰姫ら三男三女の母です。(後妻で、二男一女という説も)
姉の山手殿(寒松院)は真田昌幸の正室で、その子に真田信幸(信之)、真田信繁(幸村)がいます。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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【戦国英雄の性格解剖】 その9

「謙信・信玄・信長・秀吉・家康の解剖」 その9

*前回の記事は「こちら」です。


当時の宣教師が、その本国に送った報告書に

「彼(信長)は、地球儀を持って来させて、さらに種々のことに質問し、ついに言った。世はバテレン等の答弁

に満足した。バテレン等の博識は、到底、坊主どものおよぶところではない」

と、記しているという。

織田信長(1534-1582年)
od.織田信長公

この信長の新時代人的性格は、どこから来たのでしょう。

生来的なものであったという推測もできます。

信長は少年時代異風好みで、手のつけられないイタズラ者であったというが、この異風好みの中に新時代

の萌芽があったとも思えます。

異風好みとは、平凡を忌み、古臭さをきらい、旧習をきらう心です。すなわち保守をきらい、新奇を求め、進歩

に引かれる心に通う。

新時代には新時代の精神を持つ者だけが栄える。

旧時代の精神の者は、どんなに他に優れていても亡びざるを得ない。適者生存の理法です。信長が天下人

になり得たのは、当然のことであったのでしょう。


うさーずたちの大好物「ビワの葉」を沢山いただきました。
ビワの葉

                          <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:天下布武
信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いています。
訓読で「天下に武を布(し)く」であるとされ、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に解釈される場合が多い。

≪本日の問題≫


                               <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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