『四国の雄 長宗我部元親』 その16
『本能寺の変は、斎藤利三が妹の危機を救うため?』
宍戸屋は早速、信長に拝謁して元親の書状と贈り物を差し出した。
「土佐の長宗我部といえば、聞こえた名族であり近頃土佐一国を切取って武勇の名も高い。それほどの者
が、おれをかくも慕うてくれるか」
と信長は喜んで元親の望みにまかせて、元親の嫡男・弥三郎には「信」の字を与え、左文字の名刀を取り
出し「長宗我部殿にとどけよ」
と言った。
織田信長(1534-1582年)

宍戸屋は土佐に戻り委細を報告する。
「元親、悦喜かぎりなく、長男・弥三郎をこれより信親とぞ名乗らせける」
しかし、現代学者の研究では、織田家との親睦はもっと後年の1578年のことで、宍戸屋などという町人
が仲立ちしたのではなく、元親の妻は明智光秀の臣・斎藤利三の妹であるので、光秀に頼って信長に請
うて、弥三郎のために信長の名を一字もらい、そのご機嫌をとったというのです。
斎藤利三は元来美濃侍で、しかもそれほど大身といえないのに、その妹を元親はいつどうして妻に迎え
たのでしょう。
信長は石山本願寺・武田勝頼と強敵を滅ぼし、敵が毛利輝元・上杉景勝などに絞られると、元親の四国
切り取り自由の約定を反故とし、土佐一国と阿波二郡を安堵するので兵を引くように命じた。
これを元親が突っぱねると、信長は3男・織田信孝を総大将とし、四国征伐の遠征軍を向かわせようとし
たが明智光秀の本能寺の変が起こり、危機を脱しています。
このことから、斎藤利三が妹の危機を救うために光秀に直訴したことが本能寺の変の原因になった。と
する説もあったりします。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
宍戸屋は早速、信長に拝謁して元親の書状と贈り物を差し出した。
「土佐の長宗我部といえば、聞こえた名族であり近頃土佐一国を切取って武勇の名も高い。それほどの者
が、おれをかくも慕うてくれるか」
と信長は喜んで元親の望みにまかせて、元親の嫡男・弥三郎には「信」の字を与え、左文字の名刀を取り
出し「長宗我部殿にとどけよ」
と言った。
織田信長(1534-1582年)

宍戸屋は土佐に戻り委細を報告する。
「元親、悦喜かぎりなく、長男・弥三郎をこれより信親とぞ名乗らせける」
しかし、現代学者の研究では、織田家との親睦はもっと後年の1578年のことで、宍戸屋などという町人
が仲立ちしたのではなく、元親の妻は明智光秀の臣・斎藤利三の妹であるので、光秀に頼って信長に請
うて、弥三郎のために信長の名を一字もらい、そのご機嫌をとったというのです。
斎藤利三は元来美濃侍で、しかもそれほど大身といえないのに、その妹を元親はいつどうして妻に迎え
たのでしょう。
信長は石山本願寺・武田勝頼と強敵を滅ぼし、敵が毛利輝元・上杉景勝などに絞られると、元親の四国
切り取り自由の約定を反故とし、土佐一国と阿波二郡を安堵するので兵を引くように命じた。
これを元親が突っぱねると、信長は3男・織田信孝を総大将とし、四国征伐の遠征軍を向かわせようとし
たが明智光秀の本能寺の変が起こり、危機を脱しています。
このことから、斎藤利三が妹の危機を救うために光秀に直訴したことが本能寺の変の原因になった。と
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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その29
『秀吉の九州征伐と宗麟の没』
1587年3月、宗麟は京に入り秀吉に拝謁し、島津家の横暴を訴えた。
「軍勢をお向け下されば、拙者おん先をつかまり、九州御平定のお手伝いをいたすでございましょう」
天下平定は秀吉の素望です。訴えがあろうとなかろうが、九州征伐はやらなければならないと思っている。
「おれは関白じゃ。天下の切り盛りはおれが役目じゃ。よいよい。すぐにやるぞ。その方は帰って支度して待っ
ておれ」
と受け合った。
大友宗麟(1530-1587年)

この時、宗麟は大坂城の壮大豪奢に驚嘆し、また秀吉から黄金製3畳敷きの茶室で茶の湯接待にあずかり、
驚嘆感激して国元に書を送っている。
宗麟はすっかり秀吉信者になって帰国したことはいうまでもありません。
秀吉の九州征伐は翌年行われ、5月8日に島津義久は秀吉に降伏した。
同じ月の23日、宗麟は領内の津久見で没しています。
うらみ重なる島津家の降伏を見て、さぞ満足であったことでしょう。享年58歳。
彼の法名は「瑞峯院休庵宗麟」です。禅宗の法名なのです。
キリスト教の信仰はどうなったのでしょう。
西教史には、彼は篤信なクリスチャンとして死んだと書いています。
宗麟の死の直後は、キリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたが、後に嫡男・義統が改めて府内
で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めたという。
宗麟公の墓所は、京都大徳寺の塔頭・瑞峯院にあります。 (瑞峯院参拝は「こちら」です。)
大友宗麟は、家督相続した直後に「政道十九条」を制定発布し、領国統治に力を注ぐとともに、南蛮の優れた
文化を取り入れるためにキリスト教を保護し、豊後国を繁栄させた九州の名君だと思います。
要害の城・臼杵城に機会があれば再登城したいと思っています。
長い間、大友宗麟公にお付き合い頂き、ありがとうございました。
次の戦国武将は「軍師・竹中半兵衛」を取り上げてみたいと思います。

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いつもありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:豊臣秀長
豊臣秀長軍は、先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら中国勢と合流し、豊後より日向へ入って縣(延岡市)を経て日向松尾城(延岡市)を落とし、さらに耳川を渡って根白坂(木城町根)に城塞を築いています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
1587年3月、宗麟は京に入り秀吉に拝謁し、島津家の横暴を訴えた。
「軍勢をお向け下されば、拙者おん先をつかまり、九州御平定のお手伝いをいたすでございましょう」
天下平定は秀吉の素望です。訴えがあろうとなかろうが、九州征伐はやらなければならないと思っている。
「おれは関白じゃ。天下の切り盛りはおれが役目じゃ。よいよい。すぐにやるぞ。その方は帰って支度して待っ
ておれ」
と受け合った。
大友宗麟(1530-1587年)

この時、宗麟は大坂城の壮大豪奢に驚嘆し、また秀吉から黄金製3畳敷きの茶室で茶の湯接待にあずかり、
驚嘆感激して国元に書を送っている。
宗麟はすっかり秀吉信者になって帰国したことはいうまでもありません。
秀吉の九州征伐は翌年行われ、5月8日に島津義久は秀吉に降伏した。
同じ月の23日、宗麟は領内の津久見で没しています。
うらみ重なる島津家の降伏を見て、さぞ満足であったことでしょう。享年58歳。
彼の法名は「瑞峯院休庵宗麟」です。禅宗の法名なのです。
キリスト教の信仰はどうなったのでしょう。
西教史には、彼は篤信なクリスチャンとして死んだと書いています。
宗麟の死の直後は、キリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたが、後に嫡男・義統が改めて府内
で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めたという。
宗麟公の墓所は、京都大徳寺の塔頭・瑞峯院にあります。 (瑞峯院参拝は「こちら」です。)
大友宗麟は、家督相続した直後に「政道十九条」を制定発布し、領国統治に力を注ぐとともに、南蛮の優れた
文化を取り入れるためにキリスト教を保護し、豊後国を繁栄させた九州の名君だと思います。
要害の城・臼杵城に機会があれば再登城したいと思っています。
長い間、大友宗麟公にお付き合い頂き、ありがとうございました。
次の戦国武将は「軍師・竹中半兵衛」を取り上げてみたいと思います。

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≪前回の解答≫
正解:豊臣秀長
豊臣秀長軍は、先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら中国勢と合流し、豊後より日向へ入って縣(延岡市)を経て日向松尾城(延岡市)を落とし、さらに耳川を渡って根白坂(木城町根)に城塞を築いています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その28
『島津家の台頭』
耳川の戦いの結果は、九州の形勢に大きな変化を与えた。
北九州を制していた宗麟の勢いがさっぱり振るわなくなると同時に、島津家の勢いが盛り上がってきた。
島津家は日向南部を確保するとともに、鉾を肥後に転じてその諸豪を下し、肥前島原で竜造寺隆信と戦って
これを撃破し、筑後を侵し、筑前に進出した。
肥後も筑後も、みな大友氏の所領だったのです。
臼杵城の宗麟公

しかし、宗麟はこの形勢をどうすることもできなかった。
居すくんだ形で豊後から出なかった。
1586年から1587年にかけては、大友家の領地は豊前・豊後の2国と筑前国内の岩屋城・立花城・宝
満城の3つが残るだけとなった。
岩屋城には高橋紹運、立花城には立花宗茂、宝満城には高橋統増は篭っていた。この3人は父子なので
す。
紹運が父、宗茂はその長男で立花家に養子に行ったのであり、統増は宗茂の弟です。
この3城だけが、大友家に忠節を守って、怒涛のような島津勢の攻撃に対して悲壮な抵抗を続けていたの
です。

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いつもありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:殺生が避けられない現実
全ての選択肢について宗麟が苦しんだことだと思われますが、特に、キリスト教の「汝、殺すなかれ」という教えと、戦の上で殺生は避けられない戦国乱世の現実との間で煩悶していたといいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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特に絵文字など・・・。
耳川の戦いの結果は、九州の形勢に大きな変化を与えた。
北九州を制していた宗麟の勢いがさっぱり振るわなくなると同時に、島津家の勢いが盛り上がってきた。
島津家は日向南部を確保するとともに、鉾を肥後に転じてその諸豪を下し、肥前島原で竜造寺隆信と戦って
これを撃破し、筑後を侵し、筑前に進出した。
肥後も筑後も、みな大友氏の所領だったのです。
臼杵城の宗麟公

しかし、宗麟はこの形勢をどうすることもできなかった。
居すくんだ形で豊後から出なかった。
1586年から1587年にかけては、大友家の領地は豊前・豊後の2国と筑前国内の岩屋城・立花城・宝
満城の3つが残るだけとなった。
岩屋城には高橋紹運、立花城には立花宗茂、宝満城には高橋統増は篭っていた。この3人は父子なので
す。
紹運が父、宗茂はその長男で立花家に養子に行ったのであり、統増は宗茂の弟です。
この3城だけが、大友家に忠節を守って、怒涛のような島津勢の攻撃に対して悲壮な抵抗を続けていたの
です。

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正解:殺生が避けられない現実
全ての選択肢について宗麟が苦しんだことだと思われますが、特に、キリスト教の「汝、殺すなかれ」という教えと、戦の上で殺生は避けられない戦国乱世の現実との間で煩悶していたといいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その27
『耳川合戦の大敗の原因』
宗麟は日向北部の県(アガタ:今の延岡付近)に留まって、さらに南下して日向に向う軍の指揮は、前夫人
の兄・田原紹忍に任せた。
南日向に入った大友勢は、はじめは調子が良かったという。
伊東家を再興する軍ということで、伊東家の旧領民らの者が島津氏に背き大友勢に属して来たりして、小さ
な城を守っている島津方との小競り合いには勝利した。

しかし、薩摩本国から島津の当時の主・義久と弟・義弘が駆けつけて決戦になると、大友勢は散々に斬りた
てられ、死者算なしという程の大敗北を喫した。
大友方のこの大敗の原因を大友記では、勝敗が決まらないうちに主将たる田原紹忍が臆病風に吹かれて
退却したので総敗軍になったと記している。
一方、薩摩側の記録では、紹忍はしんがりを努め70人の兵を率いて、かつ戦い、かつ退くさまは、進退法
あってあっぱれであったと褒めている。
敗戦の真の原因は、大友軍が日向に乗り込む途中で演じた、神社・仏閣に対する乱暴狼藉な振る舞いが
原因であったことはいうまでもないことでしょう。
大友軍の将校や兵士らは、少数のキリスト教信者を除いて、みんなが嫌であったことは間違いないでしょう。
命令だから仕方なく社寺を焼き、神仏像を泥土に踏み込んだのです。
これらの行為は、この当時はたいへんな悪行なのであり罪悪感があり、神仏の罰を恐れたのに違いないで
しょう。
これらの行為は士気を低下させるとともに、神罰はないか、仏罰ではないか、タタリではないかと、心を怯え
させ、戦う前からは大敗は決まっていたようなものです。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:島津義久
耳川の戦いは、1578年、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県)を主戦場として激突した合戦です。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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特に絵文字など・・・。
宗麟は日向北部の県(アガタ:今の延岡付近)に留まって、さらに南下して日向に向う軍の指揮は、前夫人
の兄・田原紹忍に任せた。
南日向に入った大友勢は、はじめは調子が良かったという。
伊東家を再興する軍ということで、伊東家の旧領民らの者が島津氏に背き大友勢に属して来たりして、小さ
な城を守っている島津方との小競り合いには勝利した。

しかし、薩摩本国から島津の当時の主・義久と弟・義弘が駆けつけて決戦になると、大友勢は散々に斬りた
てられ、死者算なしという程の大敗北を喫した。
大友方のこの大敗の原因を大友記では、勝敗が決まらないうちに主将たる田原紹忍が臆病風に吹かれて
退却したので総敗軍になったと記している。
一方、薩摩側の記録では、紹忍はしんがりを努め70人の兵を率いて、かつ戦い、かつ退くさまは、進退法
あってあっぱれであったと褒めている。
敗戦の真の原因は、大友軍が日向に乗り込む途中で演じた、神社・仏閣に対する乱暴狼藉な振る舞いが
原因であったことはいうまでもないことでしょう。
大友軍の将校や兵士らは、少数のキリスト教信者を除いて、みんなが嫌であったことは間違いないでしょう。
命令だから仕方なく社寺を焼き、神仏像を泥土に踏み込んだのです。
これらの行為は、この当時はたいへんな悪行なのであり罪悪感があり、神仏の罰を恐れたのに違いないで
しょう。
これらの行為は士気を低下させるとともに、神罰はないか、仏罰ではないか、タタリではないかと、心を怯え
させ、戦う前からは大敗は決まっていたようなものです。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:島津義久
耳川の戦いは、1578年、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県)を主戦場として激突した合戦です。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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『キリシタン王国を夢見た 大友宗麟』 その26
ありがとうございます!
気がつかないうちに「40万アクセス」を頂いていました!!
50万アクセスを目標に頑張ってみたいと思います。
今後とも、よろしくお願いいたします。
『キリスト教以外の信仰は異端邪宗』
宗麟の軍勢は3万5千3百(大友記)、おまけに大砲まで持っている。
この前々年の夏、ポルトガル船が持って来たのです。
宗麟はこれに「国崩し」(現在は靖国神社に保管)と名づけて秘蔵していたが、それを2門持ってきたのです。
これに比べては、当時の島津氏はいくらか昔より勢いはよくなっているが、たいしたことはないと宗麟は思っ
たのでしょう。
“ひと当てあてれば、それでケシ飛ぶのじゃ。後から呼ぶのも面倒。連れて行こう。途中の慰めにもなる”
くらいの気持ちだったのでしょう。

出陣は丹生島城(臼杵城)ではなく、府内からであった。
大友家代々の尊崇の厚かった柞原八幡宮という神社があったが、城門を出てはるかに神社が見えると、
「矢一筋奉れ!」
と叫んで、足軽2、3百人をもって、弓鉄砲を揃えて射掛けたという。
宗麟はキリスト教に帰依して1ヵ月ほど経った頃ですから、キリスト教以外の信仰は異端邪宗と信じ切って
いたのです。
また、日向への行軍の途中、神社や寺に火をかけて焼き払い、道の悪いところでは仏像や神体を敷き踏ん
で通行したという。
これは日本側の記録だけでなく、ローマ教会側の記録にも明記しているという。
異教征伐の美事として書いているのです。

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いつもありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫ (8月3日)
正解:商人
小西行長は、堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男で、岡山の商人の家に養子として入り、商売のために度々宇喜多直家の元を訪れていて、宇喜多直家に才能を見出されて武士となり、家臣として仕えた。
羽柴秀吉が三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされ秀吉と出会い、この時、秀吉からその才知を気に入られ秀吉臣下となっています。
≪本日の問題≫
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『キリスト教以外の信仰は異端邪宗』
宗麟の軍勢は3万5千3百(大友記)、おまけに大砲まで持っている。
この前々年の夏、ポルトガル船が持って来たのです。
宗麟はこれに「国崩し」(現在は靖国神社に保管)と名づけて秘蔵していたが、それを2門持ってきたのです。
これに比べては、当時の島津氏はいくらか昔より勢いはよくなっているが、たいしたことはないと宗麟は思っ
たのでしょう。
“ひと当てあてれば、それでケシ飛ぶのじゃ。後から呼ぶのも面倒。連れて行こう。途中の慰めにもなる”
くらいの気持ちだったのでしょう。

出陣は丹生島城(臼杵城)ではなく、府内からであった。
大友家代々の尊崇の厚かった柞原八幡宮という神社があったが、城門を出てはるかに神社が見えると、
「矢一筋奉れ!」
と叫んで、足軽2、3百人をもって、弓鉄砲を揃えて射掛けたという。
宗麟はキリスト教に帰依して1ヵ月ほど経った頃ですから、キリスト教以外の信仰は異端邪宗と信じ切って
いたのです。
また、日向への行軍の途中、神社や寺に火をかけて焼き払い、道の悪いところでは仏像や神体を敷き踏ん
で通行したという。
これは日本側の記録だけでなく、ローマ教会側の記録にも明記しているという。
異教征伐の美事として書いているのです。

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正解:商人
小西行長は、堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男で、岡山の商人の家に養子として入り、商売のために度々宇喜多直家の元を訪れていて、宇喜多直家に才能を見出されて武士となり、家臣として仕えた。
羽柴秀吉が三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされ秀吉と出会い、この時、秀吉からその才知を気に入られ秀吉臣下となっています。
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