立花一族 その29 「立花宗茂、再び柳川の領主に」

『立花宗茂、再び柳川の領主に』

千代が腹赤村で死んだという知らせが来たのは、その冬であった。

10月17日に死んだという。享年35歳

宗茂はどんな気持ちであったのでしょう。

立花宗茂       千代
ta.立花宗茂 ta.千代

翌、1603年冬、宗茂は江戸に出て、高田の宝祥寺を居住にした。

間もなく将軍秀忠に知られて召出されるが、その動機が面白い。

江戸に出て来ても貧しいことに変わりはない。

家臣らが乞食したり、人夫働きしたりして養っていた。

ある日、十時摂津が尺八を吹いて町を歩いていると、当時、江戸に多かったあばれ者ども3人が。摂津に

喧嘩を吹っかけた。

摂津は主人の境遇を思い、迷惑をかけることを恐れもしたし、或いは幕府がわざとやらせているのかも知

れないと思い、逃げたが、追いかけて斬りつけた。

尺八であしらっていたが、あしらいきれず相手の刀を奪って、忽ち3人を斬って捨てた。

町奉行に知られ、老中土井大炊に知られ、将軍秀忠に知られたというのです。

翌年、正月3日、宗茂は江戸城に召し出され、封5千石・相伴衆にとり立てられた。

翌々年のまた正月3には、奥州棚倉1万石。

柳川城
ya.柳川城絵図

14年後の1620年8月、立花家に代わって柳川の領主となっていた田中氏が、跡継ぎがなく断家したの

で、11月26日11万石余をあてがわれて柳川の領主に返り咲いた。

1600年冬、32歳でここを去ってから20年目であった。

宗茂は1642年11月25日、江戸で没している。享年74。


長い間、立花一族にお付き合い戴き、ありがとうございました。

今年春の城廻りは、畿内を廻ってみたいと思っています。

pig 20120314 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 槍の又左衞門
         前田利家は三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの槍を持ち歩き、初陣以降、緒戦で
         槍先による功を挙げた武辺者であったため、槍の又左衞門の異名で称えられたそうです。

≪本日の問題≫


<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
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立花一族 その28 「立花宗茂は、いつまでも殿様」

『宗茂は、いつまでも殿様』

1602年の春、宗茂は肥後を去って京に出た。

自分派と千代派に分かれている家来どもの空気が鬱陶しかったのと、世がどう変わりつつあるかを見極

めかったのでしょう。

由布雪下、十時摂津など19人が従った。

一の家老の小野和泉以下が、千代守護のため肥後に留まった。加藤清正は和泉に4千石、以下の者も

それぞれに給与額を決めて召抱えたという。

前田利家(1537-1599年)
ma.前田利家 001

宗茂は京都では禅寺に止宿します。その間のこととして色々なエピソードが伝わります。


<その1>

宗茂は肥後を出るとき、清正からかなりの餞別を貰ったであろうが、なにせ大人数です。やがて底をつい

たので、家来らは宗茂には知らせず、乞食したり、人夫働きしたりして生活費を稼いだ。十時摂津は尺八

が旨かったので虚無僧になって稼いだが、これが一番収入があったという。


<その2>

普通の飯に炊くほどの米がなかったので、雑炊にして宗茂に供すると、宗茂は膳の上をながめ、不機嫌に

言った。

「いらざることをいたす。飯のままに出せばいいのに、汁かけ飯などにして出す。汁をかけたけたるが欲し

くば、おれが自分でかけるわ」

こうなっても、なお失せない大名気質の大様さで何も知らないのです。家来らは覚えず胸がせまり、涙をこ

ぼしたという。


<その3>

柳川に伝承される話だそうです。

家臣らが残飯を干飯にしようと、広げて外に干したまま外出し、宗茂だけが残っていた。

にわか雨が降ってきた。家臣らは出先で

「殿様が気がつかれて、あの干飯を取入れて下さるじゃろうか」

とう話がで

「もし、左様な些事に気がつかれるようでは、殿様の運命も開けようがない。どうかお気がつかれぬよう

に」

と語り合って帰ってみると、宗茂はのんびりと書見しており、干飯はビショビショに雨にたたかれていたの

で、人々は殿様のご運命未だ尽きずと、涙を流して喜んだという。


<その4>

加賀の前田利家の使者が来て、10万石で召抱えたいと言ったところ、宗茂は返事せず、独り言のように

「憎いやつめが、腰抜けのぶんざいして、色々のことを申す」

と言ったので、家臣どもは座をとりつくろいようがなく困ったという。


長くお付き合い戴きました「立花一族」も、明日が最終回になります。

いつも遊びに来て戴き、ありがとうございました。

sa-ko 20130313 001 sakura 20130313 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 長烏帽子兜
         清正は長身でしたが、長大な烏帽子形の変わり兜(長烏帽子兜)を被ることでさらに
         背が高く見えたという。(一説には、小背のため目立つよう長い兜を使ったともいわ
         れます)
         浮世絵の武者絵では、この兜と蛇の目紋は清正を表すシンボルになっています。

≪本日の問題≫


                                   <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>

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立花一族 その27 「立花宗茂と千代の深刻な不和」

『宗茂と千代の深刻な不和』

肥後では宗茂は玉名郡高瀬に居住し、千代は同郡腹赤村に居住した。

こうなっても同居しない。不和は深刻なものだったのです。

立花家の家来どもは、おおかたが柳川で帰農したり、他に仕官を求めて去ったりしたが、なお宗茂夫婦を

慕って肥後に来た者が百数十人いた。これは二派に分かれて、宗茂と千代に仕えた。

清正は、この者たちの分として1万石をあてがったといいます。

立花千代
ta.千代002

徳川家は島津討伐を計画し、如水と清正に九州大名を部署させたので、清正は宗茂に功を立てさせて元

の身分に返してやろうと思い、先鋒たらんことを勧めたが、宗茂は

「それは出来ぬことでござる。この期になって、わが身いとしさに、親しき友、味方を誓った者を討つことは、

心に恥じるところでござる」

と断った。

また、清正は自らの所領のうち玉名一郡を与えようと言った。

清正は宗茂を自分の家来にしたかったのです。宗茂には分かっている。

「公儀から賜るなら格別。貴殿より賜るのでありますなら、一郡はおろか、肥後一国を賜わりましょうとも、

お受けは出来ませぬな。ま、ご芳志だけをお受けしておきましょう」

と断ったという。

pig 20120312 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 尾張国
         加藤清正は、1562年6月24日、刀鍛冶の加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の
         名古屋市中村区)に生まれています。
         父が清正の幼いときに死去したため、母が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるい
         は遠縁の親戚)であったことから、1573年近江国長浜城主となったばかりの秀吉に小姓と
         して仕え、生涯忠義を尽くしています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>

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立花一族 その26 「加藤清正、立花宗茂を説得」

『加藤清正、立花宗茂を説得』

間もなく、鍋島勢が押し寄せて来た。

鍋島家は西軍に味方して伊勢方面に出動して、東軍方の諸城を攻めたりしていたが、関が原の敗報を聞

いて狼狽し、黒田長政と井伊直政を頼んで、降伏を申し入れたのです。

家康は

「罪は許すが、償いを見せよ。そなたの隣国・立花を討って差し出せ」

と言った。

早速に馳せ帰り、柳川目ざして進んできた。

続いて、黒田如水・加藤清正も向かいつつあるという知らせが入った。

宗茂はそれらの諸軍の来路に兵を分遣しておいて、八ノ院で鍋島勢を邀撃し、12段に構えた敵を9段目ま

で撃破したが、兵力が続かず退却した。

鍋島勢も追撃には出ず、八ノ院に止まった。

この時、千代は宮永館で、紫縅(むらさきおどし)の鎧を着けて、侍女2百余人を武装させて固めたところ、

譜代の家臣らが宗茂の許しを乞わず馳せ参じて、なかなかの勢となったという。

千代の男勝りの剛気もですが、譜代の臣らの家つき姫君に対する気持ちがどんなものであったか、主君

夫妻の不和に対して、どう思っていたか推察ができます。

熊本城の清正公像
ku.熊本城 20110204 001

しかし、加藤清正や黒田如水との戦は起こらなかった。

宗茂の武勇と人物を惜しんだ清正が降伏を勧め、宗茂主従の身柄の安全を、身を代えても保証するといっ

たので、その勧めに従ったのです。

降伏の条件として、宗茂夫婦の家臣らは、徳川家の沙汰があるまで清正が預かることになったので、宗茂

は家臣らに城中に貯蔵の金殻を分け与え、身のふり方はそれぞれの意思に任せると申し渡し、11月3日に

城をでた。

清正は瀬高と柳川の中ほどの三橋村まで宗茂を出迎え、歓談しながら瀬高の本城に帰り、丁重に饗応し

て深夜まで酒を酌み交わしたという。

その時の宗茂の態度が悠々としていたので、清正の家臣らは

「さすがは明・高麗の人々にまで恐れられた立花殿である。いかなる豪気な大将でも、かような時には少し

は悪びれるものであるが、誠に見事である」

と感嘆したという。

sa-ko 20120311 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 備中高松城の戦い
         毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)最中に本能寺の
         変が起き、織田信長が横死します。
         このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中国・備後国・美作国
         ・伯耆国・出雲国を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案
         を提示し、外交僧である安国寺恵瓊はその和睦を取りまとめています。

≪本日の問題≫


                                   <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>

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立花一族 その25 「敗戦者同士の引き上げ」

『敗戦者同士の引き上げ』

帰国の海上で、どこの港であったか宗茂の船団は、やはり関が原の役に西軍に味方して帰国する島津義弘

の船団と一緒になった。

宗茂が前期朝鮮役における第一の殊勲者なら、義久は後期朝鮮役における第一の殊勲者です。

義弘は四川において、明軍20万をわずか5千の兵で痛破しているのです。

当時、日本軍は秀吉末期の遺言で引き上げにかかっていたが、これを知った敵が無闇に攻撃に出て、困窮

しきっていたが、この義弘の快勝があったため、攻撃がゆるみスムーズな引き上げが可能になったというの

です。

こんなことで、両者は互いに尊敬しあっているうえに、今や同じく敗戦引き上げの身の上です。

宗茂が義弘の船を訪問すると、義弘は喜び迎えて歓談した。

島津義弘(1535-1619年)
sh.島津義弘

以後、両家の船団はならんで航海したが、ある日、宗茂の家臣らが宗茂の前に出て

「島津の兵ことのほかに手薄であります。ご実父紹運様のご無念を晴らし給うよき機会と存じます」

と言った。宗茂はかっと怒り

「アホなことを申すな!」

と怒鳴りつけ、やがて順々と

「いかにも島津は紹運さまの仇だ。しかしながらあのことは故・太閤秀吉殿下のおとりなしで、既に水に流

して久しく、その後は親しい友垣として付き合って来ている。そのうえ、考えてもみよ。今度は同じく秀頼様

にお味方して。不幸戦いに敗れて帰国する途中だ。相手の備えの少ないにつけこんでこれを討ち取るなど、

おれには薄汚いことの第一に思われる。おれはいやじゃ。そのほうもつまらんことを考えるでない。男のふる

まいは、どこまでいさぎよくなければならん」

と、説き聞かせたという。

最も男性的なる道義感情です。最も強く男の感情を誘うものがあります。

いよいよ豊後沖に達して別れる時、義弘は

「豊後・豊前の地は黒田如水の兵が固めていると受け賜る。その中を押し切ってのご通行はご難儀のこと

と存ずる。一緒に薩摩に参られぬか。貴殿と拙者が合体して戦うなら、後の世の語り草になる戦いも出来

ようと存ずる」

と誘ったが、宗茂は

「いやいや、柳川へ戻りましょう。如水老もさすが古兵ではござるが、死を決したる拙者がおし通るものを、

よもさえぎり止めることは出来られますまい」

と答えて別れて、豊後府内に上陸して柳川に向かった。

ume 20120308 001

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『戦国クイズ』


≪昨日の解答≫
昨日の正解: 大減封
         徳川家康は戦後、大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収したことから、輝元は
         隠居、秀就への周防・長門2ヶ国の安堵となったが、毛利本家の改易は避けられています。
         ただし、所領は120万石の太守から、周防・長門2ヶ国の37万石に大減封されています。

≪本日の問題≫


                                   <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>

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Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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