「兵法者」 その11
『大インチキの軍学』
野心ある若者は、儒学以外の出世の途を探し始めた。
そこに現れたのが軍学です。
江戸時代における諸大名の家は、万事が軍隊組織になっていて、いつ戦争が始まっても即応出来る体制で
いなければならなかった。
荻生 徂徠(儒学者)(1666-1728年)

平時には必要もない武士を多数召抱えていなければならなかったが、太平の時代になると実戦の経験ある
者は次第に死に絶え、戦争のやり方がわからなくなったのです。
これでは、万一の場合に不覚を取るかも知れないと皆、不安になっていた。
この要求に応じて出てきたのが「軍学」です。
兵器の使い方、軍隊の編成法、陣のとり方、駆け引き、築城法、陣地の構築法などであった。
諸大名は競って飛びつき、若者も競って学んだ。確かに出世には有利な階段だったのです。
実はこの時代の軍学は、大インチキであったというのです。
これらの軍学者どもは、甲陽軍艦とか、甲越軍記であるとか、太平記であるとか、いわば小説にすぎない
軍記類を材料にして戦術を構成していたというのです。
実際に戦争のある時代であれば、実際に使ってみれば役に立つ方法であるか判るのであるが、実験する
機会もないのだから、どんなウソを言っても小才がきいて、弁舌がさわやかで、風采がよければ、大軍学者
として通用したのだという。
由井正雪などは、その好適例であったという。
従って、心ある人はまるで買わない。
荻生徂徠は、今の世の兵学は全部インチキだ。「孫子」一部で十分だと、言ったという。
薩摩の島津家久も、
「おれの家にはおれの家の陣法がある。甲州流じゃの、越後流じゃの、やくたいもない」
と、言ったという。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:上総大多喜城
本多忠勝は、1590年、家康が関東に移封されると上総大多喜(千葉県大多喜町)に、家臣団中第2位の10万石を与えられています。(大多喜藩主)
江戸から遠くなっているのは、忠勝は安房国の里見氏に対する備えであったそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
野心ある若者は、儒学以外の出世の途を探し始めた。
そこに現れたのが軍学です。
江戸時代における諸大名の家は、万事が軍隊組織になっていて、いつ戦争が始まっても即応出来る体制で
いなければならなかった。
荻生 徂徠(儒学者)(1666-1728年)

平時には必要もない武士を多数召抱えていなければならなかったが、太平の時代になると実戦の経験ある
者は次第に死に絶え、戦争のやり方がわからなくなったのです。
これでは、万一の場合に不覚を取るかも知れないと皆、不安になっていた。
この要求に応じて出てきたのが「軍学」です。
兵器の使い方、軍隊の編成法、陣のとり方、駆け引き、築城法、陣地の構築法などであった。
諸大名は競って飛びつき、若者も競って学んだ。確かに出世には有利な階段だったのです。
実はこの時代の軍学は、大インチキであったというのです。
これらの軍学者どもは、甲陽軍艦とか、甲越軍記であるとか、太平記であるとか、いわば小説にすぎない
軍記類を材料にして戦術を構成していたというのです。
実際に戦争のある時代であれば、実際に使ってみれば役に立つ方法であるか判るのであるが、実験する
機会もないのだから、どんなウソを言っても小才がきいて、弁舌がさわやかで、風采がよければ、大軍学者
として通用したのだという。
由井正雪などは、その好適例であったという。
従って、心ある人はまるで買わない。
荻生徂徠は、今の世の兵学は全部インチキだ。「孫子」一部で十分だと、言ったという。
薩摩の島津家久も、
「おれの家にはおれの家の陣法がある。甲州流じゃの、越後流じゃの、やくたいもない」
と、言ったという。

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≪前回の解答≫
正解:上総大多喜城
本多忠勝は、1590年、家康が関東に移封されると上総大多喜(千葉県大多喜町)に、家臣団中第2位の10万石を与えられています。(大多喜藩主)
江戸から遠くなっているのは、忠勝は安房国の里見氏に対する備えであったそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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「兵法者」 その10
『出来星大名』
野心ある有為な若者の目は儒学に向かいます。
儒学は家康が、生来の哲学と性質と太平の気風を馴致したいとの政治上の目的とによって、大いに奨励した
学問です。
当時の大名の多くは“出来星大名”で、無学文盲に近かったのです。
彼らの政治は、主人であった人のやり方や、先輩のやり方の見様見真似ですから、自己の勘でやっているに
過ぎなかったのです。
本多忠勝(1548-1610年)

いかに彼らが無学であったか、本多忠勝の話があります。
林羅山が家康に召抱えられた時、忠勝は羅山に問います。
「そなたは学者ということじゃが、天神様と比べればどうじゃ」
羅山は笑って答えない。
そこで忠勝は、家康の前に出て聞いた。
「かように羅山に聞きましたが、羅山は笑ってばかりで答えてくれません。一体、どちらの方が学者でありまし
ょうか」
家康もまた笑って、答えなかったというのです。
忠勝ほどの名将でも、学者といえば天神様だけしか思いつかなかったのです。
微笑ましいくらいの無学ぶりです。
こんな調子だから、政治を掌っていても不安でならない。なにかに寄るべき権威ある法則が欲しいと考えた
ことは無理のないことです。
実際に儒学を政治上に活用したのは、尾張の義直、水戸の光圀、備前の池田光政、土佐の山内忠義など
です。
ところが、儒学は原則を示すものであり、儒学は現実の政治に適用するとなると、普通の儒者ではだめで、
経世家的手腕をもった儒者でなければならないことが判ってきます。
そこで諸大名も、儒者であるからといって、最初から高禄で召抱えてくれなくなった。
学問と政治的手腕とを兼ね備えている人物は多くはいないのです。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:謹んで肥後54万石を拝領仕ります
1632年、加藤家に代わって肥後に入国した細川忠利は、西大手門の前で衣冠束帯のまま駕籠を降り、「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と深々と頭をたれたと伝わります。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
野心ある有為な若者の目は儒学に向かいます。
儒学は家康が、生来の哲学と性質と太平の気風を馴致したいとの政治上の目的とによって、大いに奨励した
学問です。
当時の大名の多くは“出来星大名”で、無学文盲に近かったのです。
彼らの政治は、主人であった人のやり方や、先輩のやり方の見様見真似ですから、自己の勘でやっているに
過ぎなかったのです。
本多忠勝(1548-1610年)

いかに彼らが無学であったか、本多忠勝の話があります。
林羅山が家康に召抱えられた時、忠勝は羅山に問います。
「そなたは学者ということじゃが、天神様と比べればどうじゃ」
羅山は笑って答えない。
そこで忠勝は、家康の前に出て聞いた。
「かように羅山に聞きましたが、羅山は笑ってばかりで答えてくれません。一体、どちらの方が学者でありまし
ょうか」
家康もまた笑って、答えなかったというのです。
忠勝ほどの名将でも、学者といえば天神様だけしか思いつかなかったのです。
微笑ましいくらいの無学ぶりです。
こんな調子だから、政治を掌っていても不安でならない。なにかに寄るべき権威ある法則が欲しいと考えた
ことは無理のないことです。
実際に儒学を政治上に活用したのは、尾張の義直、水戸の光圀、備前の池田光政、土佐の山内忠義など
です。
ところが、儒学は原則を示すものであり、儒学は現実の政治に適用するとなると、普通の儒者ではだめで、
経世家的手腕をもった儒者でなければならないことが判ってきます。
そこで諸大名も、儒者であるからといって、最初から高禄で召抱えてくれなくなった。
学問と政治的手腕とを兼ね備えている人物は多くはいないのです。

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正解:謹んで肥後54万石を拝領仕ります
1632年、加藤家に代わって肥後に入国した細川忠利は、西大手門の前で衣冠束帯のまま駕籠を降り、「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と深々と頭をたれたと伝わります。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
「兵法者」 その9
『兵法だけだは、高禄は得られなかった』
兵法者が刻苦勉励して兵法を習練したのは、兵法が好きであったことは勿論ですが、それによって禄位を
求めるためであったのです。
しかし、兵法者が兵法によって高禄を得たという例はないようです。
柳生家は1万2千石余りの大名ですが、これは兵法から得たのではありません。
関ヶ原合戦の三成本陣(CG画像)

最初は、豊臣家によって没収された本領を、働き次第によっては返してやると徳川家に言われて、徳川家
のために豊臣家や石田三成に対する隠密を勤め、関ヶ原の戦いにも従事して武功を立て、1万2千石余り
の大名になっており、兵法の技術を買われてことではないのです。
宮本武蔵も仕官をあせって、幕府に仕えようと運動したり、尾張家に仕えようと運動したりしたが、いずれも
不調で、老齢になってから細川家に客分として仕え、格式は大番頭格であったという。
兵法修行は盛んではあったが、太平になってしまうと、最初ありついた時の禄からは上がれない。出世の
糸口としては、兵法は役に立たなくなってしまったのです。

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正解:口に拳を咥えこむ
近藤勇は、尊敬していた戦国武将・加藤清正が特技としていた、口に拳骨を丸ごと咥えこむという珍妙な特技をあやかり真似をしていたという。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
兵法者が刻苦勉励して兵法を習練したのは、兵法が好きであったことは勿論ですが、それによって禄位を
求めるためであったのです。
しかし、兵法者が兵法によって高禄を得たという例はないようです。
柳生家は1万2千石余りの大名ですが、これは兵法から得たのではありません。
関ヶ原合戦の三成本陣(CG画像)

最初は、豊臣家によって没収された本領を、働き次第によっては返してやると徳川家に言われて、徳川家
のために豊臣家や石田三成に対する隠密を勤め、関ヶ原の戦いにも従事して武功を立て、1万2千石余り
の大名になっており、兵法の技術を買われてことではないのです。
宮本武蔵も仕官をあせって、幕府に仕えようと運動したり、尾張家に仕えようと運動したりしたが、いずれも
不調で、老齢になってから細川家に客分として仕え、格式は大番頭格であったという。
兵法修行は盛んではあったが、太平になってしまうと、最初ありついた時の禄からは上がれない。出世の
糸口としては、兵法は役に立たなくなってしまったのです。

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正解:口に拳を咥えこむ
近藤勇は、尊敬していた戦国武将・加藤清正が特技としていた、口に拳骨を丸ごと咥えこむという珍妙な特技をあやかり真似をしていたという。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
「兵法者」 その8
『剣術以外のコツ』
人を斬るのは、剣術以外の特別なコツがあるらしい。
近藤勇は、道場剣術はヘタだったという。
近藤勇(1834-1868年)

江戸で道場を開いている頃には、他流仕合の者が来ると、練兵館に使いを走らせ、塾頭をしていた大村藩士
で、明治になってから子爵になった渡辺登に来てもらって撃退したという。
そのお礼が酒一升とか、鰻飯一人前とかに決まっていて、渡辺はそれを楽しみに呼ばれれば喜んで出かけ
てきたというのです。
佐久間像山を暗殺した肥後藩士・河上彦斎は人斬り彦斎と異名されたほどの人斬り名人であったが、そう
剣術が上手ではなかったそうです。
「踏み出した右の膝頭を屈し、左足を後ろに伸ばして斬れば斬り外すことはない」
と、言っていたそうですが、誰でもがやっても旨くいく訳ではない。
そこには説明し難いコツがあったに違いない。
やはり人斬りの異名を取った薩摩の田中新兵衛は、元来が船頭で、これも特に剣術が上手ではなかったと
いう。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:山内一豊
土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が統治していたが、長宗我部盛親は1600年の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となっています。
この合戦において徳川氏に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国9万8000石を与えられた。以降、明治に至るまで山内氏が治めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
人を斬るのは、剣術以外の特別なコツがあるらしい。
近藤勇は、道場剣術はヘタだったという。
近藤勇(1834-1868年)

江戸で道場を開いている頃には、他流仕合の者が来ると、練兵館に使いを走らせ、塾頭をしていた大村藩士
で、明治になってから子爵になった渡辺登に来てもらって撃退したという。
そのお礼が酒一升とか、鰻飯一人前とかに決まっていて、渡辺はそれを楽しみに呼ばれれば喜んで出かけ
てきたというのです。
佐久間像山を暗殺した肥後藩士・河上彦斎は人斬り彦斎と異名されたほどの人斬り名人であったが、そう
剣術が上手ではなかったそうです。
「踏み出した右の膝頭を屈し、左足を後ろに伸ばして斬れば斬り外すことはない」
と、言っていたそうですが、誰でもがやっても旨くいく訳ではない。
そこには説明し難いコツがあったに違いない。
やはり人斬りの異名を取った薩摩の田中新兵衛は、元来が船頭で、これも特に剣術が上手ではなかったと
いう。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:山内一豊
土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が統治していたが、長宗我部盛親は1600年の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となっています。
この合戦において徳川氏に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国9万8000石を与えられた。以降、明治に至るまで山内氏が治めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
「兵法者」 その7
『一流の剣客は人を斬っていない』
一流の剣客は人を斬ったことのない人が多い。
戦国から江戸の初期にかけては、合戦に駆り出されたり、また、仕合が果し合いだから、人を斬っている人も
多いが、それ以降は殆どなかった。
坂本龍馬(1836-1867年)

太平の時代には、人を斬る場面は4つしかない。
1.上意討ちの場合
2.かたき討ちの場合
3.喧嘩の場合
4.賊に会った場合
喧嘩は問題にならない。
一流の剣客はこちらから喧嘩などしない。吹っかけられたら体よく逃げるでしょう。
賊に会う場合も考えられない。会っても、賊などを働くやつはたいした腕はないに決まっているから、斬らない
でやっつけたでしょう。
かたち討ちの場合は、一流の剣客がそれをしたという例は聞かない。
残るのは上意討ちですが、これは江戸時代初期にはあったが、それ以降はありません。
元禄時代日本一の剣客といわれた、堀部安兵衛の師であった堀内源太左衛門正春も斬ったという話はない。
幕末維新の騒がしい時代となっても、斎藤弥九郎や千葉周作も人を斬っていない。
また、維新志士も一流の人たちは斬っていない。
西郷、大久保、木戸、高杉、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎などは人を斬っていないのです。
人を斬っているのは、二流の少しと、三流以下の連中だったのです。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:徳川家光
柳生十兵衛は、13歳の頃より徳川家光の小姓として仕え、十兵衛の父・宗矩が家光に剣術を教える時は稽古に相伴などしていたが、1626年、20歳の時に家光の勘気を被り小田原の阿部正次に一時お預けの身となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
一流の剣客は人を斬ったことのない人が多い。
戦国から江戸の初期にかけては、合戦に駆り出されたり、また、仕合が果し合いだから、人を斬っている人も
多いが、それ以降は殆どなかった。
坂本龍馬(1836-1867年)

太平の時代には、人を斬る場面は4つしかない。
1.上意討ちの場合
2.かたき討ちの場合
3.喧嘩の場合
4.賊に会った場合
喧嘩は問題にならない。
一流の剣客はこちらから喧嘩などしない。吹っかけられたら体よく逃げるでしょう。
賊に会う場合も考えられない。会っても、賊などを働くやつはたいした腕はないに決まっているから、斬らない
でやっつけたでしょう。
かたち討ちの場合は、一流の剣客がそれをしたという例は聞かない。
残るのは上意討ちですが、これは江戸時代初期にはあったが、それ以降はありません。
元禄時代日本一の剣客といわれた、堀部安兵衛の師であった堀内源太左衛門正春も斬ったという話はない。
幕末維新の騒がしい時代となっても、斎藤弥九郎や千葉周作も人を斬っていない。
また、維新志士も一流の人たちは斬っていない。
西郷、大久保、木戸、高杉、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎などは人を斬っていないのです。
人を斬っているのは、二流の少しと、三流以下の連中だったのです。

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正解:徳川家光
柳生十兵衛は、13歳の頃より徳川家光の小姓として仕え、十兵衛の父・宗矩が家光に剣術を教える時は稽古に相伴などしていたが、1626年、20歳の時に家光の勘気を被り小田原の阿部正次に一時お預けの身となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>