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『天才軍師・竹中半兵衛』 その24

『武の心掛けは、作法より大事』

その2

半兵衛は平生座っている時、たえず足の指を動かしていたという。

また、寒中にもふところ手をせず、よほど寒い時には擦って暖めていた。瞬時の変に応じることが出来る

ためです。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

秀吉の前に待座している時も、足を動かし、左右かわるがわる休めていた。

ある人が、怪しんで問うたところ、

「目上の人の前で、自分の逸楽のために手足をしびれないようにとの心掛けでするのは忠である。武士た

る者が不意のことが起こった際、不覚をとった後で、やれ足がしびれていたとか、手が凍えていたとか言

っても、言い訳になることではない。武士はいかなる時にも武の心がけを忘れてはならない。これさえしっ

かりしているなら、その他の事は少々作法に違っていても構わないものだ」

と答えたという。

(名将言語禄)


sakura 20130918 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:書状を破り捨てた
秀吉が半兵衛の功績に報いるため、加増を約束した書状を渡そうとしたが、「このような物は不用です。もし私の子が自身の不覚悟を忘れ、父にはここまで殿は懇意にされていたのに、なぜ私にはと恨みに思うようなことがあっては災いとなります」と述べて破り捨てたという。

≪本日の問題≫


                                  <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

『天才軍師・竹中半兵衛』 その23

『静かなる勇気の人・半兵衛』


半兵衛の生涯の細かなことはよくわかりません。

彼が優れた知謀の人であったことは、彼の子供である重門が「豊鑑」で、半兵衛が死んだ時に、秀吉が落胆

悲哀したことを書いています。

竹中半兵衛(1544-1579年)
ta.竹中半兵衛 001

また、新井白石も

「初め豊臣太閤多くの武功を顕(あら)はし、織田殿の御感にあづかり給ひしこと、ひとへに重治が助けまゐら

せしに依りてなり」

と書いており、当時およびその後の人が言っているので、信憑性は高いと思われます。

半兵衛が武士としても心掛けを語るような話が、名将言語禄(江戸末期)などにありますので、これを少し

記事にしてみたいと思います。


その1

半兵衛は顔立ちが優しいこと婦人のようで、戦場においても猛々しげな様子はなかった。

具足は馬の革の裏を表に出して、つぶ漆で塗ったのを浅葱の木綿糸で縫ったのを着、甲冑は一ノ谷の立物

を折ったもの、緑の木綿の道服に餅の紋を陣羽織として長々と着、虎御前と名づける太刀を平凡に差し、誠

におとなしい馬に乗って、目立たず、また落ち着きはらって見えた。(甫庵太閤記)

武士という武士が、出きるだけ人目に立つようにと、異装を好んだ時代だけに、半兵衛のこの最も質実な武

装は珍重すべきものがあります。

静かなる勇気の人であったことが偲ばれます。


sa-ko 20130917 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:肺の病気
半兵衛は自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して播磨三木の平井山秀吉本陣に戻り、陣中にて6月13日に死去したという。
享年36。死因は肺の病気(肺炎か肺結核)とされます。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>


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『天才軍師・竹中半兵衛』 その22

『半兵衛の死没』


半兵衛はこの年の春頃から、病気に陥っていた。

陣中ではあるが、然るべき医者を求めて治療したが、なかなか良くならない。

秀吉の勧めでしょう

「京には名医もいる。上って治療するがよい」

と言うので、京に上った。

竹中半兵衛(1544-1579年)
ta.竹中半兵衛 004

少しはよくなったようだが、気分がいっこうに爽やかにならない。

半兵衛は慨然として

「いずれ死ぬべきものなら、戦場でこそ死にたい。三木へ参ろう」

と言って、三木に帰ったが、間もなく再病し6月某日に陣中で没した。

享年36歳であった。

「秀吉は限りなくかなしび、劉禅、孔明を失ひしにことならず」

と豊鑑(竹中半兵衛の子・重門著)に書いている。

半兵衛は三木の陣中にいた時、坊さんの道具を買い求めて高野山に送り届けたという。

三木城が落ちたら、高野に上がって出家するつもりであったのでしょう。

その要因として、半兵衛の奇才に対して秀吉の妬み心があったというのですが、確証となるものは伝わって

いません。

半兵衛がその志を遂げずに早く死んだのは、惜しむべきでしょうが、かえって幸いであったのかもしれません。


pig 20130916 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫(9月14日)
正解:三木城
羽柴秀吉が行った播州征伐で、別所氏は播磨三木城に篭城した。
この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、1年10ヵ月にも及び「三木の干殺し」と呼ばれます。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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『天才軍師・竹中半兵衛』 その21

『官兵衛の子・松寿丸を助ける』

官兵衛は有岡に向かったが、この間に、官兵衛の主人・小寺政職は荒木の元に密使を走らせ

「しかじかのことで、官兵衛がご辺のところに参る。やつは骨髄から織田方であるから、うるさくてかなわぬ。

参ったら殺して貰いたい」

と申し送っていた。

有岡城(伊丹城)
ar.有岡城 001

だから、官兵衛は到着すると直ぐ捕らえられて、城内の牢に入れられてしまった。

官兵衛一生の大厄難です。

彼は、この牢屋内で以前からかかっていた梅毒が全身に吹き出ものとなって出、足は不自由となり、頭は

ジャリハゲになってしまったというのです。

信長は官兵衛が有岡城に入ったきり出て来ないので、必定、荒木に一味したのだと激怒した。

信長は官兵衛から人質として秀吉が預かっている官兵衛の一子・松寿丸(後の長政)を殺せと秀吉に厳命

した。

この時、秀吉の代わりに安土城に出頭したのは半兵衛であった。

半兵衛は信長を諌めたが、信長はきかなかった。

「斬れ」

と言い張る。

「さらばいたし方ござらぬ。ふびんながら殺しましょう」

と答えて、長浜城に行き、松寿丸を連れ出すと、菩提山城に連れて行って隠してしまった。

もちろん、信長には斬ったと報告したのです。

この翌年、有岡城は滝川一益に攻め落とされ、官兵衛は助け出された。

信長は官兵衛を京都に呼び会ったが、散々たる姿になりながらも節を守り通した官兵衛を見て、涙を流し

たという。

そして、半兵衛が松寿丸を殺さずに菩提山城に匿っていると聞いて、大いに喜んだという。(黒田家譜、

古郷物語等)

半兵衛と官兵衛と仲が良かった証拠でしょう。

しかし、半兵衛はもうこの時は、生きていなかったのです。この年の6月に三木の陣中で病死していたの

です。

sakura 20130913 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:鳥取城
米を買い占めた上で完全に包囲して補給路を絶ち、兵糧攻めを行ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況で、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れたという。
この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われています。

≪本日の問題≫


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『天才軍師・竹中半兵衛』 その20

『半兵衛と官兵衛』

姫路城主・小寺官兵衛(後の黒田孝高、如水)は、秀吉の中国経営が始まる前々年、主家の方針を信長に

帰属することを取りまとめて、わざわざ岐阜を居城としていた信長の下に行き、服従を誓い、秀吉とも会って

います。

黒田孝高(官兵衛)(1546-1604年)
ku.黒田官兵衛


官兵衛は秀吉が来るのを途中まで出迎え、自分の居城・姫路城を提供し、経略基地とさせています。

官兵衛はなかなかの智恵者で、大いに秀吉のために働いた。

当時の人々は、秀吉が半兵衛と官兵衛とを与力衆として持っていることを、漢の高祖が張良・陳平の2謀

臣を持っていたことに例えたという。

両雄は並び立たないものというが、この2人は随分と仲が良かったようで、籠を争ったり、勢力を争ったり

するような料簡の狭い人間ではなかったようです。

2人の仲が良かった証明になるような話があります。

この翌年の9月のことです。

摂津有岡の城主・荒木村重が、突然に信長に叛旗して居城に立て籠もった。

官兵衛の主人・小寺政職もこれに従った。もちろん裏には毛利氏の手が動いていたのです。

官兵衛は驚いて、主人を諌めた。

「わしは荒木への義理で仕方なく謀反に踏み切ったのである。もし荒木が翻意するなら、わしもまた織田

家に従おう。そなた、荒木のところに行って説得してくれい」

と言った。

官兵衛は承知して、その頃、三木城の別所長治を攻囲中であった秀吉のところに行って、その話をした。

秀吉もまた信長の命を受けて、有岡城に行き、荒木に忠告をしたことがあったが、荒木は聞かなかったと

いう。

秀吉は官兵衛の話を聞き

「わしの言うこと聞き入れなんだが、そなたの弁舌なら聞くかも知れん。しっかり頼む」

と言った。

長くなりますので、この続きは次回にします。


ume 20130912 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:小寺孝高
秀吉は播磨進攻で、小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点としています。

≪本日の問題≫


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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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