百名城20 佐倉城
鹿島台地の要害に 土造で築かれた徳川譜代の城
『巨大な角馬出と空堀が 要衝の城の威容を伝える』
鹿島台地西端の川や急崖に囲まれた要害の地に、地元豪族の千葉氏が中世の城郭を築いたのが
始まりとされます。
1610年に土井利勝が入封して大改修し、石垣を用いず全て土塁で曲輪・堀割などを築造しています。
以後、江戸の背後を固める城として代々譜代大名の居城になっています。
現在、城郭跡の主要部は佐倉城跡公園として整備され、壮大な角馬出の空堀や土塁などが良く残り
旧状を偲ぶことができます。
【主な遺構と見どころ】
◇ 天守台跡、堀、土塁、角馬出、出丸跡
◇ 椎木門跡の前面に角馬出が、コの字形に残っています。また、本丸跡の北側と南側には残存状態
の良い出丸も残っています。
広大な公園になっています。歴史民族博物館駐車場からスタンプが設置してある公園管理センターまで
は結構歩きますので、お急ぎの場合は 「自由広場」まで直接に車で行かれた方が良いと思います
石が無い土地とのことで石垣がまったく無く 深い空堀が配置されています


<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
登場日:平成21年5月31日


にほんブログ村
『巨大な角馬出と空堀が 要衝の城の威容を伝える』
鹿島台地西端の川や急崖に囲まれた要害の地に、地元豪族の千葉氏が中世の城郭を築いたのが
始まりとされます。
1610年に土井利勝が入封して大改修し、石垣を用いず全て土塁で曲輪・堀割などを築造しています。
以後、江戸の背後を固める城として代々譜代大名の居城になっています。
現在、城郭跡の主要部は佐倉城跡公園として整備され、壮大な角馬出の空堀や土塁などが良く残り
旧状を偲ぶことができます。
【主な遺構と見どころ】
◇ 天守台跡、堀、土塁、角馬出、出丸跡
◇ 椎木門跡の前面に角馬出が、コの字形に残っています。また、本丸跡の北側と南側には残存状態
の良い出丸も残っています。
広大な公園になっています。歴史民族博物館駐車場からスタンプが設置してある公園管理センターまで
は結構歩きますので、お急ぎの場合は 「自由広場」まで直接に車で行かれた方が良いと思います
石が無い土地とのことで石垣がまったく無く 深い空堀が配置されています


<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
登場日:平成21年5月31日


にほんブログ村
スポンサーサイト
百名城09 久保田城
伝統的な土塁技術で築かれた 佐竹氏の城
『千秋公園の坂道や櫓台には 土造りの面影が残る』
関ヶ原の戦い後、常陸国から出羽秋田に転封された佐竹義宣が、1604年に城を築き、久保田城と
命名した。
石垣が殆ど用いられていないのは、佐竹氏が石垣普請に精通せず、代わりに土塁普請をを得意と
していたことによります。
現在も各曲輪の周囲の土塁や櫓台の土塁がよく残っています。
清和源氏の流れをくむ由緒ある大名の城にしては、久保田城は質素な造りで、天守や三重の櫓が
ないのは、徳川家の反感を買わないように配慮したためという俗説があります。
佐竹氏は改易されることなく、幕末まで存続しています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 御物頭御番所、本丸、二の丸、土塁、石垣。
◇ 東日本の「土造の城」の姿を実地に見ることができます。
公園を清掃していたオジさんが、車のナンバーを見て「東京から来たのかい、随分、遠くから来た
な~」と、、
城内の新緑が気持ち良かったですが、スタンプ台紙を忘れたので駐車場まで引き返したので、新緑
を2倍楽しむことができました。(笑)
今回の100名城周りはこれで終わりです。600Kmの高速料金を1,700円で東京まで帰ります。
高速料金が安いうちに 時間を作ってたくさん登城しなくちゃ!!


<クリックで拡大します>
御物頭御番所
長坂門の警備を担当していた御物頭の詰所としての建物。
久保田城唯一の現存建物です。

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年5月9日


にほんブログ村
『千秋公園の坂道や櫓台には 土造りの面影が残る』
関ヶ原の戦い後、常陸国から出羽秋田に転封された佐竹義宣が、1604年に城を築き、久保田城と
命名した。
石垣が殆ど用いられていないのは、佐竹氏が石垣普請に精通せず、代わりに土塁普請をを得意と
していたことによります。
現在も各曲輪の周囲の土塁や櫓台の土塁がよく残っています。
清和源氏の流れをくむ由緒ある大名の城にしては、久保田城は質素な造りで、天守や三重の櫓が
ないのは、徳川家の反感を買わないように配慮したためという俗説があります。
佐竹氏は改易されることなく、幕末まで存続しています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 御物頭御番所、本丸、二の丸、土塁、石垣。
◇ 東日本の「土造の城」の姿を実地に見ることができます。
公園を清掃していたオジさんが、車のナンバーを見て「東京から来たのかい、随分、遠くから来た
な~」と、、
城内の新緑が気持ち良かったですが、スタンプ台紙を忘れたので駐車場まで引き返したので、新緑
を2倍楽しむことができました。(笑)
今回の100名城周りはこれで終わりです。600Kmの高速料金を1,700円で東京まで帰ります。
高速料金が安いうちに 時間を作ってたくさん登城しなくちゃ!!


<クリックで拡大します>
御物頭御番所
長坂門の警備を担当していた御物頭の詰所としての建物。
久保田城唯一の現存建物です。

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年5月9日


にほんブログ村
横手城
仙北三郡を領していた小野寺氏の居城「横手城」
関ヶ原の合戦後 徳川氏に石田方とみられ 1601年に所領没収
三河岡崎城を模して 昭和40年に建てられた 模擬天守閣

この角度からが良いですね

<クリックで拡大します>
横手に宿泊後 明日は 久保田城に向かいます

にほんブログ村
関ヶ原の合戦後 徳川氏に石田方とみられ 1601年に所領没収
三河岡崎城を模して 昭和40年に建てられた 模擬天守閣

この角度からが良いですね

<クリックで拡大します>
横手に宿泊後 明日は 久保田城に向かいます

にほんブログ村
鶴の湯温泉
百名城06 盛岡城
南部氏が二つの川の合流点に築き上げた堅城
『東北ではめずらしく 花崗岩の見事な高石垣がそびえ立つ』
盛岡城は、南部信直・利直父子が、北上川と中津川の合流地点の残丘上に築城しています。
完成するまで40年の歳月をかけ、以降明治維新まで南部氏の代々の居城として続く。
東北地方には珍しい総石垣造りの城で、盛岡産の大きな花崗岩が特徴です。その石垣の見事さにより
会津若松城と白河小峰城とともに東北の石垣造りの三大名城のひとつにあげられます。
本丸が狭かったため、表御殿は本丸ではなく二の丸に設けられていた。
城は江戸時代に何度か修築が行なわれたが、明治7年に破却されています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸、二の丸、三の丸、淡路丸、腰曲輪、石垣、堀など
◇ 花崗岩を用いて築き上げた南の腰曲輪の石垣や、西の二の丸の石垣の眺めは圧巻です。また、
野面積、討込接と様々な石垣を見ることができます。
盛岡城に到着したのは 9時前でしたので公園を独り占めの感じでした
スタンプを置いてある 「プラザおでって」が判らなかったので 駐車料金を支払った後に 係りのオジ
さんに聞いたら 「直ぐこの先だから歩いて行きなさい 駐車票は改めて発行するから、、と」
歩いたら 往復で20分以上かかりました 親切だったのかな~ いや 親切なオジさんだったのだ!
本丸(左)と二の丸(右)の石垣と空堀
本丸と二の丸の石垣には、古式の打込接乱積や新しい打込接布積のほか、一部に築城初期の野面積が
見られます。
空堀上の橋はかつて屋根のある廊下橋でした。


<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
次は 雪の回廊「アスピーテスカイライン」 秘湯「鶴の湯」を経由して 横手城に向かいます
登城日:平成21年5月8日


にほんブログ村
『東北ではめずらしく 花崗岩の見事な高石垣がそびえ立つ』
盛岡城は、南部信直・利直父子が、北上川と中津川の合流地点の残丘上に築城しています。
完成するまで40年の歳月をかけ、以降明治維新まで南部氏の代々の居城として続く。
東北地方には珍しい総石垣造りの城で、盛岡産の大きな花崗岩が特徴です。その石垣の見事さにより
会津若松城と白河小峰城とともに東北の石垣造りの三大名城のひとつにあげられます。
本丸が狭かったため、表御殿は本丸ではなく二の丸に設けられていた。
城は江戸時代に何度か修築が行なわれたが、明治7年に破却されています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸、二の丸、三の丸、淡路丸、腰曲輪、石垣、堀など
◇ 花崗岩を用いて築き上げた南の腰曲輪の石垣や、西の二の丸の石垣の眺めは圧巻です。また、
野面積、討込接と様々な石垣を見ることができます。
盛岡城に到着したのは 9時前でしたので公園を独り占めの感じでした
スタンプを置いてある 「プラザおでって」が判らなかったので 駐車料金を支払った後に 係りのオジ
さんに聞いたら 「直ぐこの先だから歩いて行きなさい 駐車票は改めて発行するから、、と」
歩いたら 往復で20分以上かかりました 親切だったのかな~ いや 親切なオジさんだったのだ!
本丸(左)と二の丸(右)の石垣と空堀
本丸と二の丸の石垣には、古式の打込接乱積や新しい打込接布積のほか、一部に築城初期の野面積が
見られます。
空堀上の橋はかつて屋根のある廊下橋でした。


<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
次は 雪の回廊「アスピーテスカイライン」 秘湯「鶴の湯」を経由して 横手城に向かいます
登城日:平成21年5月8日


にほんブログ村
百名城08 仙台城
奥州の覇者 伊達政宗が築いた天険の城
『青葉山上の本丸に 高石垣が復元整備される』
仙台城は、鎌倉時代創築と伝えられる千代城があった青葉山に、伊達政宗が1600年から2年余りで築城
しています。
城の四方が広瀬川の渓谷や断崖などに囲まれた天然の要害になっています。
天守は築かれなかったものの、本丸は62万石の大名にふさわしく、桃山文化の集大成ともいうべき本丸
御殿の建物が建ち並び、その内部は数多くの美術品で飾られていたといいます。
政宗の死後、二の丸御殿が造られ藩政の中心となっています。
しかし、こうした建物群も明治時代に破却され、さらに昭和20年の空襲で焼失しています。
平成になって本丸跡の調査が進み、北面の高石垣が修復されています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 三の丸巽門など建物遺構跡、本丸跡の石垣
◇ 修復整備が完了した本丸跡北面の高石垣は、切込接による実に見事なものです。
予想を超えて大きな城で 駐車場がなかなか見つかりませんでした。
スタンプが置いてある 「仙台城見聞館展示コーナー」のオジさんが 大変丁寧な方でした。


<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年5月7日


にほんブログ村
『青葉山上の本丸に 高石垣が復元整備される』
仙台城は、鎌倉時代創築と伝えられる千代城があった青葉山に、伊達政宗が1600年から2年余りで築城
しています。
城の四方が広瀬川の渓谷や断崖などに囲まれた天然の要害になっています。
天守は築かれなかったものの、本丸は62万石の大名にふさわしく、桃山文化の集大成ともいうべき本丸
御殿の建物が建ち並び、その内部は数多くの美術品で飾られていたといいます。
政宗の死後、二の丸御殿が造られ藩政の中心となっています。
しかし、こうした建物群も明治時代に破却され、さらに昭和20年の空襲で焼失しています。
平成になって本丸跡の調査が進み、北面の高石垣が修復されています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 三の丸巽門など建物遺構跡、本丸跡の石垣
◇ 修復整備が完了した本丸跡北面の高石垣は、切込接による実に見事なものです。
予想を超えて大きな城で 駐車場がなかなか見つかりませんでした。
スタンプが置いてある 「仙台城見聞館展示コーナー」のオジさんが 大変丁寧な方でした。


<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年5月7日


にほんブログ村