百名城74 岩国城
毛利領国の東の要衝に築かれた要の城
『山上にそびえる「南蛮造」の天守が錦帯橋を見下ろす』
関ヶ原合戦後 長門・周防の2国に減封された毛利家存続のため 1603年 築城を開始
10年の歳月をかけ築城し 横山山頂に山城の横山城したが 1615年の一国一城令により 山頂の横山城は破却
現在の復興天守は 錦帯橋からの景観を配慮して 本の丸から50m南側に立つ
本の丸北側には 本来の天守台が残っている
ロープウェイ山麓駅から 20分毎に運行されています(往復540円) また、山麓駅に駐車場もありました

錦川にかかる 日本三名橋・三奇橋の「錦帯橋」

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「南蛮造り」と呼ばれる復興天守

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本来の天守台が残っている(南側から)

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本丸から望む眺望は 素晴らしいです

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登城日:平成21年7月14日


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『山上にそびえる「南蛮造」の天守が錦帯橋を見下ろす』
関ヶ原合戦後 長門・周防の2国に減封された毛利家存続のため 1603年 築城を開始
10年の歳月をかけ築城し 横山山頂に山城の横山城したが 1615年の一国一城令により 山頂の横山城は破却
現在の復興天守は 錦帯橋からの景観を配慮して 本の丸から50m南側に立つ
本の丸北側には 本来の天守台が残っている
ロープウェイ山麓駅から 20分毎に運行されています(往復540円) また、山麓駅に駐車場もありました

錦川にかかる 日本三名橋・三奇橋の「錦帯橋」

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「南蛮造り」と呼ばれる復興天守

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本来の天守台が残っている(南側から)

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本丸から望む眺望は 素晴らしいです

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関宿城
戦国時代には関東の中心部における最重要拠点「関宿城」
『北条氏の北関東進出の拠点』
江戸城の富士見櫓を模した模擬櫓がありますが 城跡とは無関係な位置のようです

江戸川サイクリングロードの終点になっています

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『北条氏の北関東進出の拠点』
江戸城の富士見櫓を模した模擬櫓がありますが 城跡とは無関係な位置のようです

江戸川サイクリングロードの終点になっています

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逆井城
北条氏の下野・常陸方面への侵攻の最前線「逆井城」
『風魔小太郎の子など 忍者集団300人がいた!?』
発掘調査に基づいた時代考証を行い復元され 中世城郭の姿をできるだけ忠実に再現しているようです

櫓・土塀・櫓門・木橋などが 復元されています

<クリックで拡大します>
次は 関宿城に向かいます

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『風魔小太郎の子など 忍者集団300人がいた!?』
発掘調査に基づいた時代考証を行い復元され 中世城郭の姿をできるだけ忠実に再現しているようです

櫓・土塀・櫓門・木橋などが 復元されています

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百名城92 熊本城
加藤清正が築いた 鉄壁の守りを誇った 大城郭
『清正流の高石垣そそり立つ城跡に 御殿などの再建が進む』
明治初期 西南戦争で薩摩軍の猛攻にあいながら 新政府軍は52日間も籠城し 熊本城を守り抜いた
薩摩軍は 5倍の兵力で攻めながらも 城内に入ることはできなかった
1607年に築いた城は 300年後の近代戦にも耐え抜き その堅牢さを証明した
熊本城は 幼い時から見ていますので 「あ~ 帰ってきたな~」って 感じです
宇土櫓と本丸御殿は 時間のない方も ぜひ立ち寄られてください
熊本城は 日本一の城だと思うのは 私だけでしょうか
【熊本城復元計画】by熊本市
計画内容が広範囲かつ多岐にわたり また莫大な事業費を要する計画のため 城域を本丸(保存・復元
ゾーン) 二の丸(緑の遊園ゾーン) 三の丸(歴史・学習体験ゾーン) 古城(観光客のエントランス
ゾーン) 千葉城(文化交流ゾーン)の5つのゾーンに区分し それぞれのゾーンに見合った整備を効率的
に進めます

二の丸広場から望む熊本城 左から宇土櫓、小天守、大天守

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西出丸から望む宇土櫓 熊本城では数少ない現存です
本丸を全焼させた西南戦争の火の手を逃れ 建立当時の姿を残す貴重な木造の櫓です

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天守側からの宇土櫓 他の城では立派な天守ですよね~ 熊本城の規模は圧倒的ですね

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宇土櫓の内部です 400年の歴史が偲ばれます

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宇土櫓から望む 南大手門 平成14年10月に復元されています

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本丸御殿 大広間
藩主の居間や対面所(会見の場) 台所など多用な用途をもつ 複数の殿舎群で構成されていました

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明治10年の西南戦争の際に起こった火災で 天守閣と共に焼失してしまいました
平成20年4月に復元されています

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大天守閣 「う~ん 迫力ありますね!」
清正が建てた天守閣は 明治10年西南戦争の年に焼失しています

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宇土櫓側からの天守です 高石垣の天守台も凄いですね

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正面からの天守閣 最高の写真スポットですね
現在の天守閣は昭和35年に 総工費1億8,000万円をかけて 鉄筋コンクリートで外観復元されたものです

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南大手門 平成14年10月に復元

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元太鼓櫓近くの 高石垣塀の内側

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戌亥櫓 平成15年8月に復元

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登城日:平成21年7月6日


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『清正流の高石垣そそり立つ城跡に 御殿などの再建が進む』
明治初期 西南戦争で薩摩軍の猛攻にあいながら 新政府軍は52日間も籠城し 熊本城を守り抜いた
薩摩軍は 5倍の兵力で攻めながらも 城内に入ることはできなかった
1607年に築いた城は 300年後の近代戦にも耐え抜き その堅牢さを証明した
熊本城は 幼い時から見ていますので 「あ~ 帰ってきたな~」って 感じです
宇土櫓と本丸御殿は 時間のない方も ぜひ立ち寄られてください
熊本城は 日本一の城だと思うのは 私だけでしょうか
【熊本城復元計画】by熊本市
計画内容が広範囲かつ多岐にわたり また莫大な事業費を要する計画のため 城域を本丸(保存・復元
ゾーン) 二の丸(緑の遊園ゾーン) 三の丸(歴史・学習体験ゾーン) 古城(観光客のエントランス
ゾーン) 千葉城(文化交流ゾーン)の5つのゾーンに区分し それぞれのゾーンに見合った整備を効率的
に進めます

二の丸広場から望む熊本城 左から宇土櫓、小天守、大天守

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西出丸から望む宇土櫓 熊本城では数少ない現存です
本丸を全焼させた西南戦争の火の手を逃れ 建立当時の姿を残す貴重な木造の櫓です

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天守側からの宇土櫓 他の城では立派な天守ですよね~ 熊本城の規模は圧倒的ですね

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宇土櫓の内部です 400年の歴史が偲ばれます

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宇土櫓から望む 南大手門 平成14年10月に復元されています

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本丸御殿 大広間
藩主の居間や対面所(会見の場) 台所など多用な用途をもつ 複数の殿舎群で構成されていました

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明治10年の西南戦争の際に起こった火災で 天守閣と共に焼失してしまいました
平成20年4月に復元されています

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大天守閣 「う~ん 迫力ありますね!」
清正が建てた天守閣は 明治10年西南戦争の年に焼失しています

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宇土櫓側からの天守です 高石垣の天守台も凄いですね

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正面からの天守閣 最高の写真スポットですね
現在の天守閣は昭和35年に 総工費1億8,000万円をかけて 鉄筋コンクリートで外観復元されたものです

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南大手門 平成14年10月に復元

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元太鼓櫓近くの 高石垣塀の内側

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戌亥櫓 平成15年8月に復元

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登城日:平成21年7月6日


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百名城93 人吉城
中世城郭の特色を色濃く残す 相良氏歴代の居城
『角櫓 長塀 多門櫓と連なる景観がよみがえる』
球磨川を旨く利用していることが 良く判りました
平成に入り復元が進められており 今後 城部分の復元に着手されることを期待したいです
関ヶ原合戦で 長毎は戦の途中で東軍に寝返り 本領を安堵された
相良長毎を初代藩主として 相良氏16代が続き明治を迎えたが 鎌倉時代からだと35代700年もの間 相良氏が居城した
明治10年の西南戦争で 人吉城は薩摩軍の本拠地となったため ほとんど破壊された


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登城日:平成21年7月4日


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『角櫓 長塀 多門櫓と連なる景観がよみがえる』
球磨川を旨く利用していることが 良く判りました
平成に入り復元が進められており 今後 城部分の復元に着手されることを期待したいです
関ヶ原合戦で 長毎は戦の途中で東軍に寝返り 本領を安堵された
相良長毎を初代藩主として 相良氏16代が続き明治を迎えたが 鎌倉時代からだと35代700年もの間 相良氏が居城した
明治10年の西南戦争で 人吉城は薩摩軍の本拠地となったため ほとんど破壊された


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登城日:平成21年7月4日


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百名城97 鹿児島城
館造りで築かれた 島津氏77万石の居城
『背後の城山や私学学校が 西南戦争の歴史を伝える』
石垣の砲弾跡は凄かったですが 百名城は少なくとも 各県に1城以上の選定だからでしょうか
鹿児島ガンバレ!!
関ヶ原合戦で 西軍に属した義久の弟・義弘は 家督を家久に譲る
家久は 島津氏の本城として 鶴丸城は1604年に築城
77万石の大名が 大城を築かなかったのは 徳川幕府に恭順の意を表わすためだったといわれる


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登城日:平成21年7月4日


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『背後の城山や私学学校が 西南戦争の歴史を伝える』
石垣の砲弾跡は凄かったですが 百名城は少なくとも 各県に1城以上の選定だからでしょうか
鹿児島ガンバレ!!
関ヶ原合戦で 西軍に属した義久の弟・義弘は 家督を家久に譲る
家久は 島津氏の本城として 鶴丸城は1604年に築城
77万石の大名が 大城を築かなかったのは 徳川幕府に恭順の意を表わすためだったといわれる


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