百名城13 白河小峰城
奥州の押さえに築かれた 名築城家丹波氏の城
『再建された三重櫓が 平成の城復元ブームを巻き起こす』


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登城日:平成21年8月31日


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『再建された三重櫓が 平成の城復元ブームを巻き起こす』


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登城日:平成21年8月31日


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百名城11 二本松城
蒲生・加藤氏が築いた 石垣造りの山城
『戊辰戦争に散った 二本松少年隊の悲話が残る』
山の頂上の本丸が置かれ、本丸と平地の比高は約120mあります。
本丸から北西・東・南にそれぞれ尾根が伸びており、東と南の尾根にそれぞれ曲輪が築かれている。
唯一他の山につながっている北西の尾根は堀切で遮断されており、北方の尾根伝いに敵が侵入するのを
防ぐ形となっています。
1591年に蒲生氏郷が入部すると、城域は拡大され、梯郭式の城へと変貌し、また、本丸直下に穴太積み
による大石垣が組まれ、織豊城郭としての形が整えられています。
これと同時に城下も整備されている。蒲生氏の支配の後は加藤嘉明が会津に入部し、加藤領となった。
このときに山麓部分の高石垣が築かれている。
1868年の戊辰戦争に際し、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦い、手薄になった攻城戦に
おいては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員され、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られてい
ます。


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登城日:平成21年8月30日


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『戊辰戦争に散った 二本松少年隊の悲話が残る』
山の頂上の本丸が置かれ、本丸と平地の比高は約120mあります。
本丸から北西・東・南にそれぞれ尾根が伸びており、東と南の尾根にそれぞれ曲輪が築かれている。
唯一他の山につながっている北西の尾根は堀切で遮断されており、北方の尾根伝いに敵が侵入するのを
防ぐ形となっています。
1591年に蒲生氏郷が入部すると、城域は拡大され、梯郭式の城へと変貌し、また、本丸直下に穴太積み
による大石垣が組まれ、織豊城郭としての形が整えられています。
これと同時に城下も整備されている。蒲生氏の支配の後は加藤嘉明が会津に入部し、加藤領となった。
このときに山麓部分の高石垣が築かれている。
1868年の戊辰戦争に際し、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦い、手薄になった攻城戦に
おいては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員され、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られてい
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登城日:平成21年8月30日


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米沢城
伊達家17代・伊達政宗の 誕生の地
『景勝は 会津120万石から30万石に減封され 米沢城へ』
会津若松城から 喜多方ラーメンを食べて 米沢城に着きました
米沢城というより 上杉神社ですよね テレビドラマ「天地人」効果で 大変賑わっていました
【上杉神社】
米沢城の本丸跡に 謙信を祀った神社
“越後の龍”とも呼ばれた謙信は 越後で埋葬 祀られていたが その後 上杉家の移封に伴い 会津を経て
米沢に改葬される
現在の本殿は 米沢の大火後 大正12年に再建されたもの
上杉家の遺品を中心に収蔵する 宝物館「稽照殿」には 大河ドラマで一躍有名になった 直江兼継の「愛」
の前立て兜も展示されている

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米沢城というより 上杉神社ですよね

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「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり」
上杉鷹山公は 良いこと言ってますね~

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堀には きれいな「はすの花」が咲いていました

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城下を廻れなかったので 再登城したいと思います
次は 二本松城に向かいます

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『景勝は 会津120万石から30万石に減封され 米沢城へ』
会津若松城から 喜多方ラーメンを食べて 米沢城に着きました
米沢城というより 上杉神社ですよね テレビドラマ「天地人」効果で 大変賑わっていました
【上杉神社】
米沢城の本丸跡に 謙信を祀った神社
“越後の龍”とも呼ばれた謙信は 越後で埋葬 祀られていたが その後 上杉家の移封に伴い 会津を経て
米沢に改葬される
現在の本殿は 米沢の大火後 大正12年に再建されたもの
上杉家の遺品を中心に収蔵する 宝物館「稽照殿」には 大河ドラマで一躍有名になった 直江兼継の「愛」
の前立て兜も展示されている

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米沢城というより 上杉神社ですよね

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「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり」
上杉鷹山公は 良いこと言ってますね~

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堀には きれいな「はすの花」が咲いていました

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城下を廻れなかったので 再登城したいと思います
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百名城12 会津若松城
戊辰戦争を戦い抜いた 奥州屈指の堅城
『南走長屋・干飯櫓など 本丸建物の再建が進む』
室町時代からあった葦名氏の黒川城を蒲生氏郷が1592年から改修し、名称を黒川から若松に改めて
います。
その後も蒲生氏や加藤氏によって、空堀を水堀に変えたり、地震で壊れた7重の天守を5重にするなど
大改修が行なわれ、東北地方屈指の名城になっています。
幕末の戊辰戦争では、会津藩は新政府軍との戦いにおいて、1ヵ月も籠城に耐え城の堅城ぶりを見せ
つけています。
多用された石垣には、野面積をはじめとする色々の技法を見ることができます。
戊辰戦争でダメージを受け、明治初めに取り壊された天守は昭和40年にコンクリートで外観復元され
ています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸、二の丸、三の丸の一部、北出丸、西出丸、石垣、堀
◇ 天守から走長屋、南走長屋、千飯櫓と長く連なって再建された建物群の眺めが壮観です。
また、20mにおよぶ本丸東側の高石垣は、打込接の美しいものです。

走長屋と千飯櫓
南走長屋と千飯櫓は、平成13年に再建されています。

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登城日:平成21年8月30日


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『南走長屋・干飯櫓など 本丸建物の再建が進む』
室町時代からあった葦名氏の黒川城を蒲生氏郷が1592年から改修し、名称を黒川から若松に改めて
います。
その後も蒲生氏や加藤氏によって、空堀を水堀に変えたり、地震で壊れた7重の天守を5重にするなど
大改修が行なわれ、東北地方屈指の名城になっています。
幕末の戊辰戦争では、会津藩は新政府軍との戦いにおいて、1ヵ月も籠城に耐え城の堅城ぶりを見せ
つけています。
多用された石垣には、野面積をはじめとする色々の技法を見ることができます。
戊辰戦争でダメージを受け、明治初めに取り壊された天守は昭和40年にコンクリートで外観復元され
ています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸、二の丸、三の丸の一部、北出丸、西出丸、石垣、堀
◇ 天守から走長屋、南走長屋、千飯櫓と長く連なって再建された建物群の眺めが壮観です。
また、20mにおよぶ本丸東側の高石垣は、打込接の美しいものです。

走長屋と千飯櫓
南走長屋と千飯櫓は、平成13年に再建されています。

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登城日:平成21年8月30日


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百名城31 新発田城
全国唯一3匹の鯱を戴く 三階櫓を持つ城
『本丸表門と旧二の丸隅櫓が現存し 三階櫓も木造再建される』
お盆の帰省ラッシュに 巻き込まれることを覚悟して日本海まで走り 開城の9時を待ってスタンプをゲット
しました
本丸表門を入ると立ち入り禁止の塀(自衛隊)があり 三階櫓には行けません 百名城の価値が・・・
帰りに会津若松城に登城予定でしたが 帰省ラッシュを避けるため次回にしました
今回の登城は疲れが残りました


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登城日:平成21年8月15日


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『本丸表門と旧二の丸隅櫓が現存し 三階櫓も木造再建される』
お盆の帰省ラッシュに 巻き込まれることを覚悟して日本海まで走り 開城の9時を待ってスタンプをゲット
しました
本丸表門を入ると立ち入り禁止の塀(自衛隊)があり 三階櫓には行けません 百名城の価値が・・・
帰りに会津若松城に登城予定でしたが 帰省ラッシュを避けるため次回にしました
今回の登城は疲れが残りました


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登城日:平成21年8月15日


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