百名城22 八王子城
豊臣軍の来襲により落城した 未完の山城
『山中のいたる所に 曲輪や石積・堀切が残る』
天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢 上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの連合軍1万5千の力攻めにより 一日で落城
城内の婦女子は自刃 あるいは御主殿の滝に身を投げ 滝は3日3晩、血に染まったと言い伝えられている
現在でも 心霊スポットになっている

古道から御主殿へわたるために 城山川に架けられた「曳橋」
橋脚以外の部分は資料がないため 推測での復元されています

<クリックで拡大します>
石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し できるだけ忠実に復元されている

<クリックで拡大します>
御主殿入口の冠木門(かぶきもん)は 当時の門をイメージし復元です

<クリックで拡大します>
御主殿跡では 礎石を沢山つかった建物の跡や水路の跡など 多数の遺物が出土

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年9月26日


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『山中のいたる所に 曲輪や石積・堀切が残る』
天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢 上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの連合軍1万5千の力攻めにより 一日で落城
城内の婦女子は自刃 あるいは御主殿の滝に身を投げ 滝は3日3晩、血に染まったと言い伝えられている
現在でも 心霊スポットになっている

古道から御主殿へわたるために 城山川に架けられた「曳橋」
橋脚以外の部分は資料がないため 推測での復元されています

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石垣や石畳は当時のものをそのまま利用し できるだけ忠実に復元されている

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御主殿入口の冠木門(かぶきもん)は 当時の門をイメージし復元です

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百名城42 掛川城
山内一豊が大改築 天守を築き上げた城
『天守は木造再建 二の丸御殿や太鼓櫓など 貴重な建物も現存する』
豊臣秀吉の直臣であった 真面目な山内一豊が大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など 近世城郭としての
体裁を整えた城郭とした
平成6年に木造による天守が再建された 木造による天守再建は戦後初である
山内一豊が 掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる 高知城の天守を参考にして再建されている

復元された大手門 正確な位置は 現在地より50mほど南にあった
門の奥に見えるのが 大手門番所

<クリックで拡大します>
復元整備された城門

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掛川城御殿から望む天守
掛川城御殿は 1854年の大地震で倒壊したため 翌年に再建されている
京都の二条城など 御殿建築としては 全国で数カ所にしか残っていない 大変珍しい建物である

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年9月22日


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『天守は木造再建 二の丸御殿や太鼓櫓など 貴重な建物も現存する』
豊臣秀吉の直臣であった 真面目な山内一豊が大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など 近世城郭としての
体裁を整えた城郭とした
平成6年に木造による天守が再建された 木造による天守再建は戦後初である
山内一豊が 掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる 高知城の天守を参考にして再建されている

復元された大手門 正確な位置は 現在地より50mほど南にあった
門の奥に見えるのが 大手門番所

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復元整備された城門

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掛川城御殿から望む天守
掛川城御殿は 1854年の大地震で倒壊したため 翌年に再建されている
京都の二条城など 御殿建築としては 全国で数カ所にしか残っていない 大変珍しい建物である

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登城日:平成21年9月22日


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百名城46 長篠城
武田軍の猛攻に耐え抜いた堅城
『断崖絶壁の地に築かれた城跡には 土塁や堀切が残る』
長篠城は、1508年に土豪菅沼元成が宇連川と寒狭川の合流点の断崖上に築城しています。
ここは2つの川が堀となり、断崖が城壁となる天然の要害の地となっています。
菅沼氏は武田氏の支配下に入ったが、のちに徳川家康が城を奪い大改築した。
1575年、家康の家臣・奥平貞昌(信昌)が城主のとき、武田勝頼が城を包囲し落城寸前まで攻めたが、
織田・徳川連合軍が駆けつけて城を死守した。
現在、城地の中心を鉄道が通ってますが、断崖の北側にも堀・土塁が多重に残っています。
1575年5月の長篠の戦いに先立つ 長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる

本丸跡
五月の長篠祭りでは 火縄銃の実演が見られる

<クリックで拡大します>
城址を貫通する様に鉄道が走り残念でならないが 寒挟川と宇連川の合流点の断崖は その堅固ぶりをよく物語

<クリックで拡大します>
大規模な空堀と土塁が残る 登城した時には たくさんの彼岸花が咲いていました

<クリックで拡大します>
長篠城趾史跡保存館には 火縄銃は結構所蔵されています

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年9月22日


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『断崖絶壁の地に築かれた城跡には 土塁や堀切が残る』
長篠城は、1508年に土豪菅沼元成が宇連川と寒狭川の合流点の断崖上に築城しています。
ここは2つの川が堀となり、断崖が城壁となる天然の要害の地となっています。
菅沼氏は武田氏の支配下に入ったが、のちに徳川家康が城を奪い大改築した。
1575年、家康の家臣・奥平貞昌(信昌)が城主のとき、武田勝頼が城を包囲し落城寸前まで攻めたが、
織田・徳川連合軍が駆けつけて城を死守した。
現在、城地の中心を鉄道が通ってますが、断崖の北側にも堀・土塁が多重に残っています。
1575年5月の長篠の戦いに先立つ 長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる

本丸跡
五月の長篠祭りでは 火縄銃の実演が見られる

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城址を貫通する様に鉄道が走り残念でならないが 寒挟川と宇連川の合流点の断崖は その堅固ぶりをよく物語

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大規模な空堀と土塁が残る 登城した時には たくさんの彼岸花が咲いていました

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長篠城趾史跡保存館には 火縄銃は結構所蔵されています

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登城日:平成21年9月22日


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百名城45 岡崎城
長らく聖地となった徳川家康誕生の城
『複雑な縄張に巨大な空堀が残る』
徳川家康は この岡崎城で誕生した
家康は 6歳で織田信秀(信長の父) 8歳で今川義元の人質となり 少年期を他国で過ごした
1560年の桶狭間の合戦で 今川義元が戦死したことを契機に自立した
その時19歳 以来 岡崎城を拠点に 天下統一という偉業に踏み出したのは あまりにも有名な話である
家康が江戸幕府を開いてからの岡崎城は 「家康出生の城」として神聖視され 本多氏 水野氏 松平氏など家格の
高い譜代大名が 城主となっている
残念ながら 鉄筋コンクリート造りですので 登城はしませんでした

大手門は 岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として 建設されている
本来の岡崎城大手門は 現在の浄瑠璃寺の南(北東約200メートル)にありました

<クリックで拡大します>
昭和34年に建てられた復興天守 鉄筋コンクリート三層五階です

<クリックで拡大します>
一番見応えがある石垣のひとつ 本丸手前の土橋前の石垣

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
岡崎公園は 「日本の都市公園100選」・「日本のさくら名所100選」にも選定されているそうです
登城日:平成21年9月22日


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『複雑な縄張に巨大な空堀が残る』
徳川家康は この岡崎城で誕生した
家康は 6歳で織田信秀(信長の父) 8歳で今川義元の人質となり 少年期を他国で過ごした
1560年の桶狭間の合戦で 今川義元が戦死したことを契機に自立した
その時19歳 以来 岡崎城を拠点に 天下統一という偉業に踏み出したのは あまりにも有名な話である
家康が江戸幕府を開いてからの岡崎城は 「家康出生の城」として神聖視され 本多氏 水野氏 松平氏など家格の
高い譜代大名が 城主となっている
残念ながら 鉄筋コンクリート造りですので 登城はしませんでした

大手門は 岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として 建設されている
本来の岡崎城大手門は 現在の浄瑠璃寺の南(北東約200メートル)にありました

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昭和34年に建てられた復興天守 鉄筋コンクリート三層五階です

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一番見応えがある石垣のひとつ 本丸手前の土橋前の石垣

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岡崎公園は 「日本の都市公園100選」・「日本のさくら名所100選」にも選定されているそうです
登城日:平成21年9月22日


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百名城50 彦根城
琵琶湖に臨む 井伊家14代の堅城
『国宝の天守に 表御殿や庭園が 彩りを添える』
彦根城築城は 将軍徳川家康の命により 佐和山城を一掃するため 1604年に着工し20年の歳月をかけて築城される
彦根城は 明治に解体の危機にみまわれたが 明治天皇が北陸巡幸を終え 彦根を通られたときに 保存するように
と大命を下されたとか
国宝の天守のほか 太鼓門 天秤櫓など 数多くの建築物が現存する
3重3階の天守は 回遊式の大名庭園 玄宮園からの眺望は絶景
太鼓門櫓方面からの天守閣(東南面)

廊下橋と天秤櫓

<クリックで拡大します>
月見櫓跡からの天守閣(東面)
近世の城で天守が残っているのは 弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、
松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城
このうち、松本、犬山、彦根、姫路の4城の天守は国宝

<クリックで拡大します>
天秤櫓
天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城から 太鼓門は石田三成の佐和山城からといったように
各所の城から運び込んで移築されたといわれる

<クリックで拡大します>
内濠と大手門橋

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年9月20日


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『国宝の天守に 表御殿や庭園が 彩りを添える』
彦根城築城は 将軍徳川家康の命により 佐和山城を一掃するため 1604年に着工し20年の歳月をかけて築城される
彦根城は 明治に解体の危機にみまわれたが 明治天皇が北陸巡幸を終え 彦根を通られたときに 保存するように
と大命を下されたとか
国宝の天守のほか 太鼓門 天秤櫓など 数多くの建築物が現存する
3重3階の天守は 回遊式の大名庭園 玄宮園からの眺望は絶景
太鼓門櫓方面からの天守閣(東南面)

廊下橋と天秤櫓

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月見櫓跡からの天守閣(東面)
近世の城で天守が残っているのは 弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、
松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城
このうち、松本、犬山、彦根、姫路の4城の天守は国宝

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天秤櫓
天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城から 太鼓門は石田三成の佐和山城からといったように
各所の城から運び込んで移築されたといわれる

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内濠と大手門橋

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登城日:平成21年9月20日


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百名城49 小谷城
浅井氏の3代にわたる戦国時代屈指の堅城
『かつては山陵に無数の曲輪が展開していた』
標高約495m小谷山から 南の尾根筋に築かれ 日本五大山城の一つに数えられる
1562年 浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻に迎え 織田家と同盟関係を結んだが 越前朝倉氏とも
同盟関係にあったため 1570年 信長の越前朝倉義景攻めに際し 浅井氏は信長に反旗 姉川の合戦で
浅井氏は織田・徳川連合軍に敗北
1573年 小谷城は信長によって落城 浅井長政は自刃し 浅井氏は滅亡
「浅井長政」と「お市の方(信長の妹)」との 悲劇の舞台として語られることが多い城である
蚊や蜂が多く軽装であったため 登城は断念しました 長袖、長ズボンは必須です
主要部分の大手口にあたる番所

番所と金吾丸との間の堀切 左側が金吾丸 右側が番所跡

<クリックで拡大します>
番所跡から望む 琵琶湖です

<クリックで拡大します>
秀吉勢が 清水谷から攻め上がり 最初に落とした郭です

<クリックで拡大します>
落城の時 お市は三人の娘を連れて この大手口から城を後にした

<クリックで拡大します>
百名城スタンプは この「小谷城戦国歴史資料館」にありますが 小谷城までは結構距離がありますので
地図で説明を受け登城しました

登場日:平成21年9月20日

『2011年の大河ドラマに決定』

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『かつては山陵に無数の曲輪が展開していた』
標高約495m小谷山から 南の尾根筋に築かれ 日本五大山城の一つに数えられる
1562年 浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻に迎え 織田家と同盟関係を結んだが 越前朝倉氏とも
同盟関係にあったため 1570年 信長の越前朝倉義景攻めに際し 浅井氏は信長に反旗 姉川の合戦で
浅井氏は織田・徳川連合軍に敗北
1573年 小谷城は信長によって落城 浅井長政は自刃し 浅井氏は滅亡
「浅井長政」と「お市の方(信長の妹)」との 悲劇の舞台として語られることが多い城である
蚊や蜂が多く軽装であったため 登城は断念しました 長袖、長ズボンは必須です
主要部分の大手口にあたる番所

番所と金吾丸との間の堀切 左側が金吾丸 右側が番所跡

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番所跡から望む 琵琶湖です

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秀吉勢が 清水谷から攻め上がり 最初に落とした郭です

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落城の時 お市は三人の娘を連れて この大手口から城を後にした

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百名城スタンプは この「小谷城戦国歴史資料館」にありますが 小谷城までは結構距離がありますので
地図で説明を受け登城しました

登場日:平成21年9月20日

『2011年の大河ドラマに決定』

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百名城37 一乗谷城
戦国大名朝倉氏の山城と城下町
『復元された武家屋敷や町並みが 戦国城下町を偲ばせる』
一乗谷川下流沿いの 細長い谷あいに築かれた 戦国時代の城下町と 館跡および背後の山城が 一乗谷朝倉氏遺跡である
応仁の乱により 荒廃した京から 多くの公家や高僧 文人 学者たちが避難してきたため 一乗谷は飛躍的に発展し華やかな
京文化が開花した
信長の越前侵攻の前に なすすべもなく 1573年に一乗谷城は落城し朝倉氏は滅亡した

西の山裾の屋敷では 礎石4個を用いた四本柱の薬医門形式を用い 東の川側の屋敷では掘立柱2本からなる棟門形式を用いており 格式の差が見られる

<クリックで拡大します>
山裾の屋敷の門

<クリックで拡大します>
屋根は割板で葺かれ 室内には畳も敷きつめられ 舞良戸・明障子等の引戸が多く用いられている

<クリックで拡大します>
唐門
朝倉館跡正面の堀に面して建つ 現存するものは 江戸時代中期頃に 再建されたものである

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登城日:平成21年9月20日


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『復元された武家屋敷や町並みが 戦国城下町を偲ばせる』
一乗谷川下流沿いの 細長い谷あいに築かれた 戦国時代の城下町と 館跡および背後の山城が 一乗谷朝倉氏遺跡である
応仁の乱により 荒廃した京から 多くの公家や高僧 文人 学者たちが避難してきたため 一乗谷は飛躍的に発展し華やかな
京文化が開花した
信長の越前侵攻の前に なすすべもなく 1573年に一乗谷城は落城し朝倉氏は滅亡した

西の山裾の屋敷では 礎石4個を用いた四本柱の薬医門形式を用い 東の川側の屋敷では掘立柱2本からなる棟門形式を用いており 格式の差が見られる

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山裾の屋敷の門

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屋根は割板で葺かれ 室内には畳も敷きつめられ 舞良戸・明障子等の引戸が多く用いられている

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唐門
朝倉館跡正面の堀に面して建つ 現存するものは 江戸時代中期頃に 再建されたものである

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