家康は『健康マニア』だった
≪家康が調合した薬≫
関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は 薬の調合が趣味だった
医者よりも自分でつくった薬を信用し さまざまな病気を治してしまう
健康について極めるため「研究会」まで発足させた!?
●紫雪(風邪薬) <羊や水牛の角>
⇒ 孫 家光が3歳のとき(1606年)に患った大病を治した
●銀液丹(痰) <水銀+ヒ素>
●八味丸(精力剤) <数種類の薬草を混ぜる>
●万病円(寄生虫) <附子>
⇒ 家康がサナダヌシが原因で患った腰痛を治した
●蘇合円(下痢) <蘇合香 乳香などを混ぜる>
●六味湯(日射病 熱射病) <人参 生姜などの生薬>
詳細は また次回に

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<参考文献 戦国武将あの人その後>
関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は 薬の調合が趣味だった
医者よりも自分でつくった薬を信用し さまざまな病気を治してしまう
健康について極めるため「研究会」まで発足させた!?
●紫雪(風邪薬) <羊や水牛の角>
⇒ 孫 家光が3歳のとき(1606年)に患った大病を治した
●銀液丹(痰) <水銀+ヒ素>
●八味丸(精力剤) <数種類の薬草を混ぜる>
●万病円(寄生虫) <附子>
⇒ 家康がサナダヌシが原因で患った腰痛を治した
●蘇合円(下痢) <蘇合香 乳香などを混ぜる>
●六味湯(日射病 熱射病) <人参 生姜などの生薬>
詳細は また次回に

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<参考文献 戦国武将あの人その後>
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石田 三成
『死の直前まで「打倒 家康」を心に秘めていた 西軍の首謀者』
豊臣家を補佐する五奉行の一人に任命され 秀吉・秀頼の支配体制を確立しようとした石田三成
しかし 秀吉の死後 牙をむいた徳川家康を鎮圧するため 西軍のリーダーとして関ヶ原の戦いに臨んだ
『豊臣家による支配を心から望んでいた』
●関ヶ原の戦い 1600年9月15日 7:00合戦開始 14:00敗北
関ヶ原の戦いで大敗した石田三成率いる西軍の武将たちの多くは 壮絶な討死を遂げたり自害して果てたが
志半ばで死ぬわけにはいかないと
石田三成 小西行長 安国寺恵瓊は敗残の将となりながらも生き延びる道を探った
三成は関ヶ原の北西にある伊吹山中へ退路をとり そこから母親の生まれ故郷である近江古橋へ身を寄せた
しかし敗戦から6日後の9月21日に東軍の武将に捕らえられる
また 小西行長 安国寺恵瓊もほぼ同じ頃に捕まる
10月1日 三成 行長 恵瓊の3人は京都の町を引き廻しのうえ 六条河原で首を斬られ三条大橋にさら
された
戦いに敗れ 捕まれば処刑されることがわかっていながら三成が自害しなかったのは
「生きのびていれば また必ず家康を倒す機会がめぐってくるだろう」
との再起の思いがあったのだろう
「打倒家康」の強固な思いの表れでもあると同時に 生きることに対する執着 豊臣家への忠誠の深さ
を伺い知ることができる
『最後まで志を捨てずに戦った三成』
3人が捕らえられ 洛中を引き廻され 六条河原に用意された刑場に運ばれる途中 三成はのどの乾き
をおぼえ 警護の侍に白湯を求めた
しかし 侍たちは白湯など持ち合わせてはおらず 代わりにたまたま持っていた干し柿を差し出して
「これならある」といった
すると三成は「柿は痰の毒で体に悪い」といって口にしなかったという
まわりの者たちが「これから死ぬ人間が何をいうか」と嘲笑すると
「大儀を思う者は 志を成し遂げるため死の寸前まで命を大事にするのだ」
と言ったとされている
数時間後には処刑される状況にありながら 三成はなおも自らの体をいたわり 命を粗末にしなかった
のである
このエピソードは言い伝えであり真実のほどは定かではないが 中途半端な気持ちで戦いに臨んだのでは
ないということは確実にいえそうである

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<「戦国武将あの人のその後」より>
豊臣家を補佐する五奉行の一人に任命され 秀吉・秀頼の支配体制を確立しようとした石田三成
しかし 秀吉の死後 牙をむいた徳川家康を鎮圧するため 西軍のリーダーとして関ヶ原の戦いに臨んだ
『豊臣家による支配を心から望んでいた』
●関ヶ原の戦い 1600年9月15日 7:00合戦開始 14:00敗北
関ヶ原の戦いで大敗した石田三成率いる西軍の武将たちの多くは 壮絶な討死を遂げたり自害して果てたが
志半ばで死ぬわけにはいかないと
石田三成 小西行長 安国寺恵瓊は敗残の将となりながらも生き延びる道を探った
三成は関ヶ原の北西にある伊吹山中へ退路をとり そこから母親の生まれ故郷である近江古橋へ身を寄せた
しかし敗戦から6日後の9月21日に東軍の武将に捕らえられる
また 小西行長 安国寺恵瓊もほぼ同じ頃に捕まる
10月1日 三成 行長 恵瓊の3人は京都の町を引き廻しのうえ 六条河原で首を斬られ三条大橋にさら
された
戦いに敗れ 捕まれば処刑されることがわかっていながら三成が自害しなかったのは
「生きのびていれば また必ず家康を倒す機会がめぐってくるだろう」
との再起の思いがあったのだろう
「打倒家康」の強固な思いの表れでもあると同時に 生きることに対する執着 豊臣家への忠誠の深さ
を伺い知ることができる
『最後まで志を捨てずに戦った三成』
3人が捕らえられ 洛中を引き廻され 六条河原に用意された刑場に運ばれる途中 三成はのどの乾き
をおぼえ 警護の侍に白湯を求めた
しかし 侍たちは白湯など持ち合わせてはおらず 代わりにたまたま持っていた干し柿を差し出して
「これならある」といった
すると三成は「柿は痰の毒で体に悪い」といって口にしなかったという
まわりの者たちが「これから死ぬ人間が何をいうか」と嘲笑すると
「大儀を思う者は 志を成し遂げるため死の寸前まで命を大事にするのだ」
と言ったとされている
数時間後には処刑される状況にありながら 三成はなおも自らの体をいたわり 命を粗末にしなかった
のである
このエピソードは言い伝えであり真実のほどは定かではないが 中途半端な気持ちで戦いに臨んだのでは
ないということは確実にいえそうである

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<「戦国武将あの人のその後」より>
関ヶ原で最も熱い「男の友情」
『大谷吉継と石田三成』
「治部 どうあっても起つのか」
「起つ それ以外の選択の道はない」
「ならば 一蓮托生だ わしの命 おぬしにくれてやる」
淡々としてはいるが 断乎たる決意がこもった口調である
「まことか 刑部!」
思わず大声を放った三成は 吉継の手を握り 大粒の涙を流しはじめた

戦国乱世にあって 刎頚の友の契りを結び “信義”や“正義”を貫き通した漢(おとこ)がいる
その代表例が 大谷吉継と石田三成
初対面で意気投合した吉継と三成は その後も漢同志の絆を深め 関ヶ原合戦に至るまでの二十数年間
“利”を秤にかけることなく“損得”を棄てて 心琴を触れ合わせ 友情と信義を命がけで守り抜いた

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「治部 どうあっても起つのか」
「起つ それ以外の選択の道はない」
「ならば 一蓮托生だ わしの命 おぬしにくれてやる」
淡々としてはいるが 断乎たる決意がこもった口調である
「まことか 刑部!」
思わず大声を放った三成は 吉継の手を握り 大粒の涙を流しはじめた

戦国乱世にあって 刎頚の友の契りを結び “信義”や“正義”を貫き通した漢(おとこ)がいる
その代表例が 大谷吉継と石田三成
初対面で意気投合した吉継と三成は その後も漢同志の絆を深め 関ヶ原合戦に至るまでの二十数年間
“利”を秤にかけることなく“損得”を棄てて 心琴を触れ合わせ 友情と信義を命がけで守り抜いた

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百名城14 水戸城
三重五階の御三階櫓が象徴した 徳川御三家の城
『土の城を偲ばせる 土塁や巨大な空堀が残る』
那珂川と千波湖に挟まれた台地の先端に 典型的な連郭式の縄張りで築かれた城
佐竹氏が秋田へ移った後に 家康の11男 頼房が入る
徳川御三家の居城として 東北諸藩ににらみをきかせる存在とし 台地を掘削して堀をつくり 石を一切
用いず土塁で城を築いた
本丸跡の水戸第一高校内に 水戸城で現存する唯一の建築物である 薬医門(橋詰門)が復元されている
≪登城余記≫
登城53城目です
久々の百名城巡りで 水戸城に登城しました
あまり見るものなく 本丸跡(水戸第一高校)の薬医門 電車が走る巨大な空堀などを見ました
スタンプは 弘道館の料金所に設置してありますが状態は良好でした
偕楽園の梅の開花を淡く期待しておりましたが 時期は2月下旬~3月上旬のようです
★☆☆☆☆

本丸の空堀には JRが走る

<クリックで拡大>
三の丸にかかる 大手橋

<クリックで拡大>
大手門の土塁

<クリックで拡大>
徳川幕府最後の将軍 慶喜が5歳から11歳まで学んだ 弘道館
スタンプは 弘道館の料金所にあります

<クリックで拡大>
登城日:平成22年1月23日


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『土の城を偲ばせる 土塁や巨大な空堀が残る』
那珂川と千波湖に挟まれた台地の先端に 典型的な連郭式の縄張りで築かれた城
佐竹氏が秋田へ移った後に 家康の11男 頼房が入る
徳川御三家の居城として 東北諸藩ににらみをきかせる存在とし 台地を掘削して堀をつくり 石を一切
用いず土塁で城を築いた
本丸跡の水戸第一高校内に 水戸城で現存する唯一の建築物である 薬医門(橋詰門)が復元されている
≪登城余記≫
登城53城目です
久々の百名城巡りで 水戸城に登城しました
あまり見るものなく 本丸跡(水戸第一高校)の薬医門 電車が走る巨大な空堀などを見ました
スタンプは 弘道館の料金所に設置してありますが状態は良好でした
偕楽園の梅の開花を淡く期待しておりましたが 時期は2月下旬~3月上旬のようです
★☆☆☆☆

本丸の空堀には JRが走る

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三の丸にかかる 大手橋

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大手門の土塁

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徳川幕府最後の将軍 慶喜が5歳から11歳まで学んだ 弘道館
スタンプは 弘道館の料金所にあります

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登城日:平成22年1月23日


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百名城21 江戸城
江戸城は 近くて 遠い !!
またも 江戸城に 嫌われました
箱根駅伝を応援後 前回 閉園日で入城できなかったので 平川門から入城を試みましたが 1月3日までは
閉園で また 嫌われました

平川橋から 竹橋方面の堀

こんな プレートが、、
「1457年 太田道灌が江戸城を築城」


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またも 江戸城に 嫌われました
箱根駅伝を応援後 前回 閉園日で入城できなかったので 平川門から入城を試みましたが 1月3日までは
閉園で また 嫌われました

平川橋から 竹橋方面の堀

こんな プレートが、、
「1457年 太田道灌が江戸城を築城」


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