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前田慶次郎 その1

豊臣秀吉が認めた「天下御免のかぶき者」

『天下人に対し 顔を横に向けて拝礼する』

慶次郎(利益)は織田信長の家臣だった滝川一益の甥であったようで 前田利久へ養子に入るも信長の

介入で前田家の当主は 利久の弟「前田利家」と決定し 慶次郎が「かぶき者」として有名になったのは

前田家を継げなかったこともあるのではないだろうか

信長が武田氏を攻めている最中に連化の会に参加し 主家の重要な戦いよりも連化に夢中になっていた

ようである

前田家に稀に見る「かぶき者」がいると聞いた秀吉は 自分のもとに慶次郎を招くことにした

しかし ただ普通に来させるだけでは面白くない 考えた秀吉は慶次郎に「趣向をこらした格好で罷り

出るがよい」と伝えた

これを聞き 召しだされた慶次郎は「虎の皮の上衣を羽織り まげを片方に寄せて結った姿」で参上

すると 顔を横に向けて秀吉に拝礼

まげは確かに直立しているが 顔は横を向いているというこの奇妙な出で立ちに秀吉は大喜びし 

慶次郎に馬1頭を与えた

すると慶次郎は一旦退出し身支度を改めて参上し 作法にかなった所作で馬のお礼を述べた

これに敬服した秀吉は その場で慶次郎にどんな場所でも思うがままに振る舞うことを許可した

慶次郎は まさに「天下御免のかぶき者」となり 前田家もうかつに手を出せなくなった

≪養父 利久が関係した城≫
【七尾城】
利久は 1583年からは弟の利家に仕え その領地である能登七尾に移って 7千石を知行した
撮影は 平成21年9月19日に百名城めぐりで撮ったものです
七尾城 01
【金沢城】
利久は 利家が不在の時には金沢城代を代任するなどした
撮影は 平成21年9月20日に百名城めぐりで撮ったものです
金沢城 01

「なんですか~」 呼んでないよ! 「僕の出番はないってですか~」
20100331 01

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「百名城21 江戸城」 その3

将軍家とともに歴史を刻んだ 日本最大の城郭

『広大な縄張りや巨大な櫓・門が天下人の格を示す』

江戸城3回目の今日は、普段は入城できない皇居側を城外から 城門について記載したいと思います

「桜田二重櫓」
桜田櫓とも巽櫓ともいわれる
江戸城に残る唯一の隅櫓で その姿は美しく濠に映えている 櫓の中には有事に備えて鉄砲・弓・
長柄・持筒などが保管されていたという
江戸城にはこのような二重または三重の櫓が20基もあったが 今では富士見櫓・伏見櫓の三基が
残っているだけです
20100329 江戸城 002

「桔梗門」
かつては内桜田門といっていた
この門は三の丸に入る南門で 幕府の要職者が登下乗する門であり 大門六門の一つとして厳重に
警備され門外に下馬札があった
現在は 宮内庁の関係者や皇居参観の時の入り口 また この奥に皇宮警察本部があり その関係者
の出入り門になっています
20100329 江戸城 003

「坂下門」
1862年1月 坂下門前の屋敷から登城途中にあった安藤信正を襲撃した 傷ついた信正は坂下門
内に逃げ込んで一命を取り留めた 世に言う坂下門外の変である
現在の坂下門は渡櫓門のみとなっているが 昔は江戸城の標準的は枡形の門で今とは違って渡櫓
門は左側にあったそうです
20100229 江戸城 005

「皇居正門」
江戸城西の丸の大手門であったが 今は皇居正門となっている
もともとはこの門のすぐ前に高麗門があって一種の桝形をつくっていた
明治21年の宮殿造営の際に高麗門は撤去され 現在の渡櫓門のみとなり 名称も翌年から正門と改め
られています
天皇誕生日の12月23日と新年の2日の皇居一般参賀には この正門から一般の方も入場できます
20100329 江戸城 006

「鉄橋」
昔はこの鉄橋は「西丸下乗橋」と言っていた新宮殿造営の時に木造橋から現在の鉄橋に架け替えられた
この橋を二重橋といわれていたそうです
二重橋というのは、前後(石橋と鉄橋)に橋が二つ重なって見えるから という通説もあるそうです
20100329 江戸城 007

「二重橋」
皇居正門前の橋で 日本の古い文化と西洋文化とがよく調和した世界でもっとも美しい景観の一つである
といわれています
昔は西丸大手下乗橋といい木橋が架けられていた その木橋に替わり明治20年に架け替えられ石橋に
改め俗に「めがね橋」ともいわれていたそうです
20100329 江戸城 009

「現代の江戸城!?」
皇居前広場から見る大手町(旧大名屋敷)のビル群 これが現代の江戸城かも知れませんね
20100329 江戸城 010

2時間で東御苑と皇居の正門側を巡りましたが まだ半周を廻っておりません
本当に江戸城は広いです 時間をかけてゆっくり廻りたいものです

「リクエストがあったそうですから パパに代わってチョット顔をだしてみました」by 1号
PS.「あの~ まだ彼氏いないので誰か紹介してくださいな!」 「エッ 合コンに行きなさいと!!」
20100330 001


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「百名城21 江戸城」 その2

将軍家とともに歴史を刻んだ 日本最大の城郭

『広大な縄張りや巨大な櫓・門が天下人の格を示す』

「天守台」
1638年三代将軍家光のとき 元和の天守台(南部藩・津軽藩構築)に金の鯱を載せた 高さ
51m五層の天守閣に立て替えられた
1657年の大火で天守閣が焼失した翌年 加賀前田藩によって土台が再構築された 新しい
土台は一間低い18mの高さです
しかし 幕府の重臣で四代将軍家綱の叔父にあたる 保科正之が「戦国の世の象徴ともいえる
天守閣はもはや時代遅れ 物見のためだけしか用をなさず むしろそれより城下の復興を優先
させるべき」と提言したので 江戸城に蓄えられていた金銀は大名屋敷の移転や広小路の城下
の復興につかわれたという
20100328 江戸城 007
20100328 江戸城 008

天守台から見た大奥 本丸御殿方面を望む
大手町のビル群が映えますね
20100328 江戸城 009

「石室」
大奥に蓮池濠を背にした立ち木の陰のひっそりしたところに石室がある
江戸城の抜け穴とか 御金蔵という説もあるが 大奥御主殿 御納戸の脇という場所柄から 
非常時の大奥の調度品や文書類など 貴重品を納めた富士見御宝蔵の跡と考えられている
20100328 江戸城 004

「松の廊下」
本丸御殿大広間から白書院に通ずる「松の廊下」があった 今は標石だけが残っている
1701年に浅野内匠頭長短が吉良上野介に刃傷事件を起こしたところで この事件は、豊島刑部
少輔(信満)が1628年8月 老中井上主計頭(正就)を切ったのと 佐野善左衛門が1784年3月
若年寄田沼意知を刺した事件とともに 江戸城三大刃傷事件のひとつに数えられている
20100328 江戸城 003

「汐見坂」
明暦の大火の後 本丸が二の丸側に拡張されたのに伴って汐見坂が設けられた
江戸築城のころは 今の東京駅や二本橋・日比谷辺りまで海であった 日比谷の(ひび)は 海苔
を付着させるために海中の干潟に立てる枝のついた竹(ひび)に由来するとも言われている
かっては江戸城からも海が望めていたが 現在では埋立てやビルに遮られて海は見えません
写真は 汐見坂からみた白鳥濠です
20100328 江戸城 010

明日は 皇居側の門・橋などを記載したいと思います

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「百名城21 江戸城」 その1

将軍家とともに歴史を刻んだ 日本最大の城郭

『広大な縄張りや巨大な櫓・門が天下人の格を示す』

江戸城は1457年 太田道灌によって築かれた

豊臣秀吉の関東平定後 江戸に入府した徳川家康は1603年 征夷大将軍になると江戸城を

本格的近世城郭にすべく改築に着手している

さらに秀忠・家光と3代にわたり全国の諸大名を動員した天下普請によって 江戸城は徳川将

軍家の居城にふさわしい壮大な城となった

天守は3回建てられたが 明暦の大火で焼失してからは再建されていない


「日本100名城21 江戸城」は難攻不落の城で 3回目のチャレンジでやっと登城できま

した(開園日を調べて行かなかっただけのことです)

江戸城は大き過ぎて、少々駆け足で見て回っても半日程度はかかります また富士見櫓、蓮池

御多聞櫓伏見櫓などの間近に見てみたい建物の遺構は 全て関係者立ち入り禁止区域のなか

にあり 石垣の上の雄姿を見ることはできません

広大な江戸城を3回に分けてアップしていくこととします

3回目の搭乗日:平成22年3月27日

東御苑が公開させていますが 江戸城の本丸・二ノ丸・三ノ丸にほぼ相当します

大手門から本丸に至る道筋の巨大な石垣 番所 各門跡 本丸の天守台など見どころが沢山

ありますので大手門から順に廻ってみます


「大手門」
旧江戸城の正門で 諸大名はこの門から登城した
高麗門を入ると、四角に囲われた桝形と呼ばれる広場があり 右奥に重厚な渡櫓門がある
高い渡櫓門と桝形の構造は安土桃山時代になって発達した城門の型式である

江戸城大手門を外桝形としたのは 東北の雄伊達政宗らで 政宗は自ら大手門の工事をかって
出たといわれています
大手門の警固は 十万石以上の譜代大名が受け持ち 鉄砲30丁 弓10張持弓2組 持筒2丁
長柄槍20筋が常備されていたそうです
20100327 江戸城 001
20100327 江戸城 002

「同心番所」
大手三の丸(大手下乗門)を警固する与力 同心が詰めていた
ここを駕籠や馬に乗ったまま通ることが出来るのは 尾張 紀伊 水戸の御三家だけで それ
以外の大名は駕籠や馬から降ろされ 検問をうけた
同心とは 江戸幕府の諸奉行 所司代 城代 大番頭などの下にあって 庶務 警備の仕事を
していた下級役人の総称である
20100327 江戸城 003

「百人番所」
江戸城本丸御殿の最後の固めで、最大の検問所として睨みを利かせていた
鉄砲百人組と呼ばれた根来組 伊賀組 甲賀組 二十五騎馬の四組が交代で詰めていた
各組とも与力20人 同心100人が配属され、昼夜を問わず警固に当たっていた
背景の大手町のビル群は妙に許せてしまいますから不思議です
20100327 江戸城 005

「大手中之門」
江戸城へ登城するには 大手門 大手三之門 大手中之門 書院門(中雀門)の四つの門を
通らなければならなかった
大手中之門は三番目の門であり 門前に百人番所 門内には大番所があって警備は特に注意
を払われたという 石垣の大きさも見てもその重大さが分かる
元禄十六年の大地震で被害を受け 大掛かりな修復も行われている
門は明治政府のよって撤廃されてしまった
20100327 江戸城 006

「大番所」
大手中之門の内側に設けられ 他の番所よりも位の高い与力 同心によって整備されていた
江戸城本丸へは最後の番所であった
この番所は当時のままで保存しされている
大名や旗本であってもここからは乗り物から降りて歩いて登城しなければならなかった
ここからは上り坂道にになり坂の途中に最後の門で書院門(中雀門)がある
20100327 江戸城 007

書院門跡前の「ボケ」が薄いピンク色で すごく綺麗に咲いていました
20100327 江戸城 008

「富士見櫓」
富士見櫓は 江戸城本丸では現存する随一の櫓で 遺構の中では最も古いものに建築され 
関東大震災で倒壊大破したが その後 主要部材に旧来の材料を用いて再建されている
総白漆喰の大壁・長押型を二条に塗りだし 石垣と濠に面した外壁の中央に洋洋な形式の
「張出」をつけ「石落とし」を兼ねた三重櫓は どこから見ても同じに見えることから
「八方正面の櫓」と呼ばれる
20100328 江戸城 001

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「直江 兼続」の義 その3

家康を敵に回して 一歩も退かない心意気

『関ヶ原の戦いで敗北 自決を前田慶次郎に止められる』

兼続の返答に当然ながら激怒した家康は 挑発に乗る形で上杉討伐を敢行し大坂城を離れ 江戸

城から下野小山(栃木県小山市)に陣を構えた

この間に三成が挙兵し 留守となった家康の居城である伏見城を攻め落とした その知らせを聞

いた家康は 上杉討伐を友軍の最上義光と伊達政宗らに任せ いったん西へと引き返してしまう

そして 関ヶ原の地にて全国の大名が三成を筆頭とする豊臣方の西軍と家康が指揮する徳川方の

東軍とに分かれ 大規模な戦いが展開していく

兼継は関が原での三成の勝利を信じ 最上義光領の出羽に出陣 長谷堂城を舞台に激戦を繰り広

げる

しかし 長谷堂城の戦いの最中に三成が負けたとの報に接した兼継は その場で自害して果てよ

うとする

ここで兼継を思い止まらせたのが 前田慶次郎であった 慶次郎の説得により敗北を受け入れた

兼継は全力で撤退する

「関ヶ原の戦い」のあとの兼継は 上杉家を存続させるために徳川への謝罪に奔走する

この戦いの発端は自分の責任であり 主君は一切関係なしとする兼継の言葉に家康は関心し 上杉

家の禄は120万石から米沢30万石へ減封で許された

上杉家は大所帯をかかえ死活問題であったが 兼継は上杉の将兵たちを誰ひとりとして見捨てるこ

となく新たな上杉家のなかに組み込んだ

以降兼継は粉骨砕身し 1620年60歳でこの世を去るまで町の発展に力を尽くす 兼継の跡継

ぎは急逝していたため 兼継の禄は上杉家の加えられた

兼継は死してなお 上杉家に奉公したのである


120万石から減封され 30万石の米沢城へ
写真は 平成21年8月30日に登城した際に撮ったものです
20100320 米沢城 01
20100327 米沢城

20100327 001

今日 江戸城に登城しましたので 明日は「日本百名城21 江戸城」をアップ予定です

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「直江 兼続」の義 その2

家康を敵に回して 一歩も退かない心意気

『徳川家康に 叩きつけた挑戦状』

上杉の最大の敵であった織田信長が「本能寺の変」で倒れると 激動の時代に上杉家を存続させる

ため兼続は全国を駆け巡り 上杉家は地方大名から豊臣政権下で五本の指に数えられる大大名に

なる

そんな時 兼続が出会ったのが石田三成である 二人が初めて会ったのが1583年 互いに上杉

家と豊臣家の和睦の使者として対面した

年も同じで主君から絶大な信頼を受けている者同士 何か通じるものがあったのだろう やがて気

心の知れた同志ともいうべき仲になる

秀吉が死去すると この機を待っていたかのように徳川家康が動き出す

豊臣家をないがしろにする家康に対し 三成は憤慨し また兼継もその義心に感じ入り 二人は打

倒家康を誓う

まず居城である会津若松城を手狭と見て 会津盆地の中央部に巨大な神指城の造営を開始する

こうして迎えた1600年 兼継は来るべく決戦に向けさらに軍備を進めていた

この状況を見て上杉家に謀反の動きありと恐れた家康は 上洛して弁明するよう要求

しかし これに対して兼継は「そちらも軍を動かす準備をしているようだが 会津へ着て頂ける

のならばいくらでも説明しようではないか」という内容の書状を家康に送りつけている

要は「来るなら来い」という挑戦状である

また 家康から書状のなかにあった「武具を集めているようだが 謀反の準備ではないのか?」

という質問に対し 兼継は「上方武士は 茶碗や炭取り箱など人たらしの道具を集めているそう

だが 我々田舎武士は槍や鉄砲などの道具を集めている」という強烈な嫌みを込めた一文を添え

て返している

家康が権力誇示のために上杉家を攻めるならば こちらは義の旗のもと堂々と徳川勢を迎え撃つ

兼継の思いが込められたこのあまりにも挑戦的で痛快な書状は評判となり「直江状」として後世

に伝わることになる

ただし「直江状」の原文は残存していないため その文面は後世に書かれたようである


手狭となった会津若松城
1600年には、神指城は完成していない
写真は 平成21年8月30日に百名城めぐりで撮ったものです
20100326 会津若松城 001

20100326 会津若松城 002

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「直江 兼続」の義 その1

家康を敵に回して 一歩も退かない心意気

『主君・謙信のすべてを受け継ぐ』

越後の上杉家に生涯仕えた直江兼続は 知勇兼備にして信義に厚い武士の鑑のような男であった

幼い頃から才覚を見せていた兼続は 直ぐに上杉謙信の目に止まり 謙信の養子である景継の近

習として側に置かれるようになる

兼続は謙信に追従する形で多くの戦場に参戦し 戦いの采配や軍略など 謙信の能力と知識を見

事に受継いでいく

また 兼続は兜に「愛」の文字を象った前立てを付けていたが これには愛染明王を模するとともに

戦場にあっては私欲のためではなく 民のために戦うことを宣言した「愛民」の意味も含まれていた

謙信は不義の戦いを何より嫌っていたので 兼続は謙信から高潔な精神も受け継いでいたのである

1578年に謙信が病死すると 養子である景勝と景虎のあいだで家督相続をめぐる争い「御館の乱」

が勃発し 景勝は遺言と称してすばやく春日山城の本丸を奪取するが この行動を献策した人物が

兼続であったといわれている

1581年 「御館の乱」での論功行賞のもつれによって 景勝の側近である直江信綱が殺害される事

件が発生した 信綱には跡取りがおらず お家断絶となってしまうので 直江家の存続を願う

景継は 側近で信望の厚い兼継を正室であった「お船」と結婚させ 直江兼継が誕生したのである

そして直江家を相続した兼継は名実ともに上杉家第一の権臣となった


兼続が謙信から高潔な精神も受け継いだ春日山城
この坂道を登りながらも「義」を極めていったのでしょうね
写真は 平成21年6月20日に百名城めぐりで撮影したものです
20100325 春日山城 002

春日山城から上越の城下町を見下ろし、泰平の世を願ったのでしょうか
20100325 春日山城 003

三成の友達でしょ 知ってるよ!
20100325 ピレット 001

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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