石川 数正(岡崎城・松本城)

家康に仕え事務手腕に長けた武将

「人ほめ秀吉」に魅了され徳川家から離脱す


数正は家康が幼少の頃から近習として仕え、家康が今川家へ人質に出されるとこれに随行した

1562年1月 数正は落ち目の今川氏と手を切り 日の出の勢いにある織田家と同盟を結ぶことを主君・家康

に提言

数正は自ら外務に尽力し 清洲城で織田信長と家康が同盟の席を設ける手はずを整え 織田・徳川の同盟を

成功させている

1563年三河で一向一揆が起こると 父・康正は家康を裏切ったが数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした

各地での転戦に参軍した数正は 家康の嫡子・信康の老臣となり 岡崎城に入る

1584年の「小牧・長久手の戦い」の際は 秀吉の日の出の勢いは止められないと判断 主君・家康に秀吉と

一刻も早く和議を結ぶことが肝要と進言し 家康から疎んじられる

数正は「小牧・長久手合戦」後 家康の特使として上京し秀吉と謁見し 和睦の条件として家康の次男・秀康

を秀吉の養子とする名目で人質に出す交渉を進めた

秀康上京の際には数正の長男・康長を随行させている

1585年 秀吉の得意な懐柔作戦で厚遇を受けた数正は 家康を完全に見限って出奔したのか 秀吉に内応

する形をとって実は家康に秀吉の動きを流していたのか実情は不明ながら 数正は家康のもとを去り 秀吉

の家臣となる事件が起きた

1590年7月には 信濃松本城主となり10万石を領す出世を果たしたが 豊臣家臣団の中でその力量を発揮

する場はなく 実際は豊臣家中でもその忠義の程を疑われ重用されなかったのが実情であった

かつては徳川家臣団筆頭家老として存分に器量を発揮した数正も寝返りという不忠義を犯したために活躍の

場を失い 急速に老衰していった

数正の晩年は不遇であり失意の余り城に引きこもるようになり 国政の最前線への復帰を夢見ながら没した


【出奔の理由】(Wikiより)
数正が出奔したことは家康を大きく動揺させ、軍制の改正を余儀なくされたともされているが、出奔の理由には諸説あって定かではない。

・秀吉との外交を担当していたが、次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。

・秀吉との外交を担当していたが、秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。

・秀吉との外交を担当していたが、対秀吉強硬派である本多忠勝らに数正が秀吉と内通していると猜疑し、数
 正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。

・松平信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になってい
 たという説。

・松平信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移
 ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。

・父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功
 績にも関わらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるを得なかったからとする説。

・山岡荘八の小説『徳川家康』では、家康の家臣には外交に向かない無骨者の三河武士が多いため、家康
 や本多重次との暗黙の了解のうちに、あえて秀吉の家臣となり、家康の外交を秀吉の側から助ける役目
 を引き受けたという設定になっている。



1579年に信康が切腹すると岡崎城代となる。
写真は、平成21年9月22日に百名城めぐりで撮ったものです。
岡崎城1
岡崎城2

小田原征伐で後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に移ると信濃松本信濃松本藩の初代藩主となる。
写真は、平成21年6月20日に百名城めぐりで撮ったものです。
松本城 03
松本城 08

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豊臣 秀長(竹田城 姫路城)

豊臣秀吉の異母弟

『秀吉に従い出世目覚しい 秀吉軍団の副将として活躍』

秀吉の中国攻めに従軍し、播磨国攻略の際には、目覚しい活躍を見せた

1577年但馬竹田城主となり 1580年には但馬出石城主となる この時 秀長は但馬銀山の防備という

重用な役目を負っていた

1582年備中高松城攻めを行っていた秀吉軍に本能寺の変の急報が届くと秀長は秀吉とともに中国大返し

を敢行

山崎合戦で信長の仇討ち合戦を行い 明智軍を撃破

山崎合戦後 秀長は従五位下美濃守に叙任され 播磨・但馬の領主を務め姫路城に入った
 
1583年賤ヶ岳の戦いや1585年の紀伊根来寺征伐にて秀長は戦功を挙げ 紀伊・和泉を領した

さらに四国平定戦では病に伏した秀吉に代わって 総大将を務め見事 四国平定を成した1587年九州平定

戦では1万5000の大軍を率いて出陣

1590年1月頃から病となり 翌年1591年1月22日大和郡山城にて享年52歳で没す


写真は、平成21年11月1日に百名城めぐりで撮った「竹田城」です。
雲海に浮かぶ天空の城を期待し、6時30分に駐車場に到着するも駐車場はほぼ満車で人気の高さが伺えます。
竹田城 001

期待した雲海も次回に見ることになりました。城跡は早朝にもかかわらず凄い賑わいでした。
竹田城 002
竹田城 003

本丸から南千畳を望むベストアングルは壮観の一言です。
竹田城 004

写真は、平成21年11月2日に百名城めぐりで撮った「姫路城」です。
SWには混雑のため駐車場にも入れず登城できませんでしたので、今回は近隣のホテルに前泊しての登城です。
20091102姫路城04

早朝にもかかわらず老若男女&外人さんで、城内は直ぐに混雑状態になりました。
特別公開の西・東小天主および西の丸など3時間かけてゆっくり見て廻りました。
姫路城 002

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小早川 秀秋

世間の風当たりが強く わずか2年で早死!?

『東軍に寝返った 小早川秀秋』

小早川秀秋は 豊臣秀吉の正室ねねの甥で 幼い頃養子となった

秀吉に実子秀頼が生まれると 小早川隆景の養子に出され その後継者となった 秀吉は秀秋をかわいがり

筑前国名島の36万石の大名にした

慶長の役では 秀秋は総大将として渡航するが 戦略をめぐって石田三成と対立し 軽挙に出た 秀吉は怒り

秀秋を処罰しようとしたが 家康がその場をとりなし 秀秋を助けた 家康は秀秋に恩を売ったのである

9月14日秀秋のもとに書状が届いた 秀頼が15歳になるまで秀秋に関白職を委ねたい 播磨国を加増する

などの条件を記した誓約書である

三成と小西行長の連盟で 秀秋に再度出馬を申し入れたのである

拒否を続ければ西軍に包囲される可能性もあったため 秀秋はこの要請を承諾し 再び家康と内通し 戦が

はじまれば東軍に寝返ると内応を約束した

9月15日関が原の決戦の火蓋が切られた 東西両軍は攻防を重ね 接戦が続く

しかし 正午近くになっても小早川軍は日和見を続け 行動を起こす気配がない

そこで 西軍は狼煙をあげて 秀秋に戦闘への参加を促した

家康側にも焦りがあった 家康はこう言った「あの子せがれに謀られたか」 そして「金吾(秀秋の通称)

の陣に向け 鉄砲を撃て」と命じた

その銃撃で秀秋は意を決し 正午過ぎ 小早川軍1万5000余りは東軍に寝返り 家康軍を勝利に導いた

秀秋は戦功の恩賞として 51万石に加封され宇喜田秀秋あとの備前岡山城主となった

しかし 家臣を殺すなどの乱行や国政の乱れなどで 家臣が秀秋を見限って出て行くなどで わずか1年で

その生活も終わりを迎える

若くして大封を与えられたプレッシャーからか 関が原の合戦における自らの行動に対する悔恨からか 

さまざまな要因にからノイローゼ気味になる 頼れるべき家臣がいなかったことも災いしたのだろう 関ヶ原

の合戦から僅か2年後 秀秋は21歳という若さで病死した

世間からは裏切り者のレッテルを張られた哀れな最後である 秀秋には子どもがいなかったので 小早川家

は断絶となる

関ヶ原の戦いの後、岡山城に宇喜多氏に代わり小早川秀家が入封するも 国政は乱れた。
写真は、平成22年2月17日に百名城めぐりで撮ったものです。
岡山城1

岡山城唯一の現存建物、月見櫓です。
岡山城2

新しいハウスですが、生活はできません!
20100428 001

「とうちゃん、どうすれば登れるんだい!」by 2号
20100428 002

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                                        <参考文献:戦国武将あの人その後>



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南部 師行(根城)

八戸の基礎を築いた南部師行

南部師行は 鎌倉時代後期から室町時代初期の武将で根城南部氏の当主

元々は甲斐の国に所領を持っていたが 1333年5月に鎌倉幕府が滅亡し 後醍醐天皇の建武の新政が

開始されると 同年10月に陸奥守の北畠顕家が後醍醐天皇の皇子の義良親王を奉じて陸奥国多賀城に

下向するのに目代として随行

糠部郡八戸に根城を築いて拠点とし 行政の管掌を担当した

1335年 足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると 顕家は尊氏を追討するために義良親王とともに陸奥

の地を離れたが 師行は陸奥に残留し 尊氏に与した曽我貞光と戦った

1336年3月 顕家と義良親王が再び陸奥に下向した

1338年1月 美濃国青野原での青野原の戦いでは北朝方を破ったが 同年5月22日の和泉国石津での

石津の戦いで南朝方は北朝方の高師直の軍に敗北し 師行は顕家とともに戦死した 家督は弟の政長が

継承した

八戸博物館前の南部師行公
百名城スタンプは、この博物館に設置してあります。
根城 001

南朝方につき陸奥国司代となった南部師行が築いた城
奥州における南朝方の拠点となる城であることから「根城」と命名したという
写真は、平成21年8月2日に百名城めぐりで撮ったものです。
根城 002

平成6年に主殿、工房、番所などが復元されています。
根城 003

東善寺館の東側に位置する堀跡で、館全体の外側を巡っています。
根城 004

「南部師行公」は、城めぐりするまで知らなかったよ! 戦国時代より前の人だからね。
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いつも散歩に来る水公園だけど、天気がいいから魚釣りのオッチャン達がいっぱいいるな~。
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僕は泳げないから水は怖いんです! 思わず腰が引けてしまいます~。
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吉川 広家(岩国城)

広家は東軍の勝利を確信していた

『毛利の戦闘不参加を誓う書状を黒田長政に送る』

関ヶ原の戦いでは 毛利氏の当主であった毛利輝元が 石田三成・安国寺恵瓊らによって西軍の総大将

とされた 

外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており 主家に背いても徳川加担を主張する広家と 西軍総大将の立場

を貫くべきとする恵瓊は 大坂城で激論を闘わせたとされる

しかし あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は 同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を

練り 恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で黒田長政を通じて家康に内通し 毛利領の安堵という密約を

取り付ける

9月15日の本戦には西軍として参加したものの 家康に内通していた広家は南宮山に布陣 総大将毛利

秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した あくまで西軍に加勢しようとする安国寺

恵瓊や長宗我部盛親 長束正家の使者が来訪するが 広家は「これから弁当を食べる」と言って要求を退

けたと言われる これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた

結果は家康率いる東軍勝利となり 毛利隊は戦わずに戦場を離脱せざるをえなくなった

ところが 初めの約束とは裏腹に 毛利宗家の本領安堵は反故とされ その後広家には周防・長門の2ヶ

国37万石を与えるとの沙汰があった

広家はこの沙汰に対して「私に対する御恩顧は忘れませんが 何卒毛利家という家名を残していただきたく

願いあげます 輝元は今後 徳川氏に対する忠節に励むことでありましょう 万が一 輝元が徳川に対して

弓引くようなことがあれば たとえ本家といえども 輝元の首を取って差し出す覚悟でございます・・・云々」

との起請文を書いた

広家のこの起請文に安堵した家康は10月10日になって 輝元に対し広家に与えられるはずであった周防

・長門の2ヶ国を毛利宗家に安堵すること 毛利輝元 毛利秀就父子の身命の安全を保障する旨の起請文が

もたらされた

広家としては 黒田長政や家康の重臣たちではなく 家康と直接内応の交渉を行わなかった事は手落ちで

あり 移封後は家政の第一線から退くことになる


関ヶ原の戦い後に、岩国に転封された吉川広家が岩国城を築いた
写真は、平成21年7月14日に百名城めぐりで撮ったものです。

山上に「南蛮造」の天守が再建されています。
岩国城 001

居館と城下はアーチ型の木橋である「錦帯橋」で結ばれている。
錦帯橋の右上に小さく見えるのが岩国城です。
錦帯橋は有名で観光客がたくさんいましたが、岩国城は閑散としていました。
岩国城 003
岩国城 006

岩国城の展望台より見る城下です。観光用に再建されただけに眺望は素晴らしかったです。
岩国城 005

元の天守台です。
現在の天守は錦帯橋から見えるように、50m前に移動し再建されています。
岩国城 004

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片倉 小十郎(景綱)

伊達政宗を奥州の覇者にした補佐役

『独眼竜の名参謀』

伊達政宗の小姓として取立てられ傳役となり のちに政宗に重用され常に陣列にあって功をあげた

疱瘡のため失明した政宗の片目をえぐり取ったといわれる

政宗の奥州平定では伊達成実と共に政宗の両腕となる

豊臣秀吉の小田原攻めの参陣を拒む政宗を説得し 政宗と共に死を覚悟して小田原へ参陣する

伊達家は秀吉に許されて臣従する 小十郎は1万3千石の白石城主となる

秀吉や徳川家康からの誘いを断り 伊達家の臣として通した忠臣 59歳で死去


片倉小十郎が仕えた 伊達政宗
写真は、平成21年5月7日に百名城めぐりで撮ったものです
仙台城のおみやげ屋さんに、片倉小十郎の清涼飲料水は沢山ありましたが、伊達政宗の飲料水は
売り切れで全くありませんでした。
伊達政宗 002

小十郎が入封した白石城です
写真は、平成21年5月6日に撮ったものです。
白石城 001

到着が17時を過ぎてましたので、入城することはできませんでした。残念です!
白石城 002

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山本 勘介

武田信玄を支えた隻眼の参謀

『川中島の合戦で 策を見破られ討ち死にする』

山本勘介の存在は はっきりしないところがあるが軍記物に書かれている勘介を追ってみることとする

勘介は20歳の頃から武者修行をはじめ 約10年もの間 諸国を廻って兵法を学び 築城術や陣法を

極めたという

その後 37歳になった勘介は今川氏に仕官しようと駿河に入るが 色黒で隻眼なうえ足が不自由な

ため採用されなかった

しかし 駿河に築城術に長けた浪人がいると聞きつけた武田氏の家臣が勘介のもとを訪れ 武田信玄

に推挙された

勘介は 上杉謙信に備えて海津城(松代城)の築城を進言し 自ら城を築いたという

1561年 謙信が1万3千の軍を率いて川中島に進出し 妻女山に陣取って海津城を脅かした

信玄が2万の軍を率いて海津城に入ると 同行した勘介は作戦の立案を命じられ 馬場信房とともに策

を練って「啄木鳥戦法」を献策した

「啄木鳥戦法」とは まず軍勢を大きく二手に分け 夜間のうちに別働隊を妻女山にいる上杉軍に裏手

に接近させ 夜明けとともに攻撃をかける そして奇襲に驚いた上杉軍が山を降りて来たところを待ち

受ける信玄の本体と挟撃して討ち破るというものであった

ところが 夕食時の煙の多さから奇襲を察知した謙信は 武田軍の別働隊が移動している間に密かに

妻女山を降りて八幡原に布陣し 逆に夜明けとともに信玄の本隊に奇襲をかけてきたのである

信玄と雌雄を決すべく猛攻を加える上杉軍の前に 武田軍は大将格の武将数人が討ち取られる事態と

なった 勘介自信も敵陣に突入して奮戦したが討ち取られたという

武田信玄が北信濃を支配するため 山本勘介に命じて築城した松代城(築城当時は海津城と呼んでいた)
写真は 平成22年6月20日に百名城めぐりで撮ったものです
近年 本丸石垣や内堀が修築され 本丸大手の太鼓門や北不明門などが復元されています
松代城 001

修築された内堀です 
松代城 002

野面積で積まれた櫓台の石垣は 城内に現存する石垣で最も古い
松代城 003

小諸城は 武田信玄が侵略し山本勘介に命じて拡張整備した城です
写真は 平成21年6月21日に百名城めぐりで撮ったものです
「三の門」は 1765年に建てられた2代目の門で 国の重要文化財になっています
小諸城 001

苔むした古い石垣に いかちい勘介を感じました
小諸城 002

天守台から城内を見ています 城郭部は城下町より低い位置にあるので「穴城」ともいわれる
小諸城 005

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                                        <参考文献:戦国武将がよくわかる本>

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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I LOVE 郡上おどり













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