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前期戦国大名(2) 稀代の智将 毛利元就

武略・謀略・調略を自在に操った戦国時代を代表する智将

毛利氏は 鎌倉時代 相模武士だった毛利時親が安芸国吉田荘の地頭として安芸に入り 室町時代には

国人領主に成長していった

安芸国の守護は武田氏であり その下に30人ほどの国人が被官として名を連ねており 元就もその一人

であった

元就は他の国人たちと国人一揆を結び 守護武田氏を凌駕し 同じ国人だった吉川氏には2男の元春を 

小早川氏には3男隆景をそれぞれ養子として送り込み また また 同じ国人の宍戸氏には娘を嫁がせる

などして 国人一揆の中で頭ひとつ飛び出す形となった

もっとも その時点ではまだ独立大名というわけではなく 尼子氏か大内氏かにつかなければ家を保つことは

できなかった

元就は はじめに尼子氏につき 後に大内氏に属し 自分の嫡子を人質として大内義隆のもとに送っている

その頃 元就は「傘連判状」の形で 同僚であるとみせながら 次第に力を強め ついに戦国大名化に成功

している

1555年の「厳島の戦い」は元就の画期的となる戦いであった この戦いで大内義隆を倒した陶晴賢を破って

いるのである

その結果 旧大内領をほぼ併呑することに成功し さらに1566年には 尼子義久を降伏させ 西は長門から

東は備中・因幡に至る中国地方10ヵ国を領有する大戦国大名となった


毛利元就が居城とした吉田郡山城(100名城72:残念ながら未登城)は、比高190mの山城。
元就時代は郡山の中腹の小峰を本丸とした小さな城であったが、勢力が拡大するに連れて、城も拡大され郡山全体が要塞化された

毛利元就の孫・輝元時代の1589年に築城された広島城。
外観五重、内部5階の天守は、秀吉の大坂城天守に近い大きさを有した、全国最大級の天守であった。
写真は、平成22年2月5日に百名城めぐりで撮ったものです。
広島城 001

pig 20100523 001
sa-ko 20100523 001

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                                           <参考文献:戦国時代>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

名古屋城の金のシャチホコ

加藤清正の霊に守られて生き長らえた?

尾張名古屋城のシンボルといえば 名古屋城のてっぺんに燦然と輝く金のシャチホコ

加藤清正が慶長小判1940枚を投じて造ったものである

日本には城は多いが これほど豪華な飾りをつけた城は 他にはないだろう

この金のシャチホコについて江戸時代以降 こんな噂が流れた

「金シャチに手を触れた者は末代まで凶運に見舞われる」

豊臣家の安泰のために家康の機嫌をとろうと 清正が金のシャチホコを造って献じたのにもかかわらず

豊臣家が滅ぼされたため そんな噂が流れたのである

では 噂のシャチホコにその後 手を触れたものはいなかったのだろうか

1712年 金助という泥棒が「手を触れなければいいんだ」と大きな凧にのり 棒の先でシャチホコの鱗3枚

をはがして盗み出した(これは逸話のようです)

さらに1726年 金に困った尾張藩は シャチホコの金の鱗をこっそりはがし 純度の低い金に変えてしまった

これに味をしめた尾張藩は 何度も同じようなことをして シャチホコの金の純度はどんどん落ちていった

いよいよ 1871年にはシャチホコを鋳つぶして旧藩士の救済金に当てようという案が出る始末

シャチホコは屋根から下ろされ 陸軍名古屋分室に保管されたが そのとき番兵が鱗を3枚盗み バレて銃殺

にされている

さらにその直後 東京博物館に委託保管中に 鱗が一部盗まれている

そして1937年に天守閣に登って鱗58枚を盗んだ男がいたが 売りさばこうとしたところを見つかって逮捕され 

盗品は買い戻され修理された

清正の霊もなんのそので盗人に狙われ続けた金シャチだったが 1945年 空襲のためついに灰燼に帰した

現在 名古屋城で輝いているのは 1959年に造幣局が「日本城郭図面集」に従って復元したものです


城内は工事中が多いため お城全体が撮れる場所が少なかったです。 
写真は、平成22年5月9日に百名城めぐりで撮ったものです。
シャチホコ 001

上の写真のシャチホコのみの画像です。
シャチホコ 002

西から堀越しに、シャチホコをアップで撮った画像です。
シャチホコ 003

屋根に「さかな」が飛びついたのかぁ~
シャチホコ pig

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                                           <参考文献:歴史の意外な結末>

テーマ : 歴史雑学
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前期戦国大名(1) 北条 早雲

日本ではじめての戦国大名は 老年になってから国を盗った

『あっという間に一国を平定してしまった老将』

北条早雲は戦国大名としては 最も早い時期に属する

伊勢の浪人から戦国大名にのし上がった 戦国屈指の下剋上者

その出自や前半生は ほとんど謎に包まれているが 一説に室町幕府重臣・伊勢氏の流れをくむ伊勢関氏の

一族と伝えられている

北条早雲は生涯 北条氏を称することはなく伊勢盛時あるいは伊勢宗瑞と名乗ったが ここでは北条早雲で

統一する

1491年に伊豆国を統べる堀越公方・足利正知が死没し 家督争いに勝った茶々丸が後継者になる

これを見た早雲は 伊豆国を支配する絶好の機会ととらえ わずかな手勢を率いて伊豆に攻め込んだ

この時すでに早雲は60歳 当時としては相当の高齢者である 普通なら たとえ考えついても行動を起こす

のは狂気の沙汰である

今川家から兵300を借り受け 自兵とあわせ500で清水港から舟を出して伊豆国へ上陸し 堀越公方の屋敷

を急襲して茶々丸を殺し わずか1ヶ月でほぼ全土を平定した

こうして 早雲は伊豆韮山城を新たな居城と定め 関東侵攻の足がかりを掴んだ

新たな領地支配に対して 早雲は高貴な家柄でないことから統治の根拠をもたらすべく 当時6公4民~8公

2民であった年貢率を4公6民に引き下げて、民衆の支持を獲得した

伊豆統治に成功した早雲は、相模小田原城の当主・大森藤頼に接近し 貢物を贈るなどして油断させ 1495

年になって伊豆領内から相模領内へと逃れた鹿を伊豆に追い返したいと大森氏に願い出た

この鹿狩りに変装した早雲の家臣たちが深夜 牛の角にたいまつをつけて小田原城に向けて追い立て さも

大軍が小田原城に攻め寄せてきたように見せかけた

これに驚いた小田原城内は大混乱となり この混乱に乗じて少数の軍兵で早雲が小田原城に攻め寄せると

小田原城はあっさりと陥落してしまった

こうして大きな被害を出さずに早雲は 相模小田原城を奪取することに成功したのである

早雲は自分が生きている間に 三浦半島の三浦氏を攻め滅ぼさなければ安心して死ねないと 早雲は老齢

の体を押して相模岡崎城に拠る三浦義同を攻撃し 三浦氏討滅に成功する

三浦氏討滅後は 早雲も安穏とした隠居生活を送り 波乱万丈の人生に一時の休息を得た

1519年体調を崩していた早雲の病状が悪化し 回復する事無く韮山城にて没した


北条 早雲 1432-1519 享年88歳という天寿を全うしての大往生であった
北条早雲

騙し取った小田原城 当時は勿論こんな城郭ではなかった
写真は、平成21年11月24日百名城めぐりで撮ったものです。
小田原城 02

気にもしてないような、管理人ですが・・・
pig 20100521 001

凄く気になっています。あと一歩で会話がはじまる雰囲気です。
pig 20100521 002

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                                           <参考文献:ふるさとの戦国武将>

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加藤 嘉明 (賤ヶ岳七本槍の一人)

豊臣家武断派に列し 秀吉の天下統一戦に従い各地を転戦した

関ヶ原合戦では東軍に属して活躍し 戦後も栄華を見た

1563年家康の家臣である加藤教明の長男として生まれる

生まれた年の「三河一向一揆」教明が一揆側に属して家康に背き 流浪の身となったため嘉明も放浪する

尾張国で 加藤景泰の推挙を受けて羽柴秀吉に見出され その小姓として仕えるようになる

織田信長死後の1583年には 秀吉と柴田勝家との間で行われた「賤ヶ岳の戦い」で 福島正則・加藤清正ら

と共に活躍し『賤ヶ岳七本槍』の一人に数えられた

秀吉が信長の統一政策を継承したため 嘉明は1585年の「四国攻め」 1587年の「九州の役 1590年の

「小田原の役」などに水軍を率いて参加した

それらの武功から 1586年には淡路志智において1万5000石を与えられ大名となる

1592年からの秀吉の朝鮮出兵である「文禄の役」では 水軍を統率して朝鮮水軍と戦った

1598年8月に秀吉が死去すると 豊臣政権における五奉行の石田三成らと五大老の徳川家康の争いでは

家康派に属する

1599年に五大老の前田利家が亡くなると 加藤清正らが三成殺害を企てた事件には嘉明も襲撃メンバーに

参加している

1600年の「関ヶ原の戦い」では 嘉明は前哨戦である岐阜城攻めや 大垣城攻めを行い 本戦では石田

三成の軍勢と戦って武功を挙げた

戦後 その功績により伊予松山20万石に加増移封され 松山城を建築するが完成する前に会津藩40万石に

転封された

豊臣恩顧の大名であったため 家康に危険視されることを恐れて 1614年からの豊臣氏との戦いである「大

坂冬の陣」では江戸城留守居を務め 1615年の「大坂夏の陣」では2代将軍・徳川秀忠に従って徳川方とし

て参加した

1619年には福島正則の改易で広島城の接収を行っている

1627年会津の蒲生忠郷死後の騒動で蒲生氏が減転封された後を受けて、会津藩40万石に加増移封される

1631年9月12日に江戸で死去した 享年69

嘉明は 『真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である』 と発言している

力が弱かったとしても団結力と連携を活かせば恐るべき抵抗力を発揮するからとの理由である

逆に豪傑肌の人間は 『勝っているときは調子がいいが 危機には平気で仲間を見捨てる』と手厳しい

鉄砲大将として活躍した家臣の塙直之との確執も この人間観に起因している部分が大きいのでしょう


加藤 嘉明 1563-1631 享年69歳
加藤 嘉明

蒲生氏の後に 40万石で入封した会津若松城 
20100326 会津若松城 001

かっては一緒に戦った 福島正則の広島城を接収しなければならなかった
広島城 01

テディとはニアミスですが、会話はできていません。
自分より大きいから避けているのか、新しい住人だから無視しているのでしょうか。
pig 20100519 002

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館林城 (群馬県)

徳川綱吉(五代将軍)を輩出した城として栄える

城郭は平城で城沼を外堀とする要害堅固の城で当時では珍しい総構えで広い城域に城下町を取り込み

外側を高い土塁と堀で囲んでいたようです

戦国時代には 越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏、北条

氏などが館林城を支配するようになったが 1590年の徳川家康の関東入封に伴って 徳川四天王の一人 

榊原康政が10万石で城主となり石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた

江戸時代を迎えると 館林は利根川を押えることができる東北方面の要所として また 徳川綱吉が五代

将軍になってからは 将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な城として、江戸時代に位置づけられ 最期

の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家(榊原、松平大給、徳川、松平越智、太田、井上、秋元)の

居城として栄えた

現在 一部の遺構を残しているのみで 跡地に市役所・文化会館・市立図書館・向井千秋記念子ども科学館

などが建てられている

城の建物の大半は明治7年(1874年)に焼失したが 現在でも本丸・三の丸・稲荷郭・城下町などの土塁の

一部が残されている また三の丸には土橋門が復元されている


復元された土橋門
昭和57年に復元されております。正門である「千貫門」とともに、城中心部の三の丸への通用門として利用された。
写真は、平成22年5月17日に撮ったものです。
館林城 001

復元された井戸
館林城 002

本丸跡
本丸跡から三の丸方向を見る。本丸跡は、結構広いです。
館林城 003

本丸跡の土塁
館林城 004

石組溝状遺構(移設復元)
長さ約18m・幅約40cmの石組・石敷き水路です。
本丸跡の向井千秋記念市立こども科学館裏側に移設復元されています。
館林城 005
館林城 006

八幡曲輪にある八幡宮
館林城 007

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

唐沢山城 (関東七名城):栃木県

関東七名城の一つで 関東一の山城と賞賛される

佐野市街地の北方約5kmの唐沢山(247m)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された連郭式山城である

関東地方の古城には珍しく 高い石垣が築かれているのが特徴である

城からは 晴れた日には新宿の高層ビル群が見えるという

戦国時代の佐野氏は相模の北条氏 越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した

当初 越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は 1559年に北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲されたが

謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させている

昌綱の子・宗綱は 弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり 一族間で「唐沢山天正の乱」と呼ばれ

る争いが起こった

これにより佐野氏は上杉氏と決別したため 1576年虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵をもってこの

城を攻めたが 一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた

その後も9度にわたり上杉軍の攻城を受けたがことごとく退けている この堅固さは評判となり関東一の山城

と賞賛された

1602年麓に佐野城が築かれ 平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた

廃城に至った説として 江戸に火災があったとき 山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参

じたが 江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったと言う話がある

その後 江戸から20里以内の山城は禁令されていたとの説もある

平成22年3月下旬に、登城を試みましたが唐沢山神社で弓道大会が開催されており、駐車場が全く空いてなく、今回リベンジ登城になりました。
写真は、平成22年5月17日に撮ったものです。
唐沢城 001

駐車場脇の枡形虎口
唐沢城 002

大炊の井
直径約8m、深さ約9mもあり、これまで水が枯れたことはないという。
唐沢城 004

山頂を本丸として、一帯に曲輪が配された連郭式山城です。
唐沢城 003

関東の古城では珍しく、本丸に高石垣を築いております。
古い石垣であることを見てとれます。
唐沢城 005

本丸跡には、「ムカデ退治伝説」や「平将門の乱」を鎮圧した藤原秀郷を祀った唐沢山神社が建立されています。
唐沢城 006

ここから、東京の高層ビルが見えるそうですが、残念ながら春霞で東京は見えませんでした。
江戸の火災もこの場所から見えたんでしょうね!
唐沢城 007

佐野城
1602年にJR佐野駅北側にある 南北に細長い独立丘に佐野城は築かれている。
写真は、こちらも同様に平成22年5月17日に撮ったものです。
佐野城 001

本丸跡ですが遺構は殆どなく、現在は城山公園となっています。
佐野城 002

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                                          <参考文献:現地案内板>

テーマ : 歴史
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徳川 秀忠

父・家康に似ず 凡庸な人物

次期将軍が約束されると教養修得によって 戦国屈指の治世家となる

1579年に徳川家康の三男として浜松で誕生 母は西郷の局(於愛の方)

長兄・徳川(松平)信康が自刃したため 家康は秀忠を嫡子と定めて 土井利勝・青山忠俊・内藤清成らを

傅役として附ける

16歳の時 秀吉の命により浅井長政の三女・於江与を正室に迎える 秀忠は側室を一切持たなかったが

部屋方に奉公していた於静に一男をもうけており その子は後に会津藩祖・保科正之となる

1600年 関ヶ原の戦い(21歳)では、東海道を進む家康本隊に対して、徳川主力3万を率いて中山道を進む

別働隊を率いる役割を与えられる

途中 西軍に属した真田昌幸が守る信濃上田城攻略に着手するが 真田家に翻弄され 上田城を攻略する

ことができず「関ケ原の合戦」に遅参するという散々な失態を披露する

1605年 26歳の時征夷大将軍に任ぜられ 徳川幕府二代目将軍となる

1614年に大坂冬の陣が起きると 関ケ原合戦の失態を教訓とし 出陣命令が出る前に江戸を出立する

1616年 37歳の時 父・家康が没する

1623年に将軍職を嫡男・家光に譲るも 父・家康に倣って引退後も実権は手放さず 大御所として二元政治

を行った 当初、駿府に引退した家康に倣い自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は

江戸城西の丸(現在の皇居)に移った

1632年 53歳の時 秀忠は死の直前に「当家夜をありつの日浅く 今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備

せしにあらざれば 近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが 今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ 

我なからむ後に 御身いささか憚る所なく改正し給へば これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」と

遺言している

律儀・誠実・温厚という性格を持った二代目将軍は 乱世には凡人だが 治世には自らを律し 法制をしく名君

であった


徳川 秀忠1579-1632 享年54歳
徳川秀忠

江戸城天守台
写真は、平成22年3月28日に撮ったものです。
1657年(明暦3年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されていない。
20100328 江戸城 007

江戸城大手門
20100327 江戸城 001

1603年徳川家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。本丸・二の丸・三の丸(現在の皇居東御苑)に加え、西の丸(皇居)、西の丸下(皇居外苑)、吹上(皇居吹上御苑)、北の丸(北の丸公園)の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。工事には日本全国の大名が動員された。
江戸城map

上田城
真田昌幸が守る信濃上田城攻略に着手するが、わずか2000人が籠城する上田城を攻略することができず「関ケ原の合戦」に遅参するという散々な失態を披露する。
写真は、平成21年6月21日に百名城めぐりで撮ったものです。
20100407 上田城 001

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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