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カリスマ武将Piglet 上田城を攻める(前編)

徳川家を2度も撃退した上田城

『なにを思ったのか 難攻不落の上田城をPigletが攻める』

真田昌幸は上州の真田領をめぐって 徳川家康との間に合戦がおこった時は わずか2千で8千の敵を打ち

破り 天下にその武名を知らしめた

秀吉亡き後 天下の覇者を決める関ヶ原の戦いでは 昌幸と次男の幸村が豊臣方に 長男の信之が徳川方

に別れて戦うことになり 昌幸親子は3万8千の大軍を上田城で迎え撃つ

敵を散々悩ませますが 西軍の敗北により昌幸・幸村親子は紀州の九度山へ流された

石神井城の戦いで初陣をかざり その後 武蔵松山城を落としたPigletは 昌幸・幸村親子が上田城に帰還

していることを聞き 何を思ったのか 平成22年5月29日に信州まで遠征し難攻不落の上田城攻めを行った


上田駅前ですれ違った武将が、真田幸村だったのか!
20100529 上田城 001

案内図にあるように 水堀と崖で固められているので大手道から攻める以外はなさそうだ
20100529 上田城 003
20100529 上田城 002

徳川軍は攻めを急いで大敗しているので、ここは秀吉を見習って兵糧攻めでいこう
20100529 上田城 004

Pigletは、兵糧攻めを行うため「真田石」の前で待機すること5分
20100529 上田城 005

真田親子は、開城し櫓門を開けてきたが、これに騙されて徳川軍は遣られているので注意だぞ!!
20100529 上田城 006

ここに隠れていて、後ろから攻める気だな
20100529 上田城 007

本丸には建造物ないが、火を放ったか、空腹でみんなで食べてしまったのだな
20100529 上田城 008

昌幸・幸村は西櫓に立て篭もっているだと!
20100529 上田城 009

西櫓の中も空っぽで誰もいないぞ
20900529 上田城 010

この真田井戸から太郎山への抜け穴があるそうだが、ここから逃げたのだろう。
20100529 上田城 010

幸村は、自慢の兜を忘れて逃げほど、あわてて逃げ出しているな
20100529 上田城 011

太郎山へ脱出した、昌幸・幸村は真田氏本城に籠城したと聞いたPigletは、“腹が減っては、戦はできぬ”ということで腹ごしらえ
カリスマ武将Pigletの強さはここにあり、出陣するのに弁当はいらないのである
20100529 上田城 012

Pigletは、真田本城にいる幸村親子を追いかけ、上田城を後にする
20100529 上田城013

後編は、明日ですよ~。また、遊びにきてくださいね!


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中世最大の天才 織田信長(2)

時代を超越した中世最大の天才

『新機軸を打ち出し 時代を牽引』

信長のイメージ戦略的な部分は 彼の人生のなかで随所にみることができる

1567年の美濃制覇をきっかけにスローガンを掲げた「天下布武」

いくら戦国時代とはいえ 小国の一大名が“武”を持って天下を征することを宣言するなど 正気の沙汰

とはいえない

しかし 目的が明確になったことで配下たちも結束し 織田家はさらなる躍進を果たすことになる

また 南蛮との交流を推進し 誰でもが初めて触れる新たな文化を数多く日本に持ち込んだのも信長だった

最新武器の鉄砲や強固な南蛮胴を大量生産し軍備を増強する

そのため異教であるキリスト教の布教も許し 城下には神学校まで建築させたのである

このように「古きを捨て新しくを創る」といった柔軟な考えは全てがセンセーショナルであった

未来を夢見る若者たちならなおさらで 信長の近くにいるほど その思いは強くなっていったのだろう

後世に名を残した戦国武将は尾張出身の人物が多い やはり信長に惹かれ 我も続けと発奮した結果が

歴史に現れているのだろう

やはり信長という人物は 人の上に立つ人間としては一流で 現代においても世代を超えて人々を引きつけ

ている

まさに 戦国武将織田信長は「時代を超越した天才」といえるのだろう


「信長の館」の信長は、BASARAではなく中世最大の天才でした。
写真は、平成21年11月3日に百名城めぐりで撮ったものです。
安土城 010

安土城は、信長が「天下統一」の拠点の城として、琵琶湖湖畔の標高198mの安土山に1576年から7年の
歳月をかけて築城した。
安土城 011

大手道の料金所
安土城 012

整備された大手道
幅6mの石段が約180m一直線に延び、山腹で左に折れている。
両側には家臣団の屋敷があったとされる
安土城 013

こんなのが届きましたが、何刊くらい発行されるのでしょうかね?
ご存知のかた、教えてください。
データファイル


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                                           <参考文献:戦国武将がよくわかる本>

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中世最大の天才 織田信長(1)

既成概念を打ち破った 婆娑羅武将

『少年時代から見せた恐るべき才覚』

戦国時代の武将と聞いて 誰もが真っ先に思い浮かべる武将が織田信長であり またファンも多いこと

でしょう

1534年に生まれた信長は 目覚しい活躍をみせ 瞬く間に天下にその名を轟かせる

「桶狭間の戦い」の奇襲作戦や「長篠の戦い」での鉄砲三段重ねを駆使した武田騎馬隊撃破などはあまり

にも有名であり もはや記することではないでしょう

1582年に明智光秀の謀反により「本能寺の変」で倒れるまでの怒涛の生涯は 日本の歴史の中でさん然と

輝いている

そんな信長も少年時代にはうつけ者と呼ばれ 周囲の大人たちからは煙たがれていた 奇抜なファッション

に身を包み 歳の近い者たちと身分の枠を超えた付き合いをしていたのである

織田家の重鎮達は 織田家もこれで終わりかと 悲観に暮れていたが これはポーズだったという説もある

というのも 当時 織田氏が治める尾張は 斎藤・今川・武田と名だたる豪族に囲まれていたからである

信長はあえて織田家の跡取りはうつけ者と見せることで 放っておいてもいつかは滅ぶであろうと油断させて

いたのではないだろうか

また 遊び相手のなかには 後に織田家の重鎮となって活躍する池田恒興や前田利家の姿もあった

天下人の座を射止めた徳川家康とも少年時代から交流があり 堅い同盟を結ぶことで勢力拡大に向けた

磐石の体制を整えることができた

しかも家督を継ぐや キッチリと身なりを整え 威風堂々たる佇まいで見事な当主ぶりをみせた

このギャップは諸侯に強烈な印象を植え付けることに成功し 柴田勝家や佐久間信盛岡ら旧家臣たちにも

自然と忠誠を誓おうという気にさせる効果があった



ここ「信長の館」に、1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された 原寸大の安土城天主
(5・6階)が展示されています
写真は、平成21年11月3日に百名城めぐりで撮ったものです。
安土城 001

婆娑羅武将の城は凄いです。朱と金以外の色はありません。
安土城 005

目が眩むとはこのことでしょうか
安土城 003

金箔10万枚を使用した外壁、金の鯱をのせた大屋根など絢燗豪華な安土城がここに復元されています
安土城 002

安土城 004

「はではでな安土城、わたしは好きだわぁ~」 by 1号
1号 20100528


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                                        <参考文献:戦国武将がよくわかる本>





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強烈な生き様を刻印した戦国のカリスマ

『婆娑羅(バサラ)』とは?

「婆娑羅」 それは、鎌倉幕府滅亡後に流行した きらびやかな衣装を纏い身分の枠を超えて好き勝手に

振舞うものたちを指していた

彼らのあまりにも奔放な考え方は危険視され 足利尊氏は『建武式目』において「婆娑羅」を禁止している

戦国時代における「婆娑羅」とは 頻繁に戦が勃発する不安定な世の中で 下克上を達成したり 己が思う

ままに人生をまっとうするなど その生き様に憧れや畏怖(いふ)を抱かせる人物のことを指すのであろう


『混沌とした時代にひときわ耀きを放つ「婆娑羅武将」』

南北朝時代の婆娑羅武将としては 佐々木高氏や土岐頼遠などが有名である

戦国時代で強烈な生き様を残した武将の代表といえば織田信長である

信長は 10倍の兵力をはねのけて勝利した「桶狭間の戦い」の大逆転劇や 天下布武を掲げて全国制覇

に乗り出す姿はあまりにも痛快である

他にも 信長に勝るとも劣らない破天荒な武将も数多くいる 昨日まで記してきた 戦国時代前期の武将 

斎藤道三・北条早雲や毛利元就などは まだ混沌とした戦国初期に下克上を達成し わずか一代で巨大

勢力を築きあげている

また 天下御免のかぶき者として有名な前田慶次や裏切りの人生を歩んだ松永久秀は 常識という枠では

捉えることのできない 凄まじい人生をまっとうしている

明日から数回に分けて 戦国のカリスマ武将についてアップしたいと思います

バサラ 信長バサラ 政宗
バサラ 利家バサラ 久秀
pig 20100527 001

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                                            <参考文献:戦国武将がよくわかる本>








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前期戦国大名(5) 浅井三代の礎 浅井 亮政

守護大名京極氏の被官から成り上がった江北の覇者

北近江三郡に大名領国制を展開したのが浅井氏である 浅井三代は亮政-久政-長政と続く

その初代亮政は もともと北近江の守護大名京極氏の被官にすぎなかったので 下克上による戦国大名化

であるが 守護代による下克上ではなく国人一揆からの戦国大名化であった

1523年 京極高清のとき老臣上坂信光の専横的態度に反感をもった被官などが 浅見貞則を盟主として

国人一揆を結び 京極高清と上坂信光を近江から追い出し 高清の子・高延を新しい守護に迎えた

その後 今度は盟主となった浅見貞則の専横ぶりが目につくようになり 2年後に亮政は浅見貞則に不満を

抱く国人たちを糾合し 浅見貞則打倒の軍事行動を起こした

この流れでいけば 次は権力を握った浅井亮政が追い落としに合う順番となるところであるが 浅井亮政の

場合はそうならず 横並びの国人一揆から頭ひとつ抜け出し 戦国大名化に成功した

その頃 南近江では戦国大名六角氏が力を伸ばしており 北近江にも強いリーダー出現を求められていた

からである


小谷城
日本五大山城の一つに数えられる。標高約495m小谷山から南の尾根筋に築かれ、浅井氏三代の居城であるが、
浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城である。
写真は、平成21年9月20日に百名城めぐりで撮ったものです。
20100324 小谷城 001

番所跡の碑です。
20100324 小谷城 002

小谷城からは、琵琶湖が眼下に良く見えます。
20100324 小谷城 003

なんで こんなところに座っているんだ~
pig 20100526 001

デカイし~ あいそないし~ 好きになれないな~
pig 20100526 002


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前期戦国大名(4) 越前の猛将 朝倉 孝景

守護大名から戦国大名への転換に成功した名門武将

朝倉氏は はじめ日下部氏といっていたが 平安時代末期に但馬国に住居し はじめて朝倉氏を称するよう

になったという

越前の戦国大名へ成長するひとつのきっかけとなったのは 南北朝時代 朝倉広景が足利方の被官となって 

越前で戦功をあげたことである

その後 広景は越前国坂井郡黒丸城に拠って 斯波氏の目代となって活躍した

朝倉氏の力を飛躍的に大きくしたのは孝景である

孝景のときは斯波氏の三家老の一人となっていたが 応仁・文明の乱において西軍に加わり 斯波氏の内紛

に乗じて越前守護になり さらには戦国大名化に動き出している

一つは 一乗谷に城を構え 他の国人たちを凌駕したことで 以降 一乗谷は戦国大名朝倉氏5代100年に

渡る城下町として栄えた

もう一つは 家訓として有名な「朝倉孝景条々」を制定したことである

この後 氏景-貞景-孝景-義景と続き 一乗谷の「朝倉文化」は 駿府の今川文化 山口の「大内文化」

とともに 戦国三大文化の一つに数えられたが 1573年に織田信長によって滅ぼされてしまった


朝倉氏の一乗谷城
唐門
江戸時代松雲院の山門として建てられている この場所にかつては朝倉義景館の西正門があったとされる
写真は、平成21年9月22日に百名城めぐりで撮ったものです。
一乗谷城 001

復元された武家屋敷や町並みが、戦国城下町を偲ばせる(模型です)
一乗谷城 002

模型中央の通りが、復元町並みのこの「通り」です。
一乗谷城 003

一乗谷は、応仁の乱を逃れてきた京都の文化人などにより、越前の中心として栄えた。
一乗谷城 004

僕も、洗髪ができる「うさぎ文化人」となれるよう努力しています。
水はキライなんですけど・・・。
pig 20100525 001

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前期戦国大名(3) 稀代の謀将 斎藤 道三

北条早雲と並ぶ「戦国の梟雄(きょうゆう)」と呼ばれる美農の戦国大名

斎藤道三といえば 油売りから戦国大名になった武将として いかにも腕ひとつで国を盗っていった戦国大名

らしい生き方をしたということで有名である

通説では山城国の武士の子が京都の妙覚寺に入り 法蓮房と名乗ったが 寺を飛び出し 油屋の娘と結婚し

その婿となり 手広く油商売をやっていたということになっている

美農まで油売りに行った際に かつての妙覚寺時代の同僚だった僧と再会し その伝で守護土岐盛頼の弟・

頼芸に仕えることになった

その後 頼芸を新しい守護にすることに成功し 守護大斎藤氏の名跡を奪い ついには土岐頼芸も追い出して

美濃一国の戦国大名にのし上がったという

ところが 昭和39年からはじまった「岐阜県史」編纂の過程で 「六角承禎条書写」という文書が発見され 

従来の通説とは全く異なる道三の履歴が明らかになっている

道三の父親は もともと京都妙覚寺の僧だったという 層をやめて美濃に下り還俗して 長井新左衛門と

名乗ったという 新左衛門が亡くなったあと 家督を継いだのが子の道三で 道三が長井氏の惣領家を殺し

ついには斎藤を称して戦国大名になったという

六角承禎の正室が土岐頼芸の姉だったということを考えると この「六角承禎条書写」に書かれている経緯が

正しいと思われている

父子二代がかりの国盗りだったのである

道三は美濃の戦国領主として1554年まで君臨した後 義龍へ家督を譲ったが ほどなくして義龍と義絶し 

1556年4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ 討ち死にした


斎藤 道三 (1494?-1556)
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる
斎藤道三

岐阜城(稲葉山城)
斎藤道三の居城である。標高329mの金華山(稲葉山)に築かれた山城 眼下に長良川が流れる。
「美濃を制するものは天下を制す」斎藤道三・織田信長の天下取りの城として有名
写真は、平成22年5月9日百名城めぐりで、岐阜城の駐車場から撮ったものです。
岐阜城 002

二の丸から撮ったものです。
岐阜城 009

「謀略で国を盗り、謀略によって散った美濃のマムシ」のオッチャンや!!
pig 20100524 001


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                                            <参考文献:戦国時代>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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