fc2ブログ

大坂夏の陣 【「対徳川」4大合戦 (4)】 その2

家康を追い込むも力尽き討死する

『幸村もついに討死し 豊臣家も最後の時を迎える』

5月6日の戦いで豊臣方は徳川軍の前進をはばむことができなかったばかりか 後藤基次・薄田兼相

・木村重成といった大将クラスを討死させる結果となり 徳川方による大坂城包囲網がさらにせばめ

られることとなった

翌7日 家康は天王寺口に陣取り 秀忠は岡山口に陣取った

天王寺口の先鋒は本多忠朝(忠勝の二男)で その他松平忠直・榊原康勝(康政の三男)らが布陣し

岡山口には前田利常を先鋒とし細川忠興・黒田長政ら豊臣恩顧の大名が布陣した

それに対して 豊臣方は茶臼山に幸村 天王寺口に面して毛利勝永・大野治長らが備えを固めた

戦いは正午ごろ 天王寺口の先鋒本多忠朝と毛利勝永の衝突によってはじめられた

軍勢の数では徳川方が圧倒的に有利で 戦いも徳川方が押し気味であったが 乱戦の最中 赤備えの

幸村の一団が家康の本陣めざして突進し 三度まで家康本陣への突入を試みたがさえぎられ ついに

松平忠直の鉄砲頭西尾久作によって討たれる

本丸以外の堀を埋められ 裸同然となっていた大坂城は もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった

真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し

遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり 5月7日深夜に大坂城は陥落した

大坂城が落ち 淀殿・秀頼母子が自刃したのは翌8日であった

冬の陣では出陣させるのは譜代のみに限ろうと考えていた徳川家康は この夏の陣においては豊臣恩顧の

大名に敢えて大坂を攻めさせることにより、将来的に徳川家に掛かってくる倫理的な非難を回避しようと

したとされている

ただし 福島正則らは江戸城に留め置きとされている


茶臼山
大坂冬の陣では徳川家康の陣城として、また大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の陣城として使用された。
別名茶臼山砦や茶臼山陣城とも言われている。
茶臼山-1
<クリックで拡大します>

真田幸村勇戦之図(錦絵)
1615年5月の大坂夏の陣における真田幸村の有名な奮戦ぶりを描いている。中央馬上が幸村、右にやはり
馬上のその長男大助。幕末期の錦絵。
作者は歌川芳虎。芳虎は号を孟斎または一孟斎という。1830年代より明治にかけて活躍した浮世絵師で
武者絵を得意とした。
真田幸村勇戦之図-1

家康大仁村難戦之図
徳川家康の人生二度目の危機を描いたといわれる錦絵
大坂夏の陣で幸村が家康を追い詰める様子が伝わる。(上田市立博物館蔵)
家康大仁村難戦之図-1

安居神社 幸村戦死の地
1615年5月7日、大坂夏の陣。すでに豊臣方の敗色は濃厚のなか、安居神社の南の茶臼山に陣取った
幸村は、さらに南の徳川家康本陣を激しい突撃で混乱に陥れ、あと一歩まで追いつめる。だが、家康方
の増援に阻まれ、ついには退却を余儀なくされる。
そして安居神社で腰を下ろして休息しているところを、徳川方の越前兵、西尾仁左衛門に討ち取られた。
安居神社幸村戦死の地-1

秀頼・淀殿の自害の碑
5月7日深夜に大坂城は陥落した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の
様が見えたという。
翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害した
淀君・秀忠自刀の場所-1


『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解は:黒田長政
   もともとは福島正則所用であったが、文禄の役でともに戦ったおり友情の証として互いの兜を交換した
  もの、長政はこの兜を被って関ヶ原の戦いに出陣しています。

   一の谷兜(黒田長政)


≪本日の問題≫


ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました
                                  <参考文献:歴史スペシャル、大坂城HP、上田博物館HP>


スポンサーサイト



テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

大坂夏の陣 【「対徳川」4大合戦 (4)】 その1

大坂夏の陣 幸村は「日本一兵」と評される活躍

『大坂城が裸同然となり 野戦が主となった夏の陣』

大坂冬の陣の講和で大坂城の惣構はもちろん 三の丸・二の丸の堀が埋められ 本丸だけの裸城となっ

てしまった

そうした上で家康は豊臣方に秀頼の転封か城中に抱えている浪人の放逐かの選択をせまり その2つが

拒否されるや否や再戦に踏み切る 豊臣方7万8000 徳川方15万8000 大坂夏の陣のはじまりである
 
さすが豊臣方も本丸だけでの籠城戦は無理と判断し 夏の陣は城外での戦いとなった

1615年5月5日 家康・秀忠が出陣し 6日から戦いとなった

この日 真田幸村は後藤基次・毛利勝永らと道明寺付近で徳川軍を迎え撃つ手はずであったが 幸村と勝永

が約束の時間に遅れ 戦機を逸するのを恐れた後藤基次が自分だけの軍勢で戦いを挑み討死してしまった

幸村らが時間に遅れたのは この日の深い濃霧のせいといわれている

遅れて到着した幸村は 毛利勝永隊と合流し このあと誉田廟の東で徳川軍と対峙したが にらみあいが続

き 結局幸村を殿軍として大坂城に引き揚げている

なお この日 八尾および若江方面でも戦いがあり こちらは激しい戦いとなり 豊臣方の長宗我部盛親隊

・木村重成隊の大敗北で 木村重成は討死した


大坂夏の陣布陣図   大坂冬の陣布陣図
冬の陣の和議の条件として、二の丸と三の丸の城が埋められ「夏の陣」では大坂城が丸裸になって
いるのが見てとれます。
大坂夏の陣布陣図-1 大坂冬の陣布陣図-1
<クリックで拡大します>


大坂夏の陣図屏風(大坂城天守閣蔵)
真紅に染まった幸村の赤備え隊と徳川軍
大坂城夏の陣陣-1

piglet
お蔭様で食欲も普通に戻り、顔つきも元気をになってきました。
pig 20100628 001

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫ 
 正解は:伊達政宗 
     大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、白の死装束に金箔を塗った磔柱(十字架)を背負
    った姿で秀吉の前に出頭した。
    ☆沢山の投票ありがとうございました。皆様よくご存知で全員の方が正解でした。
    ☆以前、「このシーンを大河ドラマで観ました。」のコメントも戴いております。

≪本日の問題≫


ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました
                                      <参考文献:歴史スペシャル>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

大坂冬の陣 【「対徳川」4大合戦 (3)】 その2

真田丸で徳川軍を苦しめる「大坂冬の陣」

『真田丸での戦いは冬の陣を象徴するもの』

豊臣方10万 徳川方20万 具体的に真田丸での攻防戦があったのは12月4日のことであった

この日 前田利常と井伊直孝・松平忠直らが真田丸に攻めかかった

攻める側は大軍なので小さな出丸ひとつくらい簡単に落とせると考えていたようであるが見込み違いだった

幸村は 敵を十分に引き寄せて鉄砲の一斉射撃を行っている

敵兵が逃げまどうところを旗や指物・兜まで全員が赤一色に武装した真田隊が打って出て敵を撃退する

ことに成功した

徳川方の諸隊に大きな損害を与え この勝利によって幸村の武名はさらにあがることになった

その後 徳川方の全軍より一斉砲撃が始められ この砲声は京にも届きその音が途切れることはなかった

という

徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足 また豊臣方も本丸への砲撃で身近に被害が及んだため態度

を軟化させ12月16日に和議に応じることとなった

約10万の豊臣方は軍勢の大半が浪人衆の寄せ集めで統制力に欠けていたにもかかわらずよく防ぎ 攻め

たてる徳川方20万の大軍を惣構の中へは一兵も突入させなかった

秀吉が築き上げた天下の名城は やはり難攻不落の堅城だったのである

しかし 講和による終戦の結果 大坂城は講和条件であった惣構・三の丸の破却に続いて 二の丸の堀

まで徳川方に立てられ 本丸ばかりの裸城にされてしまった



冬の陣布陣図
冬の陣は、豊臣方の挑発に乗って始められ、包囲戦における最大の戦いである真田丸・城南の攻防戦(12月3日、4日)では、豊臣方が徳川軍を撃退、諸隊に大きな損害を与えた。
大坂冬の陣布陣図-1
<クリックで拡大します。>

大坂冬の陣図屏風・部分
惣構をめぐる防戦ぶりがうかがえます。
冬の陣屏風図(部分)

食欲を回復したPigret
ご心配をおかけしましたが、日曜の朝から、鉢植えのチモシーをパクパクと食べだし、その後
生ニンジン、ペレットと普通に食できるようになりました。
原因は良く分かりませんが、何か気に入らないことがあったのか、土曜日の点滴が効いたのか
どちらかだと思います。
最近、雨が多く外出しておりませんので、嫌がらせかも知れませんね!
pig 20100627 002

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
Q7の正解は:1.石田三成
  秀吉の小田原征伐の際、忍城(埼玉県行田市)攻めの総大将は石田三成で、三成は近くを流れる利根川
 を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設しています。
 この際、 堤防が決壊し豊臣軍に大きな被害がでております。(諸説あり)


≪本日の問題≫



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました
                                            <参考文献:歴史スペシャル>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

大坂冬の陣 【「対徳川」4大合戦 (3)】 その1

「真田丸」を築き豊臣方を勝利に導く

『大坂城の弱点をカバーする真田丸を築いて徳川と対峙』

関が原の戦いで西軍が敗戦したため 上田城の真田昌幸・幸村父子は死罪になるところを 信幸の助命

嘆願によって高野山の九度山に蟄居させられることとなった

昌幸は1611年に この九度山で没している

昌幸の死から3年後の1614年10月 配所でひっそり暮らしていた幸村のもとを 豊臣秀頼の使者が訪れ

大坂城への入城を要請してきた

幸村は10月9日監視の目をかいくぐって九度山を脱し 大坂城に入城する

大坂城に入った幸村は 昌幸の後継者として大名待遇で扱われ 長曾我部盛親や毛利勝永とともに「三

人衆」として敬意を払われる存在となる

大坂城で行われた軍議で 幸村は単なる篭城策では勝ち目がないことを力説し 積極策に出ることを主張し

東軍の戦備が整わないうちに先制攻撃をしかけ 豊臣秀頼自ら出馬し天王寺に旗を立て 伏見城を落とし

宇治・瀬田に陣を構え 東軍の渡河を阻止 また京都所司代を屠って京都を占領し 大和から奈良を攻撃

片桐且元の茨木城を落として大津に砦を築き 畿内を確保してから東軍と戦うことを提案した

そのころの大坂城は秀頼の側近大野治長が牛耳っており 大坂城に絶対の信頼を寄せており 篭城策を

譲らない いくら浪人衆が主張しても 積極策は取り入れられることはなく 徳川方のスパイである小幡景憲

の後押しもあり 豊臣方の方針は篭城策に決定した

そこで幸村は大坂城の弱点をカバーするため 大坂城惣構の玉造門の南に出丸を築き 自ら5000の兵で

そこを守ることにした これが真田丸である

「当代記」に「此丸は惣構の横矢として俄かに取出し曲輪也」とあるように 文字通りの俄か作りの出丸で

はあったが その効果は大きかった



方広寺大仏殿の鐘銘拓本
家康は銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の二句をとりあげ「家康の文字を分断し、豊臣を主君として楽しむとの下心がある」と難くせを付けた
鐘
<クリックで拡大します>

秀吉の死からわずか2年後の1600年、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した。1603年、家康は江戸に幕府を開き政権を掌握したが、豊臣家は徳川幕府成立後も天下掌握の夢を捨てられず徳川家との間に緊張関係を持続させていた。こうした状勢のなか、京都東山に豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘(釣鐘の銘文)に家康がクレームを付けたことをきっかけに、1614年大坂冬の陣が開戦された。


豊臣時代大坂城本丸推定復元模型
秀吉の大坂城本丸は、現在も残る徳川幕府再築のものとは堀の形状や天守の位置も全く異なり、二重三重の複雑な石垣が立体的に構築されていた。
秀吉の大坂城は、本丸の築造に約1年半を費やし、その後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、徐々に難攻不落の巨城に仕上げられた。
また、城づくりと同時に町づくりが行われ、秀吉時代の大坂は近世城下町の先駆けとなった。 領主の邸宅である城を中心とした広大な領国の首都、そして政治・経済・軍事・文化の中心都市として城下町大坂が建設されていた。
豊臣大坂城

管理人:piglet01
写真は25日(金)で、いつもどおり一人散歩を楽しんで元気よくしていましたが、翌日から体調を
崩したようで食事を取っていませんでしたので、昨日、病院に行き点滴をしてきました。
原因は、まだ分かりませんが元気になりましたら、また登場させていただきます。
pig 20100627 001


『戦国クイズ』

<昨日の正解>
Q6の正解:2.江戸城
  房総の千葉氏を抑えるため、資長(のちの道灌)は、秩父江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城
 を築城しています。

<今日の問題>
Q7.秀吉が行った「備中高松城の水攻め」は有名ですが、もうひとり大がかりな「水攻め」を行った武将は?
  1.石田三成 2.徳川家康 3.直江兼継



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました


                                           <参考文献:戦国スペシャル、大坂城HP>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

第2次上田合戦 【「対徳川」4大合戦 (2)】

徳川秀忠の大軍を上田に釘付け

『昌幸・幸村父子が取った籠城作戦で徳川を翻弄』

1600年7月 徳川家康が大名を率いて上杉討伐に向かったとき 石田三成が挙兵し 家康は軍を西に

反転させることになった

家康が豊臣大名等と東海道を西に向かい 秀忠が徳川軍の主力3万8000を率いて中山道を通って西

に向かうことになった

このとき 信濃上田城の真田昌幸は西軍三成方となりことをはっきりさせており 2人の子どもは対応

が割れた

長男・信行(後の信之)は豊臣方 二男・幸村は三成方となり 昌幸・幸村が上田城に籠城した

秀忠は 上田城は小さい城なので3万8000の大軍で攻めれば簡単に落ちると思い 中山道筋ではない

が上田城を攻めることにした

上田城を囲んだ秀忠は9月3日 長男・信幸を使って開城勧告を行っている 昌幸はそれに応じるふりを

して3日・4日は講和交渉が続けられたが これは昌幸の策略で結局 交渉はもの別れに終わっている


5日から徳川軍の攻撃が始まり 先ず初めに上田城の北に位置している戸石城を落とすために 昌幸の

長男・真田信幸隊が進撃した

この戸石城は真田幸村が守っていたが 幸村は兄との戦闘を避け上田城に撤退した 信幸は無人となった

城を確保しこれを守備した

小勢で城に篭り 大軍を迎え撃ち 奇策をもって大損害を与えるというやり方が真田の戦略である

この戦いでも 昌幸はわざと逃げて徳川勢を城近くまで誘き寄せ 一斉射撃で城内から鉄砲で狙い撃ちし

多数の犠牲者を出している

秀忠は8日まで攻め続けたが とうとう落城させることはできず 三成との戦いに遅れては大変と城攻め

をあきらめ 中山道を西に向かった

しかし 秀忠軍は関が原の戦いには間に合わなかったのである


上田城
この小さな上田城を3万8000の大軍で攻めたのに落城しないのですから、真田親子の智将は凄いですね。
写真は、平成21年6月21日に百名城めぐりで撮ったものです。
上田城 20100626 001


上田城 20100626 002 上田城 20100626 003 上田城 20100626 004
  有名な真田石     大手門の内側     南櫓への昇り階段 

上田城 20100626 009 上田城 20100626 007 上田城 20100626 005
  北櫓と大手門         北櫓       真田は籠まで赤い


上田城 20100626 006 上田城 20100626 008 上田城 20100626 011
    南櫓の天井   ここから徳川軍を狙った?   馬印



上田城 20100626 010 上田城 20100626 013
    真田親子     真田井戸(ぬけ穴?)



【以降の画像は上田博物館のHPに掲示されているものです】

真田昌幸の着用具足
真田昌幸具足-1
上田城を築いた真田昌幸の具足(甲冑)であり、その家臣であった河野清右衛門が、戦功により昌幸から拝領したと伝えられている。
清右衛門は関ヶ原合戦後、昌幸が高野山に流罪となったとき、それに随行した16人の家臣のうちの一人であった。


金箔瓦
上田城金箔瓦-1
上田城跡から出土した、真田昌幸が築いた上田城の屋根瓦とみられるもの。鬼瓦と鯱瓦の一部と鳥衾(とりぶすま)というやはり屋根棟の端に飾られる瓦。いずれも張られていた金箔の一部が残っている。
これらの金箔瓦のほかにも桃山時代様式の瓦が城跡の各所から発見されており、かなり立派な建物が城内の要所に構えられていた様子がうかがえる。
 

真田父子犬伏(いぬぶし)密談図
真田親子犬伏密談図-1
「東の徳川か、西の豊臣か」、右は真田昌幸、相向かいはその長男信之、その間で下を向いてじっと聞いている次男幸村。
1600年の関ヶ原の合戦に際し、真田氏は父子兄弟が東西に分かれて戦った。昌幸と幸村は西軍に味方し上田に籠城し徳川軍の攻撃を受けることになったが、幸村の兄信之は徳川方についた。
この図は上杉景勝征伐の軍に従っていた昌幸が下野(しもつけ)国犬伏(栃木県佐野市)で石田三成からの密書を受け、東西両軍のどちらにつくか協議している場面。


真田父子上田籠城図(錦絵)
真田親子上田城籠城図-1
中央に昌幸、左に幸村。「信州上田の防戦は日本三籠城の一つにして…」とある。『新選太閤記』の一場面。
1600年 真田昌幸・幸村父子は、上田城に立てこもって、関ヶ原へ向かう途中の徳川秀忠率いる徳川本隊の3万8000人という大軍の攻撃を防ぎきった。


『戦国クイズ』

<昨日の正解>
Q6の正解:2.今川義元
  公家趣味のお歯黒顔で胴長短足等のため馬に乗れなかったそうです。

<今日の問題>
Q7.太田道灌が築いた城は?
  1.小田原城 2.江戸城 3.水戸城




ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました


                                            <参考文献:戦国スペシャル>

【ご了承ください】
心ないご自身の主張を他人のブログでなさる人がいるため、ブログを止められる友人がたくさんいらっしゃいます。ご自身の思いや考えを主張なさる書き込みなどは削除しますので、あらかじめご了承お願いします。

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

第1次上田合戦 【「対徳川」4大合戦 (1)】

真田の名を天下に知らしめるきっかけに

『上田城で徳川勢を迎え撃ち 少数の軍勢で見事に勝利』

武田氏の家臣だった 父・真田昌幸は1582年3月武田氏滅亡後 まず北条氏直に仕え 次に徳川家康

に鞍替えを行う

ところが 家康と氏直のあいだで上野(こうずけ:群馬県)をめぐる領土問題から 真田領だった上野

沼田が氏直に渡されることになり 家康から昌幸に「沼田を返還すべし」との命令が出された

それに対して昌幸は「沼田は家康から与えられた領土ではない」と返還を拒否し 1585年7月突如 上杉

景勝に和を請い二男の弁丸(後の幸村(正しくは信繁))を人質に出し 景勝に属してしまった

昌幸は景勝から上野の沼田・吾妻 信濃の小県など旧領をそのまま安堵されたばかりでなく 逆に景勝方

から家康方に走った屋代秀正の所領も与えられ 厚遇を持って上杉陣営に迎えられている

これで腹の虫が治まらないのは家康である 即座に真田攻めの軍勢を組織し 上田城を攻めさせることに

なった

家康は重臣の鳥井元忠などの譜代と今川・武田の遺臣たちに上田城を攻めさせている

戦いは8月から繰り広げられ 徳川勢が上田城内に攻め入ったところ 城中の伏兵に鉄砲で攻めかかられ

城攻めの徳川勢が撤退する事態となる

その時 徳川勢は神川を渡り退いたが そこを戸石城にいた昌幸の長男・信幸(後に信之)率いる兵に

攻められ大きく崩れた

その後 暫く対峙する形となったが 家康の重臣の一人 石川数正が秀吉の元に走るということがあり

11月には徳川軍は何ら得ることなく撤退した


初めて、親子の画像を並べてみましたが親子3人似ていると思いませんか?
  真田昌幸          真田信之         真田幸村
真田昌幸 真田信之 真田幸村
<クリックで拡大します>

上田城
あらら、pigletが紛れ込んでいます。
写真は、平成22年5月29日に撮ったものです。
上田城 20100625 002

   真田の郷      上田城大手門の堀
神川マップ 上田城堀 20100625 001
<クリックで拡大します>

上田城南櫓
上田遊郭に払下げされていましたが、買い戻され再建されています。
真田城 20100625 004

弁丸(幸村)が上杉景勝の元に人質として出されていた海津城(松代城)
写真は、平成20年6月20日に百名城めぐりで撮ったものです。
松代城 20100625 001


『戦国クイズ』

<昨日の正解>
Q5の正解:2.真田昌幸
 第一次上田合戦は神川の戦いとも呼ばれています。

<今日の問題>
Q6.江戸時代に女性がお歯黒をしていましたが、戦国時代にお歯黒をしていた武将は?
 1.織田信長 2.今川義元 3.徳川家康



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました


                                           <参考文献:戦国スペシャル>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

戦国最後の勇将 真田幸村(信繁)(3)

狙うのは家康の首 ただひとつ

『現代人が失くしている本性としての爽やかさ』

大坂冬の陣では幸村の進言や作戦は受け入れられず さらに大坂城の和睦により形勢は圧倒的に徳川

方が有利となった

迎えた夏の陣

それでも幸村は家康の首だけを狙い そして美しい死に場所を探して果敢に戦った

幸村率いる真田勢は3000 のぼりも軍装も赤で統一した いわゆる「赤備え」の一団は冬の陣で立てた秘策

同様に一直線に家康本陣を目指した

その勢いは凄まじく 総大将権威を示す家康の馬印を押し倒すほどだったという しかし 家康をあと一歩の

ところまで追い詰めるも 激闘の末に幸村は大坂の陣で美しく散った

戦国の世は「常在戦場」であった 生き方が即 死に方に繋がるこの時代だからこそ爽やかに生き爽やかに

死ぬことが美しかった

「今日死ぬ」とはなかなか意識できない私たちが この時代を爽やかに生きた幸村に共感を覚えるのは

人間の本性として持っているべき爽やかさを 私たちが失っている呵責からくるからでしょうか


さあ 明日からは幸村が徳川軍と戦ってきた 合戦について記事にしたいと思います


真田幸村 1567-1615年 
真田昌幸の二男 「幸村」の名が見られるのは江戸時代の軍記物語からで、実在人物の名としては「信繁」が正しいとされる
大阪夏の陣では、徳川家康を追い詰めたといわれており、その活躍ぶりは講談や小説などで現在まで語り継がれている。
20100624 003

上田駅前の真田幸村像
上田城築城400年を記念し、個人で寄贈された真田幸村公初陣の騎馬像。
20100624 001

芝生公園から臨む上田城西櫓
この芝生公園には千曲川が流れていました。
20100624 002

大坂夏の陣図屏風
真紅に染まった幸村の赤備え隊と徳川軍
幸村は家康を窮地に追込んだ
20100624 004

「pigletパパだけでなく、私も幸村は好きです」by 2号
2号 20100624 001


『戦国クイズ』

<昨日の正解>
Q5の正解:3.備中高松城
   秀吉援軍のため、備中高松城に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発ち、
   本能寺に入っていた。

<今日の問題>
Q6.籠城の利点を最大限活かした神川の戦いで徳川軍を打ちのめした武将は?
  1.武田信玄 2.真田昌幸 3.村上義清



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました


                                            <参考文献:歴史スペシャル>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム