秀吉が最初に築いた居城 長浜城
『長浜城は 秀吉の城下町経営の基礎を醸成した城』
1573年に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した
秀吉は小谷城を廃し今浜城を修築して居城とした この時信長から一字を拝領し「今浜」を「長浜」
に改めた
修築工事は1573年に開始し1576年頃に入城している この長浜城は秀吉出世の第一歩となった
城です
秀吉は小谷城で使われていた資材や竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し それら
を使用し築城を開始した
長浜城は 湖水に石垣を敷し 城内の水門から直に船の出入りができるようになっていたという
城下町は小谷城下からそのまま移したため 現在でも城下町には当時の面影や名残がある
秀吉が最初に築いた居城であり 秀吉の城下町経営の基礎を醸成したところでもある
1615年に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された 彦根城の天秤櫓は 浜城から移
したものと伝えられています
現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので 市立長浜城歴史
博物館として運営されています
長浜城の前に、石田三成の佐和山城に登城する予定でしたが、35度の温度にビックリして断念しま
した
長浜城模擬天守(長浜市長浜城歴史博物館)
写真は、平成22年7月18日に撮ったものです。

<クリックで拡大します>
いしだみつにゃん しまさこにゃん

歴史博物館からの琵琶湖 遠くに彦根城が見えます。(木の上です。)

彦根城の天秤櫓
豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれているもので、ちょうど天秤のような形をしている
ところから天秤櫓と呼ばれています。
彦根城の写真は、平成21年9月20日に百名城めぐりで撮ったものです。

長浜城天守閣の跡
現在の模擬天守郭の隣ですが、石垣などは彦根城に使われており残っていません。

秀吉公の銅像
長浜城天守閣跡碑の隣に建っています。

「おかねさん」の碑(天守閣跡)
築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。
強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。
若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」
と呼ばれていました。

駐車場から見る長浜城
あばよ~、またくるさ!

長浜駅前の建つ「豊臣秀吉と石田三成」の銅像(三献の茶)
長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をし、その帰途、喉の乾きを覚えてある寺に立ち寄って茶
を所望した。
対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。
喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのんだ。次に小姓は、やや小さめの碗に、
やや熱めにした茶をだした。
秀吉が試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。
相手の様子を見て、その欲するものを出す、この心働きに感じいった秀吉は、その小姓を城に連れて帰り
家来とした。
この小姓が後の五奉行の一人、石田三成であった。
喉の乾いている相手に、まずは飲みやすい温めの茶をたっぷり出し、渇きが癒えた後は熱い茶を味わって
もらう。
この逸話は気配りの進めとして、広く語られています。

次は、関ヶ原に向かいますが、暑くて歩く気がしません・・・。><
暑さしのぎのくつろぎ方
いつも同じのpiglet 「がまカエル」ではありません「sa-ko嬢」です

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:脱糞
徳川家康の合戦のなかで「三方ヶ原の戦」は最大の負け戦だったようです。もちろん「脱糞」は
逸話でしょうが、逃げ延びるのに苦労したのでしょうね。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:現地案内板>
1573年に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した
秀吉は小谷城を廃し今浜城を修築して居城とした この時信長から一字を拝領し「今浜」を「長浜」
に改めた
修築工事は1573年に開始し1576年頃に入城している この長浜城は秀吉出世の第一歩となった
城です
秀吉は小谷城で使われていた資材や竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し それら
を使用し築城を開始した
長浜城は 湖水に石垣を敷し 城内の水門から直に船の出入りができるようになっていたという
城下町は小谷城下からそのまま移したため 現在でも城下町には当時の面影や名残がある
秀吉が最初に築いた居城であり 秀吉の城下町経営の基礎を醸成したところでもある
1615年に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された 彦根城の天秤櫓は 浜城から移
したものと伝えられています
現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので 市立長浜城歴史
博物館として運営されています
長浜城の前に、石田三成の佐和山城に登城する予定でしたが、35度の温度にビックリして断念しま
した
長浜城模擬天守(長浜市長浜城歴史博物館)
写真は、平成22年7月18日に撮ったものです。

<クリックで拡大します>
いしだみつにゃん しまさこにゃん


歴史博物館からの琵琶湖 遠くに彦根城が見えます。(木の上です。)


彦根城の天秤櫓
豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれているもので、ちょうど天秤のような形をしている
ところから天秤櫓と呼ばれています。
彦根城の写真は、平成21年9月20日に百名城めぐりで撮ったものです。

長浜城天守閣の跡
現在の模擬天守郭の隣ですが、石垣などは彦根城に使われており残っていません。

秀吉公の銅像
長浜城天守閣跡碑の隣に建っています。

「おかねさん」の碑(天守閣跡)
築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。
強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。
若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」
と呼ばれていました。

駐車場から見る長浜城
あばよ~、またくるさ!

長浜駅前の建つ「豊臣秀吉と石田三成」の銅像(三献の茶)
長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をし、その帰途、喉の乾きを覚えてある寺に立ち寄って茶
を所望した。
対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。
喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのんだ。次に小姓は、やや小さめの碗に、
やや熱めにした茶をだした。
秀吉が試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。
相手の様子を見て、その欲するものを出す、この心働きに感じいった秀吉は、その小姓を城に連れて帰り
家来とした。
この小姓が後の五奉行の一人、石田三成であった。
喉の乾いている相手に、まずは飲みやすい温めの茶をたっぷり出し、渇きが癒えた後は熱い茶を味わって
もらう。
この逸話は気配りの進めとして、広く語られています。

次は、関ヶ原に向かいますが、暑くて歩く気がしません・・・。><
暑さしのぎのくつろぎ方
いつも同じのpiglet 「がまカエル」ではありません「sa-ko嬢」です


『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:脱糞
徳川家康の合戦のなかで「三方ヶ原の戦」は最大の負け戦だったようです。もちろん「脱糞」は
逸話でしょうが、逃げ延びるのに苦労したのでしょうね。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:現地案内板>
日本百名城 47 「伊賀上野城」
築城の名手藤堂高虎が大改修した城
『本丸には石垣技術の粋を極めた高石垣がそびえ立つ』
伊賀上野城は筒井定次が1585年に築いたのに始まる
このとき三重の天守が建てられた さらに1608年 伊予から入封した築城の名手藤堂高虎が徳川家康の
命を受けて大改修する
石垣や水堀を設け 城地を3倍にし 当時大坂城にいた豊臣秀頼にそなえようとした
5重の天守も計画されたが建造中に嵐で倒壊したが その後 豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなった
のに加え武家諸法度による新規築城や改修の規制により江戸時代を通じて再建されることはなかった
豊臣氏が滅んだため築城が中止され 本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸
時代を過ごした
城全体は未完成に終わったものの 日本有数の高さを誇る高石垣は 高虎の築城技術の高さを示している
昭和10年に個人の私財により木造で模擬天守が建てられている
次は、長浜城に向かいます。
天守
三重三階の天守は、二重二階の小天守を伴った連結式の形で復興された。
写真は、平成22年7月18日に撮ったものです。

城入口の石碑

筒井古城の石垣

伊賀上野城の「最大の見所」の本丸西側高石垣
石垣の高さは30mもあり、高所恐怖症ですから足が震える思いでした。
この石垣は、黒沢明監督の映画「影武者」のロケにも使われました。
南から北側をみる 北から南側を見る

折角ですから、高石垣を堀の外側からも見ておきましょう

日本100名城スタンプは、大天守閣1階でゲットしました。

今日も暑い一日です。
体を冷やすpiglet 受難のsa-ko嬢

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:山内一豊
「それほどまでに欲しいとおっしゃるなら、このお金でお買い求めくださいな。」と千代はいつも使って
いる鏡箱から、にこにこしながら黄金を一豊に渡したという。
一豊は信長の目にも止まるほどの名馬で馬揃えにのぞみ、見事大出世の糸口をつかんだといわれて
います。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:現地案内板>
『本丸には石垣技術の粋を極めた高石垣がそびえ立つ』
伊賀上野城は筒井定次が1585年に築いたのに始まる
このとき三重の天守が建てられた さらに1608年 伊予から入封した築城の名手藤堂高虎が徳川家康の
命を受けて大改修する
石垣や水堀を設け 城地を3倍にし 当時大坂城にいた豊臣秀頼にそなえようとした
5重の天守も計画されたが建造中に嵐で倒壊したが その後 豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなった
のに加え武家諸法度による新規築城や改修の規制により江戸時代を通じて再建されることはなかった
豊臣氏が滅んだため築城が中止され 本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸
時代を過ごした
城全体は未完成に終わったものの 日本有数の高さを誇る高石垣は 高虎の築城技術の高さを示している
昭和10年に個人の私財により木造で模擬天守が建てられている
次は、長浜城に向かいます。
天守
三重三階の天守は、二重二階の小天守を伴った連結式の形で復興された。
写真は、平成22年7月18日に撮ったものです。

城入口の石碑

筒井古城の石垣

伊賀上野城の「最大の見所」の本丸西側高石垣
石垣の高さは30mもあり、高所恐怖症ですから足が震える思いでした。
この石垣は、黒沢明監督の映画「影武者」のロケにも使われました。
南から北側をみる 北から南側を見る


折角ですから、高石垣を堀の外側からも見ておきましょう



日本100名城スタンプは、大天守閣1階でゲットしました。

今日も暑い一日です。
体を冷やすpiglet 受難のsa-ko嬢


『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:山内一豊
「それほどまでに欲しいとおっしゃるなら、このお金でお買い求めくださいな。」と千代はいつも使って
いる鏡箱から、にこにこしながら黄金を一豊に渡したという。
一豊は信長の目にも止まるほどの名馬で馬揃えにのぞみ、見事大出世の糸口をつかんだといわれて
います。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:現地案内板>
築城の名手藤堂高虎の居城 「津城」
藤堂高虎が大改修し近代城郭に変貌
津城の起源は 1560年代頃に長野氏の一族の細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な
安濃津城を構えたことに始まる
1569年織田信長の伊勢侵攻により織田信包が入城している 信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を
巡らせて本丸・二の丸・三の丸を整備し 1577年には5重天守と小天守を落成した
1608年に伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城し 城の大改修に着手し輪郭式の
城郭に変貌させ、城下町を整備した
以後 明治維新まで藤堂氏の居城となった
なお、天守は関ヶ原の戦いで焼失し再建されなかったとされる
しかし、近年の研究では寛永年間(1624年-1643年)に描かれた絵図に三重天守と二重小天守が描かれ
ており これは富田氏が再建したと思われる
そして、その天守は1662年の火災で焼失し 幕府への遠慮から再建されなかったと考えられている
次は、伊賀上野城(100名城47)に向かいます。
本丸 三重櫓
この場所には、丑寅三重櫓続多聞櫓のあったところで、現在の三重櫓は模擬櫓です。
写真は、平成22年7月17日に撮ったものです。

<クリックで拡大します>
江戸時代の終わり頃の津城と現在の様子

内堀
西の丸東側部分
犬走りは高虎流築城術のもので、軟弱地盤を補強する目的があります。

本丸埋門跡

本丸石垣(北側)
本丸は、このような石垣で囲まれています 。
当時は本丸周囲には5つの櫓があり、多聞櫓で繋がっていました。

天守台
本丸南西隅に位置し、ここの天守台には登り石段がありません。

藤堂高虎公銅像
1608年いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に22万4千石で移され、大坂の役
の後に加増され32万3千余石の大大名となる。
また高虎は、築城の第1人者としても名高く自身の居城として築城した宇和島城・今治城や津城・伊賀上野城
の修築、城下町形成は勿論の事、幕府の命で修築を行った聚楽第・膳所城・伏見城・江戸城・篠山城・亀山城
・大坂城・二条城と数多く手掛けています。

西の丸跡
現在は日本庭園となっていて、西の丸と本丸の境は土橋で繋がっていました。

今日も暑さに閉口している管理人です。

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:服部半蔵
服部半蔵は、堺に滞在中の家康を護衛して、伊賀の加太(かぶと)峠越えに、無事三河へ帰還させて
います。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:現地案内板>
津城の起源は 1560年代頃に長野氏の一族の細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な
安濃津城を構えたことに始まる
1569年織田信長の伊勢侵攻により織田信包が入城している 信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を
巡らせて本丸・二の丸・三の丸を整備し 1577年には5重天守と小天守を落成した
1608年に伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城し 城の大改修に着手し輪郭式の
城郭に変貌させ、城下町を整備した
以後 明治維新まで藤堂氏の居城となった
なお、天守は関ヶ原の戦いで焼失し再建されなかったとされる
しかし、近年の研究では寛永年間(1624年-1643年)に描かれた絵図に三重天守と二重小天守が描かれ
ており これは富田氏が再建したと思われる
そして、その天守は1662年の火災で焼失し 幕府への遠慮から再建されなかったと考えられている
次は、伊賀上野城(100名城47)に向かいます。
本丸 三重櫓
この場所には、丑寅三重櫓続多聞櫓のあったところで、現在の三重櫓は模擬櫓です。
写真は、平成22年7月17日に撮ったものです。

<クリックで拡大します>
江戸時代の終わり頃の津城と現在の様子

内堀
西の丸東側部分
犬走りは高虎流築城術のもので、軟弱地盤を補強する目的があります。

本丸埋門跡

本丸石垣(北側)
本丸は、このような石垣で囲まれています 。
当時は本丸周囲には5つの櫓があり、多聞櫓で繋がっていました。

天守台
本丸南西隅に位置し、ここの天守台には登り石段がありません。

藤堂高虎公銅像
1608年いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に22万4千石で移され、大坂の役
の後に加増され32万3千余石の大大名となる。
また高虎は、築城の第1人者としても名高く自身の居城として築城した宇和島城・今治城や津城・伊賀上野城
の修築、城下町形成は勿論の事、幕府の命で修築を行った聚楽第・膳所城・伏見城・江戸城・篠山城・亀山城
・大坂城・二条城と数多く手掛けています。

西の丸跡
現在は日本庭園となっていて、西の丸と本丸の境は土橋で繋がっていました。

今日も暑さに閉口している管理人です。

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:服部半蔵
服部半蔵は、堺に滞在中の家康を護衛して、伊賀の加太(かぶと)峠越えに、無事三河へ帰還させて
います。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:現地案内板>
日本100名城 48 「松阪城」
蒲生氏郷が伊勢統治の拠点として縄張した城
『南伊勢の地に豪壮な高石垣が巡る』
1584年豊臣秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が独立丘陵に目をつけ 1588年に完成させた
松阪城です
氏郷は近江国日野の出身で 織田信長の寵(ちょう)を受けた武将であったが 出身地の工人などの技術
者集団を引き連れ 安土城とよく似た縄張りや建物構成をもつ城をつくった
城は東を大手 南を搦手とし 外郭に深田堀及び水堀をめぐらし 本丸・二の丸・三の丸・稀代丸、隠居丸
・出丸といった郭より構成され 本丸・二の丸・稀代丸・隠居丸には高い石塁を築き 三の丸は土塁であっ
たという
天守台は中央よりやや西に寄り ここに三層の天守閣がそびえ それをとり巻いてそれぞれの郭に敵見・
金の間・月見等の櫓が配されていた
また 氏郷は城下町の建設も積極的に進め 城付近の大手町の四つ辻には松ヶ島町の旧家蔵方を移住
させ 町の中央に近江日野の商人を 湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せた
そして 海岸線近くを通っていた参宮街道を城下に引き寄せ 商業の自由を保証し 後の商都松阪の基礎
を築いている
7月17日から2泊3日で、三重・滋賀・岐阜・静岡を攻めてきました。
17日には、東京から松坂まで6時間位はかかるだろうと思い、早朝に出発しましたが東名高速が渋滞で
9時間かかりました。
17日には、松坂城、津城、亀山城、伊賀上野城を攻める予定でしたが、松坂城と津城でタイムアップに
なってしまいました。次は、津城に向かいます。
写真は、平成22年7月17日に百名城めぐりで撮ったものです。
表門跡
本瓦葺2階建の本格的櫓門があったが明治初期に破却されている。

<クリックで拡大します>
二ノ丸の高石垣
本丸、隠居丸、二の丸など主要部はすべて総石垣造りである

きたい丸跡の石垣
主要な曲輪の周辺には見事な高石垣が巡っている

太鼓門櫓跡

中御門跡
このあたりの石垣は、蒲生時代の野面積み石垣です。

本丸の兵部屋敷跡

天守台
天守台の石垣は不等辺四角形をなし、本丸上段から突き出す形で築かれている。
天守台の石垣には、古墳時代の石棺材も積み込まれています。
3層の望楼型天守であったが、1644年の台風で倒壊した。

百名城スタンプ
松坂市歴史民俗資料館が休館日でしたので、本居宣長記念館でゲットしました。

管理人pigletは、暑いですからこんな状況が続いてます。

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:上杉景勝
直江兼続は、昨年の大河ドラマ「天地人」の主役で、上杉景勝に仕えていましたよね。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:松坂城パンフレット>
『南伊勢の地に豪壮な高石垣が巡る』
1584年豊臣秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が独立丘陵に目をつけ 1588年に完成させた
松阪城です
氏郷は近江国日野の出身で 織田信長の寵(ちょう)を受けた武将であったが 出身地の工人などの技術
者集団を引き連れ 安土城とよく似た縄張りや建物構成をもつ城をつくった
城は東を大手 南を搦手とし 外郭に深田堀及び水堀をめぐらし 本丸・二の丸・三の丸・稀代丸、隠居丸
・出丸といった郭より構成され 本丸・二の丸・稀代丸・隠居丸には高い石塁を築き 三の丸は土塁であっ
たという
天守台は中央よりやや西に寄り ここに三層の天守閣がそびえ それをとり巻いてそれぞれの郭に敵見・
金の間・月見等の櫓が配されていた
また 氏郷は城下町の建設も積極的に進め 城付近の大手町の四つ辻には松ヶ島町の旧家蔵方を移住
させ 町の中央に近江日野の商人を 湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せた
そして 海岸線近くを通っていた参宮街道を城下に引き寄せ 商業の自由を保証し 後の商都松阪の基礎
を築いている
7月17日から2泊3日で、三重・滋賀・岐阜・静岡を攻めてきました。
17日には、東京から松坂まで6時間位はかかるだろうと思い、早朝に出発しましたが東名高速が渋滞で
9時間かかりました。
17日には、松坂城、津城、亀山城、伊賀上野城を攻める予定でしたが、松坂城と津城でタイムアップに
なってしまいました。次は、津城に向かいます。
写真は、平成22年7月17日に百名城めぐりで撮ったものです。
表門跡
本瓦葺2階建の本格的櫓門があったが明治初期に破却されている。

<クリックで拡大します>
二ノ丸の高石垣
本丸、隠居丸、二の丸など主要部はすべて総石垣造りである

きたい丸跡の石垣
主要な曲輪の周辺には見事な高石垣が巡っている

太鼓門櫓跡

中御門跡
このあたりの石垣は、蒲生時代の野面積み石垣です。

本丸の兵部屋敷跡

天守台
天守台の石垣は不等辺四角形をなし、本丸上段から突き出す形で築かれている。
天守台の石垣には、古墳時代の石棺材も積み込まれています。
3層の望楼型天守であったが、1644年の台風で倒壊した。


百名城スタンプ
松坂市歴史民俗資料館が休館日でしたので、本居宣長記念館でゲットしました。

管理人pigletは、暑いですからこんな状況が続いてます。

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:上杉景勝
直江兼続は、昨年の大河ドラマ「天地人」の主役で、上杉景勝に仕えていましたよね。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:松坂城パンフレット>
戦国大名の戦術(5) 『電撃急襲戦』
『敵の意表をつく 卓越した兵の機動力は重要な戦力である』
奇襲戦の一種には 本隊が迅速に移動して攻撃する戦術もある
敵方が予想し得ない 常識を超えた速度で軍勢を移動させ 油断していた敵が態勢を整える前に攻撃す
るものである
何事にも物軽に動いたとされる織田信長は この戦術を得意とした 桶狭間合戦ではわずかな小姓衆を
連れたのみで清洲城を飛び出し 軍勢は桶狭間へ向かう道筋で集まってきた
美濃稲葉山城を攻めた時も 西美濃三人衆が内応して稲葉山城の後詰がなくなると 三人衆から人質を
取る前に行動を起こした
近江小谷城攻めの際には小谷城救援の朝倉軍が退却をはじめたと知るや 直ちに全軍を朝倉軍追撃を
命じ一気に朝倉氏を滅ぼしている
秀吉はさらに大規模な移動攻撃をしている
明智光秀との山崎合戦に臨んだ「中国大返し」では 備中高松から摂津富田までの直線距離175kmを
ほぼ6昼夜で移動した
また 柴田勝家との賤ヶ岳合戦に臨んだ「賤ヶ岳一騎駆け」では 美濃大垣から近江木之元までの直線
距離にして52kmをわずか5~6時間で走破している 時速10kmという驚異的なスピードである
ただし「中国大返し」も「賤ヶ岳一騎駆け」も その移動速度は基本的には主将秀吉個人のものであり
軍勢本体は相当遅れたうえに まともな行軍陣形など取れなかったであろう
そんな状態の大軍が敵に襲撃されたらひとたまりもない 従って電撃急襲戦は移動経路が味方の支配
地域内であることが絶対となる
桶狭間の戦い
2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名・今川義元に対し、尾張の大名・
織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を潰走させた、
日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。

織田信長が落城させた稲葉山城
斎藤道三の稲葉山城を落城させ、のちに岐阜城と命名し居城とする

織田信長に攻められ落城した
小谷城 一乗谷城

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:豪姫
前田利家の四女・豪姫は、豊臣秀吉と北政所の養女となり、のちに、備前国の戦国大名宇喜多秀家の正室になっています。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:戦国時代>
奇襲戦の一種には 本隊が迅速に移動して攻撃する戦術もある
敵方が予想し得ない 常識を超えた速度で軍勢を移動させ 油断していた敵が態勢を整える前に攻撃す
るものである
何事にも物軽に動いたとされる織田信長は この戦術を得意とした 桶狭間合戦ではわずかな小姓衆を
連れたのみで清洲城を飛び出し 軍勢は桶狭間へ向かう道筋で集まってきた
美濃稲葉山城を攻めた時も 西美濃三人衆が内応して稲葉山城の後詰がなくなると 三人衆から人質を
取る前に行動を起こした
近江小谷城攻めの際には小谷城救援の朝倉軍が退却をはじめたと知るや 直ちに全軍を朝倉軍追撃を
命じ一気に朝倉氏を滅ぼしている
秀吉はさらに大規模な移動攻撃をしている
明智光秀との山崎合戦に臨んだ「中国大返し」では 備中高松から摂津富田までの直線距離175kmを
ほぼ6昼夜で移動した
また 柴田勝家との賤ヶ岳合戦に臨んだ「賤ヶ岳一騎駆け」では 美濃大垣から近江木之元までの直線
距離にして52kmをわずか5~6時間で走破している 時速10kmという驚異的なスピードである
ただし「中国大返し」も「賤ヶ岳一騎駆け」も その移動速度は基本的には主将秀吉個人のものであり
軍勢本体は相当遅れたうえに まともな行軍陣形など取れなかったであろう
そんな状態の大軍が敵に襲撃されたらひとたまりもない 従って電撃急襲戦は移動経路が味方の支配
地域内であることが絶対となる
桶狭間の戦い
2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名・今川義元に対し、尾張の大名・
織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を潰走させた、
日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。

織田信長が落城させた稲葉山城
斎藤道三の稲葉山城を落城させ、のちに岐阜城と命名し居城とする

織田信長に攻められ落城した
小谷城 一乗谷城


『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:豪姫
前田利家の四女・豪姫は、豊臣秀吉と北政所の養女となり、のちに、備前国の戦国大名宇喜多秀家の正室になっています。
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:戦国時代>
戦国大名の戦術(4) 『奇襲戦』
『時・場所・手段を利用して相手の意表をつく「奇襲」作戦』
敵の予期せぬ時 予期せぬ場所 予期せぬ方法を持って攻撃するのが奇襲戦 迅速な移動攻撃 伏兵
による「かく乱攻撃」夜陰にまぎれての夜襲などである
敵がそれなりの陣形を保っている場合は僅かな伏兵では意味をなさないことが多い したがって伏兵に
よる奇襲は敵軍が押し出てくるところ あるいは狭い一本道 川の渡河地点など 敵が本来の陣形を組
めないところを狙うのが有効だった
鎧兜の金具には“藁”や“縄”を挟み 馬の足にも“むしろ”・“藁”を履かせるなど物音を消す工夫をした
また夜襲では合印など見えないから敵・味方の区別がつきにくいため合言葉が不可欠であった
大軍による夜襲の場合 夜陰に紛れて敵陣に近づき夜明けとともに攻撃する例が多い
奇襲には騙し討ちに類するものもある
織田信長は美濃稲葉山城を奪取した際 自軍の半分に斎藤方の旗印・合印を付けさせ斎藤方の援軍を
装って背後から襲わせたという
軍事行動は何よりも情報の秘匿が大事であるが 特に大規模な奇襲戦を敢行する場合には味方に対し
ても秘匿する必要があった
桶狭間合戦の前夜 信長は軍議をすることもなく重臣たちを帰宅させている 本能寺の変の際 明智光秀
は「主君信長に中国遠征の軍装を見せるため」と偽って軍勢を京都に向け 桂川を渡ったところで よう
やく全軍に「敵は本能寺にあり」と 謀反の意思を明らかにした
織田信長は騙し討ちで、稲葉山城を落城させた

「ん、遊びに行きますかい!?」by piglet

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:大豆の袋
お市の方は、手紙では怪しまれるので、小豆を袋に入れて、織田の陣営に、陣中見舞いと称して送った。その袋の上下は縄でくくられており、受け取った信長は、瞬時にして「袋の中のネズミ」の意を悟り、ゆえに危地を脱出できた、と言うのである
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:戦国時代>
敵の予期せぬ時 予期せぬ場所 予期せぬ方法を持って攻撃するのが奇襲戦 迅速な移動攻撃 伏兵
による「かく乱攻撃」夜陰にまぎれての夜襲などである
敵がそれなりの陣形を保っている場合は僅かな伏兵では意味をなさないことが多い したがって伏兵に
よる奇襲は敵軍が押し出てくるところ あるいは狭い一本道 川の渡河地点など 敵が本来の陣形を組
めないところを狙うのが有効だった
鎧兜の金具には“藁”や“縄”を挟み 馬の足にも“むしろ”・“藁”を履かせるなど物音を消す工夫をした
また夜襲では合印など見えないから敵・味方の区別がつきにくいため合言葉が不可欠であった
大軍による夜襲の場合 夜陰に紛れて敵陣に近づき夜明けとともに攻撃する例が多い
奇襲には騙し討ちに類するものもある
織田信長は美濃稲葉山城を奪取した際 自軍の半分に斎藤方の旗印・合印を付けさせ斎藤方の援軍を
装って背後から襲わせたという
軍事行動は何よりも情報の秘匿が大事であるが 特に大規模な奇襲戦を敢行する場合には味方に対し
ても秘匿する必要があった
桶狭間合戦の前夜 信長は軍議をすることもなく重臣たちを帰宅させている 本能寺の変の際 明智光秀
は「主君信長に中国遠征の軍装を見せるため」と偽って軍勢を京都に向け 桂川を渡ったところで よう
やく全軍に「敵は本能寺にあり」と 謀反の意思を明らかにした
織田信長は騙し討ちで、稲葉山城を落城させた

「ん、遊びに行きますかい!?」by piglet

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:大豆の袋
お市の方は、手紙では怪しまれるので、小豆を袋に入れて、織田の陣営に、陣中見舞いと称して送った。その袋の上下は縄でくくられており、受け取った信長は、瞬時にして「袋の中のネズミ」の意を悟り、ゆえに危地を脱出できた、と言うのである
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:戦国時代>
戦国大名の戦術(3) 『攻城戦』
『城を守る側の3倍の兵力が必要とされる 攻城戦法の工夫をみる』
攻城戦は籠城戦の逆をとればいいことになる しかし城郭にはさまざまな攻城の方法を想定した上で
構造されているわけだから 攻める側が優勢であったにしても 力攻めを敢行するには攻める側も相当
の損害を予想しなければならない
一般的に城攻めでは攻める側は守る側の3倍の兵力が必要であったとされており 武田信玄は「城攻
めには10倍の兵力で当たれ」といっていたらしい
城攻めは先ず城を包囲し その後に攻撃ということになるが 短期にその城を落とす必要がある時は
包囲の一角をわざと空けて 城兵を逃亡させることもあった
力攻めを行う場合には 竹束・大楯・井楼などの攻城道具を持って近づき乗崩した
江戸時代の城郭は建物が漆喰で塗り固めている例が多いが 戦国時代の城郭の殆どは建物が白木の
ままだったから火攻めも有効であった
背後に危険がなく時間的に余裕があれば兵糧攻めにする 包囲の徹底を図り外部と城との連絡を遮断
して 物資・兵員の補給を断つのである 兵糧攻めの場合は敵方の後巻き警戒して強固な陣地を築く
陣地より発達したものが付け城である
兵糧攻めを得意としたのが豊臣秀吉で 播磨三木城攻め 因幡鳥取城攻めでは徹底した兵糧攻めを
行い備中高松城では大規模な水攻めを行っている 水攻めも兵糧攻めの一種である
城攻めが想定される場合 攻城道具の製作などのため材料とともに大工などの工業技術者を軍勢に加
たり 土塁を切崩す・水の手を断つなどの必要から鉱山技術者 鉱山労働者を同道させることもあった
豊臣秀吉が兵糧攻めした城
播磨三木城 因幡鳥取城

<クリックで拡大します>
豊臣秀吉が大規模な水攻めを行った備中高松城

<クリックで拡大します>
「何か 言いたいことでもありますか?」by sa-ko

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:雑賀衆
紀伊国北西部の雑賀荘を中心とする一帯の諸荘園に居住した国人・土豪・地侍たちの結合した集団(一揆)である。16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:戦国時代>
攻城戦は籠城戦の逆をとればいいことになる しかし城郭にはさまざまな攻城の方法を想定した上で
構造されているわけだから 攻める側が優勢であったにしても 力攻めを敢行するには攻める側も相当
の損害を予想しなければならない
一般的に城攻めでは攻める側は守る側の3倍の兵力が必要であったとされており 武田信玄は「城攻
めには10倍の兵力で当たれ」といっていたらしい
城攻めは先ず城を包囲し その後に攻撃ということになるが 短期にその城を落とす必要がある時は
包囲の一角をわざと空けて 城兵を逃亡させることもあった
力攻めを行う場合には 竹束・大楯・井楼などの攻城道具を持って近づき乗崩した
江戸時代の城郭は建物が漆喰で塗り固めている例が多いが 戦国時代の城郭の殆どは建物が白木の
ままだったから火攻めも有効であった
背後に危険がなく時間的に余裕があれば兵糧攻めにする 包囲の徹底を図り外部と城との連絡を遮断
して 物資・兵員の補給を断つのである 兵糧攻めの場合は敵方の後巻き警戒して強固な陣地を築く
陣地より発達したものが付け城である
兵糧攻めを得意としたのが豊臣秀吉で 播磨三木城攻め 因幡鳥取城攻めでは徹底した兵糧攻めを
行い備中高松城では大規模な水攻めを行っている 水攻めも兵糧攻めの一種である
城攻めが想定される場合 攻城道具の製作などのため材料とともに大工などの工業技術者を軍勢に加
たり 土塁を切崩す・水の手を断つなどの必要から鉱山技術者 鉱山労働者を同道させることもあった
豊臣秀吉が兵糧攻めした城
播磨三木城 因幡鳥取城


<クリックで拡大します>
豊臣秀吉が大規模な水攻めを行った備中高松城


<クリックで拡大します>
「何か 言いたいことでもありますか?」by sa-ko

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:雑賀衆
紀伊国北西部の雑賀荘を中心とする一帯の諸荘園に居住した国人・土豪・地侍たちの結合した集団(一揆)である。16世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した
≪本日の問題≫
ランキングに参加しています

にほんブログ村
応援ありがとうございました
<参考文献:戦国時代>