天下の覇者 「徳川家康」 ≪大坂夏の陣≫
三河の一大名から天下の覇者となった武将
≪大坂夏の陣≫
1615年 73才 豊臣氏は 内堀まで埋め立てられたため これを掘り返そうとした
ところが家康は それを「豊臣氏が戦の準備を進めている」という大義名分にし 大坂城内の浪人
の追放と豊臣氏の移封を要求
さらに徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ またも近畿方面に大軍を送り込んだ
そして豊臣氏に要求が拒否されると侵攻を開始した
これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが 兵力で圧倒的に不利であり塙直之・後藤
基次・木村重成・薄田兼相ら勇将を相次いで失ってしまう
しかし徳川軍は大軍ゆえの連携の拙さなどから 豊臣軍の真田信繁隊に本陣にまで突入され毛
利勝永隊4,000には これに当たった6万もの幕府軍があっという間に壊滅した
家康大仁村難戦之図

一時は本陣の馬印が倒れ家康自身も自決を覚悟するほどの危機にも見舞われたが やがて態勢
を立て直した徳川軍により真田幸村(信繁)は戦死 勝永は秀頼を守るために軍をまとめてなんと
か大坂城に退却したが 雪崩のように攻め寄せる15万もの幕府軍を支えきれず ついに大坂城は
落城した
5月8日秀頼と淀殿そしてその側近らは勝永の介錯により自害 勝永自身も自害し ここに豊臣氏
は滅亡した
豊臣秀頼と淀殿の自刃の碑

「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあるが主筋
であった豊臣氏を滅ぼしたことへの非難を避けるための後世の創作であるという説もある
その後大坂城は完全に埋め立てられ その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて 秀吉
へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され 豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・
放置される
明治維新の後に豊国大明神号は復活し 東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている
犬用のベッドをプレゼントされ、ご機嫌のsa-ko嬢です。

しかし、大き過ぎてケージの中には入れられません。

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:11年
家康は、1549年の8歳の時から、1560年まで今川氏の人質として過ごしています。
≪本日の問題≫
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≪大坂夏の陣≫
1615年 73才 豊臣氏は 内堀まで埋め立てられたため これを掘り返そうとした
ところが家康は それを「豊臣氏が戦の準備を進めている」という大義名分にし 大坂城内の浪人
の追放と豊臣氏の移封を要求
さらに徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ またも近畿方面に大軍を送り込んだ
そして豊臣氏に要求が拒否されると侵攻を開始した
これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが 兵力で圧倒的に不利であり塙直之・後藤
基次・木村重成・薄田兼相ら勇将を相次いで失ってしまう
しかし徳川軍は大軍ゆえの連携の拙さなどから 豊臣軍の真田信繁隊に本陣にまで突入され毛
利勝永隊4,000には これに当たった6万もの幕府軍があっという間に壊滅した
家康大仁村難戦之図

一時は本陣の馬印が倒れ家康自身も自決を覚悟するほどの危機にも見舞われたが やがて態勢
を立て直した徳川軍により真田幸村(信繁)は戦死 勝永は秀頼を守るために軍をまとめてなんと
か大坂城に退却したが 雪崩のように攻め寄せる15万もの幕府軍を支えきれず ついに大坂城は
落城した
5月8日秀頼と淀殿そしてその側近らは勝永の介錯により自害 勝永自身も自害し ここに豊臣氏
は滅亡した
豊臣秀頼と淀殿の自刃の碑

「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあるが主筋
であった豊臣氏を滅ぼしたことへの非難を避けるための後世の創作であるという説もある
その後大坂城は完全に埋め立てられ その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて 秀吉
へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され 豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・
放置される
明治維新の後に豊国大明神号は復活し 東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている
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しかし、大き過ぎてケージの中には入れられません。


『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:11年
家康は、1549年の8歳の時から、1560年まで今川氏の人質として過ごしています。
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天下の覇者 「徳川家康」 ≪大坂冬の陣≫
三河の一大名から天下の覇者となった武将
≪大坂冬の陣≫
1614年 72才 11月15日家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた
そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが 力攻めはせずに大坂城外にある砦
などを攻めるという局地戦を行うに留めた
大坂冬の陣の布陣図
豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は 約20万の軍で完全に包囲した

<クリックで拡大します>
徳川軍は木津川口の戦い・今福の戦い・鴫野の戦い・博労淵の戦いなどの局地戦で勝利を重
ねたが 真田丸の戦いでは大敗を喫した
とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく徳川軍は新たな作戦を始動した 午後8時・午前
0時・午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ さらに午後10時・午前2時・午前6時に大砲(石火矢
・大筒)を放たせて城兵 特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした
この砲撃作戦は成功し 落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て 家康もそれを了
承した
家康は戦術的には強固な城郭を落とすことはできなかったが 淀殿や女官を心理的に疲弊させ
ることで有利な条件で和睦にもち込むという戦略的勝利を得た
和議の条件として 堀の埋め立ては二の丸が豊臣家 三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決め
られていたが 徳川方は「工事が進んでいないので、手伝う」といいそのまま二の丸を破壊
し周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行し 1615年1月中旬までに大坂城は本丸だけ
を残す無防備な裸城となった
*徳川家康に長い間お付き合いいただきましたが、あと2回で終了となります。
冬の陣後、裸同然となった大坂城
この丸裸の大坂城に、秀吉は草葉の陰で泣いていたことでしょうね。

pigletの視線の先には・・・

ピロロとブルーが飛び回っていました。
両人は「戦国武将」ですから、「義ィ~・ギィー・ぎィ~」とうるさく鳴くので「うるさい!」
とみんなから嫌われています。

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:小早川秀秋
一時は秀吉の養子になった小早川秀秋ですが、豊臣秀次事件に連座して丹波亀山を没収
される等の経緯があり、関ヶ原の戦いで最初に西軍を裏切ったといわれています。
≪本日の問題≫
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1614年 72才 11月15日家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた
そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが 力攻めはせずに大坂城外にある砦
などを攻めるという局地戦を行うに留めた
大坂冬の陣の布陣図
豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は 約20万の軍で完全に包囲した

<クリックで拡大します>
徳川軍は木津川口の戦い・今福の戦い・鴫野の戦い・博労淵の戦いなどの局地戦で勝利を重
ねたが 真田丸の戦いでは大敗を喫した
とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく徳川軍は新たな作戦を始動した 午後8時・午前
0時・午前4時に一斉に勝ち鬨をあげさせ さらに午後10時・午前2時・午前6時に大砲(石火矢
・大筒)を放たせて城兵 特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした
この砲撃作戦は成功し 落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て 家康もそれを了
承した
家康は戦術的には強固な城郭を落とすことはできなかったが 淀殿や女官を心理的に疲弊させ
ることで有利な条件で和睦にもち込むという戦略的勝利を得た
和議の条件として 堀の埋め立ては二の丸が豊臣家 三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決め
られていたが 徳川方は「工事が進んでいないので、手伝う」といいそのまま二の丸を破壊
し周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行し 1615年1月中旬までに大坂城は本丸だけ
を残す無防備な裸城となった
*徳川家康に長い間お付き合いいただきましたが、あと2回で終了となります。
冬の陣後、裸同然となった大坂城
この丸裸の大坂城に、秀吉は草葉の陰で泣いていたことでしょうね。

pigletの視線の先には・・・

ピロロとブルーが飛び回っていました。
両人は「戦国武将」ですから、「義ィ~・ギィー・ぎィ~」とうるさく鳴くので「うるさい!」
とみんなから嫌われています。


『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:小早川秀秋
一時は秀吉の養子になった小早川秀秋ですが、豊臣秀次事件に連座して丹波亀山を没収
される等の経緯があり、関ヶ原の戦いで最初に西軍を裏切ったといわれています。
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天下の覇者 「徳川家康」 ≪方広寺鐘銘事件≫
三河の一大名から天下の覇者となった武将
≪方広寺鐘銘事件≫
1614年 72歳 豊臣氏は家康の勧めで4月に方広寺を再建しており 8月3日に大仏殿の開眼供養を
行うことにした
ところが家康は 方広寺の梵鐘の銘文中に不吉な語があると供養を差し止めた
問題とされたのは「国家安康」「君臣豊楽・子孫殷昌」「右僕射源朝臣」の部分であった
「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし「君臣豊楽・子孫殷昌」は豊臣氏を君として
子孫の殷昌を楽しむとした
国家安康の梵鐘(重要文化財)とその銘文

さらに「右僕射源朝臣」については「家康を射るという言葉だ」と非難したのである
これに対して豊臣氏は 家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し 家康に弁明を
試みた
ところが家康は会見すら拒否し 逆に清韓を拘束し且元を大坂へ返した 且元は秀頼の大坂城退
去などを提案し妥協を図ったが豊臣氏は拒否
そして豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると 家康は豊臣氏が浪人を集
めて軍備を増強していることを理由に豊臣氏に宣戦布告したのである
この事件は 豊臣家攻撃の口実とするために家康が崇伝らと画策して問題化させたものであると
の考え方が一般的である
当時 基本的に諱で呼ぶことができるのは両親・主君そして敵であって 通常は名字+官職名もし
くは通名などで呼び諱で呼ぶことは非常に無礼とされたことを考えると 家康側が全面的にこじつ
けたものではなく 豊臣側の手落ちか あるいは主家という立場から意図的に侮蔑したともいわ
れる
そして同時に留意しなければならないことは家康の言いがかりともとれる難題に対し それを批判
したり 調停を買って出る大名がこの段階では豊臣恩顧の大名においては存在しなくなっていた
超ラブ・ラブなpigletとsa-ko嬢


『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:茶々
秀吉は信長の妹、お市の方にずっと憧れていましたが、お市の方は浅井長政の正室と
なった後、柴田勝家に嫁ぎました。
そして信長の跡目争いで、秀吉が勝家を攻め込んだ時にお市の方は勝家と共に自害し
てしまいます。その時に城に残っていた3人の娘のうち一番お市の方の面影のあった
茶々を側室にしたと言われています。
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≪方広寺鐘銘事件≫
1614年 72歳 豊臣氏は家康の勧めで4月に方広寺を再建しており 8月3日に大仏殿の開眼供養を
行うことにした
ところが家康は 方広寺の梵鐘の銘文中に不吉な語があると供養を差し止めた
問題とされたのは「国家安康」「君臣豊楽・子孫殷昌」「右僕射源朝臣」の部分であった
「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし「君臣豊楽・子孫殷昌」は豊臣氏を君として
子孫の殷昌を楽しむとした
国家安康の梵鐘(重要文化財)とその銘文


さらに「右僕射源朝臣」については「家康を射るという言葉だ」と非難したのである
これに対して豊臣氏は 家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し 家康に弁明を
試みた
ところが家康は会見すら拒否し 逆に清韓を拘束し且元を大坂へ返した 且元は秀頼の大坂城退
去などを提案し妥協を図ったが豊臣氏は拒否
そして豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると 家康は豊臣氏が浪人を集
めて軍備を増強していることを理由に豊臣氏に宣戦布告したのである
この事件は 豊臣家攻撃の口実とするために家康が崇伝らと画策して問題化させたものであると
の考え方が一般的である
当時 基本的に諱で呼ぶことができるのは両親・主君そして敵であって 通常は名字+官職名もし
くは通名などで呼び諱で呼ぶことは非常に無礼とされたことを考えると 家康側が全面的にこじつ
けたものではなく 豊臣側の手落ちか あるいは主家という立場から意図的に侮蔑したともいわ
れる
そして同時に留意しなければならないことは家康の言いがかりともとれる難題に対し それを批判
したり 調停を買って出る大名がこの段階では豊臣恩顧の大名においては存在しなくなっていた
超ラブ・ラブなpigletとsa-ko嬢



『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:茶々
秀吉は信長の妹、お市の方にずっと憧れていましたが、お市の方は浅井長政の正室と
なった後、柴田勝家に嫁ぎました。
そして信長の跡目争いで、秀吉が勝家を攻め込んだ時にお市の方は勝家と共に自害し
てしまいます。その時に城に残っていた3人の娘のうち一番お市の方の面影のあった
茶々を側室にしたと言われています。
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天下の覇者 「徳川家康」 ≪大坂の陣の背景≫
三河の一大名から天下の覇者となった武将
≪大坂の陣の背景≫
最晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であり続けた
一大名の位置に転落したとはいえ なお特別の地位を保持しており実質的には徳川氏の支配下には
編入されておらず 西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった
また家康の将軍宣下時には 秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取ら
れており 秀忠の将軍宣下時には秀頼は秀忠(内大臣)を上回る右大臣に昇進している
さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた 家康の次男であり家康も秀忠も礼儀を尽くすなどの 徳川
家の中でも別格の存在であり 丁重な扱いをされていた結城秀康は、「幕府が豊臣を攻めたら 自分
は堂々と大坂城に入り 秀頼を守る」と公言していた
また 将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり 忠輝の義父でもある伊達政宗は未だ天下
取りの野望を捨ててはおらず 忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された
また将軍家でも 秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた
さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった
もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば 幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性が
あった
家康はこの時期 主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している
家康は当初 徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり 諸寺仏閣の統制を豊臣氏に
任せようとしていた兆候もある
また(秀吉の遺言を受け)孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる しかし豊臣氏の人々は政権を奪われた
ことにより次第に家康を警戒するようになっていった さらに豊臣氏は徳川氏との決戦に備えて多くの
浪人を雇い入れていたが その多くは関ヶ原の戦いの敗残兵で家康に恨みをもつ者たちであった
そのようななか 1607年には結城秀康が1611年に加藤清正・堀尾吉晴・浅野長政 1613年には浅野
幸長・池田輝政など 豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため 次第に豊臣氏は孤立を深めていっ
た
そして1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけとして 家康は豊臣氏を完全に屈服させることを決意し
それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した
次々と死去した豊臣恩顧の有力大名達
(この時期 豊臣恩顧の大名の死が相次いだため 家康による毒殺説等もある)
結城秀康 加藤清正 堀尾吉晴
1574-1607 享年34才 1562-1611 享年50才 1544-1611 享年68才

浅野長政 浅野幸長 池田輝政
1547-1611 享年65才 1576-1613 享年38才 1565-1613 享年49才

シャンプーハットの姉妹です。
1号 2号
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:小牧・長久手の戦い
本能寺の変の後、信長の跡目争いで秀吉と信長の長男・織田信雄を擁立した家康が対立し、
小牧・長久手の戦いが起きました。
戦い自体には家康が勝ったのですが、信雄が単独で秀吉と講和を結んでしまい、家康は大儀
がなくなったため、それに従わざるをえなくなりました。
≪本日の問題≫
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≪大坂の陣の背景≫
最晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であり続けた
一大名の位置に転落したとはいえ なお特別の地位を保持しており実質的には徳川氏の支配下には
編入されておらず 西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった
また家康の将軍宣下時には 秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取ら
れており 秀忠の将軍宣下時には秀頼は秀忠(内大臣)を上回る右大臣に昇進している
さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた 家康の次男であり家康も秀忠も礼儀を尽くすなどの 徳川
家の中でも別格の存在であり 丁重な扱いをされていた結城秀康は、「幕府が豊臣を攻めたら 自分
は堂々と大坂城に入り 秀頼を守る」と公言していた
また 将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり 忠輝の義父でもある伊達政宗は未だ天下
取りの野望を捨ててはおらず 忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された
また将軍家でも 秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた
さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった
もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば 幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性が
あった
家康はこの時期 主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している
家康は当初 徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり 諸寺仏閣の統制を豊臣氏に
任せようとしていた兆候もある
また(秀吉の遺言を受け)孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる しかし豊臣氏の人々は政権を奪われた
ことにより次第に家康を警戒するようになっていった さらに豊臣氏は徳川氏との決戦に備えて多くの
浪人を雇い入れていたが その多くは関ヶ原の戦いの敗残兵で家康に恨みをもつ者たちであった
そのようななか 1607年には結城秀康が1611年に加藤清正・堀尾吉晴・浅野長政 1613年には浅野
幸長・池田輝政など 豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため 次第に豊臣氏は孤立を深めていっ
た
そして1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけとして 家康は豊臣氏を完全に屈服させることを決意し
それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した
次々と死去した豊臣恩顧の有力大名達
(この時期 豊臣恩顧の大名の死が相次いだため 家康による毒殺説等もある)
結城秀康 加藤清正 堀尾吉晴
1574-1607 享年34才 1562-1611 享年50才 1544-1611 享年68才



浅野長政 浅野幸長 池田輝政
1547-1611 享年65才 1576-1613 享年38才 1565-1613 享年49才



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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:小牧・長久手の戦い
本能寺の変の後、信長の跡目争いで秀吉と信長の長男・織田信雄を擁立した家康が対立し、
小牧・長久手の戦いが起きました。
戦い自体には家康が勝ったのですが、信雄が単独で秀吉と講和を結んでしまい、家康は大儀
がなくなったため、それに従わざるをえなくなりました。
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天下の覇者 「徳川家康」 ≪大御所政治≫
三河の一大名から天下の覇者となった武将
≪大御所政治≫
1605年 63才 4月16日 家康は将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行なわ
せ将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した
同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが淀殿がこれを拒絶する 結局 六男・
松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった
1607年 65才 駿府城に移って「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて
幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)
1611年 69才 二条城にて秀頼と会見したいと要望した
主筋を自任する豊臣氏はこれを拒絶する方向でいたが 将軍・秀忠は秀頼の義父である関係か
ら あくまで「義父への挨拶」という名目で上洛を要請し 加藤清正等の説得もあって ついには
秀頼を上洛させることに成功した
この会見により天下の衆目に「家康が日本の武家の棟梁である」ことを示したとするのが一般的
な見解ですが 豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感すること
になったとの見解もあります
駿府城
家康は、1590年小田原の役後江戸に移封されたが、1607年再び駿府城に移って「江戸の将軍」
に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けた。

盗撮
シャワー後のsa-ko嬢を覗き見しました。

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:大谷吉継
吉継は三成と大親友の関係であったと言われており、関ヶ原の合戦も無謀だと知りながら
あえて西軍に組みしましたが、最後の最後まで三成に使者を送り合戦を中止するよう諌めた
と言われています。
≪本日の問題≫
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≪大御所政治≫
1605年 63才 4月16日 家康は将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行なわ
せ将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した
同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが淀殿がこれを拒絶する 結局 六男・
松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった
1607年 65才 駿府城に移って「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて
幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)
1611年 69才 二条城にて秀頼と会見したいと要望した
主筋を自任する豊臣氏はこれを拒絶する方向でいたが 将軍・秀忠は秀頼の義父である関係か
ら あくまで「義父への挨拶」という名目で上洛を要請し 加藤清正等の説得もあって ついには
秀頼を上洛させることに成功した
この会見により天下の衆目に「家康が日本の武家の棟梁である」ことを示したとするのが一般的
な見解ですが 豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感すること
になったとの見解もあります
駿府城
家康は、1590年小田原の役後江戸に移封されたが、1607年再び駿府城に移って「江戸の将軍」
に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けた。



盗撮
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:大谷吉継
吉継は三成と大親友の関係であったと言われており、関ヶ原の合戦も無謀だと知りながら
あえて西軍に組みしましたが、最後の最後まで三成に使者を送り合戦を中止するよう諌めた
と言われています。
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天下の覇者 「徳川家康」 ≪征夷大将軍≫
三河の一大名から天下の覇者となった武将
≪征夷大将軍≫
1601年 59才 関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた3月23日 家康は大坂城・西の丸を豊臣
氏に明け渡して伏見城に入ってなおも政務を執った
そしていよいよ征夷大将軍として幕府を開くために 徳川氏の系図の改姓も行った
「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため 家康は系図を源義家に通じるよう
に整備させた(1588年という説もあります)
伏見城(模擬天守)

1603年 61才 2月12日 後陽成天皇が家康を征夷大将軍に任命した
徳川家の征夷大将軍は15代将軍徳川慶喜(1868年)まで続くことになる
武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は足利
義満から始まった慣例である
3月12日伏見城から二条城に上洛
3月21日衣冠束帯をつけ行列をととのえて参内し 御所で将軍拝賀の礼を行い年頭の祝賀
も述べている
3月27日二条城に勅使を迎え 重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行っている
二条城(写真は平成20年4月26日に京都旅行で撮ったものです。)

豊臣政権の五大老の一人であった家康が 秀吉の死から4年半で武家の棟梁としての地位
を手に入れ名実ともに豊臣氏を上回る地位を確立した
幕府開府にあたって武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定および各制度の整備を行い
武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定める
朝廷を掌握すれば豊臣氏が形勢挽回する道はなく 天下統一の後において政権の安泰を
図る上で重要であった
7月28日家康の孫娘・千姫が大坂の豊臣秀頼へ嫁ぐ
オモチャさえあれば、ご機嫌なsa-ko嬢です。

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:穀蔵院飄戸斎
「こくぞういんひょっとさい」と読みます。
≪本日の問題≫
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≪征夷大将軍≫
1601年 59才 関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた3月23日 家康は大坂城・西の丸を豊臣
氏に明け渡して伏見城に入ってなおも政務を執った
そしていよいよ征夷大将軍として幕府を開くために 徳川氏の系図の改姓も行った
「将軍になれるのは清和源氏」という慣例があったため 家康は系図を源義家に通じるよう
に整備させた(1588年という説もあります)
伏見城(模擬天守)

1603年 61才 2月12日 後陽成天皇が家康を征夷大将軍に任命した
徳川家の征夷大将軍は15代将軍徳川慶喜(1868年)まで続くことになる
武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は足利
義満から始まった慣例である
3月12日伏見城から二条城に上洛
3月21日衣冠束帯をつけ行列をととのえて参内し 御所で将軍拝賀の礼を行い年頭の祝賀
も述べている
3月27日二条城に勅使を迎え 重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行っている
二条城(写真は平成20年4月26日に京都旅行で撮ったものです。)



豊臣政権の五大老の一人であった家康が 秀吉の死から4年半で武家の棟梁としての地位
を手に入れ名実ともに豊臣氏を上回る地位を確立した
幕府開府にあたって武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定および各制度の整備を行い
武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定める
朝廷を掌握すれば豊臣氏が形勢挽回する道はなく 天下統一の後において政権の安泰を
図る上で重要であった
7月28日家康の孫娘・千姫が大坂の豊臣秀頼へ嫁ぐ
オモチャさえあれば、ご機嫌なsa-ko嬢です。


『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:穀蔵院飄戸斎
「こくぞういんひょっとさい」と読みます。
≪本日の問題≫
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天下の覇者 「徳川家康」 ≪関ヶ原の戦い 2≫
三河の一大名から天下の覇者となった武将
≪関ヶ原の戦い・小山評定から≫
1600年 58才 東軍は家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢合わせて10万人ほどで編成され
ていた
そのうち一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を 家康は残りの軍勢を率いて
東海道から上方に向かうこととなる
真田昌幸の策略
中山道を南下した徳川秀忠隊は、上田城主・真田昌幸の策略で本戦に遅れて到着した
一方で家康は江戸城に1ヶ月ほど留まり 160通近い書状を諸大名に送付している これは
三成が大坂城と秀頼を事実上擁立していることが伝わったため(小山評定の段階では三成
の単独挙兵として伝わっていた)秀吉恩顧の武将らが三成の元へ駆けつけることを恐れた
ためであると思われます
正則ら東軍は清洲城に入ると 西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し織田秀信が守る岐阜
城を落とした このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている
9月に家康は江戸城から出陣し美濃国に着陣した
前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた これ
に対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れる(杭瀬川の戦い)
9月15日午前8時 美濃国・関ヶ原において ついに東西両軍による決戦が繰り広げられた
当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であったが 正午ごろ かねてより懐柔策をとっていた
小早川秀秋の軍が西軍を裏切って東軍に味方することを決意し 西軍の大谷吉継隊に襲い
かかったのを機に形勢がが逆転する
三成陣跡 激戦地跡 家康陣跡

大谷軍も奮戦したが さらに脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠らの寝返りもあって
西軍は総崩れとなった
戦いの終盤では敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が家康の本陣目前にまで猛攻し
てくるという非常に危険な局面もあったものの 家康率いる東軍の勝利に終わった(関ヶ原
の戦い本戦)
関ヶ原の戦い布陣図(開戦時)

9月18日 家康は三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し 9月21日には戦場から
逃亡していた三成を捕縛し 10月1日には六条河原で処刑した
そして大坂に入った家康は西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し それら
から奪った所領により自分の領地を250万石から400万石に増やした
秀頼・淀殿に対しては「女・子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだっ
たが家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた豊臣氏の直轄地は西軍の大名領
もろとも失われた
その結果として 豊臣氏を摂津・河内・和泉の3カ国65万石の一大名の身分に落とし 名実共
に天下人を継承する
最近、暑いとかで外で遊ばして貰えませんから、ゴミ捨てに着いて行こうと靴を探していたら
pigletが行くなら、後でゴミ捨てに行くと言われ・・・

チョットいじけて、後で行くを待ってます。

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解は:159cm
昭和49年に発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は当時平均的である159.4cm
と推定されています。
≪本日の問題≫
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1600年 58才 東軍は家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢合わせて10万人ほどで編成され
ていた
そのうち一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を 家康は残りの軍勢を率いて
東海道から上方に向かうこととなる
真田昌幸の策略
中山道を南下した徳川秀忠隊は、上田城主・真田昌幸の策略で本戦に遅れて到着した

一方で家康は江戸城に1ヶ月ほど留まり 160通近い書状を諸大名に送付している これは
三成が大坂城と秀頼を事実上擁立していることが伝わったため(小山評定の段階では三成
の単独挙兵として伝わっていた)秀吉恩顧の武将らが三成の元へ駆けつけることを恐れた
ためであると思われます
正則ら東軍は清洲城に入ると 西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し織田秀信が守る岐阜
城を落とした このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている
9月に家康は江戸城から出陣し美濃国に着陣した
前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた これ
に対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れる(杭瀬川の戦い)
9月15日午前8時 美濃国・関ヶ原において ついに東西両軍による決戦が繰り広げられた
当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であったが 正午ごろ かねてより懐柔策をとっていた
小早川秀秋の軍が西軍を裏切って東軍に味方することを決意し 西軍の大谷吉継隊に襲い
かかったのを機に形勢がが逆転する
三成陣跡 激戦地跡 家康陣跡



大谷軍も奮戦したが さらに脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠らの寝返りもあって
西軍は総崩れとなった
戦いの終盤では敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が家康の本陣目前にまで猛攻し
てくるという非常に危険な局面もあったものの 家康率いる東軍の勝利に終わった(関ヶ原
の戦い本戦)
関ヶ原の戦い布陣図(開戦時)

9月18日 家康は三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し 9月21日には戦場から
逃亡していた三成を捕縛し 10月1日には六条河原で処刑した
そして大坂に入った家康は西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し それら
から奪った所領により自分の領地を250万石から400万石に増やした
秀頼・淀殿に対しては「女・子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだっ
たが家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた豊臣氏の直轄地は西軍の大名領
もろとも失われた
その結果として 豊臣氏を摂津・河内・和泉の3カ国65万石の一大名の身分に落とし 名実共
に天下人を継承する
最近、暑いとかで外で遊ばして貰えませんから、ゴミ捨てに着いて行こうと靴を探していたら
pigletが行くなら、後でゴミ捨てに行くと言われ・・・

チョットいじけて、後で行くを待ってます。

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≪昨日の解答≫
正解は:159cm
昭和49年に発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は当時平均的である159.4cm
と推定されています。
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