piglet家のハロウィン!
関ヶ原で最も熱い「男の友情」
「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」

≪ エピローグ ≫
戦国時代の倫理観や道徳観は 江戸時代に徳川幕府が統治理念とした儒学に基づいて形成され
明治期以降も継承された現代のそれとはまったく異ったものでした
戦国武将が最重要視したのは家名の存続と自分の生き残りだったために 裏切りや寝返り・謀叛
・謀略・暗殺などが日常茶飯事のごとく横行します
それらの行為は賞賛されはしなかったものの 声高に批難されることもなかった 加えて友情や
友誼という観念もきわめて希薄な時代です
そんな戦国乱世にあって 刎頚の友の契りを結び“審議”や“正義”を貫き通した漢(おとこ)
の代表例が大谷吉継と石田三成だったのです
初対面で意気投合した吉継と三成は その後も漢同士の絆を深め 関が原合戦に至までの20数
年間 “利”を秤にかけることなく“損得”を棄てて心琴を触れ合わせ 友情と信義を命がけで
守り抜いています
この小説は石田三成を陽側から展開していますが 機会があれば彼を陰側から見た記事もアップ
してみたいと思います
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本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。








「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」

≪ エピローグ ≫
戦国時代の倫理観や道徳観は 江戸時代に徳川幕府が統治理念とした儒学に基づいて形成され
明治期以降も継承された現代のそれとはまったく異ったものでした
戦国武将が最重要視したのは家名の存続と自分の生き残りだったために 裏切りや寝返り・謀叛
・謀略・暗殺などが日常茶飯事のごとく横行します
それらの行為は賞賛されはしなかったものの 声高に批難されることもなかった 加えて友情や
友誼という観念もきわめて希薄な時代です
そんな戦国乱世にあって 刎頚の友の契りを結び“審議”や“正義”を貫き通した漢(おとこ)
の代表例が大谷吉継と石田三成だったのです
初対面で意気投合した吉継と三成は その後も漢同士の絆を深め 関が原合戦に至までの20数
年間 “利”を秤にかけることなく“損得”を棄てて心琴を触れ合わせ 友情と信義を命がけで
守り抜いています
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大谷吉継と石田三成 ≪ 六条河原 ≫
関ヶ原で最も熱い「男の友情」
「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」
≪ 六条河原 ≫
1600年 三成40才 3将は首に鉄輪をはめられ 牢車に閉じ込められた格好で大坂・堺の町を引き
回され京都へ移送された
10月1日牢車は洛中引き回しのあと六条河原へ向かった 沿道には見物人が溢れているが
三成は動じない 坐禅を組むような姿勢で坐り 瞑目をつづけた
天地人の三成(小栗さん)

途中で喉の渇きを覚え
「白湯を所望したい」
護送役の組頭に声をかけた
「白湯はないが 干し柿ならある」
「干し柿は痰の毒だ いらぬ」
「痰の毒だと すぐに首を刎ねられる人間が痰の養生をするというのか」
組頭が嘲るように笑った
「下郎!」
三成が怒声を放った
「うぬらの小智の者にはもっともな了見だろうが わしは大義のために老奸を誅伐せんとして
兵を挙げた 結果 志と違い 今は縄目の恥辱を受けている だが 大義に生きる者は首を刎ね
られる最後のときまで己の命を大切にし 本意を遂げようとするものだ わかったか!」
六条河原に着いた
刑場には遊行上人(ゆぎょうしょうにん)がいる 被処刑人の最後に当たって念仏を唱え 安心
を得させるためである
「十念を・・・」
上人が三成に声をかけた
「無用でござる 泉下の太閤殿下に拝謁できれば それで十分」
それが 三成が今生に残した最後の言葉になった
天地人の三成(小栗さん)

<刑部 冥途の入口で待ってくれておるか わしもこれから参るぞ・・・>
三成の想念を断ち切るように 斬刑執行人が手にする白刃が一閃した


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 天下を取るため
軍事大国であるスペインをバックに、徳川政権を覆し天下を取る野望があったため、
支倉常長を派遣してありますが、申し出は断られ政宗の野望は露と消えています。
≪本日の問題≫
本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。
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「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
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≪ 六条河原 ≫
1600年 三成40才 3将は首に鉄輪をはめられ 牢車に閉じ込められた格好で大坂・堺の町を引き
回され京都へ移送された
10月1日牢車は洛中引き回しのあと六条河原へ向かった 沿道には見物人が溢れているが
三成は動じない 坐禅を組むような姿勢で坐り 瞑目をつづけた
天地人の三成(小栗さん)

途中で喉の渇きを覚え
「白湯を所望したい」
護送役の組頭に声をかけた
「白湯はないが 干し柿ならある」
「干し柿は痰の毒だ いらぬ」
「痰の毒だと すぐに首を刎ねられる人間が痰の養生をするというのか」
組頭が嘲るように笑った
「下郎!」
三成が怒声を放った
「うぬらの小智の者にはもっともな了見だろうが わしは大義のために老奸を誅伐せんとして
兵を挙げた 結果 志と違い 今は縄目の恥辱を受けている だが 大義に生きる者は首を刎ね
られる最後のときまで己の命を大切にし 本意を遂げようとするものだ わかったか!」
六条河原に着いた
刑場には遊行上人(ゆぎょうしょうにん)がいる 被処刑人の最後に当たって念仏を唱え 安心
を得させるためである
「十念を・・・」
上人が三成に声をかけた
「無用でござる 泉下の太閤殿下に拝謁できれば それで十分」
それが 三成が今生に残した最後の言葉になった
天地人の三成(小栗さん)

<刑部 冥途の入口で待ってくれておるか わしもこれから参るぞ・・・>
三成の想念を断ち切るように 斬刑執行人が手にする白刃が一閃した



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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 天下を取るため
軍事大国であるスペインをバックに、徳川政権を覆し天下を取る野望があったため、
支倉常長を派遣してありますが、申し出は断られ政宗の野望は露と消えています。
≪本日の問題≫
本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。
大谷吉継と石田三成 ≪ 石田三成 家康との対面 ≫
関ヶ原で最も熱い「男の友情」
「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」
≪石田三成 家康との対面≫
1600年 三成40才 家康が三成と対面したのも9月24日であった
「取り合いに勝敗はつきものでござる 敗北は恥ではござらん」
家康の言葉に三成が応じる
「ただ天運のしからしむところでござった」
岡崎城の家康(1543-1616年)

交わした会話は短く 対面後 三成の身柄は家康の若手側近筆頭の本多正純に預けられた
自分の宿舎に三成を引き具した正純の態度は家康や長政とはまるで違う
「秀頼公は幼少で まだ事の是非も判断もできない にもかかわらず貴公はその名を騙って
由なき戦いを起した ただ太平をいたす道も選んでいれば このような恥辱を受けずにすん
だものを」
「何もわかっておらんな」
三成は首を横に振ってから言葉の穂を接いだ
「わしが太閤殿下から賜ったご恩は譬えようがないほどに大きい 内府殿を打ち滅ぼさなけ
れば 豊家の将来は危ういと思って兵を挙げたのであり 今も後悔してはおらぬ わしが大軍
を率いて天下分け目の戦いをしたことは天地が破れざる間は隠れもないこと いささかも心に
羞じるところはない ただ二心ある不義不忠の輩が裏切ったため敗れたのが悔やまれるだけ
だ」
背筋を伸ばし 胸を張っての昂然たる返答である
天地人の三成(小栗さん)

今度は正純が首を左右に振った
「智将は人の心を測り 時勢を知って軍を動かすもの 諸将が同心していないのも知らず軽々
しく兵を挙げたからこそ 戦いに敗れて囚われの身となったのであろう なぜに自刃しなかった」
三成は憐れむような視線を正純に注いで歎息した
「やはり わかっておらんな いや おぬしには永遠にわかるまい 大将の心がどういう
ものか・・・」
その言葉を最後に 三成は一切の会話を拒んだ
昨日は、1号・2号の2歳の誕生日でした。

生まれた頃の1号・2号です。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 出家して尼僧になった
一豊の死後、5ヶ月半後には土佐を去り出家して尼僧となり大通院へ移っています。
≪本日の問題≫
本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。
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「起つ それ以外に選択の道はない」
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≪石田三成 家康との対面≫
1600年 三成40才 家康が三成と対面したのも9月24日であった
「取り合いに勝敗はつきものでござる 敗北は恥ではござらん」
家康の言葉に三成が応じる
「ただ天運のしからしむところでござった」
岡崎城の家康(1543-1616年)

交わした会話は短く 対面後 三成の身柄は家康の若手側近筆頭の本多正純に預けられた
自分の宿舎に三成を引き具した正純の態度は家康や長政とはまるで違う
「秀頼公は幼少で まだ事の是非も判断もできない にもかかわらず貴公はその名を騙って
由なき戦いを起した ただ太平をいたす道も選んでいれば このような恥辱を受けずにすん
だものを」
「何もわかっておらんな」
三成は首を横に振ってから言葉の穂を接いだ
「わしが太閤殿下から賜ったご恩は譬えようがないほどに大きい 内府殿を打ち滅ぼさなけ
れば 豊家の将来は危ういと思って兵を挙げたのであり 今も後悔してはおらぬ わしが大軍
を率いて天下分け目の戦いをしたことは天地が破れざる間は隠れもないこと いささかも心に
羞じるところはない ただ二心ある不義不忠の輩が裏切ったため敗れたのが悔やまれるだけ
だ」
背筋を伸ばし 胸を張っての昂然たる返答である
天地人の三成(小栗さん)

今度は正純が首を左右に振った
「智将は人の心を測り 時勢を知って軍を動かすもの 諸将が同心していないのも知らず軽々
しく兵を挙げたからこそ 戦いに敗れて囚われの身となったのであろう なぜに自刃しなかった」
三成は憐れむような視線を正純に注いで歎息した
「やはり わかっておらんな いや おぬしには永遠にわかるまい 大将の心がどういう
ものか・・・」
その言葉を最後に 三成は一切の会話を拒んだ
昨日は、1号・2号の2歳の誕生日でした。


生まれた頃の1号・2号です。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 出家して尼僧になった
一豊の死後、5ヶ月半後には土佐を去り出家して尼僧となり大通院へ移っています。
≪本日の問題≫
本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。
大谷吉継と石田三成 ≪ 石田三成 捕縛される≫
関ヶ原で最も熱い「男の友情」
「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」
≪石田三成 捕縛される≫
1600年 三成40才 戦場から離脱した石田三成は伊吹山中に逃れたあと 北近江の古橋村に
潜行したが すぐに三成潜伏の噂が流れ 退去を余儀なくされたが三成が領主時代に情けを
かけたことのある農民が救いの手を差し伸べ 近くの山中の洞窟に移して世話をした
逃亡7日目の9月21日三成は追捕隊に捕縛され 3日後の24日に三成の身柄は徳川家康
がいる大津城へ移された
大津城(CG画像)

「門前に畳を敷き その上に座らせておけ」
家康はそう命じた
この日 福島正則・黒田長政ら東軍に与した豊臣恩顧の大名が挨拶にやってくる予定で
あり 生き曝しにしようとの魂胆である
福島正則は馬上からののしり声を放った
福島正則(1561-1624年)

「治部! うぬは内府公にたてつき 無益の乱を起こしおってからに 結果がそのざまか!」
三成も黙ってはいない 眼光鋭く正則を睨み付けて叫んだ
「なにをぬかすか! 故太閤殿下のご恩をないがしろにする恥知らずに わしの心がわかって
たまるか! 天運がわしにあれば 生き曝しになっていたのはうぬのほうだ!」
正則は逆上した さらに罵倒する
「なぜ腹をきらなんだ! 金勘定ばかりやってきたうぬには 切腹する気概もないのか それ
でも武士か 恥を知れ 恥を!」
三成は顔面を蒼白にしながらも切り返す
「恥知らずはうぬのほうだ! 知慧なき猪武者や葉武者は すぐに腹を切りたがる しかし
大志を抱く武士は最後まで再挙の機会を待つものぞ 佐衛門 心して聴け! うぬらのなし
たこと 泉下の太閤殿下に残らず報告してやる しかと 心得ておけ!」
次いでやって来たのは 小早川秀秋だった
小早川秀秋(1582-1602年)

秀秋の姿をみるや 三成はいきなり一喝した
「おのれ 金吾!」
「・・・・・」
「うぬは太閤殿下の連枝であり 殿下からは数知れぬご恩を被った身であろう にもかか
わらず 約を違えて義を棄て 人を欺き裏切るとは何たる非道 うぬの醜名 末の世まで
伝えられ 嘲笑されるは必定ぞ!」
「・・・・・」
秀秋は一言も返さず 耳を塞ぐようにして走り去った
秀秋の後には黒田長政がやってきた
黒田長政(1568-1623年)

意外なことに 下馬して三成の前に片膝を着き言葉をかけた
「ご武運つたなく このようなお姿になられるとは さぞかしご無念であろう」
「・・・・・」
三成は 正則のときと同じく激しく面罵するつもりでいたが 予想もしない慰藉の言葉に
即応はできなかった
「その格好では寒うござろう これを」
長政は自分が着ていた羽織を脱いで三成の肩にかけたあと 一礼して去っていった
「かたじけない・・・」
三成の口から呟くような声が漏れた
三成とは犬猿の仲で 三成の肉を喰らってやるとまで広言してはばからなかった長政
だが三成の“義心”だけは理解していたらしい


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 侍女の子供であったから
結城秀家の母は、正室の築山殿の侍女で正式な側室ですらなかったから、家康は
自分の子供だと認知はしていたものの、疑いを捨てきれていなかったという説が
あります。長男の死後、3男の秀忠に跡を継がせています。
≪本日の問題≫
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「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」
≪石田三成 捕縛される≫
1600年 三成40才 戦場から離脱した石田三成は伊吹山中に逃れたあと 北近江の古橋村に
潜行したが すぐに三成潜伏の噂が流れ 退去を余儀なくされたが三成が領主時代に情けを
かけたことのある農民が救いの手を差し伸べ 近くの山中の洞窟に移して世話をした
逃亡7日目の9月21日三成は追捕隊に捕縛され 3日後の24日に三成の身柄は徳川家康
がいる大津城へ移された
大津城(CG画像)

「門前に畳を敷き その上に座らせておけ」
家康はそう命じた
この日 福島正則・黒田長政ら東軍に与した豊臣恩顧の大名が挨拶にやってくる予定で
あり 生き曝しにしようとの魂胆である
福島正則は馬上からののしり声を放った
福島正則(1561-1624年)

「治部! うぬは内府公にたてつき 無益の乱を起こしおってからに 結果がそのざまか!」
三成も黙ってはいない 眼光鋭く正則を睨み付けて叫んだ
「なにをぬかすか! 故太閤殿下のご恩をないがしろにする恥知らずに わしの心がわかって
たまるか! 天運がわしにあれば 生き曝しになっていたのはうぬのほうだ!」
正則は逆上した さらに罵倒する
「なぜ腹をきらなんだ! 金勘定ばかりやってきたうぬには 切腹する気概もないのか それ
でも武士か 恥を知れ 恥を!」
三成は顔面を蒼白にしながらも切り返す
「恥知らずはうぬのほうだ! 知慧なき猪武者や葉武者は すぐに腹を切りたがる しかし
大志を抱く武士は最後まで再挙の機会を待つものぞ 佐衛門 心して聴け! うぬらのなし
たこと 泉下の太閤殿下に残らず報告してやる しかと 心得ておけ!」
次いでやって来たのは 小早川秀秋だった
小早川秀秋(1582-1602年)

秀秋の姿をみるや 三成はいきなり一喝した
「おのれ 金吾!」
「・・・・・」
「うぬは太閤殿下の連枝であり 殿下からは数知れぬご恩を被った身であろう にもかか
わらず 約を違えて義を棄て 人を欺き裏切るとは何たる非道 うぬの醜名 末の世まで
伝えられ 嘲笑されるは必定ぞ!」
「・・・・・」
秀秋は一言も返さず 耳を塞ぐようにして走り去った
秀秋の後には黒田長政がやってきた
黒田長政(1568-1623年)

意外なことに 下馬して三成の前に片膝を着き言葉をかけた
「ご武運つたなく このようなお姿になられるとは さぞかしご無念であろう」
「・・・・・」
三成は 正則のときと同じく激しく面罵するつもりでいたが 予想もしない慰藉の言葉に
即応はできなかった
「その格好では寒うござろう これを」
長政は自分が着ていた羽織を脱いで三成の肩にかけたあと 一礼して去っていった
「かたじけない・・・」
三成の口から呟くような声が漏れた
三成とは犬猿の仲で 三成の肉を喰らってやるとまで広言してはばからなかった長政
だが三成の“義心”だけは理解していたらしい



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昨日の正解: 侍女の子供であったから
結城秀家の母は、正室の築山殿の侍女で正式な側室ですらなかったから、家康は
自分の子供だと認知はしていたものの、疑いを捨てきれていなかったという説が
あります。長男の死後、3男の秀忠に跡を継がせています。
≪本日の問題≫
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大谷吉継と石田三成 ≪ 石田三成 脱出 ≫
関ヶ原で最も熱い「男の友情」
「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」
≪石田三成 脱出≫
1600年 三成 40才 小早川隊と脇坂・朽木・小川・赤座の4隊の裏切りは西軍優位だった戦況
をたちまちのうちに逆転させた
徳川家康は好機逸すべからずとばかりに 自身が直率する本隊と 後方にあった有馬豊氏隊
と山内一豊隊を戦線に投入 ここに至って体勢は決し 午後2時ころから西軍は総崩れの様相
を呈しはじめる
関ヶ原激戦地の碑 今はのどかな田園風景が広がっています

小西隊は小早川ら背叛諸隊の猛襲を受けて崩壊 士卒は我先にと逃亡し 行長も伊吹山中へ
と落ちていった
小西隊が崩れると 宇喜多隊もにわかに浮足立った 秀家は激昂し「金吾(小早川秀秋)倅と
刺し交(ちが)えて忿恨を晴らしてやる!」と小早川陣のほうへ馬首を向けたものの 明石全登
らの必死の諫止を受けて戦場から離脱していった
宇喜多秀家(1572-1655年) 秀家は八丈島に配流され50年間過ごします。

孤立無援の石田勢は勇猛果敢に戦ったが 防御線を突破されもはや起死回生の余地は皆無
だった
三成陣地防衛線 CG画像

「左近 無念だ 大谷刑部も腹をかき切ったろう」
三成が板楯の上に瀕死の身を横たえる島左近に声をかけた
左近は満身創痍 顔面は血の気が失せて蒼白になり 死相も浮かびはじめている 発する声
も絶え絶えだった
「軍師としての力 及びませず お許しくだされ それがしの命は旦夕(たんせき)に迫っており
ますれば 殿はここを逃れて捲土重来を…」
「相わかった そちを置いていくのは忍び難いが わしは死なぬ 家康の首を刎ね 豊家の将来
の安堵を見届けるまでは 決して死なぬ」
安堵の色を浮べた左近が 三成の侍従に命じる
「殿をお守りして ここより急ぎ立ち退け」
三成陣地 CG画像

三成は涙を呑み わずか3人を供にして伊吹山方面へと脱出していった
時に午後2時ごろ ここに天下分け目の一大決戦の勝敗は決し 関が原に残る西軍勢は島津勢のみ
になった
「今日はのんびりしてますよ!」by piglet


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上杉神社に現存する
両者の対立後も信長が贈った甲冑は上杉家に残り、米沢市の上杉神社に宝物として
伝えられています。
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≪石田三成 脱出≫
1600年 三成 40才 小早川隊と脇坂・朽木・小川・赤座の4隊の裏切りは西軍優位だった戦況
をたちまちのうちに逆転させた
徳川家康は好機逸すべからずとばかりに 自身が直率する本隊と 後方にあった有馬豊氏隊
と山内一豊隊を戦線に投入 ここに至って体勢は決し 午後2時ころから西軍は総崩れの様相
を呈しはじめる
関ヶ原激戦地の碑 今はのどかな田園風景が広がっています


小西隊は小早川ら背叛諸隊の猛襲を受けて崩壊 士卒は我先にと逃亡し 行長も伊吹山中へ
と落ちていった
小西隊が崩れると 宇喜多隊もにわかに浮足立った 秀家は激昂し「金吾(小早川秀秋)倅と
刺し交(ちが)えて忿恨を晴らしてやる!」と小早川陣のほうへ馬首を向けたものの 明石全登
らの必死の諫止を受けて戦場から離脱していった
宇喜多秀家(1572-1655年) 秀家は八丈島に配流され50年間過ごします。

孤立無援の石田勢は勇猛果敢に戦ったが 防御線を突破されもはや起死回生の余地は皆無
だった
三成陣地防衛線 CG画像


「左近 無念だ 大谷刑部も腹をかき切ったろう」
三成が板楯の上に瀕死の身を横たえる島左近に声をかけた
左近は満身創痍 顔面は血の気が失せて蒼白になり 死相も浮かびはじめている 発する声
も絶え絶えだった
「軍師としての力 及びませず お許しくだされ それがしの命は旦夕(たんせき)に迫っており
ますれば 殿はここを逃れて捲土重来を…」
「相わかった そちを置いていくのは忍び難いが わしは死なぬ 家康の首を刎ね 豊家の将来
の安堵を見届けるまでは 決して死なぬ」
安堵の色を浮べた左近が 三成の侍従に命じる
「殿をお守りして ここより急ぎ立ち退け」
三成陣地 CG画像


三成は涙を呑み わずか3人を供にして伊吹山方面へと脱出していった
時に午後2時ごろ ここに天下分け目の一大決戦の勝敗は決し 関が原に残る西軍勢は島津勢のみ
になった
「今日はのんびりしてますよ!」by piglet



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両者の対立後も信長が贈った甲冑は上杉家に残り、米沢市の上杉神社に宝物として
伝えられています。
≪本日の問題≫
本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。
大谷吉継と石田三成 ≪ 大谷吉継 自害 ≫
関ヶ原で最も熱い「男の友情」
「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」
≪ 大谷吉継 自害 ≫
1600年 三成40才 死力を振り絞って獅子奮迅の力闘をしていた平塚為広にも最後のときが迫る
極度に疲労し 体力もすでに限界に達していたが 秀秋の家臣の首を取って吉継のもとへ送り
届けさせ 伝言を託した
「この首それがしが討ち取りました 冥途の苞(つと)に進上します 日頃の約束どおり 只今
討死いたす覚悟なれば 刑部殿もとく自害なされて人手にかかられませんように」
為広は伝言とは別に和歌一首も添えていた
“名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へは”
「武勇といい 和歌といい 感ずるに余りあり わしも早く自害して 追っつけ再開すべし」
両頬を涙で濡らした吉継は使者にそう返し 従軍僧の祐玄に返歌を筆写させた
“契りあらば六つの衢(ちまた)にしばし待て おくれ先だつ事はありとも”
“義”と“筋”を貫き通した漢(おとこ)同士の最後の和歌の贈答である
一方“義”を棄てた小早川秀秋の背叛に対する吉継の忿怒は凄まじい
「人面獣心の金吾(秀秋)め 必ずや3年のうちに祟りをなしてやる!」
大谷吉継(1559-1600年)

(秀秋は関ヶ原の戦いから僅か2年後の1602年に早世(享年21)します この早世は大谷吉継
が関ヶ原の合戦において自害する際 秀秋の陣に向かって「人面獣心なり 3年の間に祟りを
なさん」と言って切腹しており この祟りによって狂乱して死亡に至ったという説があります)
見えぬ眼で秀秋の本陣を睨みつけてから 穏やかな口調に変えて湯浅五助に声をかけた
「病に崩れたこの面体を敵にさらしたくない とくに内府にはな 五助 そちが介錯して首は
土中深く埋めてくれ」
「殿…」
吉継が脇差を抜いて刀身に懐紙を巻き付け 腹部をさらした 両眼から涙を溢れさせた五助
は吉継の斜め後ろに立って刀を構える
<治部 一足先に行く 冥途の入口で待っておる>
胸中に呟きた吉継が脇差を腹部に突き立てた 壮烈な十文字切腹だった 直後 五助が手
にする刀が振り下ろされた
吉継の首に向かって合掌した五助は 吉継の首を落とした血刀を振りかざし 号泣しながら
も猛然と敵中へ斬り込んで討死した
明日の記事で石田三成は 関ヶ原から離脱し伊吹山中に逃れます
その後 六条河原で処刑される話は皆様よくご存知だと思いますので割愛し 明日の記事で
終回とさせて戴きたいと思いますが如何でしょうか
お一人さまでも ご希望される方があれば最後まで記事にしたいと思いますので コメント
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 敵味方の峻別と寝返り工作のため
家康は1ヵ月の時間をかけて本当の味方を見極め、さらに多くの味方を得るため
多くの書状を送るとともに 西軍からの寝返り工作を行い小早川秀秋などの裏切
りを成功させています。
≪本日の問題≫
本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。
「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」
≪ 大谷吉継 自害 ≫
1600年 三成40才 死力を振り絞って獅子奮迅の力闘をしていた平塚為広にも最後のときが迫る
極度に疲労し 体力もすでに限界に達していたが 秀秋の家臣の首を取って吉継のもとへ送り
届けさせ 伝言を託した
「この首それがしが討ち取りました 冥途の苞(つと)に進上します 日頃の約束どおり 只今
討死いたす覚悟なれば 刑部殿もとく自害なされて人手にかかられませんように」
為広は伝言とは別に和歌一首も添えていた
“名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へは”
「武勇といい 和歌といい 感ずるに余りあり わしも早く自害して 追っつけ再開すべし」
両頬を涙で濡らした吉継は使者にそう返し 従軍僧の祐玄に返歌を筆写させた
“契りあらば六つの衢(ちまた)にしばし待て おくれ先だつ事はありとも”
“義”と“筋”を貫き通した漢(おとこ)同士の最後の和歌の贈答である
一方“義”を棄てた小早川秀秋の背叛に対する吉継の忿怒は凄まじい
「人面獣心の金吾(秀秋)め 必ずや3年のうちに祟りをなしてやる!」
大谷吉継(1559-1600年)

(秀秋は関ヶ原の戦いから僅か2年後の1602年に早世(享年21)します この早世は大谷吉継
が関ヶ原の合戦において自害する際 秀秋の陣に向かって「人面獣心なり 3年の間に祟りを
なさん」と言って切腹しており この祟りによって狂乱して死亡に至ったという説があります)
見えぬ眼で秀秋の本陣を睨みつけてから 穏やかな口調に変えて湯浅五助に声をかけた
「病に崩れたこの面体を敵にさらしたくない とくに内府にはな 五助 そちが介錯して首は
土中深く埋めてくれ」
「殿…」
吉継が脇差を抜いて刀身に懐紙を巻き付け 腹部をさらした 両眼から涙を溢れさせた五助
は吉継の斜め後ろに立って刀を構える
<治部 一足先に行く 冥途の入口で待っておる>
胸中に呟きた吉継が脇差を腹部に突き立てた 壮烈な十文字切腹だった 直後 五助が手
にする刀が振り下ろされた
吉継の首に向かって合掌した五助は 吉継の首を落とした血刀を振りかざし 号泣しながら
も猛然と敵中へ斬り込んで討死した
明日の記事で石田三成は 関ヶ原から離脱し伊吹山中に逃れます
その後 六条河原で処刑される話は皆様よくご存知だと思いますので割愛し 明日の記事で
終回とさせて戴きたいと思いますが如何でしょうか
お一人さまでも ご希望される方があれば最後まで記事にしたいと思いますので コメント
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 敵味方の峻別と寝返り工作のため
家康は1ヵ月の時間をかけて本当の味方を見極め、さらに多くの味方を得るため
多くの書状を送るとともに 西軍からの寝返り工作を行い小早川秀秋などの裏切
りを成功させています。
≪本日の問題≫
本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。
大谷吉継と石田三成 ≪ 小早川秀秋 離反 ≫
関ヶ原で最も熱い「男の友情」
「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」
≪ 小早川秀秋 離反 ≫
1600年 三成40才 「金吾(秀秋)の小倅にたばかれた…」
親指の爪を噛みながら呷くような声を洩らした家康は とうとう苛立ちを爆発させる
「金吾(秀秋)の陣へ 向かい鉄砲を撃ちかけろ!」
徳川家康本陣
桃配山の家康は自軍の劣勢と毛利の動向に対する不安、裏切りを約束しながらも行動
しない小早川秀秋に対する怒りで、誰も声をかけられなかったといいます。

秀秋は迷妄の末 ついに裏切りの采配を打ち振ったのは正午すぎだった
「思い変わることあり 敵は上方勢だ 大谷刑部の陣へ討ちかかれ!」
「殿 小早川勢がわが陣に向かって攻めかけてきております」
湯浅五郎の声が吉継の耳に届いた
<金吾(秀秋)め 太閤殿下の重恩を忘れ 没義道(もぎどう)にも利を秤にかけおった
か…>
吉継は胸中で呷くから唇を動かした
「秀秋はやはり返り忠したか 手はずどおりに矢弾をたんと馳走してやれ 平塚為広殿
采配をお頼みいたす」
吉継はうろたえる風も見せない 秀秋の背叛を予想して6百の精兵を温存し 為広に指揮
を委ねていたのだった
大谷吉継陣所
病身をおして戦場に身をおいた吉継は、山中村の本陣で指揮を執った

さらに 吉継の指揮下にありながら戦闘に参加せず形勢をうかがっていた脇坂安治 朽木
元綱 小川祐忠 赤座直保の4隊が突如 大谷隊とその支隊の側面を強襲した
「何!辺り忠しただと!」
五助の注進を受けて 騒愕と衝撃が入り混じった声を放った吉継が憤激の色も露わにつづ
ける
「武辺の道も知らん腐れ外道が! 目にものを見せてやれ!」
4隊の寝返りを機に小早川隊も反攻に転じ 猛撃を再開する
人数で劣る大谷隊とその支隊はもはや抵抗する術はなく 次々と朱に染まって倒れ伏す
だが逃亡しようとする士卒は一人もいない 全員が玉砕して吉継に殉じる覚悟で刀槍を振
るいつづけた


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 相撲
合戦は短い時は数時間で終わるが、城攻めなどは時間がかかり戦闘が長引くと、
緊張して敵と対峙するなか、武士達の娯楽として相撲が奨励されていた。
家康は息抜きとして鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」を繰り返し読んでいた
そうです。
≪本日の問題≫
本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。
「治部(三成) どうあっても起つのか」
「起つ それ以外に選択の道はない」
「ならば 一連托生だ わしの命おぬしにくれてやる」
「まことか 刑部(吉継)!」
≪ 小早川秀秋 離反 ≫
1600年 三成40才 「金吾(秀秋)の小倅にたばかれた…」
親指の爪を噛みながら呷くような声を洩らした家康は とうとう苛立ちを爆発させる
「金吾(秀秋)の陣へ 向かい鉄砲を撃ちかけろ!」
徳川家康本陣
桃配山の家康は自軍の劣勢と毛利の動向に対する不安、裏切りを約束しながらも行動
しない小早川秀秋に対する怒りで、誰も声をかけられなかったといいます。

秀秋は迷妄の末 ついに裏切りの采配を打ち振ったのは正午すぎだった
「思い変わることあり 敵は上方勢だ 大谷刑部の陣へ討ちかかれ!」
「殿 小早川勢がわが陣に向かって攻めかけてきております」
湯浅五郎の声が吉継の耳に届いた
<金吾(秀秋)め 太閤殿下の重恩を忘れ 没義道(もぎどう)にも利を秤にかけおった
か…>
吉継は胸中で呷くから唇を動かした
「秀秋はやはり返り忠したか 手はずどおりに矢弾をたんと馳走してやれ 平塚為広殿
采配をお頼みいたす」
吉継はうろたえる風も見せない 秀秋の背叛を予想して6百の精兵を温存し 為広に指揮
を委ねていたのだった
大谷吉継陣所
病身をおして戦場に身をおいた吉継は、山中村の本陣で指揮を執った

さらに 吉継の指揮下にありながら戦闘に参加せず形勢をうかがっていた脇坂安治 朽木
元綱 小川祐忠 赤座直保の4隊が突如 大谷隊とその支隊の側面を強襲した
「何!辺り忠しただと!」
五助の注進を受けて 騒愕と衝撃が入り混じった声を放った吉継が憤激の色も露わにつづ
ける
「武辺の道も知らん腐れ外道が! 目にものを見せてやれ!」
4隊の寝返りを機に小早川隊も反攻に転じ 猛撃を再開する
人数で劣る大谷隊とその支隊はもはや抵抗する術はなく 次々と朱に染まって倒れ伏す
だが逃亡しようとする士卒は一人もいない 全員が玉砕して吉継に殉じる覚悟で刀槍を振
るいつづけた




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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 相撲
合戦は短い時は数時間で終わるが、城攻めなどは時間がかかり戦闘が長引くと、
緊張して敵と対峙するなか、武士達の娯楽として相撲が奨励されていた。
家康は息抜きとして鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」を繰り返し読んでいた
そうです。
≪本日の問題≫
本記事は「大谷継吉と石田三成」(工藤章興薯)を要約して記事にしております。