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女狩りに 狂いはじめた秀吉

『女狩りに 狂いはじめた秀吉』

お市の方に完全に振られた形になった秀吉は そのウサを晴らすかのように女狩りに狂い始める

京極高吉の娘・龍子 蒲生賢秀の娘・おとら 信長の5女・後の三の丸を次々に側室とし 前田利家

が柴田勝家に人質に出していた“おまあ(後の加賀殿)”まで側室に加えてしまった

このほかにも 山名豊国の娘・あかね(後の南の局) 宇喜多直家の未亡人・お福の方(秀家の母)

ともできていた こうした女性を含めると愛人が何人いるのか見当もつかなかった

当然 “ねね”は呆れた いくら憧れのお市を我がものにできなかったとはいえ これだけ女狩りに走

るのは正気の沙汰ではないと思った しかも側室にした女性はいずれも名門の出だったり かつて

の主君・信長の縁者だったことからもわかるように 秀吉は上淫好みであった

三献の茶の秀吉(長浜駅前)
豊臣秀吉・三献の茶

徳川家康が後家や身分の低い女性たちを側室にして 下淫好みといわれたのとまったく対照的で

あった

秀吉の場合はコンプレックスの裏返しというべきもので 身分が低かったころに遠くから仰ぎ見る

だけの存在だった姫君たちを次々に我がものにして 今まで満たされることのなかった欲求を一気

に挽回しようという心理が作用したのでしょう

“ねね”はいろいろ悩んだ末 側室といがみ合うより 自分の味方につけるほうが得策だと考えた

もし 自分の息のかかった側室が秀吉の世子を産めば 後々自分の立場も安泰するからである “ねね”

が白羽の矢を立てたのは 龍子だった

龍子は若狭武田氏(信玄の遠い親戚)の当主・武田元明の妻で 一男一女をもうけている 元明は山崎

の合戦後 長秀の追討を受け切腹させられている

龍子の弟・京極高次も明智光秀に味方して秀吉の居城・長浜城を占拠している 留守を預かる“ねね”

たちが間一髪で避難したからいいようなものの 一歩間違えば高次に捕らえられ人質にされるところ

だった

必死に弟の助命を嘆願する龍子の美貌に目をつけた秀吉が高次を助ける代わりに交換条件として側室

にしたといわれています

“ねね”が龍子を引き立てるようになったのは 龍子がすでに2人の子供を産んでいることであった 

旨くすると秀吉の子供を産んでくれるかもしれないと考えたのである

“ねね”自身は中絶の灸で石女になってしまったので もう子供は産めない 哀れな境遇に同情した

信長から於次郎秀勝を養子に貰ったが 信長という大きな後ろ盾がなくなった今 秀勝が秀吉の後継

者になれる保障はない 万一 実施が生まれてしまえば秀勝が後継者から外されてしまうのは目に見

えていた

ねね

“ねね”は龍子にすべてを賭けたのだ 数ある秀吉の側室の仲でも龍子は出産実績があるだけに 子供

を産む確立がいちばん高い もし 後継者となる男子を産んでくれれば“ねね”は秀吉の死後も龍子と

一緒に家を盛り立てていくことができる

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 平安美人に近い
        京都が戦乱で荒廃しようと平安時代以来の美人像に変化はなく、戦国大名も平安美人
        のような女性を追いかけ回していたそうです。
        当時の美女といえば、「お市の方」や武田信玄の正室「三条夫人」が名高いようです。
        お市 004
        お市の方は優しそうで、悲しそうですね。

≪本日の問題≫


              本記事は「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」(ぶんか社文庫)を要約して記事にしております。
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秀吉を最後まで拒んだ お市の方 & 横浜・山下公園

『秀吉を最後まで拒んだ お市の方』

1583年4月23日秀吉軍は前田利家を先鋒に 柴田勝家が篭る北の庄城を攻囲した

豊臣秀吉は いよいよお市の方に片手がかかった訳だからウキウキ気分であったでしょう

小谷城落城の際の浅井長政と同様にお市の方と3人の娘たちを秀吉に託して自らは自刃する これが

主君・信長の妹に対する礼儀というものだ

この瞬間を待ち続けていた秀吉は自然と笑みがこぼれてた

城には3千の兵が篭り最後まで抵抗したが 落城は時間の問題である

「もはやこれまで」と勝家は覚悟を決め お市を呼んだ

「そなたは信長公のお妹君なれば 秀吉も決して粗末にはすまい 3人の娘を連れて城を出て秀吉を

頼られよ」

 柴田勝家        お市の方
柴田勝家像 01 お市 002

ここまでは 秀吉が描いたシナリオどおりである

しかし お市の方は予想外の行動を取り勝家と運命をともにする道を選んだ

「本来なら小谷落城の際に夫・浅井長政とともに死ぬべき運命だったのに 今日まで生き永らえ勝家

殿のご厚情をいただいたことに浅からぬ因縁を感じます 秀吉殿におすがりしても 良き月日にめぐり

合えるとは思えませぬ どうか死出の旅路のお供にお加えください」

お市に気持ちに心を打たれた勝家は「それほどまでに勝家のことを思うてくださるなら」と一刀のもと

にお市を刺すと「勝家の死にざまを見よ!」と十文字に腹をかき切って果てた 享年62歳 お市は37歳

であった

北の庄城 想像図
北の庄城 001

勝家が死ねば 天下は秀吉のものになり織田一族は成り上がり者・秀吉の下風に立たなければならな

い プライドの高いお市は 辱めを受けて生き永らえるくらいなら 最後まで織田家を守ろうと忠臣・勝家

とともに滅ぶ道を選んだのでしょう それが織田家の血を引く者としての誇りだった

秀吉がどれだけ平常心を失っていたかを示すエピソードがあります

秀吉は敗走中の佐久間盛政を捕らえた者には恩賞を遣わすというお触れを出していた

恩賞目当ての百姓たちが足を負傷して満足に歩くことが出来なくなった盛政を捕らえて来ると 秀吉は

「敗れたりとはいえ 昨日まで領主だった者を捕らえてくるとは言語道断」と激怒 「これが恩賞だ!」

と百姓たち全員その場で打ち首にしてしまった

どうやら 秀吉はお市を我がものにすることができず よっぽど虫の居所が悪かったと見え 八つ当たり

された百姓たちは とんだ災難である

お市の死を聞いて “ねね”はその不幸な生涯に心から哀悼の意を示すとともに 内心はホットしたこと

でしょう

何十年も思い憧れの女性が最後までなびくことなく死を選んだのだから これで夫の女狂いもしばらく

鳴りを潜めるだろうと思った

しかし “ねね”は間もなくそれが大きな見込み違いであったことに気づくことになる


「うさフェスタ」の後は、会場前の横浜・山下公園の散歩です!
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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 江戸時代
        戦国時代は武士としての美意識はあったものの、「武士道」は大坂夏の陣以降、
        平和な世が訪れると戦士である筈の武士がアイデンティティを失った。
        そこで新たな道徳的規範として武士のあり方が求められたのが武士道になります。

≪本日の問題≫



                     本記事は「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」(ぶんか社文庫)を要約して記事にしております。

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前田利家を丸め込んだ 秀吉の猿芝居 & うさFesta2010

『前田利家を丸め込んだ 秀吉の猿芝居』

柴田勝家は柳ヶ瀬から椿坂峠を越えて越前に敗走した

「この峠の雪さえなければ 豊臣秀吉には負けなかったものを ワシは秀吉ではなく雪に負けたの

だ!」と叫んだという

越前に入った勝家は 前田利家の居城・府中城に立ち寄った

府中城
府中城 001 府中城 002

利家は勝家を裏切るような形で戦場を離脱したのだから どんなに責められても仕方なかった

利家の家臣・大井直泰は勝家をこの場で討ち 勝家の首を秀吉に差し出すよう進言したが 利家は

「武士道を知らぬのか!」と一喝した(確か“武士道”は江戸時代に生まれた言葉では?)

たとえ勝家と敵対することになっても武士として卑怯な真似はすべきでないという利家の男気だった

城の入った勝家は 利家をひとことも責めることもなく「今まで貴殿にはお世話になった 貴殿は昔

から秀吉とは親しい仲なのだから 勝家に遠慮することはない 今後は秀吉について栄達を図られ

よ」と論したという

さらに利家が人質として差し出した娘の“まあ”を返すと約束し ふるまわれた湯漬けを食べると

北の庄に帰っていった

それから間もなくして 勝家と入れ替わるように賤ヶ岳の勝利で勢いに乗る秀吉軍が府中城に迫った

秀吉軍の先鋒が城に向って鉄砲を撃ちかけたため 城方も応戦した まさに戦闘状態になろうとした

とき「あいや 待たれよ」と秀吉が手を上げて鉄砲隊を制止し 何とたった一人で城の中に入って

いった 秀吉一流の大芝居である

秀吉は利家が単身乗り込んで行ったものを殺すようなことはしないと知っていたのだ

秀吉は真っ先に勝手口に入り 利家の妻“まつ”に挨拶した

「賤ヶ岳の合戦ではそなたの亭主殿に勝たせてもらったわ これから北の庄に行くが亭主殿を雇って

もよろしいか」

前田利家・まつ銅像

“まつ”は 秀吉が敵対したことをひとことも責めず 清洲の長屋時代のときとまったく同じ調子で親し

く声を掛けてくれたのでホッとした 人たらし・秀吉の面目躍如である

秀吉は“まつ”に冷ご飯を所望した後 利家にも声を掛けた

「武士の習いで敵味方に分かれることはあっても 貴殿とは長い付き合いだから まったく遺恨は

ござらん」

屈託なく語りかける秀吉に 利家はただ恐縮するばかりであった

利家は勝家にも義理があるので どちらにも味方せず戦場を離脱することがギリギリの選択であった

ただ 勝家に対して義理を果たした今となっては 秀吉軍の北の庄城攻めに加わることが唯一のとる

べき道だった

そして利家に先鋒を命じたのは お市の方を無事救出させるためにほかならなかった 勝家と親しい

利家が先鋒なら お市も安心して身を委ねるだろうと計算したのだ


「うさフェスタ 2010」に行ってきました!!

首都高速が渋滞で退屈ぜよ~             やっと、横浜に到着です!!
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12時に到着しましが、会場は凄く混雑していました。
アーティストブースが44ブースありますので、グッズに興味ある方にはいいですよね。
ちなみに、今年から入場料が500円必要になってました。
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キャリーに入らないと会場に入れません!! 
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キャリーは窮屈ですから、ショップのブースで遊ばして貰いました^^
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会場は凄い熱気でしたので、喉が渇いちゃいました。
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会場内のスタンプラリーで、カレンダーをゲットしたぜよ。!!
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山下公園で、「うさラン」しましたので明日紹介しますぜよ!!

「赤いくつ~ はいてたぁ~ 女のこぉ・・・。ですよ!」^o^ by piglet

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 本願寺
        雑賀衆は信長とも交流があり、鉄砲術を信長に教えていた時期もありますが、信仰する
        一向宗の頂点である本願寺顕如が信長と抗争を始めると、鉄砲隊を率いて本願寺に助力
        しています。

≪本日の問題≫


                    本記事は「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」(ぶんか社文庫)を要約して記事にしております。

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賤ヶ岳の戦い

『賤ヶ岳の戦い』

柴田勝家は堂木の砦を守る山路正国に寝返り工作を行なった

正国は もともと勝家の家臣で常々豊臣秀吉から「勝家に裏切るのでは?」と疑われていることを

不満に思っていたので 勝家から「こちらにつけば丸岡城12万石を与える」と誘いをかけられ 二つ

返事で応じた

丸岡城(写真は、平成21年9月20日に撮ったものです。)
日本で一番短い手紙『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』で有名ですね。

丸岡城 001
<クリックで拡大します>

佐久間盛政は 正国から秀吉が岐阜攻めで秀吉が不在であることと大岩山の砦が手薄であることを

聞き「今がチャンス」と勝家に攻撃を願い出た

これは秀吉が仕組んだ罠であった 最前線の正国が裏切るのも計算のうえであり 正国が大岩山の

守りが手薄であることを告げれば 勝家軍が動き出すことも先刻承知であった

ターゲットは血気にはやる盛政 手柄を焦って自陣の奥深くまで攻め入ってくれば網にかかった魚

も同然であった

佐久間盛政(1554-1583年)
 佐久間盛政

戦歴の武将・勝家は秀吉が罠を仕掛けたことにいち早く気づいたが 盛政の再三にわたる出陣要請

に根負けし 大岩山攻略後直ちに兵を退くことを条件に出兵を許した

大岩山を陥落させた盛政は勢いに乗り賤ヶ岳砦の攻撃を開始した

勝家は慌てて使者を何度も遣わし 戻って来るよう命令したが緒戦に勝利した盛政は「伯父も臆病

になったものだと もう我らは勝ったも同然だ」と聞く耳を持たず賤ヶ岳を動かなかった

大垣にいた秀吉は「今日中に木之本に戻ることができれば大丈夫だが 明日になれば手遅れになって

しまう」というのが秀吉の判断であった 秀吉軍は13里の道のりを5時間で駆け抜け木之本に到着した

秀吉軍の到着を知った盛政は慌てて総退却を命じた

しかし 秀吉は盛政軍の退却を知るやいなや追撃を命じた 盛政軍は踏みとどまって善戦した

盛政軍を支援するため勝家の甥・柴田勝政も到着し両軍譲らず大激戦となった それでも時間が経つ

につれて秀吉軍がジワジワと優勢になった

茂山の砦を守っていた前田利家・利長親子が突然退却を始めた 金森長近・不破勝光も後に続いた

この直後 利家らに前進を遮られていた蜂須賀家政・木村重茲らが一気に押し寄せたため 盛政は

ひとたまりもなかった

前田利家(1539-1599年) 前田利長(1562-1614年)
  前田利家 001      前田利長 002

勢いに乗った秀吉軍は敗走する盛政軍を追撃し 勝家が守る狐塚の本陣に殺到し散々に討ち破った

完全に「勝負あった!」である

勝家はここで最終決戦を挑み 討ち死にする覚悟を決めた

重臣たちに「ひとまず越前に戻って兵を立て直すほうが得策」と諌められたが 「越前に戻ったところ

で勝てる見込みがないのは同じ 逃げて末代まで笑い者になるくらいなら ここで秀吉と最後の一戦

をして華々しく討ち死にするのがまことの武士というもの」と言い張った(三成くんとは随分違いますね!)

だが 小姓頭の毛受勝助が「ここで殿が名もない雑兵の手にかかって討ち死にすることこそ末代の恥 

どうか北の庄城に引き揚げ 静かにご自害ください ここは私が必ず敵を食い止めます」と涙ながらに

訴えたので 勝家も涙を流してうなずいた

ちなみに この合戦で一番槍の巧名を挙げた福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・糟谷武則・

平野長泰・片桐且元の七武将が秀吉から感状を受け恩賞を貰った 世にいう「賤ヶ岳の七本槍」です

ご存知のとおり正則と清正は“ねね”が少年時代から手塩にかけて育てた子飼いの武将です

足軽からの成り上がりで譜代の家来を持たなかった秀吉のために “ねね”が身内同然に育てた武将

たちが天下分け目の合戦でめざましい活躍を見せたのです 秀吉の天下獲りは“ねね”の内助の功に

支えられていたのです

七本槍のうち 安治を除く6人が徳川時代に改易処分を受けています…

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 縁切寺で女たちを支援
        残党狩りに捕まるが、幼い女児ということで死を免れ鎌倉の尼寺・東慶寺で監視付き
        で育てられています。その後、住持となり千姫の援助を受け離婚したい女たちを何百人
        も助け37歳で世を去っています。

≪本日の問題≫


                  本記事は「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」(ぶんか社文庫)を要約して記事にしております。

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雪解け待てずに おびき出された勝家

『雪解け待てずに おびき出された勝家』

1583年3月 豊臣秀吉にやりたい放題に引っかき回された柴田勝家は雪解けを待つことができずに

出陣を決意した

状況的に不利であることは百も承知であったが 盟友・滝川一益を見殺しにできなかったのである

3月3日に甥の佐久間盛政の8千5百を先発させ 翌4日には前田利家らの軍勢を含む2万を率いて

除雪をしながら進み 柳ヶ瀬山に本陣を築いた

勝家の出陣を知った秀吉は 織田信雄と蒲生氏郷を一益への押さえとして残すと 残りの全軍を率

いて近江へ引き返し 16日には長浜城に入った

長浜城天守跡(写真は、平成22年7月18日に撮ったものです。)
長浜城天主跡 001

秀吉は木之本に本陣を置き 約6万の軍勢を1番から14番まで分けて次々に柳ヶ瀬方面に出陣させた

山岳戦を得意とする勝家は土塁を築き 長期戦の構えを取っていた

秀吉も対抗上各部隊に土塁を築かせ にらみ合いが続いた

1ヶ月ほど膠着状態が続いたが 4月16日に岐阜城の織田信孝が一益と手を組み 再び兵を挙げたの

で 秀吉は勝家との戦線が硬直状態のうちに片付けようと18日に自ら2万の兵を率いて岐阜へ向った

秀吉は自分が岐阜に行っている間に勝家軍は必ず動くと見ていた 勢いに乗った勝家軍が深入りした

ところを岐阜から取って返して叩くつもりであった

お市の方を手に入れるという長年の夢実現までもう少しのところまで来ていた秀吉の頭脳はめまぐる

しく かつ正確に回転していた

岐阜城(写真は、平成22年5月9に撮ったものです。)
岐阜城 004 岐阜城 005

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 秀吉の一門として生きのびる
        1588年に出家しますが、その3年後に秀吉が大陸出兵のため肥前名護屋に兵を進め
        たとき、軍装で出陣しています。
        義昭の最後は1597年に腫物が悪化して大坂で死亡しています。

≪本日の問題≫


                 本記事は「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」(ぶんか社文庫)を要約して記事にしております。

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秀吉にまんまとはめられた 滝川一益

『秀吉にまんまとはめられた 滝川一益』

1583年2月 豊臣秀吉は伊勢の滝川一益を攻撃した

伊勢亀山城主・関盛信が姫路城に豊臣秀吉を訪問している留守に家臣の岩間三太夫がクーデター

を起こし 滝川一益に協力を求めたのがきっかけだった

一益にすれば盟友の柴田勝家が雪に閉ざされて出兵できないこの時期に兵を挙げてもまったく勝算

はなく できれば春になって雪が溶けるまでジッとなりを潜め 勝家の挙兵に呼応するようにして秀吉

を挟み撃ちにしたいところだ

滝川一益(1526-1586年)
滝川一益

一方 秀吉にすれば挟み撃ちだけは何としても避けたいところだ 降伏したとはいえ織田信孝も勝家

と一益が起てば 再び打倒秀吉の兵を挙げるだろう これはなんとしても雪が溶ける前に一益の勢力

を弱めておく必要があった

秀吉は1月5日に姫路城を出立すると 安土城で蒲生氏郷らと合流したが すぐに一益を攻撃すること

はなかった 雪に閉じ込められている柴田勝家が万一動いた場合の備えの準備を講じていたのだ

秀吉は越後の上杉景勝に使者を送り 勝家を後方からかく乱するよう依頼した このため勝家は後の

出陣に際して 佐々成政を上杉軍の押さえとして残さなければならなくなったのである

上杉景勝(1556-1623年) 佐々成政(1536?-1887年)
  上杉景勝        佐々成政

さらに秀吉は天神山と茶臼山に砦を築くように命じている どうやら秀吉はこの時点で勝家との決戦の

場を賤ヶ岳周辺と想定していたようだ

勝家に対する備えが万全になったのを見届けて秀吉は2月7日 7万5千の兵を率いて佐和山城を出陣 

軍勢を三手に分けて伊勢に攻め入った

対する一益軍は総勢6千 これではまったく勝負にならない

亀山城は山内一豊によって落とされ この間に峰城・国分城・関城も陥落した

亀山城(明治5年の写真)
亀山城 明治5年

ここに至って 一益は完全に秀吉にはめられたことを悟った 越前の勝家に何度も使者を遣わし救援

を発したが 雪で交通を遮断された勝家が動ける筈もなく無駄な悪あがきだった

「猿め こしゃくな真似を」

勝家はうなり声を上げるしかなかった 殆ど実効のない和平策を頼みに雪国に引き揚げてしまったツケ

が回ってきたのである

「正直者がバカを見る」の典型であった

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 大名の家臣団となる
        秀吉の命令で海賊禁止令が出て、村上海賊は毛利家の水軍に、松浦党は平戸・松浦氏の
        家臣団になっています。

≪本日の問題≫


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雪で動けぬ勝家尻目に やりたい放題の秀吉

『雪で動けぬ勝家尻目に やりたい放題の秀吉』

1582年12月 豊臣秀吉は北の庄城(福井市)の柴田勝家が雪で身動きが取れない状態であることに

付け込み 5万の兵を率いて近江・佐和山城(彦根市)に入った “勝家熊”が冬眠したら間髪を入れず

動く 最初からそのつもりであった

秀吉は越前から京に向かう勝家の交通を遮断するために 勝家の養子・勝豊に譲った長浜城を押さえ

るつもりなのである 勝豊に手紙を送り勝家と織田信孝と手を結び 敵対行動を取ろうとしているので

兵を挙げたと伝えた

織田家の後継者である三法師丸は安土城に入らなければならないのに 信孝が後継人であることを

理由に岐阜城に連れ去ったのは 清洲条約に反する行為で 織田家を我がものにしようとする企みで

ある 背後に信孝をそそのかしている勝家も同罪だと断定したのである

安土城(平成21年11月3日撮影)           岐阜城(平成22年5月9日撮影)
安土城 013 岐阜城 009

確かに理屈は通っているが 勝家の身動きが取れなくなったからああだこうだと言い出すのは明らか

に言いがかりである

「城を明け渡し 越前に帰って勝家につくか 秀吉を支持して長浜城主の座を安堵してもらうか」という

二者択一は実質的に降伏勧告だった

秀吉は約束どおり勝豊の所領を安堵すると 今度は秀吉方の武将として長浜城を守らせた

これによって勝家の交通を完全に遮断した秀吉は 丹羽長秀・筒井順慶・池田信輝・細川忠興ら5万

の大軍を率いて信孝が篭る岐阜城を包囲した

岐阜城(平成22年5月9日撮影)
岐阜城 002

不意を衝かれた信孝は何もできず降伏 三法師丸を秀吉に渡した

本能寺の変から半年後には 織田信長の息子といえども悔しがったが勝家の援軍が期待できない

以上 秀吉の言いなりになるしかなかった 時代は大きく変わろうとしていた

12月29日満足した秀吉は宝寺城に引き上げ ここで元旦を迎えたが慌しく姫路城へと向かった

一説によれば “ねね”も姫路城まで同行したが ここに至って初めて姫路殿の存在を知りプリプリ

怒って宝寺に帰ったという

“ねね”は姫路殿に対する嫉妬心よりも 夫が信長の姪を側室にしたことに対する不吉な予感を

覚えた

秀吉は勝家をしきりに挑発しており 2人が戦場で雌雄を決するのは時間の問題 もし秀吉が勝利

して勝家を滅ぼしたとき お市の方はどうなるのだろうか おそらく秀吉は大喜びで妻に迎えるに

違いない そのとき自分の身の上はどうなるのか考えるだけでも“ねね”は憂鬱になるのであった


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 寺小屋の師匠となる
        一介の浪人となり、京都・柳ヶ厨子に蟄居し、寺小屋の師匠として細々と生きのびるが、
        大阪の陣で大阪城に入り落城後、六条河原で処刑されています。

≪本日の問題≫


                   本記事は「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」(ぶんか社文庫)を要約して記事にしております。

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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