奥秩父・三十槌の氷柱
『三十槌の氷柱(みそつちのつらら)』
今年の冬は寒さに厳しいので、週末の外出も控え自宅で丸くなっていることが多かったのですが、
天気予報士の天達さんが「三十槌の氷柱」を紹介されていましたので、近いじゃないかということ
で行ってきました。
以下は、秩父観光協会さんのホームページで紹介されている内容です。
奥秩父の冬の名勝「三十槌の氷柱(みそつちのつらら)」は、岩肌にしみでる湧水が創り上げる氷の
オブジェです。
荒川源流の大自然の中にできあがるこの氷柱は1年で最も寒さの厳しい1月中旬から2月中旬まで
ご覧いただけます。
また、1月23日から毎夜行われるライトアップにより昼と夜で全く違った風景をお楽しみいただけます。
首都圏から至近距離にある秩父多摩甲斐国立公園の中心にある大滝地域で冬の大自然を体感して
ください。
【大滝氷まつり】
1.期間 平成23年1月21日(金)~2月13日(日)
2.場所 埼玉県秩父市大滝三十槌
3.駐車場 大滝中学校職員駐車場デッキ2階部分、老人福祉センター…無料開放(徒歩25分)
ウッドルーフ奥秩父オートキャンプ場有料駐車場営業開始…普通車500円
*有料駐車場から、0分ですからお勧めです。
4.交通 電車:秩父鉄道三峰口駅より西武観光バスに乗車。秩父湖行きにご乗車の場合は、フリー乗降
です。「氷柱」の見学場所で降りたいと運転手さんに話すといいようです。
車:関越自動車道花園ICより国道140号を秩父方面へ、皆野寄居バイパス経由で1時間30分。
駐車場から、河原に下りる際に撮影

正面からは全体が写せなかったため、上流側から撮った画像です

氷柱の右側

右側の下段

氷柱の左側

真下に行きたくないですね

氷柱見学は早々に切り上げ、近くの「大滝温泉」にgo! 食事はお勧めではありませんでした。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 榊原康政
榊原康政は我が身を省みず「秀忠公を廃嫡にすれば、御子の恥辱のみならず、父の御身も
また嘲りを免れませぬ。そこまで見通せないとは嘆かわしい」と涙を流して訴えたそうです。
その結果、家康は柔軟し秀忠に会ったそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
今年の冬は寒さに厳しいので、週末の外出も控え自宅で丸くなっていることが多かったのですが、
天気予報士の天達さんが「三十槌の氷柱」を紹介されていましたので、近いじゃないかということ
で行ってきました。
以下は、秩父観光協会さんのホームページで紹介されている内容です。
奥秩父の冬の名勝「三十槌の氷柱(みそつちのつらら)」は、岩肌にしみでる湧水が創り上げる氷の
オブジェです。
荒川源流の大自然の中にできあがるこの氷柱は1年で最も寒さの厳しい1月中旬から2月中旬まで
ご覧いただけます。
また、1月23日から毎夜行われるライトアップにより昼と夜で全く違った風景をお楽しみいただけます。
首都圏から至近距離にある秩父多摩甲斐国立公園の中心にある大滝地域で冬の大自然を体感して
ください。
【大滝氷まつり】
1.期間 平成23年1月21日(金)~2月13日(日)
2.場所 埼玉県秩父市大滝三十槌
3.駐車場 大滝中学校職員駐車場デッキ2階部分、老人福祉センター…無料開放(徒歩25分)
ウッドルーフ奥秩父オートキャンプ場有料駐車場営業開始…普通車500円
*有料駐車場から、0分ですからお勧めです。
4.交通 電車:秩父鉄道三峰口駅より西武観光バスに乗車。秩父湖行きにご乗車の場合は、フリー乗降
です。「氷柱」の見学場所で降りたいと運転手さんに話すといいようです。
車:関越自動車道花園ICより国道140号を秩父方面へ、皆野寄居バイパス経由で1時間30分。
駐車場から、河原に下りる際に撮影

正面からは全体が写せなかったため、上流側から撮った画像です

氷柱の右側

右側の下段

氷柱の左側

真下に行きたくないですね

氷柱見学は早々に切り上げ、近くの「大滝温泉」にgo! 食事はお勧めではありませんでした。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 榊原康政
榊原康政は我が身を省みず「秀忠公を廃嫡にすれば、御子の恥辱のみならず、父の御身も
また嘲りを免れませぬ。そこまで見通せないとは嘆かわしい」と涙を流して訴えたそうです。
その結果、家康は柔軟し秀忠に会ったそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
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お江 (27) 『お江、2度目の結婚』
『お江、羽柴小吉秀勝と2度目の結婚』
お江が1589頃、2度目の結婚を小吉秀勝とするが、いつかは定かではない。
一成と強制離婚させられてから4年が経過し、お江が18歳で夫・小吉秀勝は22歳であったと思われます。
こうしてお江は、京都から半日の距離にある23万石の丹波亀山城・小吉秀勝の夫人となった。この丹波
亀山城は、明智光秀が古城を大改修・拡大し水堀・石垣を普請し、三層天守を持つ近代城郭であった。
丹波亀山城 明治5年に撮影された本丸南側

お江は、丹波亀山城に城主夫人として足を運ぶ場合もあったが、聚楽第の屋敷や大坂城近くの屋敷にい
ることが多く、淀殿を訪れ鶴松をあやしながら、姉とのひと時を過ごすことも少なくなかったという。
秀吉は、鶴松の誕生で1590年3月1日に直属の軍勢3万2千を率いて聚楽第を出発し、小田原に向う。
秀吉は正室・おね付き老女に宛てた手紙に「若君が恋しいけれども、後々のため、また天下を安穏にする
ために、恋しい気持ちを断ち切って、小田原に滞陣している」と述べている。
この布陣の中に、新婚まもない小吉秀勝の姿もあった。
秀吉は22万人という兵力を動員し、関東に散らばる北条氏の諸城をひとつひとつ攻略している。
そして北条宗家攻略のために約22kmにおよんだという惣構(一番外側の防御の土塁や堀)を持つ小田原
城を見下ろす笠懸山に、天守台をも配置した石垣山城(石垣一夜城)を突貫工事で築いている。
この石垣山城に、淀殿と松の丸殿を呼び寄せてじっくりと攻め、7月11日に北条氏政らを自害に追込んで
北条氏を滅ぼした。
石垣山城から望む小田原城(百名城23)

秀吉は、駿府など5ヵ国を領した徳川家康を関東に移封する沙汰を下し、家康が領していた甲斐・信濃を
秀勝に与え、甲府城の城主としたのである。
凄い出世である。秀勝は甲府にいるが、お江が甲府に移ったかは定かではない。
ところがこの秀勝が甲府城主になったことを喜ばなかった人物がいる。秀勝の母・ともである。
「甲府はあまりに遠すぎる。可愛い息子に会えない」
甲府城(百名城25)

秀吉は家族想いである「もっともだ」と思うところが、秀吉である。
お江がそばに居てくれなければ、淀殿も寂しいに違いないとも考えた。
甲府城主に定めてわずか4ヵ月で、秀勝を岐阜城主としたのである。
しかし、この年は豊臣家にとって大変な厄年になっている。
1月22日に秀吉が最も頼みとし、大和・紀州など110万石領した弟・秀長が52歳で大和郡山城に病没した。
そして鶴松である。
生まれた時から病気がちだったが、8月5日わずか3歳で他界した
小さな遺骸は京都東福寺に運ばれ、秀吉は髷を切って3日2晩、わが子に付き添った。大名たちも駆けつけて、
こぞって髷を切って喪に服し、髷で塚ができる程だったという。
ついにpigletがチョコになりました。
「うさフェスタ」で横浜に行ったとき、山下公園で写真付きチョコを頂きましたので
完全な“まねっこチョコ”です。♪♪

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上田城を攻めた
三成に味方し上田城に籠もった真田昌幸・幸村父子を攻めたが、真田方の陽動作戦に
翻弄され上田城を落せず関ヶ原の戦いに遅参しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江が1589頃、2度目の結婚を小吉秀勝とするが、いつかは定かではない。
一成と強制離婚させられてから4年が経過し、お江が18歳で夫・小吉秀勝は22歳であったと思われます。
こうしてお江は、京都から半日の距離にある23万石の丹波亀山城・小吉秀勝の夫人となった。この丹波
亀山城は、明智光秀が古城を大改修・拡大し水堀・石垣を普請し、三層天守を持つ近代城郭であった。
丹波亀山城 明治5年に撮影された本丸南側


お江は、丹波亀山城に城主夫人として足を運ぶ場合もあったが、聚楽第の屋敷や大坂城近くの屋敷にい
ることが多く、淀殿を訪れ鶴松をあやしながら、姉とのひと時を過ごすことも少なくなかったという。
秀吉は、鶴松の誕生で1590年3月1日に直属の軍勢3万2千を率いて聚楽第を出発し、小田原に向う。
秀吉は正室・おね付き老女に宛てた手紙に「若君が恋しいけれども、後々のため、また天下を安穏にする
ために、恋しい気持ちを断ち切って、小田原に滞陣している」と述べている。
この布陣の中に、新婚まもない小吉秀勝の姿もあった。
秀吉は22万人という兵力を動員し、関東に散らばる北条氏の諸城をひとつひとつ攻略している。
そして北条宗家攻略のために約22kmにおよんだという惣構(一番外側の防御の土塁や堀)を持つ小田原
城を見下ろす笠懸山に、天守台をも配置した石垣山城(石垣一夜城)を突貫工事で築いている。
この石垣山城に、淀殿と松の丸殿を呼び寄せてじっくりと攻め、7月11日に北条氏政らを自害に追込んで
北条氏を滅ぼした。
石垣山城から望む小田原城(百名城23)

秀吉は、駿府など5ヵ国を領した徳川家康を関東に移封する沙汰を下し、家康が領していた甲斐・信濃を
秀勝に与え、甲府城の城主としたのである。
凄い出世である。秀勝は甲府にいるが、お江が甲府に移ったかは定かではない。
ところがこの秀勝が甲府城主になったことを喜ばなかった人物がいる。秀勝の母・ともである。
「甲府はあまりに遠すぎる。可愛い息子に会えない」
甲府城(百名城25)


秀吉は家族想いである「もっともだ」と思うところが、秀吉である。
お江がそばに居てくれなければ、淀殿も寂しいに違いないとも考えた。
甲府城主に定めてわずか4ヵ月で、秀勝を岐阜城主としたのである。
しかし、この年は豊臣家にとって大変な厄年になっている。
1月22日に秀吉が最も頼みとし、大和・紀州など110万石領した弟・秀長が52歳で大和郡山城に病没した。
そして鶴松である。
生まれた時から病気がちだったが、8月5日わずか3歳で他界した
小さな遺骸は京都東福寺に運ばれ、秀吉は髷を切って3日2晩、わが子に付き添った。大名たちも駆けつけて、
こぞって髷を切って喪に服し、髷で塚ができる程だったという。
ついにpigletがチョコになりました。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上田城を攻めた
三成に味方し上田城に籠もった真田昌幸・幸村父子を攻めたが、真田方の陽動作戦に
翻弄され上田城を落せず関ヶ原の戦いに遅参しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江 (26) 『淀殿、大坂城の主役に』
『淀殿、大坂城の主役に』
茶々は「淀君」と呼ばれる場合も多いですが、それは遊女の源氏名は「君」を付けて呼ばれていた
ため、江戸期、彼女を徳川氏に抵抗した悪女として、遊女と同列に置き侮蔑を持って呼んだものと
いわれます。
秀吉は吾子の誕生が迫った5月20日に皇族、公家、諸大名の約300人を聚楽第に集めて、金銀を
ばら撒く大判振る舞いのパフォーマンスを挙行しています。
この時、ばら撒いた量は金子4,900枚、銀子31,000枚といわれ、秀吉は金配りの関白と異名が付
いたそうです。
鶴丸は誕生4ヵ月後の9月13日に淀城から大坂城に入っています。この時も天下人の後継者を世間
に周知させる豪華な行列だったそうです。
淀殿にとっては、今までの人生のなかでも最も晴れがましい瞬間であったでしょう。天皇も太刀を贈
って、鶴丸を祝しています。
以降、鶴丸と淀殿は大坂城の主役となり、天下を継ぐ者の生母となって、このうえない栄誉を得、ここ
に淀殿は秀吉への恨みを捨てて、秀吉の妻としての道を進むことになります。
淀殿は後継者を産んだ自身から、この年に父・長政の17回忌、母・お市の方の7回忌であったので、
両親の面影を絵師に描かせて一対の肖像画を高野山の持明院に納めます。
豊臣大坂城(模型)

この後、秀吉は鶴松の心強い後ろ盾を探すことになりますが、秀吉は農民出身であり信長や家康の
ように、先祖代々の家臣はいない。光秀を破って天下への道を歩み始めて、まだ7年しか経っていな
かった。
現状は、大名たちは秀吉に服してはいるが心から服従している訳ではない。心を許し、また自分の
ために義を貫いてくれる家臣などはいないに等しかった。
親戚筋にあたり秀吉子飼いの武将であった、加藤清正、福島正則ですら関ヶ原の戦いでは家康に
味方して、豊臣家を衰弱させる片棒を担いでいる。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 3男
秀忠は家康の3男です。
長男・信康は信長から切腹を命じられ、2男秀康は秀吉の養子に出ています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
茶々は「淀君」と呼ばれる場合も多いですが、それは遊女の源氏名は「君」を付けて呼ばれていた
ため、江戸期、彼女を徳川氏に抵抗した悪女として、遊女と同列に置き侮蔑を持って呼んだものと
いわれます。
秀吉は吾子の誕生が迫った5月20日に皇族、公家、諸大名の約300人を聚楽第に集めて、金銀を
ばら撒く大判振る舞いのパフォーマンスを挙行しています。
この時、ばら撒いた量は金子4,900枚、銀子31,000枚といわれ、秀吉は金配りの関白と異名が付
いたそうです。
鶴丸は誕生4ヵ月後の9月13日に淀城から大坂城に入っています。この時も天下人の後継者を世間
に周知させる豪華な行列だったそうです。
淀殿にとっては、今までの人生のなかでも最も晴れがましい瞬間であったでしょう。天皇も太刀を贈
って、鶴丸を祝しています。
以降、鶴丸と淀殿は大坂城の主役となり、天下を継ぐ者の生母となって、このうえない栄誉を得、ここ
に淀殿は秀吉への恨みを捨てて、秀吉の妻としての道を進むことになります。
淀殿は後継者を産んだ自身から、この年に父・長政の17回忌、母・お市の方の7回忌であったので、
両親の面影を絵師に描かせて一対の肖像画を高野山の持明院に納めます。
豊臣大坂城(模型)

この後、秀吉は鶴松の心強い後ろ盾を探すことになりますが、秀吉は農民出身であり信長や家康の
ように、先祖代々の家臣はいない。光秀を破って天下への道を歩み始めて、まだ7年しか経っていな
かった。
現状は、大名たちは秀吉に服してはいるが心から服従している訳ではない。心を許し、また自分の
ために義を貫いてくれる家臣などはいないに等しかった。
親戚筋にあたり秀吉子飼いの武将であった、加藤清正、福島正則ですら関ヶ原の戦いでは家康に
味方して、豊臣家を衰弱させる片棒を担いでいる。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 3男
秀忠は家康の3男です。
長男・信康は信長から切腹を命じられ、2男秀康は秀吉の養子に出ています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江 (25) 『茶々、鶴松を出産』
『茶々、鶴松を出産』
茶々の産所として建てられた淀城は、今、公園となって堀や石垣が残る淀城跡とは異なる。この淀城は
江戸期に入り建てられたもので、茶々の淀城はこの城跡から500mほど北に行った妙教寺の付近一帯
に存在していた。
妙教寺境内にある淀城の碑

この茶々の淀城近くには、当時、淡水湖の巨椋(おぐら)池があり、桂川、宇治川、木津川の3点合流に
あって京都と大坂を結ぶ交通の要衝となっていた。
そこには細川氏の小さな城が昔からあったとされ、秀吉の弟・秀長と細川忠興によって拡張・大改修した。
淀城の対岸に、細川ガラシャ(忠興の妻で、明智光秀の娘)が嫁ぎ、祝言を挙げた勝竜寺城があったが、
忠興はこの城の石垣を外して船で運んで、淀城の石垣に用いている。
秀吉は淀城にたびたび足を運んで仕上がり具合を視察し、吾子の生まれる日を心待ちにした。
ちょうどこの頃、聚楽第の南門表で落首の張り紙が発見される。落首を書いて貼った者は大坂に逃げて
潜んだらしく、探索が大坂で行なわれた。
犯人はなかなか捕らえられない。そこで犯人であろうがなかろうが、不振な者が逮捕されクジを引かさ
れ当たったものが犯人にされ、ある者は京都に連行されて磔にされるなど、犯人とされた者は不運という
他はなく、家族までが処刑されたという。
何という不条理、暗黒政治である。
諫言する家臣を大事にした徳川家康は、落首は自分を知る良き反省材料として、これをかえって歓迎し、
犯人などの探索をさせなかった。
徳川家康(1543-1616年) 豊臣秀吉(1537-1598年)

秀吉は違った。
秀吉は自分を非難する者に容赦しなかった。
そんななか、茶々は淀城に移り、以降彼女は「淀殿」と呼ばれるようになり、1589年5月27日に男の子
を出産した。
生まれた子が若君と分かると、秀吉は有頂天になった。時に淀殿21歳、秀吉は53歳の時の子どもであ
った。
すでにわが子を持てるなどと思ってもみなかった秀吉は、棄丸(後の鶴松)と名づけられた若君にメロメロ
になっただけでなく、淀殿にも骨抜きにされた。
秀吉は小田原城の北条氏討伐を計画していたが、その出陣もわが子可愛さに1年延期してしまう。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 石垣山城
秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に、天守台をも配置した石垣山城を突貫工事で築き、
その城に淀殿と松の丸殿を呼び寄せ、北条氏をじっくり攻めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
茶々の産所として建てられた淀城は、今、公園となって堀や石垣が残る淀城跡とは異なる。この淀城は
江戸期に入り建てられたもので、茶々の淀城はこの城跡から500mほど北に行った妙教寺の付近一帯
に存在していた。
妙教寺境内にある淀城の碑

この茶々の淀城近くには、当時、淡水湖の巨椋(おぐら)池があり、桂川、宇治川、木津川の3点合流に
あって京都と大坂を結ぶ交通の要衝となっていた。
そこには細川氏の小さな城が昔からあったとされ、秀吉の弟・秀長と細川忠興によって拡張・大改修した。
淀城の対岸に、細川ガラシャ(忠興の妻で、明智光秀の娘)が嫁ぎ、祝言を挙げた勝竜寺城があったが、
忠興はこの城の石垣を外して船で運んで、淀城の石垣に用いている。
秀吉は淀城にたびたび足を運んで仕上がり具合を視察し、吾子の生まれる日を心待ちにした。
ちょうどこの頃、聚楽第の南門表で落首の張り紙が発見される。落首を書いて貼った者は大坂に逃げて
潜んだらしく、探索が大坂で行なわれた。
犯人はなかなか捕らえられない。そこで犯人であろうがなかろうが、不振な者が逮捕されクジを引かさ
れ当たったものが犯人にされ、ある者は京都に連行されて磔にされるなど、犯人とされた者は不運という
他はなく、家族までが処刑されたという。
何という不条理、暗黒政治である。
諫言する家臣を大事にした徳川家康は、落首は自分を知る良き反省材料として、これをかえって歓迎し、
犯人などの探索をさせなかった。
徳川家康(1543-1616年) 豊臣秀吉(1537-1598年)


秀吉は違った。
秀吉は自分を非難する者に容赦しなかった。
そんななか、茶々は淀城に移り、以降彼女は「淀殿」と呼ばれるようになり、1589年5月27日に男の子
を出産した。
生まれた子が若君と分かると、秀吉は有頂天になった。時に淀殿21歳、秀吉は53歳の時の子どもであ
った。
すでにわが子を持てるなどと思ってもみなかった秀吉は、棄丸(後の鶴松)と名づけられた若君にメロメロ
になっただけでなく、淀殿にも骨抜きにされた。
秀吉は小田原城の北条氏討伐を計画していたが、その出陣もわが子可愛さに1年延期してしまう。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 石垣山城
秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に、天守台をも配置した石垣山城を突貫工事で築き、
その城に淀殿と松の丸殿を呼び寄せ、北条氏をじっくり攻めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江 (24) 『姉の茶々、秀吉の側室に』
『姉の茶々、秀吉の側室に』
秀吉は島津氏を討って九州を平定し、凱旋した1587年に天皇を補佐する関白としての公邸・聚楽第を
築いて使用を開始しています。
聚楽第

この聚楽第は「長生不老の楽しみを聚(あつ)むるもの」との意味から命名され、周囲1.8kmの屋敷は
堀に囲まれ雅を主体とする公家文化と武威を誇示する武家文化を折衷した、壮麗な城形式の屋敷で
あった。
その聚楽第の周囲には、大名屋敷が優雅さを競って甍(いらか)をならべ、新しい文化も花開くが、大名
や武士、町人も、秀吉の女好きを見習い、また浪費した。
当時、秀吉は前田利家の娘を側室にして、聚楽第の5層の天守に住まわせ、自ら案内して京都見物も
させるなど、多くの側室をはべらせ秀吉の淫乱は目にあまっていた。
西本願寺飛雲閣(聚楽第から移築されたと伝承されています)

「聚楽第におられる茶々殿が懐妊されたそうだ」との噂さが一瞬にして広がった。
茶々の妊娠は噂ではなく本物であった。
だが、世間は面白おかしく、雲の上の出来事を詮索する。
多くの女と関係を続ける秀吉だが子どもはできなかった。茶々の腹の子が本当に秀吉の子かどうか
疑い、他の男との密通によって生まれたと噂しあった。
大坂城で茶々がいたのは御奥で、正室・おねを筆頭に妻妾がいた空間であり、厳格に隔絶された御奥
に居住する茶々が秀吉以外の男性と関係を持つのは不可能であった。
お江は、茶々が秀吉の想われ人になって、懐妊したことを素直に喜ろこび、誰よりも喜んだのは秀吉
である。
秀吉の喜びようは尋常ではなかった。
毎日のように茶々を訪れ「飯はたんと食べよ」「体を冷やすでないぞ」などと、そわそわしながら茶々に
声をかける。
お江は傍にいて、思わず噴出さずにはいられなかった。
秀吉は茶々の妊娠に度肝を抜く、大盤振る舞いをしている。堀をうがち、石垣を積んで、天守まで揚げ
た産所・淀城を築いているのである。
女性のための専用城郭など前代未聞、後世にも例を見ないのである。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 石田三成
石田三成は、秀次が謀反を企てていると虚説をでっちあげ、秀吉は秀次を高野山に
追放します。
さらに、秀次に切腹をさせるとともに秀次の妻妾、若君姫君など30数人を三条河原で
処刑しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
秀吉は島津氏を討って九州を平定し、凱旋した1587年に天皇を補佐する関白としての公邸・聚楽第を
築いて使用を開始しています。
聚楽第

この聚楽第は「長生不老の楽しみを聚(あつ)むるもの」との意味から命名され、周囲1.8kmの屋敷は
堀に囲まれ雅を主体とする公家文化と武威を誇示する武家文化を折衷した、壮麗な城形式の屋敷で
あった。
その聚楽第の周囲には、大名屋敷が優雅さを競って甍(いらか)をならべ、新しい文化も花開くが、大名
や武士、町人も、秀吉の女好きを見習い、また浪費した。
当時、秀吉は前田利家の娘を側室にして、聚楽第の5層の天守に住まわせ、自ら案内して京都見物も
させるなど、多くの側室をはべらせ秀吉の淫乱は目にあまっていた。
西本願寺飛雲閣(聚楽第から移築されたと伝承されています)

「聚楽第におられる茶々殿が懐妊されたそうだ」との噂さが一瞬にして広がった。
茶々の妊娠は噂ではなく本物であった。
だが、世間は面白おかしく、雲の上の出来事を詮索する。
多くの女と関係を続ける秀吉だが子どもはできなかった。茶々の腹の子が本当に秀吉の子かどうか
疑い、他の男との密通によって生まれたと噂しあった。
大坂城で茶々がいたのは御奥で、正室・おねを筆頭に妻妾がいた空間であり、厳格に隔絶された御奥
に居住する茶々が秀吉以外の男性と関係を持つのは不可能であった。
お江は、茶々が秀吉の想われ人になって、懐妊したことを素直に喜ろこび、誰よりも喜んだのは秀吉
である。
秀吉の喜びようは尋常ではなかった。
毎日のように茶々を訪れ「飯はたんと食べよ」「体を冷やすでないぞ」などと、そわそわしながら茶々に
声をかける。
お江は傍にいて、思わず噴出さずにはいられなかった。
秀吉は茶々の妊娠に度肝を抜く、大盤振る舞いをしている。堀をうがち、石垣を積んで、天守まで揚げ
た産所・淀城を築いているのである。
女性のための専用城郭など前代未聞、後世にも例を見ないのである。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 石田三成
石田三成は、秀次が謀反を企てていると虚説をでっちあげ、秀吉は秀次を高野山に
追放します。
さらに、秀次に切腹をさせるとともに秀次の妻妾、若君姫君など30数人を三条河原で
処刑しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江 (23) 『次姉・お初の結婚』
『次姉・お初の結婚』
お江は大坂城で、何不自由のない日々を送っていた。
お江が離婚した翌年の1587年に、18歳になっていたお初が京極高次と結婚することになる。
高次は、京極高吉とお初の父・長政の姉マリアとの間に生まれた。しかも生まれたのは小谷城の京極丸
で、2人は従兄妹だった。
小谷城京極丸の土塁

お江と一成の結婚は、織田信雄が取り持ち、秀吉は相手の一成をまったく知らずに嫁がせたが、お初の
相手は秀吉が選んだ男だった。
しかも、高次の姉・松の丸殿は、当時すでに加賀殿(前田利家の娘)、おふく(宇喜多秀家の母)、あかね
(山名豊国の娘)など秀吉が抱える多くの側室の中で一番のお気に入りの側室であった。
高次は本能寺の変に際し明智光秀に味方して、秀吉の居城・長浜城に攻め入った罪も、松の丸殿の弟で
あったため許されただけでなく、近江高島郡内に2千5百を貰っていた。
その京極氏は松の丸殿とお初の威光により、近江八幡山城に移され2万8千石になり、さらに大津城6万
石にまでなる。
近江八幡山城 大津城(CG画像)

かつて秀吉の居城を襲ったお尋ね者からの見事な復権であったが、高次は姉の松の丸殿やお初の七光
りで出世し、蛍大名とも呼ばれています。
茶々は長女の自分を素通りして、妹たちに結婚話が持ち込まれる意図を早くから見抜いていた。
茶々ははじめ、両親の敵である秀吉の顔を見ただけで虫唾が走っていた。しかし、秀吉から豪勢な暮らし
の場を与えられ、しかも人なつっこい笑顔に接しているうちに、秀吉は悪い人ではないと感じるようになっ
ていき、憎しみは次第に氷解していた。
茶々はお初が嫁いだ頃、すでに自分は秀吉の側室にされるであろうことを理解していた。また、そばに
居たお江は、姉の心の軌跡がすでに理解できる年齢であり、一成との仲を引き裂かれ大野城まで奪った
秀吉の恐ろしさを身にしみて知るだけに、茶々の境遇を哀れにも思った。
だが、茶々はお江に弱気なところを見せず、ある日「こうなったら、私が関白殿下のやや子を産んでみせ
る」と、きりりと唇を噛みしめるように語った言葉が、お江の心深く落ちた。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 小西行長
朝鮮征伐の緒戦に出撃した日本の兵力は、15万8千7百人で軍隊は9陣から編成され、
小西行長の第1陣、加藤清正の第2陣と朝鮮に上陸しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江は大坂城で、何不自由のない日々を送っていた。
お江が離婚した翌年の1587年に、18歳になっていたお初が京極高次と結婚することになる。
高次は、京極高吉とお初の父・長政の姉マリアとの間に生まれた。しかも生まれたのは小谷城の京極丸
で、2人は従兄妹だった。
小谷城京極丸の土塁

お江と一成の結婚は、織田信雄が取り持ち、秀吉は相手の一成をまったく知らずに嫁がせたが、お初の
相手は秀吉が選んだ男だった。
しかも、高次の姉・松の丸殿は、当時すでに加賀殿(前田利家の娘)、おふく(宇喜多秀家の母)、あかね
(山名豊国の娘)など秀吉が抱える多くの側室の中で一番のお気に入りの側室であった。
高次は本能寺の変に際し明智光秀に味方して、秀吉の居城・長浜城に攻め入った罪も、松の丸殿の弟で
あったため許されただけでなく、近江高島郡内に2千5百を貰っていた。
その京極氏は松の丸殿とお初の威光により、近江八幡山城に移され2万8千石になり、さらに大津城6万
石にまでなる。
近江八幡山城 大津城(CG画像)


かつて秀吉の居城を襲ったお尋ね者からの見事な復権であったが、高次は姉の松の丸殿やお初の七光
りで出世し、蛍大名とも呼ばれています。
茶々は長女の自分を素通りして、妹たちに結婚話が持ち込まれる意図を早くから見抜いていた。
茶々ははじめ、両親の敵である秀吉の顔を見ただけで虫唾が走っていた。しかし、秀吉から豪勢な暮らし
の場を与えられ、しかも人なつっこい笑顔に接しているうちに、秀吉は悪い人ではないと感じるようになっ
ていき、憎しみは次第に氷解していた。
茶々はお初が嫁いだ頃、すでに自分は秀吉の側室にされるであろうことを理解していた。また、そばに
居たお江は、姉の心の軌跡がすでに理解できる年齢であり、一成との仲を引き裂かれ大野城まで奪った
秀吉の恐ろしさを身にしみて知るだけに、茶々の境遇を哀れにも思った。
だが、茶々はお江に弱気なところを見せず、ある日「こうなったら、私が関白殿下のやや子を産んでみせ
る」と、きりりと唇を噛みしめるように語った言葉が、お江の心深く落ちた。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 小西行長
朝鮮征伐の緒戦に出撃した日本の兵力は、15万8千7百人で軍隊は9陣から編成され、
小西行長の第1陣、加藤清正の第2陣と朝鮮に上陸しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江 (22) 『別れた夫・一成のその後』
『別れた夫・一成のその後』
お江が夫との仲を裂かれた年に、徳川家康がやっと秀吉の服従している。
小牧・長久手の戦いで、織田信雄が秀吉と単独講和したため、家康は大義名分を無くし秀吉と和睦する。
家康は関白となった秀吉に臣下の礼を取ることを拒み続けた。
秀吉は必死になって懐柔し、妹の旭を家康の正室に送り込み、さらに実母まで人質に差し出す。さすが、
家康も潮時とばかりに10月になってようやく大坂城に出向き服従した。
これで秀吉は、小牧・長久手の戦いで敗れた負い目をすべて清算し、喉のつかえを取り除きます。
お江を大坂城に止め、実質上離婚させると、秀吉は残酷にも佐治一成とお江の縁談を取り持った信雄
に大野城を攻めるように厳命する。
この時、一成は信雄が攻めてくるとは夢にも思わず、耳を疑った。
それが事実と知って唖然とする。家康に対する支援は信雄の頼みであったし、何という節操のなさに
一成は呆れた。
お江を奪われ、信雄の裏切りに18歳の若い城主・一成は怒りに震えた。
6万石の自分と、50万石をはるかに超えた信雄との力の差は歴然としていた。一成は大野城を立ち退き、
船で対岸の伊勢に逃げ、かつてお江らが厄介になった安濃津城の織田信包を頼った。
ここにお江を妻にしたことが災いして、知多半島に君臨した大野城の佐治氏は4代目の一成をもって滅亡
した。
尾張大野城 安濃津城

一成が頼った信包も、また秀吉に嫌われた。秀吉は織田家の女に執心する一方で、織田家の男たち
を排除していく。
信雄も失脚するが、信包も冷遇され伊勢の地を追われ剃髪して自らをあざ笑うように老犬斎と号して、
秀吉の御伽衆になり下がった。
一方、一成りも3度目の結婚を45歳の頃にしている。妻となったのは信長の末娘・お振で、不幸を背負
っての再婚であった。
信長が生きていれば、こんな惨めな結婚はありえなかったのでしょう。
かつての織田家の栄光は微塵もなく、わずかな食い扶持で、一成・お振夫婦は赤貧に近い生活に甘ん
じるしかなかった。
一度は夫婦の契りを持ち、強引に裂かれた妻・お江が、女性として望みえる最高の地位まで上りつめて
いくのを、一成は我が身と引き換え、どのような思いで見守ったのでしょうか。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 丹波亀山城
秀勝の居城は、かつて明智光秀の居城であった丹波亀山城でした。
亀山城は霧で有名な盆地でしたが、京都に近くお江にとって決して悪い場所ではなかった
ようです。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江が夫との仲を裂かれた年に、徳川家康がやっと秀吉の服従している。
小牧・長久手の戦いで、織田信雄が秀吉と単独講和したため、家康は大義名分を無くし秀吉と和睦する。
家康は関白となった秀吉に臣下の礼を取ることを拒み続けた。
秀吉は必死になって懐柔し、妹の旭を家康の正室に送り込み、さらに実母まで人質に差し出す。さすが、
家康も潮時とばかりに10月になってようやく大坂城に出向き服従した。
これで秀吉は、小牧・長久手の戦いで敗れた負い目をすべて清算し、喉のつかえを取り除きます。
お江を大坂城に止め、実質上離婚させると、秀吉は残酷にも佐治一成とお江の縁談を取り持った信雄
に大野城を攻めるように厳命する。
この時、一成は信雄が攻めてくるとは夢にも思わず、耳を疑った。
それが事実と知って唖然とする。家康に対する支援は信雄の頼みであったし、何という節操のなさに
一成は呆れた。
お江を奪われ、信雄の裏切りに18歳の若い城主・一成は怒りに震えた。
6万石の自分と、50万石をはるかに超えた信雄との力の差は歴然としていた。一成は大野城を立ち退き、
船で対岸の伊勢に逃げ、かつてお江らが厄介になった安濃津城の織田信包を頼った。
ここにお江を妻にしたことが災いして、知多半島に君臨した大野城の佐治氏は4代目の一成をもって滅亡
した。
尾張大野城 安濃津城


一成が頼った信包も、また秀吉に嫌われた。秀吉は織田家の女に執心する一方で、織田家の男たち
を排除していく。
信雄も失脚するが、信包も冷遇され伊勢の地を追われ剃髪して自らをあざ笑うように老犬斎と号して、
秀吉の御伽衆になり下がった。
一方、一成りも3度目の結婚を45歳の頃にしている。妻となったのは信長の末娘・お振で、不幸を背負
っての再婚であった。
信長が生きていれば、こんな惨めな結婚はありえなかったのでしょう。
かつての織田家の栄光は微塵もなく、わずかな食い扶持で、一成・お振夫婦は赤貧に近い生活に甘ん
じるしかなかった。
一度は夫婦の契りを持ち、強引に裂かれた妻・お江が、女性として望みえる最高の地位まで上りつめて
いくのを、一成は我が身と引き換え、どのような思いで見守ったのでしょうか。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 丹波亀山城
秀勝の居城は、かつて明智光秀の居城であった丹波亀山城でした。
亀山城は霧で有名な盆地でしたが、京都に近くお江にとって決して悪い場所ではなかった
ようです。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>