江戸城 「日本一の城郭となる」
『江戸城 日本一の城郭となる』
北条氏(遠山氏時代)の江戸城はいたって粗末なものであったから、家康が入城したころは手狭で、
城下の民家も少なく家臣らは寺や民家を借りたり掛小屋したりして雨露をしのいだそうです。
家康はこれを整備して一応のものにしたが、大々的に修築を始めたのは関ヶ原合戦から3年目の
1603年からであった。
天下人たる権威をもって天下の諸大名に手伝いを命じて、城郭を拡大し、濠をうがち、石垣を築き大
城郭としています。
江戸城古図

この期間に、駿河台からお茶の水あたりにあった神田山を削って海を埋め立て町家の立つべき土地
を造成します。現在の銀座、日本橋あたりはこの頃の埋立て地になるそうです。
大名らはそれぞれの石高に応じて割り当てられた普請を行なっていますが、紀州の太守であった浅
野家から普請奉行として来ていたのは当時有名な勇士・亀田大隈であったが、受持場となった石垣
が、雨が降るたびによく崩れた。
将軍秀忠が巡視して、大隈に「なぜ、そう崩れるのかな」
と言ったところ、大隈は、
「拙者が鳶の嘴(はし)の槍を持って守れば、いかなる剛敵といえどもおとし入れることは出来ぬので
ござるが、石は心無きもの故、まことにせん方なきことでござる」
と答えたという。
武勇に満々たる自信ある武士も、時の勢いにはせん方なく、徳川家のごきげん取りに工事に精を出さ
なければならなかった。
その後、三代将軍の1636年にも増築があり、本丸・二の丸・三の丸・西の丸・吹上御苑・北の丸等の
中心面積22万坪を越える日本一の大城郭となった。
江戸城の登城記は、「こちら」を参照してください。
【徳川江戸城の築城】
1603年:家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江
を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行う。
1606年:諸大名から石材を運送させ、増築した。その工事分担は、
外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、
田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、
寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明
天守台の築造:黒田長政
石垣普請:山内一豊、藤堂高虎、木下延俊
本丸の普請:吉川広正、毛利秀就、
城廻の普請:遠藤慶隆
1607年:関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、このときは高虎がまた
設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、
奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明など
は堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。
1611年:西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視しています。
1614年:石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。
これらによって諸大名は著しく疲弊しています。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 小山評定
家康は下野国・小山の陣で、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公
に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として上方に反転すると告げた。
これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、ここに家康
の東軍が結成されます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
北条氏(遠山氏時代)の江戸城はいたって粗末なものであったから、家康が入城したころは手狭で、
城下の民家も少なく家臣らは寺や民家を借りたり掛小屋したりして雨露をしのいだそうです。
家康はこれを整備して一応のものにしたが、大々的に修築を始めたのは関ヶ原合戦から3年目の
1603年からであった。
天下人たる権威をもって天下の諸大名に手伝いを命じて、城郭を拡大し、濠をうがち、石垣を築き大
城郭としています。
江戸城古図

この期間に、駿河台からお茶の水あたりにあった神田山を削って海を埋め立て町家の立つべき土地
を造成します。現在の銀座、日本橋あたりはこの頃の埋立て地になるそうです。
大名らはそれぞれの石高に応じて割り当てられた普請を行なっていますが、紀州の太守であった浅
野家から普請奉行として来ていたのは当時有名な勇士・亀田大隈であったが、受持場となった石垣
が、雨が降るたびによく崩れた。
将軍秀忠が巡視して、大隈に「なぜ、そう崩れるのかな」
と言ったところ、大隈は、
「拙者が鳶の嘴(はし)の槍を持って守れば、いかなる剛敵といえどもおとし入れることは出来ぬので
ござるが、石は心無きもの故、まことにせん方なきことでござる」
と答えたという。
武勇に満々たる自信ある武士も、時の勢いにはせん方なく、徳川家のごきげん取りに工事に精を出さ
なければならなかった。
その後、三代将軍の1636年にも増築があり、本丸・二の丸・三の丸・西の丸・吹上御苑・北の丸等の
中心面積22万坪を越える日本一の大城郭となった。
江戸城の登城記は、「こちら」を参照してください。
【徳川江戸城の築城】
1603年:家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江
を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行う。
1606年:諸大名から石材を運送させ、増築した。その工事分担は、
外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、
田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、
寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明
天守台の築造:黒田長政
石垣普請:山内一豊、藤堂高虎、木下延俊
本丸の普請:吉川広正、毛利秀就、
城廻の普請:遠藤慶隆
1607年:関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、このときは高虎がまた
設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、
奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明など
は堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。
1611年:西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視しています。
1614年:石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。
これらによって諸大名は著しく疲弊しています。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 小山評定
家康は下野国・小山の陣で、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公
に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として上方に反転すると告げた。
これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、ここに家康
の東軍が結成されます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
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江戸城 「家康江戸城に入城」
『家康 江戸城に入城』
秀吉に江戸に転封を命じられた家康は、秀吉の企みが分からない訳がなかったが、家康は効果のない
反抗などはしない。ままよ、いずれ時節もあろうと虫をおさえた。
「過分な領地を賜り、ありがたき仕合せ」とお礼を進言する。
当時、家康は小田原か鎌倉に居城しようと考えていたところ、秀吉が、
「武州に江戸というところがある。関東の大平野を背後にひかえ、海に臨み、河口に臨んでいる。八州の
太守の居城を構えるべき土地としてはここ以外にはござらんぞ。小田原や鎌倉では将来の発展の余地
がない」
といって、江戸を勧めたという話が残っています。
そうかも知れません。
江戸城大手門
江戸城の正門で、諸大名はこの門から登城していました。
高麗門を入ると桝型と呼ばれる四角の広場があり、右に見えるのが渡櫓門です。
この大手門は、伊達政宗が買って出たといわれています。
古写真 現在

この頃の江戸は奥州街道沿いの一寒駅であった。
城といえば貧弱な小城で、特別に研究でもしない限り目をつけよう筈がない。かつて幕府があった鎌倉、
今まで関八州に雄視していた北条氏の本拠のあった小田原を考えるのは最も当然であったでしょう。
しかし、秀吉は関東征伐を計画するについて、関東の地理や経済や交通について研究をしていたのです。
疑問は、生涯恐れ続けた秀吉が、家康の利益になるようなことをなぜ勧めたという点ですが、秀吉は案外
人のよいところがあり、また、自分の才智を誇示したい性質のある人であった。
この時もこれらの性質に駆られて、家康に教えたのかも知れません。
家康は早速、これまでの居城であった駿府城を引き払って江戸に移った。
江戸に入ったのが1590年8月1日であったことから、以降、この八朔(はっさく)は江戸時代を通じて幕府
の重要な祝日となっています。
家臣らが白帷子(しろかたびら)を着て入城したというので、八朔の儀式には大名・旗本みな白帷子を着て
登城した。
この儀式が吉原の遊女にも移って、この日には遊女全部が白小袖を着てくるわ道中をしたそうです。
春を迎えに
土曜日に久しぶりに近くの公園に行ってみました。
いつもにように、魚釣りのおじさんたちをpigletは覗き込んでいました…。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 武田信玄
家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田氏の遺臣
から信玄の戦術や思想を積極的に学んでいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
秀吉に江戸に転封を命じられた家康は、秀吉の企みが分からない訳がなかったが、家康は効果のない
反抗などはしない。ままよ、いずれ時節もあろうと虫をおさえた。
「過分な領地を賜り、ありがたき仕合せ」とお礼を進言する。
当時、家康は小田原か鎌倉に居城しようと考えていたところ、秀吉が、
「武州に江戸というところがある。関東の大平野を背後にひかえ、海に臨み、河口に臨んでいる。八州の
太守の居城を構えるべき土地としてはここ以外にはござらんぞ。小田原や鎌倉では将来の発展の余地
がない」
といって、江戸を勧めたという話が残っています。
そうかも知れません。
江戸城大手門
江戸城の正門で、諸大名はこの門から登城していました。
高麗門を入ると桝型と呼ばれる四角の広場があり、右に見えるのが渡櫓門です。
この大手門は、伊達政宗が買って出たといわれています。
古写真 現在


この頃の江戸は奥州街道沿いの一寒駅であった。
城といえば貧弱な小城で、特別に研究でもしない限り目をつけよう筈がない。かつて幕府があった鎌倉、
今まで関八州に雄視していた北条氏の本拠のあった小田原を考えるのは最も当然であったでしょう。
しかし、秀吉は関東征伐を計画するについて、関東の地理や経済や交通について研究をしていたのです。
疑問は、生涯恐れ続けた秀吉が、家康の利益になるようなことをなぜ勧めたという点ですが、秀吉は案外
人のよいところがあり、また、自分の才智を誇示したい性質のある人であった。
この時もこれらの性質に駆られて、家康に教えたのかも知れません。
家康は早速、これまでの居城であった駿府城を引き払って江戸に移った。
江戸に入ったのが1590年8月1日であったことから、以降、この八朔(はっさく)は江戸時代を通じて幕府
の重要な祝日となっています。
家臣らが白帷子(しろかたびら)を着て入城したというので、八朔の儀式には大名・旗本みな白帷子を着て
登城した。
この儀式が吉原の遊女にも移って、この日には遊女全部が白小袖を着てくるわ道中をしたそうです。
春を迎えに
土曜日に久しぶりに近くの公園に行ってみました。
いつもにように、魚釣りのおじさんたちをpigletは覗き込んでいました…。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 武田信玄
家康は、自分に屈辱的な大敗を経験させた武田信玄を素直に尊敬し、武田氏の遺臣
から信玄の戦術や思想を積極的に学んでいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
江戸城 「道灌~北条氏~徳川家へ」
江戸城 『道灌~北条氏~徳川家へ』
江戸城の原形を太田道灌が造ったことは誰でも良くご存知のことです。
1456年に起工して翌年の1457年に竣工したそうです。
道灌の江戸城レリーフ

これは今の本丸、三の丸、西の丸あたりで、これを中城・子城・外城と呼んでいたそうです。もちろん後世
の城と似てもつかぬものであったらしい。
石垣などは全然なく、芝を植えた土居をかきあげ、濠をめぐらしてはいたが、中には空濠もあったといい
ますから、粗末さが想像つきます。資力からいっても、築城技術からいっても、当時は幼稚なものだった
のでしょう。
これが今から500年くらい前のことです。
城中からの眺望は実によかったらしいです。
当時、この地は今の丸の内あたりが松原つづきの波打際で、東に筑波が見えて、西に富士山が見えた
といいますから、今日の雑駁な東京からは想像もつきません。
道灌が京都に上がった時、時の天皇から、そちの居城はどんなところかと聞かれ、和歌をもって答えて
います。
わが庵(いほ)は松原がつづき海近く
富士の高嶺と軒端にぞ見る
道灌はここに居城すること30年、主人の扇谷上杉定正にその権勢と才能を忌まれて、暗殺され、江戸城
は扇谷上杉家の領に帰したが、38年後に小田原北条氏に奪われた。
今度は、66年目に豊臣秀吉の小田原攻めが起きる。この頃、江戸城は遠山氏が居住していたが、上方
勢にこれを明け渡した。
秀吉は北条氏を降伏させて関東を手に入れると、徳川家康を東海筋からここに転封させます。
徳川家康(1543-1616年)

秀吉が最も恐れたのは家康であり、武力で両者が対決したのは小牧・長久手の合戦であるが、秀吉は
家康に勝つことができなかった。
秀吉は、家康に妹を嫁にやり、母をその見舞いにやるという二重の人質をつかわして、実に無理な外交
戦術でやっと家康を幕下に招致することができたので、家康に対しては終生はばかるところがあった。
こんなこわい男を東海道筋の要地におくことは何としても不安であり、「関八州を進ぜる」と旨いことを
言って、家康を江戸に移した。
関東をとりまく要地である東海道・甲州・会津には自分が信頼する大名らをおいて、家康の手も足も出な
いようにしています。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 小松姫
小松姫は本多忠勝の娘で、真田信之に嫁いでいます。「関ヶ原の戦い」で敵となった
義父・真田昌幸が孫の顔を見に訪ねた際に、戦装束を身に纏って入城を拒否しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(観音寺潮五郎薯)>
江戸城の原形を太田道灌が造ったことは誰でも良くご存知のことです。
1456年に起工して翌年の1457年に竣工したそうです。
道灌の江戸城レリーフ

これは今の本丸、三の丸、西の丸あたりで、これを中城・子城・外城と呼んでいたそうです。もちろん後世
の城と似てもつかぬものであったらしい。
石垣などは全然なく、芝を植えた土居をかきあげ、濠をめぐらしてはいたが、中には空濠もあったといい
ますから、粗末さが想像つきます。資力からいっても、築城技術からいっても、当時は幼稚なものだった
のでしょう。
これが今から500年くらい前のことです。
城中からの眺望は実によかったらしいです。
当時、この地は今の丸の内あたりが松原つづきの波打際で、東に筑波が見えて、西に富士山が見えた
といいますから、今日の雑駁な東京からは想像もつきません。
道灌が京都に上がった時、時の天皇から、そちの居城はどんなところかと聞かれ、和歌をもって答えて
います。
わが庵(いほ)は松原がつづき海近く
富士の高嶺と軒端にぞ見る
道灌はここに居城すること30年、主人の扇谷上杉定正にその権勢と才能を忌まれて、暗殺され、江戸城
は扇谷上杉家の領に帰したが、38年後に小田原北条氏に奪われた。
今度は、66年目に豊臣秀吉の小田原攻めが起きる。この頃、江戸城は遠山氏が居住していたが、上方
勢にこれを明け渡した。
秀吉は北条氏を降伏させて関東を手に入れると、徳川家康を東海筋からここに転封させます。
徳川家康(1543-1616年)

秀吉が最も恐れたのは家康であり、武力で両者が対決したのは小牧・長久手の合戦であるが、秀吉は
家康に勝つことができなかった。
秀吉は、家康に妹を嫁にやり、母をその見舞いにやるという二重の人質をつかわして、実に無理な外交
戦術でやっと家康を幕下に招致することができたので、家康に対しては終生はばかるところがあった。
こんなこわい男を東海道筋の要地におくことは何としても不安であり、「関八州を進ぜる」と旨いことを
言って、家康を江戸に移した。
関東をとりまく要地である東海道・甲州・会津には自分が信頼する大名らをおいて、家康の手も足も出な
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 小松姫
小松姫は本多忠勝の娘で、真田信之に嫁いでいます。「関ヶ原の戦い」で敵となった
義父・真田昌幸が孫の顔を見に訪ねた際に、戦装束を身に纏って入城を拒否しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(観音寺潮五郎薯)>
孫子の兵法 『百戦百勝は、善の善なるものにあらず』
『百戦百勝は、善の善なるものにあらず』(謀攻篇)
戦争のしかたというのは、敵国を傷めつけないで降服させるのが上策である。撃破して降服させるの
は次善の策にしか過ぎない。
また、敵の軍団にしても傷めつけないで降服させるのが上策であって、撃破して降服させるのは次善
の策だ。大隊、中隊、小隊についても同様である。
従って、百回戦って百回勝ったとしても、最善の策とはいえない。戦わないで敵を降服させることこそ
が、最善の策なのである。
【クラウゼビッツと「孫子」】
「戦争とは、まったく政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行
である」
「戦争は手段であり、目的は政治的意図である。そしていかなる場合でも、手段は目的を離れては考える
ことができないのである。」
プロシアの将軍クラウゼビッツが「戦争論」のなかでこう説いたのは19世紀の初めのことですが、『孫子』
は目的とか手段といった言葉を使っていないが、すでに2500年もまえに、これと同じ認識を確固として抱
いていた。
Carl von Clausewitz(1780-1831年)

『孫子』にとって、戦争は政治目的を達するための手段に過ぎない。戦争であるからには当然勝つことが
要求される。『孫子』も勝つための方法条件をあらゆる角度から分析し、検討を加えています。
しかし、勝つことはあくまで手段であって目的ではない。しかも、戦争には膨大な費用がかかることは明ら
かなところです。
そこから「百戦百勝は最善の策ではない。戦わないで勝つことがベストだ」という認識が生まれてくるの
です。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 3回
江戸時代には、慶長度天守、元和度天守、寛永度天守と3度建てられているが、1657年の
明暦の大火で消失後は泰平の時代となり、天守の再建は行われていません。
≪本日の問題≫
<参考文献:孫子の兵法(守屋洋薯)>
戦争のしかたというのは、敵国を傷めつけないで降服させるのが上策である。撃破して降服させるの
は次善の策にしか過ぎない。
また、敵の軍団にしても傷めつけないで降服させるのが上策であって、撃破して降服させるのは次善
の策だ。大隊、中隊、小隊についても同様である。
従って、百回戦って百回勝ったとしても、最善の策とはいえない。戦わないで敵を降服させることこそ
が、最善の策なのである。
【クラウゼビッツと「孫子」】
「戦争とは、まったく政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行
である」
「戦争は手段であり、目的は政治的意図である。そしていかなる場合でも、手段は目的を離れては考える
ことができないのである。」
プロシアの将軍クラウゼビッツが「戦争論」のなかでこう説いたのは19世紀の初めのことですが、『孫子』
は目的とか手段といった言葉を使っていないが、すでに2500年もまえに、これと同じ認識を確固として抱
いていた。
Carl von Clausewitz(1780-1831年)

『孫子』にとって、戦争は政治目的を達するための手段に過ぎない。戦争であるからには当然勝つことが
要求される。『孫子』も勝つための方法条件をあらゆる角度から分析し、検討を加えています。
しかし、勝つことはあくまで手段であって目的ではない。しかも、戦争には膨大な費用がかかることは明ら
かなところです。
そこから「百戦百勝は最善の策ではない。戦わないで勝つことがベストだ」という認識が生まれてくるの
です。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 3回
江戸時代には、慶長度天守、元和度天守、寛永度天守と3度建てられているが、1657年の
明暦の大火で消失後は泰平の時代となり、天守の再建は行われていません。
≪本日の問題≫
<参考文献:孫子の兵法(守屋洋薯)>
お江(41) 『乳母お福(春日局)との確執』
『乳母お福(春日局)との確執』
江戸城では本丸の御殿も一新され、大きくまた豪華になっていた。
駿河台の土を切り崩し、諸大名の天下普請によって水辺は埋め立てられ二の丸に変わり、その先に三の丸
が築造されて、江戸城は巨大な城に変貌しつつあった。
そして海の中だった現在の大手町に大名屋敷が建ち始めた。
大名屋敷があった現在の大手町を二重橋広場から望む

その変貌のまさに中心に自分がいることを、お江は肌で感じていたが言い知れぬ寂しさが、お江の体の中
を吹き抜けていた。
それは、嫡子竹千代を取られた寂しさだった。
また、生まれた姫たちが手元から次々にいなくなる寂しさでもあった。
御台所と敬われて、母の愛を息子や娘たちに注げない自分が悲しかった。秀頼に寄り添って生きる姉淀殿
が羨ましく思ったことでしょう。
お江は竹千代を乳母に取られたのです。将軍を継ぐ嫡子として、武勇に長け、また文道にも秀でた人物に
なることが必要であったのです。
お江が息子を奪われたとして、恨みに思ったのは乳母だった。その乳母をお福といい、後に大奥の創設者
となり春日局とよばれ尊敬された人物です。
春日局(斎藤 福)

このお福を家康が乳母に採用したことには、大いに理由があった。
お福は女ながらに武術を仕込まれ、夫・稲葉正成は家老として小早川秀明に仕え、関が原の戦いの時、
家康に味方するように秀明を説き、家康に勝利をもたらせたのだった。いわば正成は家康にとり疎かに
できない人物だったのです。
お福は乳母に採用されると、長子の8歳になる千熊を伴い江戸に向かった。
千熊とは、後の稲葉正勝のことで、竹千代の小姓となり、よき遊び相手になった。
竹千代は本来ならば、お福がわが子の内記に含ませる乳をもらって育つ。
逆にお江はわが子ながら、自分の乳を若君にやれない悔しさに歯ぎしりし、その不満を秀忠にぶつけた。
「父上の申し付けは絶対じゃ。江も存じておろう。誰も父上には逆らえぬ」
たとえ将軍であっても父家康に絶対服従の秀忠だった。頼りない夫と思うが、家康あっての徳川家、また
自分であることをお江は良くわきまえていた。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 明正天皇
和子は2皇子、5皇女の7人もの天皇の子供を産みますが、2皇子が早世したので興子内親王
が明正天皇として即位しています。
残念ながら女帝誕生はお江が他界した後でした。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
江戸城では本丸の御殿も一新され、大きくまた豪華になっていた。
駿河台の土を切り崩し、諸大名の天下普請によって水辺は埋め立てられ二の丸に変わり、その先に三の丸
が築造されて、江戸城は巨大な城に変貌しつつあった。
そして海の中だった現在の大手町に大名屋敷が建ち始めた。
大名屋敷があった現在の大手町を二重橋広場から望む

その変貌のまさに中心に自分がいることを、お江は肌で感じていたが言い知れぬ寂しさが、お江の体の中
を吹き抜けていた。
それは、嫡子竹千代を取られた寂しさだった。
また、生まれた姫たちが手元から次々にいなくなる寂しさでもあった。
御台所と敬われて、母の愛を息子や娘たちに注げない自分が悲しかった。秀頼に寄り添って生きる姉淀殿
が羨ましく思ったことでしょう。
お江は竹千代を乳母に取られたのです。将軍を継ぐ嫡子として、武勇に長け、また文道にも秀でた人物に
なることが必要であったのです。
お江が息子を奪われたとして、恨みに思ったのは乳母だった。その乳母をお福といい、後に大奥の創設者
となり春日局とよばれ尊敬された人物です。
春日局(斎藤 福)

このお福を家康が乳母に採用したことには、大いに理由があった。
お福は女ながらに武術を仕込まれ、夫・稲葉正成は家老として小早川秀明に仕え、関が原の戦いの時、
家康に味方するように秀明を説き、家康に勝利をもたらせたのだった。いわば正成は家康にとり疎かに
できない人物だったのです。
お福は乳母に採用されると、長子の8歳になる千熊を伴い江戸に向かった。
千熊とは、後の稲葉正勝のことで、竹千代の小姓となり、よき遊び相手になった。
竹千代は本来ならば、お福がわが子の内記に含ませる乳をもらって育つ。
逆にお江はわが子ながら、自分の乳を若君にやれない悔しさに歯ぎしりし、その不満を秀忠にぶつけた。
「父上の申し付けは絶対じゃ。江も存じておろう。誰も父上には逆らえぬ」
たとえ将軍であっても父家康に絶対服従の秀忠だった。頼りない夫と思うが、家康あっての徳川家、また
自分であることをお江は良くわきまえていた。

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昨日の正解: 明正天皇
和子は2皇子、5皇女の7人もの天皇の子供を産みますが、2皇子が早世したので興子内親王
が明正天皇として即位しています。
残念ながら女帝誕生はお江が他界した後でした。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江(40) 『お江、待望の男児を出産』
『お江、待望の男児を出産』
お江は待望の若君を江戸城において出産した。
10ヵ月に満たず生まれたが、母子とも元気であった。お江は5人目にしてやっと男の子をもうけたのです。
秀忠はお江のかたわらにいて「でかしたぞ、江」と、跡継ぎの誕生に歓喜し、伏見城にいた家康の元に使
いを急行させた。
家康は若君の誕生を喜び、早速、若君に自分の幼名である「竹千代」と命名するよう申し送った。
お江は男子を出産し、ホッと肩の荷を下ろした。これで恥じることなく、堂々と徳川の正夫人として胸を張
れると思った。
そして、この徳川家の若君誕生を素直に喜んだ女性がいた。誰あろう淀君である。
徳川との確執があっても、妹お江への想いは別だったのです。
妹の幸せを淀殿が素直に喜んでいる。
家康が若君誕生を知った僅か6日後の7月26日付けで、淀殿が伊勢の尼寺・慶光院に宛てた淀殿自筆
の手紙が残っているのです。
気丈で、家康の横暴に憤りながら、敵ともいえる徳川家の嫡男誕生を、めでたいと淀殿は喜んでいます。
お江が竹千代(家光)を産んだ江戸城本丸

だが、その淀殿を烈火のごとく怒らす事態が生じる。
家康がわずか2年余りで将軍職を退き、1605年4月16日、息子秀忠にこれを譲ったことだった。
淀殿は家康が退いた後、秀頼に天下を譲ってくれることに淡い期待を寄せていた。
秀吉の遺言を守って千姫を大坂城に送ってくれたのは、その印とも信じていたのだ。だが、その淀殿の
期待は完全に抹殺されたのです。
2代将軍秀忠の誕生は、徳川政権の永続性を天下に知らしむるにほかならなかった。
しかも、淀殿を立腹させたのは、北政所おねが家康の使者となって大坂城を訪れ、秀頼に上洛を勧め、
秀忠に将軍就任の祝詞を述べるように求めたことだった。
それは、豊臣家が徳川家に従属して、一大名になりさがることを、世間に周知することであった。
淀殿はそんな使者を勤めたおねに怒った。
そして徳川があくまでこれを迫るならば、秀頼を殺して自分も死ぬと言い張り、断固拒否するのです。
この時、淀殿はお江に裏切られたと思ったことでしょう。
お江は将軍の正室、つまり御台所の地位を得たのである。皇族を除いて、常人の女性が望みえる最高
の地位についたのです。
それは秀吉の北政所おねと同じ地位であり、淀殿がおねを排除してまでも欲しかった身分であったので
す。まるでトンビに油揚げをさらわれた心境に淀殿はなったことでしょう。
昨日はpigletの3回目の誕生日でしたので、くす玉を用意してみました。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解:米3升
清正は、平時でも常に腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れていたそうです。
ある時、親友の福島正則が「それでは腰が重いだろうが」と述べると、「わしだって軽く
したい。だが、わしがこうしていれば家臣も見習い、常に戦時の備えを怠らないだろう」
と答えたそうです。さすが戦闘する武将だったのですね。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江は待望の若君を江戸城において出産した。
10ヵ月に満たず生まれたが、母子とも元気であった。お江は5人目にしてやっと男の子をもうけたのです。
秀忠はお江のかたわらにいて「でかしたぞ、江」と、跡継ぎの誕生に歓喜し、伏見城にいた家康の元に使
いを急行させた。
家康は若君の誕生を喜び、早速、若君に自分の幼名である「竹千代」と命名するよう申し送った。
お江は男子を出産し、ホッと肩の荷を下ろした。これで恥じることなく、堂々と徳川の正夫人として胸を張
れると思った。
そして、この徳川家の若君誕生を素直に喜んだ女性がいた。誰あろう淀君である。
徳川との確執があっても、妹お江への想いは別だったのです。
妹の幸せを淀殿が素直に喜んでいる。
家康が若君誕生を知った僅か6日後の7月26日付けで、淀殿が伊勢の尼寺・慶光院に宛てた淀殿自筆
の手紙が残っているのです。
気丈で、家康の横暴に憤りながら、敵ともいえる徳川家の嫡男誕生を、めでたいと淀殿は喜んでいます。
お江が竹千代(家光)を産んだ江戸城本丸

だが、その淀殿を烈火のごとく怒らす事態が生じる。
家康がわずか2年余りで将軍職を退き、1605年4月16日、息子秀忠にこれを譲ったことだった。
淀殿は家康が退いた後、秀頼に天下を譲ってくれることに淡い期待を寄せていた。
秀吉の遺言を守って千姫を大坂城に送ってくれたのは、その印とも信じていたのだ。だが、その淀殿の
期待は完全に抹殺されたのです。
2代将軍秀忠の誕生は、徳川政権の永続性を天下に知らしむるにほかならなかった。
しかも、淀殿を立腹させたのは、北政所おねが家康の使者となって大坂城を訪れ、秀頼に上洛を勧め、
秀忠に将軍就任の祝詞を述べるように求めたことだった。
それは、豊臣家が徳川家に従属して、一大名になりさがることを、世間に周知することであった。
淀殿はそんな使者を勤めたおねに怒った。
そして徳川があくまでこれを迫るならば、秀頼を殺して自分も死ぬと言い張り、断固拒否するのです。
この時、淀殿はお江に裏切られたと思ったことでしょう。
お江は将軍の正室、つまり御台所の地位を得たのである。皇族を除いて、常人の女性が望みえる最高
の地位についたのです。
それは秀吉の北政所おねと同じ地位であり、淀殿がおねを排除してまでも欲しかった身分であったので
す。まるでトンビに油揚げをさらわれた心境に淀殿はなったことでしょう。
昨日はpigletの3回目の誕生日でしたので、くす玉を用意してみました。

でも、紐を引くことができずsa-ko嬢に応援して貰うことに


「働かない一家の大黒柱」ですけど、大きな病気もせず3歳になってくれたことに感謝です!!

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応援ありがとうございました
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:米3升
清正は、平時でも常に腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れていたそうです。
ある時、親友の福島正則が「それでは腰が重いだろうが」と述べると、「わしだって軽く
したい。だが、わしがこうしていれば家臣も見習い、常に戦時の備えを怠らないだろう」
と答えたそうです。さすが戦闘する武将だったのですね。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
『三成憎し』 加藤清正
『「三成憎し」の怨念を捨てきれず、狸オヤジの術中にハマってしまう』
戦乱も鎮まり、しばらくの間おとなしく領国統治に励んでいた清正であったが、1592年の朝鮮出兵が
彼の武将としての闘志に再び火をつけます。
文禄の役で第2軍を率いた清正は、小西行長と激しい先陣争いをしながら、朝鮮半島を破竹の勢いで
進撃して首都・漢城を攻略、北端の咸鏡道まで攻めのぼり、国境を越えて明まで威力偵察を行なって
います。
朝鮮侵攻図

しかし、軍監としてやってきた石田三成と対立して、秀吉の怒りをかって帰国させられています。
これを三成の告げ口のせいと恨んで、秀吉の死後にその恨みは大爆発することになります。
やはり、怒らせたら怖い男なのです。
1596年の慶長の役でも清正は再び兵を率いて朝鮮に出兵しますが、この時は食料も水も乏しい蔚山
城に籠城して、明・朝鮮連合軍の包囲に苦しんでいます。
この時の経験が後に「戦国時代最高の築城家」といわれた彼の築城術に取り入れられることになります。
清正が心血を注いで造った熊本城には井戸が1200ヵ所もあり、何年籠城しても決して水が涸れることが
ないよう配慮されていたといいます。
蔚山城では飢餓に苦しみながらも、敵に降伏することなく城を守り抜き彼の名声を高めることになったが、
ここでも補給や作戦指揮などの問題で対立した石田三成との軋轢はさらに強まってしまいます。
そして、秀吉の死によって清正の堪忍袋の緒が切れます。
福島正則、浅野幸長らとともに三成を襲おうとしたが、これは徳川家康によって止められます。
そういった経緯から、関ヶ原の合戦では家康の東軍に加担し、九州では西軍の諸城を次々と落す大活躍
をします。
加藤くんは怒ると恐いのです。

戦後の論功行賞で所領は52万石に倍増したものの、釈然としない気持ちをかかえていたといいます。
秀吉への恩義を持ち続ける彼が、豊臣家の敵方へまわってしまった。
戦闘指揮官としても、統治者としても一流の清正であったが、どうやら調略に関しては家康の方が一枚
も二枚も上手だったのです。福島正則と同様、三成への恨みの念を家康に旨く利用されたのです。
しかし、純粋な人柄は誰からも好かれるし、猛将のイメージから一目置かれもします。豊臣家滅亡後も、
清正が生きている限りは52万石も安泰。
また、得意の築城術を駆使して、天下普請に協力しながら全国に名城を残しています。
熊本城内に加藤神社があります。
実は、私も始めて行きましたが、宇土櫓、大天守・小天守を違う角度から見れる隠れスポットでした。
特に、宇土櫓高石垣の写真スポットです。
加藤神社 加藤くん

<画像は全てクリックで拡大します>
清正公の旗立石
朝鮮で使用していたものを名護屋城から運んできたそうです。

狛虎
いかにも虎退治の清正公ですね。
(みゅった殿へのおみやげです)

加藤神社から見た宇土櫓


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応援ありがとうございました
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 隈本
「隈本(隅本とも)」という地名を「熊本」と改名した人は清正です。「隈本」よりも
「熊本」の方が勇ましかろうと言う理由だったと伝わります。
いかにも清正公らしい発想ですよね。
≪本日の問題≫
戦乱も鎮まり、しばらくの間おとなしく領国統治に励んでいた清正であったが、1592年の朝鮮出兵が
彼の武将としての闘志に再び火をつけます。
文禄の役で第2軍を率いた清正は、小西行長と激しい先陣争いをしながら、朝鮮半島を破竹の勢いで
進撃して首都・漢城を攻略、北端の咸鏡道まで攻めのぼり、国境を越えて明まで威力偵察を行なって
います。
朝鮮侵攻図

しかし、軍監としてやってきた石田三成と対立して、秀吉の怒りをかって帰国させられています。
これを三成の告げ口のせいと恨んで、秀吉の死後にその恨みは大爆発することになります。
やはり、怒らせたら怖い男なのです。
1596年の慶長の役でも清正は再び兵を率いて朝鮮に出兵しますが、この時は食料も水も乏しい蔚山
城に籠城して、明・朝鮮連合軍の包囲に苦しんでいます。
この時の経験が後に「戦国時代最高の築城家」といわれた彼の築城術に取り入れられることになります。
清正が心血を注いで造った熊本城には井戸が1200ヵ所もあり、何年籠城しても決して水が涸れることが
ないよう配慮されていたといいます。
蔚山城では飢餓に苦しみながらも、敵に降伏することなく城を守り抜き彼の名声を高めることになったが、
ここでも補給や作戦指揮などの問題で対立した石田三成との軋轢はさらに強まってしまいます。
そして、秀吉の死によって清正の堪忍袋の緒が切れます。
福島正則、浅野幸長らとともに三成を襲おうとしたが、これは徳川家康によって止められます。
そういった経緯から、関ヶ原の合戦では家康の東軍に加担し、九州では西軍の諸城を次々と落す大活躍
をします。
加藤くんは怒ると恐いのです。

戦後の論功行賞で所領は52万石に倍増したものの、釈然としない気持ちをかかえていたといいます。
秀吉への恩義を持ち続ける彼が、豊臣家の敵方へまわってしまった。
戦闘指揮官としても、統治者としても一流の清正であったが、どうやら調略に関しては家康の方が一枚
も二枚も上手だったのです。福島正則と同様、三成への恨みの念を家康に旨く利用されたのです。
しかし、純粋な人柄は誰からも好かれるし、猛将のイメージから一目置かれもします。豊臣家滅亡後も、
清正が生きている限りは52万石も安泰。
また、得意の築城術を駆使して、天下普請に協力しながら全国に名城を残しています。
熊本城内に加藤神社があります。
実は、私も始めて行きましたが、宇土櫓、大天守・小天守を違う角度から見れる隠れスポットでした。
特に、宇土櫓高石垣の写真スポットです。
加藤神社 加藤くん


<画像は全てクリックで拡大します>
清正公の旗立石
朝鮮で使用していたものを名護屋城から運んできたそうです。

狛虎
いかにも虎退治の清正公ですね。
(みゅった殿へのおみやげです)

加藤神社から見た宇土櫓


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 隈本
「隈本(隅本とも)」という地名を「熊本」と改名した人は清正です。「隈本」よりも
「熊本」の方が勇ましかろうと言う理由だったと伝わります。
いかにも清正公らしい発想ですよね。
≪本日の問題≫