織田信長 その1 「茶筅髷」
織田信長 その1 「茶筅髷」
信長が斎藤道三の娘・帰蝶と結婚したのは信長16の時であった。
それから4年、道三はこの婿を見てみたいと思った。彼の耳に届く信長の評判が悪いものばかりであった
ためです。
いわく、いたずら者。いわく、不行儀者。いわく、大たわけ。いわく、乱暴者。等々
なかには、道三に面と向って、むこ殿は大たわけでござる、という者すらあった。
その度に道三は、
「たわけではない。わいらの目が届かんのよ」
と言っていたのだが、あまり悪い噂ばかりなので、
「ひとつ見てやろう」と思い立ったのである。
「噂どおりのたわけでならば、尾張は人に渡すことはない。舅たる俺が貰ろうことにしょうわい」
とでも思ったのでしょう。
1553年4月下旬、場所は美濃領と尾張領の境目の富田の正徳寺。このあたり一帯は本願寺領になって
いて、いわば中立地帯であった。
道三は一足早く到着して、正式の会見に先立って信長を透見すべく、町外れの民家に入っていた。
やがて信長の行列が来る。供衆7~800、3間半の朱槍500本、弓鉄砲500挺を持たせる堂々たる行列
だが、中陣に馬上に打たせた信長の服装こそ物凄く人を食ったものであった。
茶筅の髪を萌黄の平打の紐で巻き立て、広袖の湯帷子(ゆかたびら)を着、金のしつけ大小をさし、
その大小は特につかを長くこしらえ、みご縄(三筋より合わせた縄)で巻き立て、束頭に太いお縄の
腕抜きをつけ、虎の皮と豹の皮をかわり番こに縫い合わせた四布(よの)の半袴をはき、腰の周りには
猿回しのように火打袋や瓢箪などを7つ8つもぶら下げていたという。
こんな途方もない異装なので、斉藤家の家臣は肝を潰して呆れかえったが、やがて正徳寺の対面の場
となると、更に驚かされた。
茶筅髷

暫く休憩所に入った信長は、生まれ変わったような姿で立ち現れたのだ。髪は上品な折わげに結い、
褐色の長上下を着、小さい刀を前半に差し、礼儀正しく、優雅にすら見える姿になっていた。
美濃の家老2人が驚きながらも出てきて、
「これは、これは、お早々と」
と挨拶したが、信長は振り帰りもせず美濃武士らの居並ぶ前を落ち着き払った足取りで通り抜け、
縁の柱に背を持たせて座る。
美濃のまむし斎藤道三

道三は本堂に屏風を引き回してその中にいたが、時分はよしと屏風を押しのけて出てきた。
それを見ながら、信長は一向にかまわない。空気を見ている人のように無表情な顔でいる。
たまりかねて斉藤家の家臣が言う。
「主人山城守でございます」
信長は、はじめて表情を動かし、
「であるか」
と言って、座敷に入り挨拶をした。
「初めて見参いたします。拙者が織田上総介信長でござる。舅となり婿となるは、浅からぬ縁、よろしく
お願い申し上げます」
礼儀正しくて、上品な言葉使いであり、悠然たる態度だ。
「申しおくれました。拙者が道三、よろしく願いますぞ」
と道三も応える。
食事を共にし、酒を共にして、無事対面は済んだが、道三が信長の帰るのを見送って、
「無念なことじゃが、あのたわけ殿の門前に、わしが子供らは馬を繋ぐことになるであろう」
と嘆じた。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: カブキ者
武術に優れ、古今典籍にも通じ、文武両道な武将であったが、カブキ者としても知られて
いました。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
信長が斎藤道三の娘・帰蝶と結婚したのは信長16の時であった。
それから4年、道三はこの婿を見てみたいと思った。彼の耳に届く信長の評判が悪いものばかりであった
ためです。
いわく、いたずら者。いわく、不行儀者。いわく、大たわけ。いわく、乱暴者。等々
なかには、道三に面と向って、むこ殿は大たわけでござる、という者すらあった。
その度に道三は、
「たわけではない。わいらの目が届かんのよ」
と言っていたのだが、あまり悪い噂ばかりなので、
「ひとつ見てやろう」と思い立ったのである。
「噂どおりのたわけでならば、尾張は人に渡すことはない。舅たる俺が貰ろうことにしょうわい」
とでも思ったのでしょう。
1553年4月下旬、場所は美濃領と尾張領の境目の富田の正徳寺。このあたり一帯は本願寺領になって
いて、いわば中立地帯であった。
道三は一足早く到着して、正式の会見に先立って信長を透見すべく、町外れの民家に入っていた。
やがて信長の行列が来る。供衆7~800、3間半の朱槍500本、弓鉄砲500挺を持たせる堂々たる行列
だが、中陣に馬上に打たせた信長の服装こそ物凄く人を食ったものであった。
茶筅の髪を萌黄の平打の紐で巻き立て、広袖の湯帷子(ゆかたびら)を着、金のしつけ大小をさし、
その大小は特につかを長くこしらえ、みご縄(三筋より合わせた縄)で巻き立て、束頭に太いお縄の
腕抜きをつけ、虎の皮と豹の皮をかわり番こに縫い合わせた四布(よの)の半袴をはき、腰の周りには
猿回しのように火打袋や瓢箪などを7つ8つもぶら下げていたという。
こんな途方もない異装なので、斉藤家の家臣は肝を潰して呆れかえったが、やがて正徳寺の対面の場
となると、更に驚かされた。
茶筅髷

暫く休憩所に入った信長は、生まれ変わったような姿で立ち現れたのだ。髪は上品な折わげに結い、
褐色の長上下を着、小さい刀を前半に差し、礼儀正しく、優雅にすら見える姿になっていた。
美濃の家老2人が驚きながらも出てきて、
「これは、これは、お早々と」
と挨拶したが、信長は振り帰りもせず美濃武士らの居並ぶ前を落ち着き払った足取りで通り抜け、
縁の柱に背を持たせて座る。
美濃のまむし斎藤道三

道三は本堂に屏風を引き回してその中にいたが、時分はよしと屏風を押しのけて出てきた。
それを見ながら、信長は一向にかまわない。空気を見ている人のように無表情な顔でいる。
たまりかねて斉藤家の家臣が言う。
「主人山城守でございます」
信長は、はじめて表情を動かし、
「であるか」
と言って、座敷に入り挨拶をした。
「初めて見参いたします。拙者が織田上総介信長でござる。舅となり婿となるは、浅からぬ縁、よろしく
お願い申し上げます」
礼儀正しくて、上品な言葉使いであり、悠然たる態度だ。
「申しおくれました。拙者が道三、よろしく願いますぞ」
と道三も応える。
食事を共にし、酒を共にして、無事対面は済んだが、道三が信長の帰るのを見送って、
「無念なことじゃが、あのたわけ殿の門前に、わしが子供らは馬を繋ぐことになるであろう」
と嘆じた。

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昨日の正解: カブキ者
武術に優れ、古今典籍にも通じ、文武両道な武将であったが、カブキ者としても知られて
いました。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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孫子の兵法 『主君の口出し』(謀攻編)
孫子の兵法『主君の口出し』(謀攻編)
将軍というのは君主の補佐役です。
補佐役と君主の関係が親密であれば、必ず強大となる。逆に、両者の関係が親密さを欠けば、国は
弱体化する。
このように、将軍は重要な職責を担っている。それ故、君主がよけいな口出しをすれば、軍を危機に
追込みかねない。
それには、次の3つの場合がある。
第1に、進むべきときでないのに進撃を命じ、退くべきでないのに退却を命じる場合である。これでは、
軍の行動に手かせ足かせをはめるようなものです。
第2に、軍内部の実情を知りもしないで、軍政に干渉する場合である。これでは、軍内部を混乱に落し
いれるだけです。
第3に、指揮系統を無視して、軍令に干渉する場合である。これでは、軍内部に不信感を植えつける
だけです。
君主が軍内部に混乱や不信感を与えたとなれば、それに乗じて、すかさず他の諸国が攻め込んでくる。
君主のよけいな口出しは、まさに自殺行為にほかならない。
関ヶ原の戦い(CG画像)

日露戦争のとき、満州軍総司令官大山巌元帥と参謀長児玉源太郎大将の話があります。
大山元帥は、茫洋としてトボケの名人であったともいいます。
当時、陸軍きっての智将といわれた児玉大将は、かねてから茫洋たる人柄の大山に心服し、「ガマどん
(大山のあだな)が司令官になるなら、俺が参謀長になる」と語っていた。
大山は総司令官に任命されると、この児玉を参謀長に起用し作戦の一切を任せた。
ロシア軍の砲弾が司令部の近くに落ちても、のんびりと昼寝を楽しみ、時々、児玉らが作戦を練っている
席に顔を出しては、「今日も戦争でごわすか」などとトボケていたという。児玉を信頼して全てを任せていた
のです。
実際問題として、なかなかこうは行かないでしょうが、少なくても補佐役の力を引き出せるかどうかは、
トップの出方いかんに懸かっているということでしょう。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 西国の監視が必要だったから
姫路城は池田輝政によって今日見られる城郭に改修され、輝政およびその子・孫以降は
親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置
されたが、城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので担当する大名が頻繁
に交替しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:孫子の兵法(守屋 洋薯)>
将軍というのは君主の補佐役です。
補佐役と君主の関係が親密であれば、必ず強大となる。逆に、両者の関係が親密さを欠けば、国は
弱体化する。
このように、将軍は重要な職責を担っている。それ故、君主がよけいな口出しをすれば、軍を危機に
追込みかねない。
それには、次の3つの場合がある。
第1に、進むべきときでないのに進撃を命じ、退くべきでないのに退却を命じる場合である。これでは、
軍の行動に手かせ足かせをはめるようなものです。
第2に、軍内部の実情を知りもしないで、軍政に干渉する場合である。これでは、軍内部を混乱に落し
いれるだけです。
第3に、指揮系統を無視して、軍令に干渉する場合である。これでは、軍内部に不信感を植えつける
だけです。
君主が軍内部に混乱や不信感を与えたとなれば、それに乗じて、すかさず他の諸国が攻め込んでくる。
君主のよけいな口出しは、まさに自殺行為にほかならない。
関ヶ原の戦い(CG画像)

日露戦争のとき、満州軍総司令官大山巌元帥と参謀長児玉源太郎大将の話があります。
大山元帥は、茫洋としてトボケの名人であったともいいます。
当時、陸軍きっての智将といわれた児玉大将は、かねてから茫洋たる人柄の大山に心服し、「ガマどん
(大山のあだな)が司令官になるなら、俺が参謀長になる」と語っていた。
大山は総司令官に任命されると、この児玉を参謀長に起用し作戦の一切を任せた。
ロシア軍の砲弾が司令部の近くに落ちても、のんびりと昼寝を楽しみ、時々、児玉らが作戦を練っている
席に顔を出しては、「今日も戦争でごわすか」などとトボケていたという。児玉を信頼して全てを任せていた
のです。
実際問題として、なかなかこうは行かないでしょうが、少なくても補佐役の力を引き出せるかどうかは、
トップの出方いかんに懸かっているということでしょう。

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昨日の正解: 西国の監視が必要だったから
姫路城は池田輝政によって今日見られる城郭に改修され、輝政およびその子・孫以降は
親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置
されたが、城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので担当する大名が頻繁
に交替しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:孫子の兵法(守屋 洋薯)>
姫路城 その10 「女難の城」
姫路城 その10「女難の城」
榊原政岑(まさみね)の後は子・政永が7歳で継いだが、越後高田に転封になっています。
政岑も高尾を連れて越後に移ったが、翌年30歳で亡くなります。
しかし、その後も高尾は榊原家を離れず、その墓は榊原家の菩提寺である江戸雑司ヶ谷の本立寺にあり
ます。
国宝姫路城
現在、「大天守保存修理工事」が行なわれていますので、天守が見れるようになるのは
2015年3月18日以降になります。

榊原家の後、姫路には松平家が来たが2代10年で去り、あとは酒井家が来て明治維新まで続いている。
姫路という名のせいでしょうか。奇妙に女でいりの多い城です。
秀吉の最初の妾・姫路殿、池田輝政の妻・督姫、千姫、高尾、これで終わりかと思うと、まだ、あるのです。
酒井家の時代になって、1831年に酒井忠実が甥の忠学(ただのり)を連れて登城し、将軍・家斉に拝渇
させたところ、将軍は忠学が気に入って側衆とした。
ところが、この忠実に家斉の娘・喜代姫が恋慕して、忠学と結婚することになり、酒井忠実には実子がいる
のに、忠学を跡継ぎにしなければならなくなっています。
姫路城は、どこまでも女に縁のある城だったのです。
姫路城を10回に渡り記事にしましたが、お付き合い戴きましてありがとうございました。
次回の城は、岐阜城を取り上げてみたいと思います。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 連結式天守
現存の天守は池田輝政により建てられ、5重6階、天守台中に1階(計7階)(5層6階地下1階)
の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)で構成され、各天守の間は2重
の渡櫓で結ばれています。
この構成を「連立式天守」といいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
榊原政岑(まさみね)の後は子・政永が7歳で継いだが、越後高田に転封になっています。
政岑も高尾を連れて越後に移ったが、翌年30歳で亡くなります。
しかし、その後も高尾は榊原家を離れず、その墓は榊原家の菩提寺である江戸雑司ヶ谷の本立寺にあり
ます。
国宝姫路城
現在、「大天守保存修理工事」が行なわれていますので、天守が見れるようになるのは
2015年3月18日以降になります。

榊原家の後、姫路には松平家が来たが2代10年で去り、あとは酒井家が来て明治維新まで続いている。
姫路という名のせいでしょうか。奇妙に女でいりの多い城です。
秀吉の最初の妾・姫路殿、池田輝政の妻・督姫、千姫、高尾、これで終わりかと思うと、まだ、あるのです。
酒井家の時代になって、1831年に酒井忠実が甥の忠学(ただのり)を連れて登城し、将軍・家斉に拝渇
させたところ、将軍は忠学が気に入って側衆とした。
ところが、この忠実に家斉の娘・喜代姫が恋慕して、忠学と結婚することになり、酒井忠実には実子がいる
のに、忠学を跡継ぎにしなければならなくなっています。
姫路城は、どこまでも女に縁のある城だったのです。
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昨日の正解: 連結式天守
現存の天守は池田輝政により建てられ、5重6階、天守台中に1階(計7階)(5層6階地下1階)
の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)で構成され、各天守の間は2重
の渡櫓で結ばれています。
この構成を「連立式天守」といいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
姫路城 その9 「姫路城に、また新しい女」
姫路城 その9 「姫路城に、また新しい女」
本多家は1638年まで、25年間姫路城主であったが、大和郡山に転封になり、あとには松平氏が2軒次ぎ
次ぎに来て去り、1649年に榊原家が城主になった。
やはり徳川四天王の一人である榊原康政の子孫である。榊原家は2代20年で去り、松平、本多と主が代
わったが、合して40年後の1704年に、また榊原家が来た。
2度目に榊原家が来て3代目となったのは、20歳の政岑(まさみね)であった。
この政岑が親しく交際していた大名が、尾張の宗春、広島の太守浅野吉長であった。ともに吉原で遊んで、
政岑の買いなじんだのは三浦屋の11代目高尾であった。
この3人は吉原でとにかく豪遊し、ついに1741年に政岑は3000千両の金を出し高尾を身請けしてしまった。
間もなく政岑は高尾を姫路に連れ帰っている。
緞子(どんす)の三つ重ねの蒲団を飾った乗りかけ馬に盛装した高尾を乗せ、東海道を練り下ったという。
高尾は姫路に着くと、千姫御殿に住まい「西の方さま」と呼ばれるようになった。
この年の10月に、政岑は幕府から、
「行跡よろしからざるにより、隠居謹慎を申しつける」と申し渡された。
姫路城

こんな話が伝わります。
幕府では、高尾身請けのことを聞き、老中松平乗邑が榊原家の家老を呼び出して、詰責したところ、家老は、
「事情があるのでございます。お知りのとおり、主人・政岑は小身の家の生まれでございますが、その頃の
乳母の娘が高尾なのでございます。あわれと思いましたので、身請けしたので決して好色がましいことは
ございません」
と弁解したという。
これで一応通ったのだから、のんびりとした世の中であった。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 真田丸
秀吉が築いた大坂城は、上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた
堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで防御が手薄であった。
真田幸村はこの弱点を補うため、構造は東西180メートルほどの半円形の曲輪を構築し、
出口は後方と両脇に位置。三方に堀、塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。
これが真田丸と呼ばれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
本多家は1638年まで、25年間姫路城主であったが、大和郡山に転封になり、あとには松平氏が2軒次ぎ
次ぎに来て去り、1649年に榊原家が城主になった。
やはり徳川四天王の一人である榊原康政の子孫である。榊原家は2代20年で去り、松平、本多と主が代
わったが、合して40年後の1704年に、また榊原家が来た。
2度目に榊原家が来て3代目となったのは、20歳の政岑(まさみね)であった。
この政岑が親しく交際していた大名が、尾張の宗春、広島の太守浅野吉長であった。ともに吉原で遊んで、
政岑の買いなじんだのは三浦屋の11代目高尾であった。
この3人は吉原でとにかく豪遊し、ついに1741年に政岑は3000千両の金を出し高尾を身請けしてしまった。
間もなく政岑は高尾を姫路に連れ帰っている。
緞子(どんす)の三つ重ねの蒲団を飾った乗りかけ馬に盛装した高尾を乗せ、東海道を練り下ったという。
高尾は姫路に着くと、千姫御殿に住まい「西の方さま」と呼ばれるようになった。
この年の10月に、政岑は幕府から、
「行跡よろしからざるにより、隠居謹慎を申しつける」と申し渡された。
姫路城

こんな話が伝わります。
幕府では、高尾身請けのことを聞き、老中松平乗邑が榊原家の家老を呼び出して、詰責したところ、家老は、
「事情があるのでございます。お知りのとおり、主人・政岑は小身の家の生まれでございますが、その頃の
乳母の娘が高尾なのでございます。あわれと思いましたので、身請けしたので決して好色がましいことは
ございません」
と弁解したという。
これで一応通ったのだから、のんびりとした世の中であった。


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秀吉が築いた大坂城は、上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた
堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで防御が手薄であった。
真田幸村はこの弱点を補うため、構造は東西180メートルほどの半円形の曲輪を構築し、
出口は後方と両脇に位置。三方に堀、塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。
これが真田丸と呼ばれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
お江(45) 『大坂落城、豊臣家滅亡へ』
お江(45)『大坂落城、豊臣家滅亡へ』
1614年、徳川家の挑発が始まります。
秀頼は秀吉のために、慶長大地震で崩壊した京都方広寺の大仏殿を再興します。その記念に重さ
6.4トンもある大鐘に銘文を入れ、3000人余りの僧侶を招いて大仏開眼供養を行なう準備をした。
これに徳川は横槍を入れます。
鐘銘の「君臣豊楽」、「国家安康」を槍玉にあげた。
「君臣豊楽」は君も臣も物が豊かで幸せを楽しむことであり、「国家安康」は国家が無事で異変のない
ことを意味する。
しかし、徳川方は「豊臣を楽しませる」とこじつけ、「国家安康」は家康の2字を引き裂いて、家康を呪う
ものと言いがかりをつけた。
方向寺の鐘
今でも京都の街に時を告げています。

これは家康に従う外交僧の崇伝が考えだしています。
家康は大仏開眼供養を中止させ、大坂方に鐘銘の弁明を求めた。あたふたする淀殿とその側近に、
家康は老獪な策を弄して、ついに戦いを仕掛けます。
大坂方はかつての秀吉の恩を持ち出して、大名に豊臣家に与するよう求めたが、馳せ参じる大名は
皆無であった。
仕方なく資金に物を言わせて、大量の浪人を雇い入れた。
真田幸村、後藤基次、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全澄など、関ヶ原の戦いで敗者となった武将、
仕官した家との折り合いが悪く浪人となった者などが参集した。
まさに家康が強引に仕掛けた戦いに、仕方なく豊臣家が応じて始まった戦いが、大坂の陣と呼ばれ
ます。
冬と夏の2度の戦いでした。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上空から見ると鷺に見えるから
すみません!出題の仕方が悪かったですね。
別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来は、以下のような説が挙げられています。
・姫路城が「鷺山」に置かれているところから
・白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
・ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
・黒い壁から「烏城」とも呼ばれる岡山城との対比から
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
1614年、徳川家の挑発が始まります。
秀頼は秀吉のために、慶長大地震で崩壊した京都方広寺の大仏殿を再興します。その記念に重さ
6.4トンもある大鐘に銘文を入れ、3000人余りの僧侶を招いて大仏開眼供養を行なう準備をした。
これに徳川は横槍を入れます。
鐘銘の「君臣豊楽」、「国家安康」を槍玉にあげた。
「君臣豊楽」は君も臣も物が豊かで幸せを楽しむことであり、「国家安康」は国家が無事で異変のない
ことを意味する。
しかし、徳川方は「豊臣を楽しませる」とこじつけ、「国家安康」は家康の2字を引き裂いて、家康を呪う
ものと言いがかりをつけた。
方向寺の鐘
今でも京都の街に時を告げています。


これは家康に従う外交僧の崇伝が考えだしています。
家康は大仏開眼供養を中止させ、大坂方に鐘銘の弁明を求めた。あたふたする淀殿とその側近に、
家康は老獪な策を弄して、ついに戦いを仕掛けます。
大坂方はかつての秀吉の恩を持ち出して、大名に豊臣家に与するよう求めたが、馳せ参じる大名は
皆無であった。
仕方なく資金に物を言わせて、大量の浪人を雇い入れた。
真田幸村、後藤基次、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全澄など、関ヶ原の戦いで敗者となった武将、
仕官した家との折り合いが悪く浪人となった者などが参集した。
まさに家康が強引に仕掛けた戦いに、仕方なく豊臣家が応じて始まった戦いが、大坂の陣と呼ばれ
ます。
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昨日の正解: 上空から見ると鷺に見えるから
すみません!出題の仕方が悪かったですね。
別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来は、以下のような説が挙げられています。
・姫路城が「鷺山」に置かれているところから
・白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
・ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
・黒い壁から「烏城」とも呼ばれる岡山城との対比から
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
姫路城 その8 「千姫、姫路城に」
姫路城 その8 「千姫、姫路城に」
本多家当主・忠政は倅(せがれ)の嫁のために、新たに西の丸を建築して、豪奢な御殿を営んだ。
この御殿は、ふすまに金泥銀泥の上に武蔵野の風景を描いてあったので、武蔵野御殿と呼ばれた。
今日では西の丸の遺構と、千姫の化粧の間であったという化粧櫓が残っているだけです。
西の丸から望む天守
2009年の登城記は、「こちら」を参照ください。

天守から望む西の丸 化粧櫓

<画像はすべてクリックで拡大します>
こうしたことを聞いて、津和野藩主・坂崎直盛は発狂せんばかりに憤った。
「5万石の加増も、10万石の化粧料も、姫も、本来ならばおれがものになる筈だったのだ」
とばかりに、家来どもを集めて武装させる。
こうなっては、もう穏便には行かない。幕府では最後の手段に出る。
坂崎家の老臣坂崎勘兵衛を召して、
「出羽は乱心して、色々なことを口走っているそうじゃが、その方ども早くなんとかせんと、公儀でも
捨てておけんことになる。そうすれば、坂崎家は断絶じゃ。後のことはこちらで含んでおいてやる故、
しかるべき方法を講じて、家督をせがれに譲るようにせい」
と申し渡した。殺してしまえと、暗に示唆したのです。
勘兵衛は恐れいって帰邸し、同僚と相談して、坂崎直盛が乱酔して土蔵のなかで熟睡している時、
首をはめて殺し、その首を幕府に差し出した。
幕府では、
「おのれら、諌めて腹でも切らせることか、主の寝首を掻くということがあるものか。不忠むざん者ども」
と勘兵衛を捕らえ、有無を言わさず斬ってしまった。坂崎家はここに断絶した。
万事、筋書きどおり。といったところでしょうか。
化粧櫓内部 千姫と化粧櫓について
戦前の修理までは、化粧櫓には、その名の通り当時の化粧品の跡が残っていたそうです。

長局の廊下 侍女たちの部屋
千姫に仕えた侍女たちが居たところで、千姫は毎朝この廊下から男山を拝んでいたと伝えられています。

こうして、1618年7月1日に千姫は本多忠刻に嫁いだ。
結婚した若夫婦は、翌年姫路に行く。
この2人の間に生まれた娘・勝姫が外祖父・秀忠の養女となって、前の姫路城主で鳥取城主に転じた
池田光政に嫁いでいる。
忠刻は部屋住みのまま、30歳の若さで病死した。千姫が嫁して7年目であった。
後世、腎虚して命を縮めたと言われるが、これは下々の噂でしょう。
千姫は落飾して天樹院と号し、1626年12月に江戸城内竹橋御殿に入ったが、後に飯田町に天樹院
屋敷が建てられ、そこに移って北の丸様と呼ばれ長寿を保って、1666年2月6日に70歳で没しています。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 器量が悪い
坂崎直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、結局美男の本多忠刻と結婚することに
なったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
本多家当主・忠政は倅(せがれ)の嫁のために、新たに西の丸を建築して、豪奢な御殿を営んだ。
この御殿は、ふすまに金泥銀泥の上に武蔵野の風景を描いてあったので、武蔵野御殿と呼ばれた。
今日では西の丸の遺構と、千姫の化粧の間であったという化粧櫓が残っているだけです。
西の丸から望む天守
2009年の登城記は、「こちら」を参照ください。

天守から望む西の丸 化粧櫓


<画像はすべてクリックで拡大します>
こうしたことを聞いて、津和野藩主・坂崎直盛は発狂せんばかりに憤った。
「5万石の加増も、10万石の化粧料も、姫も、本来ならばおれがものになる筈だったのだ」
とばかりに、家来どもを集めて武装させる。
こうなっては、もう穏便には行かない。幕府では最後の手段に出る。
坂崎家の老臣坂崎勘兵衛を召して、
「出羽は乱心して、色々なことを口走っているそうじゃが、その方ども早くなんとかせんと、公儀でも
捨てておけんことになる。そうすれば、坂崎家は断絶じゃ。後のことはこちらで含んでおいてやる故、
しかるべき方法を講じて、家督をせがれに譲るようにせい」
と申し渡した。殺してしまえと、暗に示唆したのです。
勘兵衛は恐れいって帰邸し、同僚と相談して、坂崎直盛が乱酔して土蔵のなかで熟睡している時、
首をはめて殺し、その首を幕府に差し出した。
幕府では、
「おのれら、諌めて腹でも切らせることか、主の寝首を掻くということがあるものか。不忠むざん者ども」
と勘兵衛を捕らえ、有無を言わさず斬ってしまった。坂崎家はここに断絶した。
万事、筋書きどおり。といったところでしょうか。
化粧櫓内部 千姫と化粧櫓について
戦前の修理までは、化粧櫓には、その名の通り当時の化粧品の跡が残っていたそうです。


長局の廊下 侍女たちの部屋
千姫に仕えた侍女たちが居たところで、千姫は毎朝この廊下から男山を拝んでいたと伝えられています。


こうして、1618年7月1日に千姫は本多忠刻に嫁いだ。
結婚した若夫婦は、翌年姫路に行く。
この2人の間に生まれた娘・勝姫が外祖父・秀忠の養女となって、前の姫路城主で鳥取城主に転じた
池田光政に嫁いでいる。
忠刻は部屋住みのまま、30歳の若さで病死した。千姫が嫁して7年目であった。
後世、腎虚して命を縮めたと言われるが、これは下々の噂でしょう。
千姫は落飾して天樹院と号し、1626年12月に江戸城内竹橋御殿に入ったが、後に飯田町に天樹院
屋敷が建てられ、そこに移って北の丸様と呼ばれ長寿を保って、1666年2月6日に70歳で没しています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 器量が悪い
坂崎直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、結局美男の本多忠刻と結婚することに
なったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
姫路城 その7 「千姫、本多忠勝の孫・忠刻を見初める」
姫路城 その7 「千姫、本多忠勝の孫・忠刻を見初める」
千姫は伏見に4ヶ月留まり、7月末日に江戸に向うことになる。
数日の後、勢州桑名に着く。
桑名は当時、本多忠勝の子・忠政が領主であった。この忠政の妻・国姫は若くして織田信長の命で
自殺した家康の長男・岡崎信康の娘ですから、千姫とは従姉妹にあたります。
この時の国姫は38歳、その長子・忠刻は当時21歳で千姫より1歳年上であった。
忠刻は大坂の陣にも参陣し武功を上げ、祖父・忠勝の名を辱しめぬ青年で、風流闊達な当時有名な
美少年であったといいます。
千姫一行は連日の雨で3日間、桑名城に滞在しています。主従の間柄とはいえ、血の続いたなかで
すから国姫は忠刻を千姫に引き合わせたのは間違いないでしょう。
桑名城(安藤広重)

8月20日に千姫一行は江戸に着きます。母・お江に会ったのは12年ぶりであった。
千姫再婚の話が出たのは間もなくのことです。
恐らくは、津和野藩主・坂崎直盛から、
「しかじかの大納言家を適当と存じますがいかが」と申し出たのでしょう。
或いはまた、大坂城落城の際の家康の約束が本当なら、
「お約束により、拙者にたまわりたい」
と申し出たのかも知れない。
ところが、これに対して千姫は、
「再縁するなら、本多忠刻に」とはっきりと言った。
家康がこれを許さなかったのか、それとも坂崎から異議が出たためか。多分後者でしょうが、話は急
に運ばず、その年は暮れます。
翌年の4月半ばに、家康は駿府城で不帰の人となった。
家康が死んでしまえば、家康と坂崎との誓約は力ないものになる。もともと口約束だけのものであり、
書いたものが残っている訳ではない。
秀忠としては、
「おれは聞いておらんぞ」と突っぱねることができる。
また、秀忠にしてみれば、家の犠牲にして苦労をさせた姫の折角の希望を聞いてやりたい心がやま
やまである。忠刻ならば似合いの夫婦でもある。お江も秀忠を口説いたのでしょう。
縁談は急に進められて、その年の9月29日に婚約の上使として都築弥左衛門が桑名に派遣される。
腹を立てたのは、坂崎直盛です。強硬に幕府に抗議し、ついには、
「あくまで姫が入輿なさるならば、途中輿を奪い取り申すぞ」と言い出した。
坂崎家の老陣らは諌めたが、聞かない。
津和野城

「津和野3万石は、おれの槍先で稼ぎ出したものだ。潰そうと捨てようと、おれの勝手だ。姫のことは、
おれに任せる仰せ出された故、おれは散々苦労して、しかるべき縁辺を探し出したのに、それを踏み
つけて他家へ縁づかれては、おれは男が立たぬ。3万石が足の裏にへばりついて動きが取れぬと言
われるのは必定だ。男がどう立つものか。余計なことを申すな!」と言ったという。
いったい、坂崎成正という男は、がむしゃらな武士の多かったその時代でもがむしゃらで通った男だ。
要するに、頑固一徹、執拗至極、剛強一点ばりの男であった。
幕府も心がとがめるところがあるので、強圧策はとれず、色々と慰諭に務めたが、こんな男だ。
「いやでござる。拙者は武士の意気地をつらぬき申す」
と言い張って、頑として受け付けない。
あまりのことに、幕府はかまわず強行することを決め、その第一着として、本多家に5万石を加増して、
桑名から姫路に転封させた。
つまり、池田家を2つに分けて鳥取と岡山に移したのは、千姫を嫁入らせる固めであった。
本多家は姫路に移ると、千姫を迎える用意をした。いよいよ千姫が嫁して来れば、さらに10万石の化
粧料がつくというのだ。
*今日、姫路城の登城ブログを紹介する予定でしたが、明日に変更しました。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 奈阿姫
豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・奈阿姫が処刑される際に体を張った必死の助命嘆願
を行い、その結果、奈阿姫は助けられたとされる。
奈阿姫は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
千姫は伏見に4ヶ月留まり、7月末日に江戸に向うことになる。
数日の後、勢州桑名に着く。
桑名は当時、本多忠勝の子・忠政が領主であった。この忠政の妻・国姫は若くして織田信長の命で
自殺した家康の長男・岡崎信康の娘ですから、千姫とは従姉妹にあたります。
この時の国姫は38歳、その長子・忠刻は当時21歳で千姫より1歳年上であった。
忠刻は大坂の陣にも参陣し武功を上げ、祖父・忠勝の名を辱しめぬ青年で、風流闊達な当時有名な
美少年であったといいます。
千姫一行は連日の雨で3日間、桑名城に滞在しています。主従の間柄とはいえ、血の続いたなかで
すから国姫は忠刻を千姫に引き合わせたのは間違いないでしょう。
桑名城(安藤広重)

8月20日に千姫一行は江戸に着きます。母・お江に会ったのは12年ぶりであった。
千姫再婚の話が出たのは間もなくのことです。
恐らくは、津和野藩主・坂崎直盛から、
「しかじかの大納言家を適当と存じますがいかが」と申し出たのでしょう。
或いはまた、大坂城落城の際の家康の約束が本当なら、
「お約束により、拙者にたまわりたい」
と申し出たのかも知れない。
ところが、これに対して千姫は、
「再縁するなら、本多忠刻に」とはっきりと言った。
家康がこれを許さなかったのか、それとも坂崎から異議が出たためか。多分後者でしょうが、話は急
に運ばず、その年は暮れます。
翌年の4月半ばに、家康は駿府城で不帰の人となった。
家康が死んでしまえば、家康と坂崎との誓約は力ないものになる。もともと口約束だけのものであり、
書いたものが残っている訳ではない。
秀忠としては、
「おれは聞いておらんぞ」と突っぱねることができる。
また、秀忠にしてみれば、家の犠牲にして苦労をさせた姫の折角の希望を聞いてやりたい心がやま
やまである。忠刻ならば似合いの夫婦でもある。お江も秀忠を口説いたのでしょう。
縁談は急に進められて、その年の9月29日に婚約の上使として都築弥左衛門が桑名に派遣される。
腹を立てたのは、坂崎直盛です。強硬に幕府に抗議し、ついには、
「あくまで姫が入輿なさるならば、途中輿を奪い取り申すぞ」と言い出した。
坂崎家の老陣らは諌めたが、聞かない。
津和野城

「津和野3万石は、おれの槍先で稼ぎ出したものだ。潰そうと捨てようと、おれの勝手だ。姫のことは、
おれに任せる仰せ出された故、おれは散々苦労して、しかるべき縁辺を探し出したのに、それを踏み
つけて他家へ縁づかれては、おれは男が立たぬ。3万石が足の裏にへばりついて動きが取れぬと言
われるのは必定だ。男がどう立つものか。余計なことを申すな!」と言ったという。
いったい、坂崎成正という男は、がむしゃらな武士の多かったその時代でもがむしゃらで通った男だ。
要するに、頑固一徹、執拗至極、剛強一点ばりの男であった。
幕府も心がとがめるところがあるので、強圧策はとれず、色々と慰諭に務めたが、こんな男だ。
「いやでござる。拙者は武士の意気地をつらぬき申す」
と言い張って、頑として受け付けない。
あまりのことに、幕府はかまわず強行することを決め、その第一着として、本多家に5万石を加増して、
桑名から姫路に転封させた。
つまり、池田家を2つに分けて鳥取と岡山に移したのは、千姫を嫁入らせる固めであった。
本多家は姫路に移ると、千姫を迎える用意をした。いよいよ千姫が嫁して来れば、さらに10万石の化
粧料がつくというのだ。
*今日、姫路城の登城ブログを紹介する予定でしたが、明日に変更しました。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 奈阿姫
豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・奈阿姫が処刑される際に体を張った必死の助命嘆願
を行い、その結果、奈阿姫は助けられたとされる。
奈阿姫は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>