百名城99 「中城(なかぐすく)城」
先中城按司が中城湾に臨んで築いた堅城
『高石垣で築かれた一の郭、二の郭、三の郭が連なる』
中城城は、14世紀後半に先中城按司(さきなかぐすくあじ)によって築かれ、15世紀前半に護佐丸が
増築していますが、増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられてい
ます。
城は沖縄本島中部の中城村の石灰岩稜上に築かれており、北東から南西にかけて6つの郭が並んで
います。
西側の門が本来の正門と考えられており、石造りの門の上に木造の櫓が載っていたと推定される。
この門をくぐり、南の郭を経てアーチ門を抜けると高い石垣に囲まれた西の郭に出ます。
1853年5月に沖縄本島を訪れたペリー艦隊の島内探検隊は、築城技術を見てその美しさや堅固さを
絶賛したと伝わります。
1458年、勝連城主・阿麻和利(あまわり)の策略によって滅ぼされ、その後しばらくは城を尚氏が使用
したといわれています。
現在、城跡には建物はないものの石垣や石造拱門などが残り、平成12年に世界文化遺産に登録され
ています。
世界遺産の中城城
登城日:平成23年4月26日 百名城76城目の登城です。

三の郭北東城壁
新城(みーぐすく)とも呼ばれ、石積技術の最も進んだ積み方(アイカタ積み)によって積まれています。

中城城北東城壁
ヌノ積みの城壁です。

中城城二の郭

北の郭
護佐丸が井戸(ガー)を取り込み増築しています。
井戸は写真中央の木立の中にあります。

ニの郭から北の郭を望む
石垣技術は日本の物とは全くことなり、大陸の技術ですよね。

二の郭から中城湾を望む

一の郭北東城壁と一の郭と二の郭をつなぐ門
一の郭は城内で最も広い郭で、正殿(せいでん)や護佐丸が宴を催した観月台がありますが、現在発掘
調査が行なわれていました。

石垣が素晴らしく、兵庫の竹田城を彷彿させるものがあります。また、沖縄の百名城3城のなかで、感動を
一番受けた城でした。
百名城スタンプ


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 兵農分離
戦国時代の武将、兵士たちの多くは半農半士で、完全な武士と言うわけではなかった。
これまでの時代と戦国時代の常識を覆したのが織田信長の兵農分離政策の徹底化であり、
これが農業も戦もする中途半端な半農半士たちを戦専門の戦闘集団へと変えています。
≪本日の問題≫
『高石垣で築かれた一の郭、二の郭、三の郭が連なる』
中城城は、14世紀後半に先中城按司(さきなかぐすくあじ)によって築かれ、15世紀前半に護佐丸が
増築していますが、増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられてい
ます。
城は沖縄本島中部の中城村の石灰岩稜上に築かれており、北東から南西にかけて6つの郭が並んで
います。
西側の門が本来の正門と考えられており、石造りの門の上に木造の櫓が載っていたと推定される。
この門をくぐり、南の郭を経てアーチ門を抜けると高い石垣に囲まれた西の郭に出ます。
1853年5月に沖縄本島を訪れたペリー艦隊の島内探検隊は、築城技術を見てその美しさや堅固さを
絶賛したと伝わります。
1458年、勝連城主・阿麻和利(あまわり)の策略によって滅ぼされ、その後しばらくは城を尚氏が使用
したといわれています。
現在、城跡には建物はないものの石垣や石造拱門などが残り、平成12年に世界文化遺産に登録され
ています。
世界遺産の中城城
登城日:平成23年4月26日 百名城76城目の登城です。

三の郭北東城壁
新城(みーぐすく)とも呼ばれ、石積技術の最も進んだ積み方(アイカタ積み)によって積まれています。

中城城北東城壁
ヌノ積みの城壁です。

中城城二の郭

北の郭
護佐丸が井戸(ガー)を取り込み増築しています。
井戸は写真中央の木立の中にあります。

ニの郭から北の郭を望む
石垣技術は日本の物とは全くことなり、大陸の技術ですよね。

二の郭から中城湾を望む

一の郭北東城壁と一の郭と二の郭をつなぐ門
一の郭は城内で最も広い郭で、正殿(せいでん)や護佐丸が宴を催した観月台がありますが、現在発掘
調査が行なわれていました。

石垣が素晴らしく、兵庫の竹田城を彷彿させるものがあります。また、沖縄の百名城3城のなかで、感動を
一番受けた城でした。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 兵農分離
戦国時代の武将、兵士たちの多くは半農半士で、完全な武士と言うわけではなかった。
これまでの時代と戦国時代の常識を覆したのが織田信長の兵農分離政策の徹底化であり、
これが農業も戦もする中途半端な半農半士たちを戦専門の戦闘集団へと変えています。
≪本日の問題≫
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織田信長 その20「信長さんは、いい人だった!?」
織田信長 その20「信長さんは、いい人だった!?」
京都の大町人や、職人、医者、連歌師など、様々な人が東福寺に来て、祝辞を述べ、進物を捧げた。
信長はいちいち対面して機嫌よく挨拶をする。まるで気取りがないし、快活だし、人々は親しみを感じ、
帰る途々語りあった。
「噂で聞いたところでは、あの人は狂気じみた怖いお人ということであったが、お会いしてみれば案外
なこと、気さくな、優しい、慈悲深い人ではないか」
信長はこれまでの武将とまったく違った新しい型の武将です。彼はもったいぶるなどという古い権力
主義や七面倒な貴族趣味が全然ない。全てザックバラン、直線的なのです。
民衆の本能は案外に鋭敏なものです。古い権威主義、貴族主義の抑圧に苦しみながらも、それが既
に時代遅れになっていることを無意識に察知していたのです。
東福寺三門(国宝)

信長を見て、新時代の到来を感じ得て、何か晴れやかな、しかも親しさを感じたのではないでしょうか。
当時の高名な連歌師がお目見えに参上して、礼物として扇子2本を献じると、信長は大いに喜び、
“日本(2本)手にいる今日のよろこび”
と詠んだといいます。
しかし、信長の軍紀は厳正であったといいます。
下人のひとりが市中の商人から品物を強奪したと聞くと、
「不都合な下郎め!」
と、祝儀に参入する京中の人々に見えるように、東福寺の庭前の大木に縛りつけたといいます。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 一銭斬り
一文銭を盗むどころか、落ちている一文銭をネコババしただけで死刑にするなどの所謂
「一銭斬り」の刑法を布告して習俗を改め、悪事を密告する者に褒美を与えるなどして
治安維持に努めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
京都の大町人や、職人、医者、連歌師など、様々な人が東福寺に来て、祝辞を述べ、進物を捧げた。
信長はいちいち対面して機嫌よく挨拶をする。まるで気取りがないし、快活だし、人々は親しみを感じ、
帰る途々語りあった。
「噂で聞いたところでは、あの人は狂気じみた怖いお人ということであったが、お会いしてみれば案外
なこと、気さくな、優しい、慈悲深い人ではないか」
信長はこれまでの武将とまったく違った新しい型の武将です。彼はもったいぶるなどという古い権力
主義や七面倒な貴族趣味が全然ない。全てザックバラン、直線的なのです。
民衆の本能は案外に鋭敏なものです。古い権威主義、貴族主義の抑圧に苦しみながらも、それが既
に時代遅れになっていることを無意識に察知していたのです。
東福寺三門(国宝)

信長を見て、新時代の到来を感じ得て、何か晴れやかな、しかも親しさを感じたのではないでしょうか。
当時の高名な連歌師がお目見えに参上して、礼物として扇子2本を献じると、信長は大いに喜び、
“日本(2本)手にいる今日のよろこび”
と詠んだといいます。
しかし、信長の軍紀は厳正であったといいます。
下人のひとりが市中の商人から品物を強奪したと聞くと、
「不都合な下郎め!」
と、祝儀に参入する京中の人々に見えるように、東福寺の庭前の大木に縛りつけたといいます。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 一銭斬り
一文銭を盗むどころか、落ちている一文銭をネコババしただけで死刑にするなどの所謂
「一銭斬り」の刑法を布告して習俗を改め、悪事を密告する者に褒美を与えるなどして
治安維持に努めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
織田信長 その19 「六角氏を踏み潰す」
織田信長 その19「六角氏を踏み潰す」
信長はあくまで行動派です。
義昭が美濃に着いてから1週間目の8月5日には岐阜で勢揃いをし、7日には旗本250騎を率いて近江
佐和山に行っている。
佐和山城は浅井家の出城です。信長はここで妹婿・浅井長政と初対面し、早速京都上りのことを相談し、
長政は助力を快諾する。
観音寺城がある繖山

信長はここから自分の使者と足利義昭の使者を観音寺城の六角承禎に遣わして、
「しかじかの次第にて、新公方が都に還られる。お味方あるよう。さすれば御分国の安堵はもちろんの
こと、長く天下の所司代を仰せつけられるであろう」
と説かせたが、承禎は三好・松永の党に味方して、富田の義栄将軍に心を寄せている。
はかばかしい返事をしない。信長は3度めで使いを遣わし、7日間待ったが同じであった。
「さらば、踏み潰して通るまでのこと」
と岐阜に帰り、自領内はもちろんのこと、同盟諸国や近隣の諸国まで、
「新公方、御敵退治、天下討平のため上洛遊ばさる。忠義を存ずる者は一人も残らず馳せ参じてお供
あるべし」
とふれまわした。
観音寺本丸の石垣

信長ひとりの思い立ちでなく、「新公方上洛」という名分があるのだ。信長の領分以外からも馳せ集ま
る者が多かった。同盟者である家康は、その頃、領内に一向一揆があって手を離せないので、
一族の松平信一に兵を授けて参加させた。
出発は9月7日、総勢5万はあったろうと推定される。六角氏の諸城をひともみに押し潰して、6日目に
は岐阜から京都まで一敵もいなくなった。
岐阜に待っている義昭を迎えて、ともに京都に入ったのが9月28日、本陣を東福寺においた。
首里城(百名城100番)<世界遺産>

沖縄の百名城3城を落としましたので、78/100城になりました。
沖縄3城は、別途、個別に記事にしたいと思います。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 延暦寺
1571年9月、朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めます。信長は何度か退避・中立勧告を
出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにしています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
信長はあくまで行動派です。
義昭が美濃に着いてから1週間目の8月5日には岐阜で勢揃いをし、7日には旗本250騎を率いて近江
佐和山に行っている。
佐和山城は浅井家の出城です。信長はここで妹婿・浅井長政と初対面し、早速京都上りのことを相談し、
長政は助力を快諾する。
観音寺城がある繖山

信長はここから自分の使者と足利義昭の使者を観音寺城の六角承禎に遣わして、
「しかじかの次第にて、新公方が都に還られる。お味方あるよう。さすれば御分国の安堵はもちろんの
こと、長く天下の所司代を仰せつけられるであろう」
と説かせたが、承禎は三好・松永の党に味方して、富田の義栄将軍に心を寄せている。
はかばかしい返事をしない。信長は3度めで使いを遣わし、7日間待ったが同じであった。
「さらば、踏み潰して通るまでのこと」
と岐阜に帰り、自領内はもちろんのこと、同盟諸国や近隣の諸国まで、
「新公方、御敵退治、天下討平のため上洛遊ばさる。忠義を存ずる者は一人も残らず馳せ参じてお供
あるべし」
とふれまわした。
観音寺本丸の石垣

信長ひとりの思い立ちでなく、「新公方上洛」という名分があるのだ。信長の領分以外からも馳せ集ま
る者が多かった。同盟者である家康は、その頃、領内に一向一揆があって手を離せないので、
一族の松平信一に兵を授けて参加させた。
出発は9月7日、総勢5万はあったろうと推定される。六角氏の諸城をひともみに押し潰して、6日目に
は岐阜から京都まで一敵もいなくなった。
岐阜に待っている義昭を迎えて、ともに京都に入ったのが9月28日、本陣を東福寺においた。
首里城(百名城100番)<世界遺産>

沖縄の百名城3城を落としましたので、78/100城になりました。
沖縄3城は、別途、個別に記事にしたいと思います。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 延暦寺
1571年9月、朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻めます。信長は何度か退避・中立勧告を
出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにしています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
織田信長 その18 「足利義昭、美濃に入国」
織田信長 その18「足利義昭、美濃に入国」
信長は行動派中の行動派です。即座に浅井家に頼んで、越前へ迎えに行ってもらう。
人間はふだん大事にしないものでも、いざ人手に渡るとなると惜しくなる性質があります。
朝倉家では騒ぎあわてた。とくに渡る先が先祖以来怨恨のからんだ織田家です。
朝倉家の当主・義景は、
「今暫く待っていただければ、必ず御所望の通りにいたしましたものを、行く先もあろうに、織田家を
頼ってお出でになるとは、誠に残念でござる」
と、かき口説いた。
義昭はそれを言いくるめて、越前を出発する。
越前領内は朝倉の人数が供をして送り、近江路は浅井家が守護し、美濃に入ると信長自身が人数
を率いて出迎えた。
岐阜城(稲葉山城)

信長は義昭に渇してすぐ言った。
「かく当国に御動座を願った以上、われら誓って近々に京都に馳せ参じ、おん敵どもを征伐し、お家
再興の運びにいたします。当国におけるお住まいとして新しく御所を建てさし上げることは易きこと
ではござるが、長くお出でを願うつもりはござらねば、先ず先ず御辛抱ありたく」
これまで、どこでも聞いたことの無い小気味のよい言葉である。
義昭は感激した。
昨日は、今帰仁城(百名城98番)<世界遺産>を攻めてきました。

今日は沖縄最終日になりますので、首里城を攻めて帰ります。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 稲葉山城の戦い
信長は、1567年の稲葉山城の戦いで、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に
入れたています。
この時、信長は尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になり、井ノ口を岐阜と改称しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
信長は行動派中の行動派です。即座に浅井家に頼んで、越前へ迎えに行ってもらう。
人間はふだん大事にしないものでも、いざ人手に渡るとなると惜しくなる性質があります。
朝倉家では騒ぎあわてた。とくに渡る先が先祖以来怨恨のからんだ織田家です。
朝倉家の当主・義景は、
「今暫く待っていただければ、必ず御所望の通りにいたしましたものを、行く先もあろうに、織田家を
頼ってお出でになるとは、誠に残念でござる」
と、かき口説いた。
義昭はそれを言いくるめて、越前を出発する。
越前領内は朝倉の人数が供をして送り、近江路は浅井家が守護し、美濃に入ると信長自身が人数
を率いて出迎えた。
岐阜城(稲葉山城)

信長は義昭に渇してすぐ言った。
「かく当国に御動座を願った以上、われら誓って近々に京都に馳せ参じ、おん敵どもを征伐し、お家
再興の運びにいたします。当国におけるお住まいとして新しく御所を建てさし上げることは易きこと
ではござるが、長くお出でを願うつもりはござらねば、先ず先ず御辛抱ありたく」
これまで、どこでも聞いたことの無い小気味のよい言葉である。
義昭は感激した。
昨日は、今帰仁城(百名城98番)<世界遺産>を攻めてきました。

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昨日の正解: 稲葉山城の戦い
信長は、1567年の稲葉山城の戦いで、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に
入れたています。
この時、信長は尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になり、井ノ口を岐阜と改称しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
織田信長 その17 「足利義昭、信長を頼る」
織田信長 その17 「足利義昭、信長を頼る」
義秋は近江の六角氏に行き、また若狭の武田氏に行って逆賊を討って家の再興をしてくれるように
頼んだが、六角はかえって志を敵党に通じて義秋を討とうとし、武田氏は力弱くして相談に乗る
ことができない。
足利義昭(1537-1597年)

ついに越前の朝倉氏に身を寄せた。
朝倉氏は力は十分にあったので、義秋のために御殿をこしらえて置いたりするなど好遇はしたが、肝心
の逆賊討伐には丸で熱意がない。
「時期を待つことが肝心でござる」
というばかりで、早くも1年半の月日が流れた。この越前滞在中に、義秋は義昭と改名しています。
焦っている義昭に、この頃朝倉氏に仕えていた明智光秀が、桶狭間で今川義元を破り、美濃を略し日
の出の勢いにある信長の話をし、頼るべきであると語った。
彼は家臣の細川藤孝(のちの幽斎)を岐阜に遣わした。1568年6月のことであった。
信長は京都入りの準備の一環として浅井家と婚を結んで2ヵ月経つや経たずの頃であった。これで京都
入りの立派な旗印ができた訳です。
待っていましたと言いたいところであったが、
「仰せの趣き一々承知いたしました。必ず不日に取り掛かります。しかしながら、先ず当国にお出でいた
だきとうござる」
と頼もしく即答した。
昨日は、2城を攻略しました。
中城城(百名城99番)<世界遺産>

座喜味城<世界遺産>

今日は「今帰仁城(百名城98番)」を攻めてみたいと思います。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 姉川の戦い
信長は浅井氏を討つべく、近江・姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。
浅井軍の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦しつつも、織田・徳川
連合軍は勝利します。これを姉川の戦いとい います。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
義秋は近江の六角氏に行き、また若狭の武田氏に行って逆賊を討って家の再興をしてくれるように
頼んだが、六角はかえって志を敵党に通じて義秋を討とうとし、武田氏は力弱くして相談に乗る
ことができない。
足利義昭(1537-1597年)

ついに越前の朝倉氏に身を寄せた。
朝倉氏は力は十分にあったので、義秋のために御殿をこしらえて置いたりするなど好遇はしたが、肝心
の逆賊討伐には丸で熱意がない。
「時期を待つことが肝心でござる」
というばかりで、早くも1年半の月日が流れた。この越前滞在中に、義秋は義昭と改名しています。
焦っている義昭に、この頃朝倉氏に仕えていた明智光秀が、桶狭間で今川義元を破り、美濃を略し日
の出の勢いにある信長の話をし、頼るべきであると語った。
彼は家臣の細川藤孝(のちの幽斎)を岐阜に遣わした。1568年6月のことであった。
信長は京都入りの準備の一環として浅井家と婚を結んで2ヵ月経つや経たずの頃であった。これで京都
入りの立派な旗印ができた訳です。
待っていましたと言いたいところであったが、
「仰せの趣き一々承知いたしました。必ず不日に取り掛かります。しかしながら、先ず当国にお出でいた
だきとうござる」
と頼もしく即答した。
昨日は、2城を攻略しました。
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信長は浅井氏を討つべく、近江・姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。
浅井軍の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦しつつも、織田・徳川
連合軍は勝利します。これを姉川の戦いとい います。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
織田信長 その16 「下克上」
織田信長 その16「下克上」
応仁の乱以降、足利将軍は天下人たるの実を失って、せいぜい京都とその近郊くらいしか支配すること
が出来なくなっていて、この時までにすでに100年にもなっていた。
その間、将軍は7人でているが、血を血で洗う一族の争いが繰り返され、殺されたのが一人、京都から
駆落ちしたのが4人もいるという有様であった。
その上、乱世の常としての下克上の気風が盛んで、将軍の権勢は管領に奪われ、管領の権政は執事
に奪われ、執事はその家宰に奪われるという有様で、将軍にはもう実際には何の力もなかった。
しかし、世間の人々には、まだ尊敬されていた。
この乱世を統一して秩序を回復するには、将軍を中心とした政府を再建するのが最もよいと考えられて
いたからです。
また、同じ年に上杉謙信が上京した時にも、時の将軍・義輝に拝謁しているのは、2人にこの気持ちが
あったからのことでしょう。
松永久秀(1510?-1577年)

この義輝は信長に会って4年後に、官僚である阿波の細川家の家来三好家の家宰・松永久秀らに攻め
殺されてしまった。つまり、陪々臣に殺されたのです。
殺された義輝には2人の弟がいた。共に仏門に入っていた。弟は松永に捕らえられて殺され、兄も捕らえ
られたが、計を持って逃れ、家の再興を志して還俗して義秋(のちに義昭)と名のった。
昨日は時間がなくて、城攻めはできませんでした。
「ひめゆりの塔」

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 一成が家康の味方をした
佐治一成は家康に渡船を提供した佐屋の渡一件により秀吉の怒りを買い、小牧・長久手後
の論功行賞において一成は大野を追放されたと考えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
応仁の乱以降、足利将軍は天下人たるの実を失って、せいぜい京都とその近郊くらいしか支配すること
が出来なくなっていて、この時までにすでに100年にもなっていた。
その間、将軍は7人でているが、血を血で洗う一族の争いが繰り返され、殺されたのが一人、京都から
駆落ちしたのが4人もいるという有様であった。
その上、乱世の常としての下克上の気風が盛んで、将軍の権勢は管領に奪われ、管領の権政は執事
に奪われ、執事はその家宰に奪われるという有様で、将軍にはもう実際には何の力もなかった。
しかし、世間の人々には、まだ尊敬されていた。
この乱世を統一して秩序を回復するには、将軍を中心とした政府を再建するのが最もよいと考えられて
いたからです。
また、同じ年に上杉謙信が上京した時にも、時の将軍・義輝に拝謁しているのは、2人にこの気持ちが
あったからのことでしょう。
松永久秀(1510?-1577年)

この義輝は信長に会って4年後に、官僚である阿波の細川家の家来三好家の家宰・松永久秀らに攻め
殺されてしまった。つまり、陪々臣に殺されたのです。
殺された義輝には2人の弟がいた。共に仏門に入っていた。弟は松永に捕らえられて殺され、兄も捕らえ
られたが、計を持って逃れ、家の再興を志して還俗して義秋(のちに義昭)と名のった。
昨日は時間がなくて、城攻めはできませんでした。
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昨日の正解: 一成が家康の味方をした
佐治一成は家康に渡船を提供した佐屋の渡一件により秀吉の怒りを買い、小牧・長久手後
の論功行賞において一成は大野を追放されたと考えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
お江(49) 『淀殿・秀頼の最後』
お江(49)『淀殿・秀頼の最後』
千姫の淀殿・秀頼の助命嘆願が通るわけはなかった。
秀頼は敵に捕まることを恐れた。母・淀殿と潔く死ぬ時が来たと悟った。
「母上、お覚悟を」
秀頼は穏やかな表情を母に向けた。
淀殿は、じっとわが子の顔を見詰め、
「無念だが、いたし方あるまい。共に三途の川を渡り、太閤殿下のもとに参ろうぞ」
淀殿は秀頼が死を恐れていないのに驚いた。何と純粋な息子なのだろうと、わが子を見直す。
淀殿はとことん生きたいと思っていた。家康にひざまずき土下座してでも生きたい、死ぬのが怖いと
おびえ続けていた。
だが、秀頼の落ち着いた所作に、淀殿は心が静まり、誇りを取り戻しつつあった。徳川に屈服すること
なく、今まで豊臣家を守り抜いてきた女の意地が淀殿によみがえる。
「皆の者ども、よくぞここまで着いて来てくれた。われらはここに潔く果てて、豊臣の名を末代までも
残そうではござらぬか」
淀殿(1569-1615年)

淀殿の言葉を受けて、秀頼は、
「われらが自害の後は、死体を深く隠すべし」と下知した。
豊臣秀頼(1593-1615年)

淀殿は床に端座すると、数珠を手に念仏を唱える。侍女たちも涙声でこれにあわせた。
秀頼が母の動作のひとつひとつを見忘れまいとするかのように、じっと見詰める。
淀殿は懐剣を懐から取り出す。
速水甲斐守が彼女の後ろにまわり、刀を抜いた。
淀殿は「お先に参る」というと、両手で柄をつかんで胸に刃先を向けると、ぐいと手前に引き寄せた。
続いて、秀頼が自害する。
淀殿、秀頼自害の地

ここまで付き添ってきた、大野治長・治徳親子、真田幸村の子・大助ら30人余りが自刃して主君母子
に殉じ、糒蔵(ほしいぐら)に火が放たれた。
糒蔵は激しく燃えたため、淀殿47歳、秀頼23歳の遺骸は識別できなかった。ここに豊臣家にこだわり、
天下にこだわった淀殿の夢は大坂の露と消えたのだった。
今日から、3泊4日の予定で沖縄の城攻めに行ってきます。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 下位の者が上位の者を打倒すること
下克上 (げこくじょう)とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に
打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をいいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
千姫の淀殿・秀頼の助命嘆願が通るわけはなかった。
秀頼は敵に捕まることを恐れた。母・淀殿と潔く死ぬ時が来たと悟った。
「母上、お覚悟を」
秀頼は穏やかな表情を母に向けた。
淀殿は、じっとわが子の顔を見詰め、
「無念だが、いたし方あるまい。共に三途の川を渡り、太閤殿下のもとに参ろうぞ」
淀殿は秀頼が死を恐れていないのに驚いた。何と純粋な息子なのだろうと、わが子を見直す。
淀殿はとことん生きたいと思っていた。家康にひざまずき土下座してでも生きたい、死ぬのが怖いと
おびえ続けていた。
だが、秀頼の落ち着いた所作に、淀殿は心が静まり、誇りを取り戻しつつあった。徳川に屈服すること
なく、今まで豊臣家を守り抜いてきた女の意地が淀殿によみがえる。
「皆の者ども、よくぞここまで着いて来てくれた。われらはここに潔く果てて、豊臣の名を末代までも
残そうではござらぬか」
淀殿(1569-1615年)

淀殿の言葉を受けて、秀頼は、
「われらが自害の後は、死体を深く隠すべし」と下知した。
豊臣秀頼(1593-1615年)

淀殿は床に端座すると、数珠を手に念仏を唱える。侍女たちも涙声でこれにあわせた。
秀頼が母の動作のひとつひとつを見忘れまいとするかのように、じっと見詰める。
淀殿は懐剣を懐から取り出す。
速水甲斐守が彼女の後ろにまわり、刀を抜いた。
淀殿は「お先に参る」というと、両手で柄をつかんで胸に刃先を向けると、ぐいと手前に引き寄せた。
続いて、秀頼が自害する。
淀殿、秀頼自害の地

ここまで付き添ってきた、大野治長・治徳親子、真田幸村の子・大助ら30人余りが自刃して主君母子
に殉じ、糒蔵(ほしいぐら)に火が放たれた。
糒蔵は激しく燃えたため、淀殿47歳、秀頼23歳の遺骸は識別できなかった。ここに豊臣家にこだわり、
天下にこだわった淀殿の夢は大坂の露と消えたのだった。
今日から、3泊4日の予定で沖縄の城攻めに行ってきます。

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昨日の正解: 下位の者が上位の者を打倒すること
下克上 (げこくじょう)とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に
打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をいいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>