宿命の両雄・謙信と信玄 その1 「両雄のプロフィール」
宿命の両雄・謙信と信玄 その1 「両雄のプロフィール」
戦国時代といわれる16世紀半ばは、全国各地に群雄が割拠し、血なまぐさい戦闘を繰り広げでいた。
なかでも1561年に信濃の国・川中島で行われた合戦は、壮絶を極めた。両軍合わせて3万数千の兵が
戦い、6千人が討死したという。
歴史の大きな流れから見れば、それは単なる地方豪族の勢力争いに過ぎません。
にもかかわらず、これほどまでに後世に広く語り継がれてきたのはなぜだろう。
先ずは、両雄の風貌について探ってみたいと思います。
信玄の肖像画には、でっぷり太った赤ら顔、というような感じのものと、何か痩せて不健康な感じのもの
と両方ありますが、両方とも本当だったのかも知れません。
信玄は、結核で死んだという説も有力ですから・・・。
武田信玄(1521-1573年)

他方、謙信は脳溢血で死んだといわれていますので、おそらく高血圧だったのでしょうか。
信玄は肺病で死ぬくらいですから、低血圧。体質的にも正反対だったのではないでしょうか。
性質は、信玄は策謀的で、物欲旺盛で、女色・男色ともに好きだったといいます。
彼には男女とりまぜ10人位の子供がいますが、みな母親が違います。
男色に関しては、後に高坂弾正となる春日源五郎を寵愛し、その春日にあてたラブレターも残っています。
この手紙は、信玄が他の少年に心を移したのを源五郎が嫉妬して立腹したので、それに対する弁解の
手紙だったようです。
女色の方で特に目立つのは、自分の妹・禰々の婿である諏訪頼重を攻め殺し、頼重の娘を寵愛していま
す。その間に生まれたのが、勝頼です。
勝頼の生母・諏訪御前は禰々が生んだのではなく、頼重の妾腹か、先妻の腹でしょうから血は繋がって
いないのですが、それでも義理の伯父・姪の間柄です。
上杉謙信(1530-1578年)

他方の謙信は、物質的欲望は誠に淡白です。
彼は戦争好きでしたが、その戦争は領土欲のためではなく、乱れ切った世に秩序を回復させたいという
正義の念によるものでした。
常陸の佐竹義昭が、彼のもとに使者を遣わして関東出兵を頼んできたとき、彼は、
「総体、自分には理のないエコヒイキによって戦はしません。誰であっても、正しい道理のある側に合力
することを信条としています」
と返事を出しています。
彼はいつもこの信念に基づいて戦ったのです。
女色で言うと、謙信は女を知らないで終わったのではないかとも言われます。
女が好きでなかったのは確かなようです。男色はあったのかも知れませんが、確かなものは見当たりま
せん。こんな具合にセックスの面においては、ごく淡白な人であったようです。
酒は好んで随分飲みましたが、鳥肉も好きではなく、律僧のようにきびしい日常であったようです。
こんなにまで、いろいろな点で対照的な2人が時代を同じくし、しかも隣り合わせていて、雌雄を競った
というのはロマンを感じます。
役者が2人揃ったので面白いのであって、どちらか一人であっては面白くありません。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 野戦の達人
小牧・長久手の戦いで、家康は中央の覇者である羽柴秀吉の三河先遣隊2万に圧勝
したことにより、野戦の達人と評価され恐れられるようになっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
戦国時代といわれる16世紀半ばは、全国各地に群雄が割拠し、血なまぐさい戦闘を繰り広げでいた。
なかでも1561年に信濃の国・川中島で行われた合戦は、壮絶を極めた。両軍合わせて3万数千の兵が
戦い、6千人が討死したという。
歴史の大きな流れから見れば、それは単なる地方豪族の勢力争いに過ぎません。
にもかかわらず、これほどまでに後世に広く語り継がれてきたのはなぜだろう。
先ずは、両雄の風貌について探ってみたいと思います。
信玄の肖像画には、でっぷり太った赤ら顔、というような感じのものと、何か痩せて不健康な感じのもの
と両方ありますが、両方とも本当だったのかも知れません。
信玄は、結核で死んだという説も有力ですから・・・。
武田信玄(1521-1573年)


他方、謙信は脳溢血で死んだといわれていますので、おそらく高血圧だったのでしょうか。
信玄は肺病で死ぬくらいですから、低血圧。体質的にも正反対だったのではないでしょうか。
性質は、信玄は策謀的で、物欲旺盛で、女色・男色ともに好きだったといいます。
彼には男女とりまぜ10人位の子供がいますが、みな母親が違います。
男色に関しては、後に高坂弾正となる春日源五郎を寵愛し、その春日にあてたラブレターも残っています。
この手紙は、信玄が他の少年に心を移したのを源五郎が嫉妬して立腹したので、それに対する弁解の
手紙だったようです。
女色の方で特に目立つのは、自分の妹・禰々の婿である諏訪頼重を攻め殺し、頼重の娘を寵愛していま
す。その間に生まれたのが、勝頼です。
勝頼の生母・諏訪御前は禰々が生んだのではなく、頼重の妾腹か、先妻の腹でしょうから血は繋がって
いないのですが、それでも義理の伯父・姪の間柄です。
上杉謙信(1530-1578年)

他方の謙信は、物質的欲望は誠に淡白です。
彼は戦争好きでしたが、その戦争は領土欲のためではなく、乱れ切った世に秩序を回復させたいという
正義の念によるものでした。
常陸の佐竹義昭が、彼のもとに使者を遣わして関東出兵を頼んできたとき、彼は、
「総体、自分には理のないエコヒイキによって戦はしません。誰であっても、正しい道理のある側に合力
することを信条としています」
と返事を出しています。
彼はいつもこの信念に基づいて戦ったのです。
女色で言うと、謙信は女を知らないで終わったのではないかとも言われます。
女が好きでなかったのは確かなようです。男色はあったのかも知れませんが、確かなものは見当たりま
せん。こんな具合にセックスの面においては、ごく淡白な人であったようです。
酒は好んで随分飲みましたが、鳥肉も好きではなく、律僧のようにきびしい日常であったようです。
こんなにまで、いろいろな点で対照的な2人が時代を同じくし、しかも隣り合わせていて、雌雄を競った
というのはロマンを感じます。
役者が2人揃ったので面白いのであって、どちらか一人であっては面白くありません。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 野戦の達人
小牧・長久手の戦いで、家康は中央の覇者である羽柴秀吉の三河先遣隊2万に圧勝
したことにより、野戦の達人と評価され恐れられるようになっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
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孫子の兵法 『5つの基本問題と7つの基本条件』 (始計編)
孫子の兵法 『5つの基本問題と7つの基本条件』 (始計編)
孫子の昔から、数限りない戦争が戦われています。
孫子は冒頭でまず、戦争の重大性を指摘し、それを認識したうえで戦争の法則性を研究せよと指摘して
います。
これが「孫子」13編を貫く根本の思想となっています。
では、どういう問題に細心な検討を加えるのか。「孫子」は次のとおり語っています。
『5つの基本問題』
まず、5つの基本問題をもって戦力を検討し、ついで、7つの基本条件をあてはめ彼我の優劣を判断する。
5つの基本問題とは、「道」「天」「地」「将」「法」にほかならない。
「道」とは、国民と主君を一心同体にさせるものである。これがあれば、国民はいかなる危険も恐れず、
君主と生死をともにする。
「天」とは、昼夜、晴雨、寒暑、季節などの時間的条件を示しています。
「地」とは、工程の間隔、地勢の険阻、地域の広さ、地形の有利不利などの地理的条件を指しています。
「将」とは、知謀、信義、仁慈、勇気、威厳など将師の器量にかかわる問題です。
「法」とは、軍の編成、職責分担、軍需物質の管理など、軍制に関する問題です。
この5つの基本原則は、将師たるもの誰でも一応は心得ている。しかし、理解している者だけが勝利を
収めるのです。中途半端な理解では勝利はおぼつかない。
「道」とは大義名分の意です。大義名分のない軍事行動は「無名の師」として退けられてきたのです。
なぜ、大義名分が必要なのか、言うまでもなく、それがなければ将兵を奮起させることができず、挙国
一致の体制がとれないからです。
日本の指導者は「孫子の兵法」を読んでいないのでは?
「天」とは“天の時”、「地」とは“地の利”のことでしょう。
また、「将」とは将師たる者の資格条件を示し、孫子のあげる5条件は、将師だけでなく広く組織の
リーダーの条件と読んでも面白いのでしょう。
最後に「法」とは軍政、軍律の意です。これがないと兵士の一人ひとりがいかに強くても、軍としての
まとまりを欠き、単なる“烏合の衆”と化してしまいます。
小牧・長久手の戦いで大義名分を失った「岡崎城の家康」

織田信雄と羽柴秀吉の関係は険悪化し、徳川家康が信夫を支援する形で1584年に始まった「小牧・
長久手の戦い」は、信雄・家康側の戦況有利に移行していましたが、秀吉は信雄に講和を申し入れ、
信雄はこれを受諾し信雄が戦線を離脱したため、戦争の大義名分を失ってしまった家康陣営は11月
21日に兵を引きあげています。
『7つの基本条件』
さらに、次の7つの基本条件に照らし合わせて、彼らの優劣を比較検討し、戦争の見通しをつける。
1.君主は、どちらが立派な政治を行なっているか。
2.将師は、どちらが有能であるか。
3.天の時と地の利は、どちらが有利であるか。
4.法令は、どちらが徹底しているか。
5.軍隊は、どちらが精強であるか。
6.兵卒は、どちらが訓練されているか。
7.賞罰は、どちらが公正に行なわれているか。
たんに自国の戦力に検討を加えただけでは十分でなく、己を知ると同時に敵を知らなければならない。
(謀攻編)というのが、孫子の基本認識です。
ここで、7つの項目について比較検討していますが、注目しなければならないのは、その検討対象が軍事
力でなく、広く政治の面まで及んでいることです。
つまり、「政治のよしあしが戦争の勝敗を決定する重要な要素である」と認めていたのです。
考え方としては、現代の総力戦思想に近い。孫武は単なる戦争のプロではなく、すぐれた政治指導者でも
あった。
そしてそのことが、今なお「孫子13編」が説得力を失わない理由の1つになっているのでしょう。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 織田信雄
お江は秀吉の意向により、尾張知多郡大野領主で信長の次男・信雄の家臣・佐治一成
のもとへ嫁いでいます。
佐治氏は、一成の父信方が信長の妹(お犬の方)を室とした織田一族で、秀吉は清洲
会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたといわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:孫子の兵法(守屋洋薯)>
孫子の昔から、数限りない戦争が戦われています。
孫子は冒頭でまず、戦争の重大性を指摘し、それを認識したうえで戦争の法則性を研究せよと指摘して
います。
これが「孫子」13編を貫く根本の思想となっています。
では、どういう問題に細心な検討を加えるのか。「孫子」は次のとおり語っています。
『5つの基本問題』
まず、5つの基本問題をもって戦力を検討し、ついで、7つの基本条件をあてはめ彼我の優劣を判断する。
5つの基本問題とは、「道」「天」「地」「将」「法」にほかならない。
「道」とは、国民と主君を一心同体にさせるものである。これがあれば、国民はいかなる危険も恐れず、
君主と生死をともにする。
「天」とは、昼夜、晴雨、寒暑、季節などの時間的条件を示しています。
「地」とは、工程の間隔、地勢の険阻、地域の広さ、地形の有利不利などの地理的条件を指しています。
「将」とは、知謀、信義、仁慈、勇気、威厳など将師の器量にかかわる問題です。
「法」とは、軍の編成、職責分担、軍需物質の管理など、軍制に関する問題です。
この5つの基本原則は、将師たるもの誰でも一応は心得ている。しかし、理解している者だけが勝利を
収めるのです。中途半端な理解では勝利はおぼつかない。
「道」とは大義名分の意です。大義名分のない軍事行動は「無名の師」として退けられてきたのです。
なぜ、大義名分が必要なのか、言うまでもなく、それがなければ将兵を奮起させることができず、挙国
一致の体制がとれないからです。
日本の指導者は「孫子の兵法」を読んでいないのでは?
「天」とは“天の時”、「地」とは“地の利”のことでしょう。
また、「将」とは将師たる者の資格条件を示し、孫子のあげる5条件は、将師だけでなく広く組織の
リーダーの条件と読んでも面白いのでしょう。
最後に「法」とは軍政、軍律の意です。これがないと兵士の一人ひとりがいかに強くても、軍としての
まとまりを欠き、単なる“烏合の衆”と化してしまいます。
小牧・長久手の戦いで大義名分を失った「岡崎城の家康」

織田信雄と羽柴秀吉の関係は険悪化し、徳川家康が信夫を支援する形で1584年に始まった「小牧・
長久手の戦い」は、信雄・家康側の戦況有利に移行していましたが、秀吉は信雄に講和を申し入れ、
信雄はこれを受諾し信雄が戦線を離脱したため、戦争の大義名分を失ってしまった家康陣営は11月
21日に兵を引きあげています。
『7つの基本条件』
さらに、次の7つの基本条件に照らし合わせて、彼らの優劣を比較検討し、戦争の見通しをつける。
1.君主は、どちらが立派な政治を行なっているか。
2.将師は、どちらが有能であるか。
3.天の時と地の利は、どちらが有利であるか。
4.法令は、どちらが徹底しているか。
5.軍隊は、どちらが精強であるか。
6.兵卒は、どちらが訓練されているか。
7.賞罰は、どちらが公正に行なわれているか。
たんに自国の戦力に検討を加えただけでは十分でなく、己を知ると同時に敵を知らなければならない。
(謀攻編)というのが、孫子の基本認識です。
ここで、7つの項目について比較検討していますが、注目しなければならないのは、その検討対象が軍事
力でなく、広く政治の面まで及んでいることです。
つまり、「政治のよしあしが戦争の勝敗を決定する重要な要素である」と認めていたのです。
考え方としては、現代の総力戦思想に近い。孫武は単なる戦争のプロではなく、すぐれた政治指導者でも
あった。
そしてそのことが、今なお「孫子13編」が説得力を失わない理由の1つになっているのでしょう。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 織田信雄
お江は秀吉の意向により、尾張知多郡大野領主で信長の次男・信雄の家臣・佐治一成
のもとへ嫁いでいます。
佐治氏は、一成の父信方が信長の妹(お犬の方)を室とした織田一族で、秀吉は清洲
会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたといわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:孫子の兵法(守屋洋薯)>
お江(54) 『夫・秀忠の隠し子騒動』
お江(54)『夫・秀忠の隠し子騒動』
秀忠は国松が兄の城に銃を向けたことでお江を一喝したが、普段はお江に頭があがらなかった。
でも、浮気はビクビクしながら頑張っています。
お江は非常に嫉妬深くなって、秀忠の乳母だった大婆局に仕えていたお志津との逢引に、お江は目を光
らせ、御台所の力を持って、その仲を裂こうとする事件が起きています。
お志津は1584年生まれ、父は北条氏直の近臣であったが、北条氏が滅亡して浪人となっていた。その
娘・お志津は江戸城に出仕し、大婆局の下女となっていたが、その美貌に秀忠はよろめいた。
たちまち、お志津は身ごもっています。
秀忠はお江が怖く、彼女を宿下がりさせ、堕胎させています。
江戸城桜田壕

秀忠は彼女が忘れられず、大婆局に頼んでもう一度、城に上がらせます。おそらく大婆局の部屋が密会
の場所になったのでしょう。
するとまたも彼女は妊娠し、また実家に戻されています。そして前同様に堕胎です。
これに憤慨したのは、お志津の弟と姉婿です。
2人は「天下の将軍様の御子を2度まで水として流してしまうこと、天罰の恐ろしきこと。御台様の怒りに
よって、一族残らず磔に架けられても致し方ない」と悲壮な決意で、子供を産まそうとお志津を隠すこと
にします。
秀忠と大婆局もお志津が気がかりで、2度の流産は如何なものかと思い、老中の土井利勝と相談した。
ここに武田信玄の娘で、八王子の金照庵にいた見性院に預かっても貰うことにした。見性院は夫の穴山
梅雪を亡くしてから仏門に入り、家康から庇護され600石の領地を貰っていた。
お志津は臨月を迎えて江戸に戻り、姉婿の借家で無事出産しています。
名は幸松と名づけられ、秀忠はその子を認知したという意味で、葵紋の入った小袖が渡されたという。
だが、お江の逆襲が怖く、その誕生は公表されなかったそうです。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 信忠
織田信忠は二条新御所に手回りのわずかな軍兵とともに篭城し善戦を見せますが、
明智軍が攻め寄せると、衆寡敵せずに自害しています。享年26歳
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
秀忠は国松が兄の城に銃を向けたことでお江を一喝したが、普段はお江に頭があがらなかった。
でも、浮気はビクビクしながら頑張っています。
お江は非常に嫉妬深くなって、秀忠の乳母だった大婆局に仕えていたお志津との逢引に、お江は目を光
らせ、御台所の力を持って、その仲を裂こうとする事件が起きています。
お志津は1584年生まれ、父は北条氏直の近臣であったが、北条氏が滅亡して浪人となっていた。その
娘・お志津は江戸城に出仕し、大婆局の下女となっていたが、その美貌に秀忠はよろめいた。
たちまち、お志津は身ごもっています。
秀忠はお江が怖く、彼女を宿下がりさせ、堕胎させています。
江戸城桜田壕

秀忠は彼女が忘れられず、大婆局に頼んでもう一度、城に上がらせます。おそらく大婆局の部屋が密会
の場所になったのでしょう。
するとまたも彼女は妊娠し、また実家に戻されています。そして前同様に堕胎です。
これに憤慨したのは、お志津の弟と姉婿です。
2人は「天下の将軍様の御子を2度まで水として流してしまうこと、天罰の恐ろしきこと。御台様の怒りに
よって、一族残らず磔に架けられても致し方ない」と悲壮な決意で、子供を産まそうとお志津を隠すこと
にします。
秀忠と大婆局もお志津が気がかりで、2度の流産は如何なものかと思い、老中の土井利勝と相談した。
ここに武田信玄の娘で、八王子の金照庵にいた見性院に預かっても貰うことにした。見性院は夫の穴山
梅雪を亡くしてから仏門に入り、家康から庇護され600石の領地を貰っていた。
お志津は臨月を迎えて江戸に戻り、姉婿の借家で無事出産しています。
名は幸松と名づけられ、秀忠はその子を認知したという意味で、葵紋の入った小袖が渡されたという。
だが、お江の逆襲が怖く、その誕生は公表されなかったそうです。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 信忠
織田信忠は二条新御所に手回りのわずかな軍兵とともに篭城し善戦を見せますが、
明智軍が攻め寄せると、衆寡敵せずに自害しています。享年26歳
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
織田信長 その36 「信長のまとめ3」
織田信長 その36「信長のまとめ3」
信長は新時代をはじめた英雄として歴史上賞賛されているのに、斎藤道三と松永久秀とが大悪人と
呼ばれ、当時も、その後も、また現在に至るまで世の指弾を受けているのは、先駆者の悲しい運命
というべきかも知れません。
新しいものが社会に受入れられるには、その以前に社会にある程度慣れが必要です。
新奇なものに対する社会の反応は、そのはじめにおいては必ず嫌悪感と反発感が伴います。しばらく
それが続き、また実際に役立つということが分かってくる頃に、新しくそれで出た者は歓迎されるので
す。
先駆者よりエピゴーネン(後継者)が常に得をするのはこのためです。
信長は、“ちょうどよい時に出た”ということでしょう。
人の任用法にも、信長は旧来の法をまるで踏みにじっています。信長が徹底した合理精神の持ち主で、
常に能率第一に考え、才能ある者はどしどし登用昇進させるとともに、役に立たなくなったものは重臣
や宿将でも無残なまでに捨てたばかりか、殺しまでしたともいいます。
佐久間信盛は餓死し、林通勝、丹羽右近らは身代を没収されています。
そのかわり、豊臣秀吉は土民の小せがれから用いられ、滝川一益、明智光秀は浪人から何十万石の
大名に取り立てています。
織田信長(1534-1582年)

鎌倉時代や室町時代に始まった由緒正しい大名の家は、譜代の重臣の家は殆ど全部が分家筋のもの
で、血の違う重臣は極めて稀であった。
つまり、一族だけで組織して運命共同体と言っても良かった。こんなものであったから、他のものが食い
入るスキは殆どなく、一介の旅浪人や、いわんや土民から、どしどし登用するなどは考えられない
ことであった。
こんなことをしては、従来の重臣らの心を離反させ、共同体にひびを入らせるから、いけないことと言って
もいいのでしょう。
大内義隆が相良武任という旅のものを重用したため、相良と陶晴賢(すえはるかた)とが対立し、ついに
陶が義隆を殺逆したという話しは、この時代を語るものです。
こんな時代に、信長はこの習慣をコッパ微塵に踏みにじり、もっぱら実力本位の任用をしています。
こういう信長であったからこそ、秀吉のような偉才も所を得ることができ、後年の秀吉があるのです。
信長のこの破壊好きは、合理精神によって十分に計算されてばかりの発動ではありません。本質におい
ては本能的なものであったのでしょうから、発動すべからざる時に発動していることもあります。
荒木村重の叛をいきどおって、その妻子と家来共の妻子らを惨殺したのがそれです。この殺戮(さつりく)
は3度に分けて行われ、初めは122人をはりつけで殺し、次は男女512人を焼き殺し、最後は最も身分の
高い者だけ30余人を斬首しています。
甲州武田家を滅ぼした時も凄まじい。武田家の一族と重臣らを草の根を分けるように探して殺しています。
荒木は謀叛の罪があり、武田氏は信玄以来2代に渡って信長の最も手ごわい敵であった。
しかし、その妻子、家来共の妻子、一族や家来共に何の罪があろう。テロリズムという政治機略があるが、
この際はそれの必要のない時です。
本能的殺戮欲の盲目的な発現と見るといいのでしょうか。
彼が病的天才、狂気を帯びた天才であったことは明らかなことでしょう。中道にして倒れなければならな
かったのは、不思議なことではなかったのかも知れません。
世の中がいくらかでも落ち着いてくると、こんな権力者には人が我慢できなくなり排他的になるのも自明
なことだったのでしょう。
歴史は残酷なものです。信長のような破壊者が出現しないと、社会の新しい展開が生まれなかったので
しょう。
歴史は面白いドラマです。史実が少ないから脚本も生まれてきます。
長い間、織田信長にお付き合い戴きありがとうございました。
次の武将は、まるでスポーツのごとく戦った謙信公と信玄公をとりあげてみたいと思います。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 爆散したため
光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかったといいます。当時の
本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の
遺体が爆散してしまったためと考えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
信長は新時代をはじめた英雄として歴史上賞賛されているのに、斎藤道三と松永久秀とが大悪人と
呼ばれ、当時も、その後も、また現在に至るまで世の指弾を受けているのは、先駆者の悲しい運命
というべきかも知れません。
新しいものが社会に受入れられるには、その以前に社会にある程度慣れが必要です。
新奇なものに対する社会の反応は、そのはじめにおいては必ず嫌悪感と反発感が伴います。しばらく
それが続き、また実際に役立つということが分かってくる頃に、新しくそれで出た者は歓迎されるので
す。
先駆者よりエピゴーネン(後継者)が常に得をするのはこのためです。
信長は、“ちょうどよい時に出た”ということでしょう。
人の任用法にも、信長は旧来の法をまるで踏みにじっています。信長が徹底した合理精神の持ち主で、
常に能率第一に考え、才能ある者はどしどし登用昇進させるとともに、役に立たなくなったものは重臣
や宿将でも無残なまでに捨てたばかりか、殺しまでしたともいいます。
佐久間信盛は餓死し、林通勝、丹羽右近らは身代を没収されています。
そのかわり、豊臣秀吉は土民の小せがれから用いられ、滝川一益、明智光秀は浪人から何十万石の
大名に取り立てています。
織田信長(1534-1582年)

鎌倉時代や室町時代に始まった由緒正しい大名の家は、譜代の重臣の家は殆ど全部が分家筋のもの
で、血の違う重臣は極めて稀であった。
つまり、一族だけで組織して運命共同体と言っても良かった。こんなものであったから、他のものが食い
入るスキは殆どなく、一介の旅浪人や、いわんや土民から、どしどし登用するなどは考えられない
ことであった。
こんなことをしては、従来の重臣らの心を離反させ、共同体にひびを入らせるから、いけないことと言って
もいいのでしょう。
大内義隆が相良武任という旅のものを重用したため、相良と陶晴賢(すえはるかた)とが対立し、ついに
陶が義隆を殺逆したという話しは、この時代を語るものです。
こんな時代に、信長はこの習慣をコッパ微塵に踏みにじり、もっぱら実力本位の任用をしています。
こういう信長であったからこそ、秀吉のような偉才も所を得ることができ、後年の秀吉があるのです。
信長のこの破壊好きは、合理精神によって十分に計算されてばかりの発動ではありません。本質におい
ては本能的なものであったのでしょうから、発動すべからざる時に発動していることもあります。
荒木村重の叛をいきどおって、その妻子と家来共の妻子らを惨殺したのがそれです。この殺戮(さつりく)
は3度に分けて行われ、初めは122人をはりつけで殺し、次は男女512人を焼き殺し、最後は最も身分の
高い者だけ30余人を斬首しています。
甲州武田家を滅ぼした時も凄まじい。武田家の一族と重臣らを草の根を分けるように探して殺しています。
荒木は謀叛の罪があり、武田氏は信玄以来2代に渡って信長の最も手ごわい敵であった。
しかし、その妻子、家来共の妻子、一族や家来共に何の罪があろう。テロリズムという政治機略があるが、
この際はそれの必要のない時です。
本能的殺戮欲の盲目的な発現と見るといいのでしょうか。
彼が病的天才、狂気を帯びた天才であったことは明らかなことでしょう。中道にして倒れなければならな
かったのは、不思議なことではなかったのかも知れません。
世の中がいくらかでも落ち着いてくると、こんな権力者には人が我慢できなくなり排他的になるのも自明
なことだったのでしょう。
歴史は残酷なものです。信長のような破壊者が出現しないと、社会の新しい展開が生まれなかったので
しょう。
歴史は面白いドラマです。史実が少ないから脚本も生まれてきます。
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次の武将は、まるでスポーツのごとく戦った謙信公と信玄公をとりあげてみたいと思います。

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光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかったといいます。当時の
本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の
遺体が爆散してしまったためと考えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
織田信長 その35 「信長のまとめ2」
織田信長 その35 「信長のまとめ2」
信長のこの厳刑主義には先輩がいます。信長の妻の父である斎藤道三と松永久秀です。
道三の施政ぶりが最も残酷であったといいます。小罪のものでも牛裂きの刑に処したといい、釜ゆでの
刑を行うにあたってはその罪人の妻や親兄弟に火を焚かせるという凄まじいやり方であったといいます。
松永久秀の場合は、年貢未進などの百姓を処刑する場合には、蓑を着せて火を放ち、もがき苦しんで死
なせ、これを「蓑虫おどり」と称して、楽しんで見物したのだという。
斎藤道三(美濃のマムシ) 松永久秀(大仏殿放火)

道三は美濃国王、秀久は大和国王、いずれも京都近くの国の主でありながら、符節を合わせたような重刑
主義を取ったことについては、いろいろな考察ができるのでしょう。
道三は京都郊外の「西の岡」の出身です。久秀の出身は諸説ありますが、西の岡もある。いずれも京の
近郊に生い立って、人間のすれ切った横着さを最も経験したためかも知れません。
あるいは道三が13歳も年長であるから、久秀はこれが出世して美濃一国の主となっているのを見て、その
施政ぶりを真似したのかも知れません。
しかし、2人とも尋常一様なことでは犯罪はやまない世の中であるために、厳刑主義を採ったのでしょう。
信長はこの2人から、これを学び取ったのかも知れません。年代的にも、交際の上でもそうあって不思議
ではありません。
信長がこの2人から学んでいると思われることは他にもあります。
信長が鉄砲の威力を認めて最大限に利用したことや、長槍を利として雑兵らにこれを用いらせたことは
最も有名なことですが、信長に先立って鉄砲や長槍の利を認めて、これを大量に使い始めたのは道三です。
信長は道三から娘を貰っただけでなく、これらの新戦法も学び取り、見代が太るに連れて益々大掛かり
とし、長篠の戦いに快勝を得たと思われます。
彦根城多聞櫓

信長の安土城は、近世の城郭のはじまりと言われていますが、あの形式の櫓や塀を最初にはじめたのは、
久秀の多聞城です。
だから、あの形式の櫓や塀を多聞櫓・多聞塀と呼びます。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 濃姫
濃姫(1535年? -1612年8月5日?)は、斎藤道三の娘で織田信長の正室です。
名は江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』などから帰蝶(きちょう)といわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
信長のこの厳刑主義には先輩がいます。信長の妻の父である斎藤道三と松永久秀です。
道三の施政ぶりが最も残酷であったといいます。小罪のものでも牛裂きの刑に処したといい、釜ゆでの
刑を行うにあたってはその罪人の妻や親兄弟に火を焚かせるという凄まじいやり方であったといいます。
松永久秀の場合は、年貢未進などの百姓を処刑する場合には、蓑を着せて火を放ち、もがき苦しんで死
なせ、これを「蓑虫おどり」と称して、楽しんで見物したのだという。
斎藤道三(美濃のマムシ) 松永久秀(大仏殿放火)


道三は美濃国王、秀久は大和国王、いずれも京都近くの国の主でありながら、符節を合わせたような重刑
主義を取ったことについては、いろいろな考察ができるのでしょう。
道三は京都郊外の「西の岡」の出身です。久秀の出身は諸説ありますが、西の岡もある。いずれも京の
近郊に生い立って、人間のすれ切った横着さを最も経験したためかも知れません。
あるいは道三が13歳も年長であるから、久秀はこれが出世して美濃一国の主となっているのを見て、その
施政ぶりを真似したのかも知れません。
しかし、2人とも尋常一様なことでは犯罪はやまない世の中であるために、厳刑主義を採ったのでしょう。
信長はこの2人から、これを学び取ったのかも知れません。年代的にも、交際の上でもそうあって不思議
ではありません。
信長がこの2人から学んでいると思われることは他にもあります。
信長が鉄砲の威力を認めて最大限に利用したことや、長槍を利として雑兵らにこれを用いらせたことは
最も有名なことですが、信長に先立って鉄砲や長槍の利を認めて、これを大量に使い始めたのは道三です。
信長は道三から娘を貰っただけでなく、これらの新戦法も学び取り、見代が太るに連れて益々大掛かり
とし、長篠の戦いに快勝を得たと思われます。
彦根城多聞櫓

信長の安土城は、近世の城郭のはじまりと言われていますが、あの形式の櫓や塀を最初にはじめたのは、
久秀の多聞城です。
だから、あの形式の櫓や塀を多聞櫓・多聞塀と呼びます。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 濃姫
濃姫(1535年? -1612年8月5日?)は、斎藤道三の娘で織田信長の正室です。
名は江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』などから帰蝶(きちょう)といわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
織田信長 その34 「信長のまとめ1」
織田信長 その34「信長のまとめ1」
古い時代が行き詰って、新しい時代にならなければならないのに、陣痛が長引いている時期には、
暴力的英雄が出て来なければ、人間の歴史は進展しないことがある。
暴風雨や火山の爆発力のような破壊力を持つ大魔王的英雄が出現して、新しい時代の到来を妨
げている事物を破壊してくれなければ、新時代は到来しない。
岐阜城(稲葉山城)
写真は、平成22年5月9日に百名城めぐりで撮ったものです。

信長の暴力的破壊の実例を挙げるまでもないでしょうが、皆さんが良くご存知の実例でも叡山の
焼討ち、高野聖の大量殺戮などあるが、これ以外にも伊勢長島の本願寺門徒らを遠征して2万人
を一挙に焼き殺している。また、越前の門徒らも大量殺戮(さつりく)しています。
信長の時代は、中世から近世へ移るための陣痛期にあたり、宗教が中世期の最も強力な柱であっ
たことは、西洋でも日本でも変わりありません。
社会はこれを桎梏(しっこく)としていましたが、人はまだ迷信に支配される時代だったのです。
修行を積んだ僧は、呪術や調伏の法を心得ていて、その怒りに触れることは最も危険であると考え
られていた。
信長はあえてこのタブーを犯し、最も積極的に破壊したのです。
信長は厳刑主義者で、一銭斬りとて、一銭を盗んだものでも首を斬るという最も峻烈な法を励行した
ので、彼の領内では戦国争乱の世であるにかかわらず、犯罪は皆無に近く、民は夜戸を閉ざさず、
夜間の旅も安全であったといいます。
峻刑は大いに効があった訳ですが、およそ刑罰には昔から標準というものがあって、一銭を盗んで
斬首されるなら百金を盗んだもの、人を殺傷した者には、どんな刑罰を科したらよいか、こう考える
のが常識ですが、信長はこの常識を無視し、踏みにじったのです。
信長もそれは決して好んでしたことではないでしょう。常識にかなった刑罰ではまるで効き目がない
ほど諸悪横行の世であったから、劇剤を処方する医者の気持ちであったでしょうが、常人にはなか
なか踏み切れないものです。彼が本性において破壊欲横溢の人であったから出来たのでしょう。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 山内一豊
一豊の妻・千代は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金
(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で名馬(鏡栗毛)を買い、信長
の馬揃えに参加し注目されたといいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
古い時代が行き詰って、新しい時代にならなければならないのに、陣痛が長引いている時期には、
暴力的英雄が出て来なければ、人間の歴史は進展しないことがある。
暴風雨や火山の爆発力のような破壊力を持つ大魔王的英雄が出現して、新しい時代の到来を妨
げている事物を破壊してくれなければ、新時代は到来しない。
岐阜城(稲葉山城)
写真は、平成22年5月9日に百名城めぐりで撮ったものです。

信長の暴力的破壊の実例を挙げるまでもないでしょうが、皆さんが良くご存知の実例でも叡山の
焼討ち、高野聖の大量殺戮などあるが、これ以外にも伊勢長島の本願寺門徒らを遠征して2万人
を一挙に焼き殺している。また、越前の門徒らも大量殺戮(さつりく)しています。
信長の時代は、中世から近世へ移るための陣痛期にあたり、宗教が中世期の最も強力な柱であっ
たことは、西洋でも日本でも変わりありません。
社会はこれを桎梏(しっこく)としていましたが、人はまだ迷信に支配される時代だったのです。
修行を積んだ僧は、呪術や調伏の法を心得ていて、その怒りに触れることは最も危険であると考え
られていた。
信長はあえてこのタブーを犯し、最も積極的に破壊したのです。
信長は厳刑主義者で、一銭斬りとて、一銭を盗んだものでも首を斬るという最も峻烈な法を励行した
ので、彼の領内では戦国争乱の世であるにかかわらず、犯罪は皆無に近く、民は夜戸を閉ざさず、
夜間の旅も安全であったといいます。
峻刑は大いに効があった訳ですが、およそ刑罰には昔から標準というものがあって、一銭を盗んで
斬首されるなら百金を盗んだもの、人を殺傷した者には、どんな刑罰を科したらよいか、こう考える
のが常識ですが、信長はこの常識を無視し、踏みにじったのです。
信長もそれは決して好んでしたことではないでしょう。常識にかなった刑罰ではまるで効き目がない
ほど諸悪横行の世であったから、劇剤を処方する医者の気持ちであったでしょうが、常人にはなか
なか踏み切れないものです。彼が本性において破壊欲横溢の人であったから出来たのでしょう。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 山内一豊
一豊の妻・千代は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金
(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で名馬(鏡栗毛)を買い、信長
の馬揃えに参加し注目されたといいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
織田信長 その33 「信長の天運」
織田信長 その33 「信長の天運」
(信長)鳴かぬなら殺してしまへほととぎす
(秀吉)鳴かぬなら鳴かして見せうほととぎす
(家康)鳴かぬなら鳴くまで待たうほととぎす
いつ誰が作ったのか知らないが、古来この三英雄の性格を最も端的巧妙に表現しているといわれます。
信長の本性は実に用意周到であると先に記しましたが、それが最も明瞭に現われているのは、武田勝頼
を撃破した長篠合戦でしょう。
彼は甲州軍が信玄以来練りに練った精強な兵で、最も騎馬戦に長じていることを知っているので、接戦せ
ずに破る工夫をしています。
岐阜を出馬するとき、諸隊に命令して柵に使用する材木と縄を準備させ、戦場に着くと持参した材料で柵
を三重に立てさせ諸隊をその内側に配置し、鉄砲足軽1万人から射術精妙な者を3000人選び1000人ずつ
の3隊として3段に構えさせ、一隊発射すれば、次の隊が発射し、さらに次の隊が発射し、順繰りに切れ目
なく発射する仕掛けとした。
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)

この戦術にかかって、甲州軍は得意とする接戦に出ることができず、狩場の野獣のように討ち取られて
大敗し、勇将猛卒は殆どつきて、以降、武田家の勢いはガタ落ちになっています。
この戦術を見る限り「鳴かぬなら鳴かして見せうほととぎす」ではないでしょうか。
また、隠忍に隠忍を重ねて、信玄や謙信との決戦を避けたことや、長篠合戦以降7年間も武田氏の衰弱
を待ったことは、信長の辛抱強さを語るものでしょう。
長篠城址
平成21年9月22日 百名城巡りで撮ったものです。

これほど用意周到であった信長が殆ど無防備で本能寺に宿泊したのはどういう訳があったのでしょう。
天運というより他はないのでしょう。
人が非業の死をとげる時には、往々にして常識では考えられない程に無思慮なことをするものです。
ローマの将軍ジュリアス・シーザーがそうであったように、また、大久保利通もそうであったように、
この2人はその当日の朝、人から身辺を厳戒すべきを告げられても聞き流して暗殺されたといいます。
自身の強さが殺したのかも知れません。
信長も同様に。
信長には危険が常に潜伏していたと考えるべきだと思います。
信長は激しい性格であり、憎悪の念の強い、しかも最も専制的な独裁者である信長の下では、いつ雷艇
の怒りがわが上に爆発するかと、家臣らは心の休まる暇はなかったでしょう。
本能寺の最後における信長の振舞いは最も信長的です。
49歳といえば当時としてはもう老年ですが、従容として死につくなどという老成ぶったことはなく、弓を引
いて、押しかける敵を射続け弦が切れると、槍を持って戦い、重症を負って戦闘力を失ってはじめて自害
しているのです。
本能寺の変

所詮無駄な抵抗と分かっていても、激しい憎悪と怒りを渾身に煮えたぎらせながら、あらんかぎりの力を
尽くして奮戦するのです。
信長は死に至るまであくまで行動派だったのです。
なぜか急に、本能寺の変にたどり着いてしまいましたので、今回で信長が完結していまいました。
ちょっと物足りない感じですので、明日から3回で「信長のまとめ」をしてみたいと思いますので、お付
き合いください。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 滝川一益
1582年、滝川一益が猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、
3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、
ここに武田氏は滅亡しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
(信長)鳴かぬなら殺してしまへほととぎす
(秀吉)鳴かぬなら鳴かして見せうほととぎす
(家康)鳴かぬなら鳴くまで待たうほととぎす
いつ誰が作ったのか知らないが、古来この三英雄の性格を最も端的巧妙に表現しているといわれます。
信長の本性は実に用意周到であると先に記しましたが、それが最も明瞭に現われているのは、武田勝頼
を撃破した長篠合戦でしょう。
彼は甲州軍が信玄以来練りに練った精強な兵で、最も騎馬戦に長じていることを知っているので、接戦せ
ずに破る工夫をしています。
岐阜を出馬するとき、諸隊に命令して柵に使用する材木と縄を準備させ、戦場に着くと持参した材料で柵
を三重に立てさせ諸隊をその内側に配置し、鉄砲足軽1万人から射術精妙な者を3000人選び1000人ずつ
の3隊として3段に構えさせ、一隊発射すれば、次の隊が発射し、さらに次の隊が発射し、順繰りに切れ目
なく発射する仕掛けとした。
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)

この戦術にかかって、甲州軍は得意とする接戦に出ることができず、狩場の野獣のように討ち取られて
大敗し、勇将猛卒は殆どつきて、以降、武田家の勢いはガタ落ちになっています。
この戦術を見る限り「鳴かぬなら鳴かして見せうほととぎす」ではないでしょうか。
また、隠忍に隠忍を重ねて、信玄や謙信との決戦を避けたことや、長篠合戦以降7年間も武田氏の衰弱
を待ったことは、信長の辛抱強さを語るものでしょう。
長篠城址
平成21年9月22日 百名城巡りで撮ったものです。

これほど用意周到であった信長が殆ど無防備で本能寺に宿泊したのはどういう訳があったのでしょう。
天運というより他はないのでしょう。
人が非業の死をとげる時には、往々にして常識では考えられない程に無思慮なことをするものです。
ローマの将軍ジュリアス・シーザーがそうであったように、また、大久保利通もそうであったように、
この2人はその当日の朝、人から身辺を厳戒すべきを告げられても聞き流して暗殺されたといいます。
自身の強さが殺したのかも知れません。
信長も同様に。
信長には危険が常に潜伏していたと考えるべきだと思います。
信長は激しい性格であり、憎悪の念の強い、しかも最も専制的な独裁者である信長の下では、いつ雷艇
の怒りがわが上に爆発するかと、家臣らは心の休まる暇はなかったでしょう。
本能寺の最後における信長の振舞いは最も信長的です。
49歳といえば当時としてはもう老年ですが、従容として死につくなどという老成ぶったことはなく、弓を引
いて、押しかける敵を射続け弦が切れると、槍を持って戦い、重症を負って戦闘力を失ってはじめて自害
しているのです。
本能寺の変

所詮無駄な抵抗と分かっていても、激しい憎悪と怒りを渾身に煮えたぎらせながら、あらんかぎりの力を
尽くして奮戦するのです。
信長は死に至るまであくまで行動派だったのです。
なぜか急に、本能寺の変にたどり着いてしまいましたので、今回で信長が完結していまいました。
ちょっと物足りない感じですので、明日から3回で「信長のまとめ」をしてみたいと思いますので、お付
き合いください。

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昨日の正解: 滝川一益
1582年、滝川一益が猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、
3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、
ここに武田氏は滅亡しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>