最後の戦国武将 その4 「政宗、天然痘で失明」

最後の戦国武将・伊達政宗 その4 『天然痘で失明』

政宗にとって、幼少期というのはあまり快適なものではなかった。

ひとつは片方の眼を失ったこと、もうひとつは、そのことによって母・義姫から嫌われ始めたことであった。

政宗が右目を失ったのは、5歳のとき、あるいは7歳のときだといい、はっきりしない。何れにしても、天

然痘を患い、その毒が眼にまわって失明したというのだ。

失明すると同時に右眼が飛び出し始めたため、家臣に命じ小刀で潰すことになり、片倉小十郎景綱が

政宗の眼を突く役を受けたのだという。

ここらは普通ではない。任せた政宗も凄いが、引き受けた片倉小十郎景綱も相当、豪の者ということが

できる。

伊達政宗(1567-1636年) *yahoo辞典より
da.伊達政宗yahoo辞書

右眼を失ったことにより、政宗の性格はだいぶ変わってしまったという。

人前に出ることを嫌い、おそらく内にこもる、現在でいう“ネクラ”の性格になってしまっていたのでしょう。

これに輪をかけたのが、母・義姫との関係であった。

義姫の祈願によって、しかも瑞夢によって得た長男である。義姫は政宗に期待をし、可愛がっていたで

しょう。

ところが、右眼を失い、容貌が醜くなっただけでなく、性格的にもひねくれてしまい、義姫は政宗のことを

嫌い始めたというのです。

弟の竺丸(じくまる)の方を可愛がるようになったのでしょう。

母に嫌われ始めたと気がつけば、さらに性格はひねくれていったと思われます。


日本の三大悪女といえば、北条政子、日野富子、淀殿と言われますが、クラチーさんが「ハナヒゲを生やし
た北条政子」を書いてくれました。
雰囲気が良く出ていると思います。  「こちら」です。
クラチー 002

1号 20110629 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 伊達家第9代当主にあやかった
        将軍家が滅亡していたので、「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代
        の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別する
        べく藤次郎政宗と呼びます。

≪本日の問題≫


                             <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
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最後の戦国武将 その3 「政宗の英才教育」

最後の戦国武将・伊達政宗 その3 『英才教育』

政宗が5才の頃、守役の片倉小十郎景綱と一緒に、ある寺を訪ねた時のエピソードとして伝わって

います。

政宗は、生まれて初めて、その寺で不動明王像というものを見た。

好奇心旺盛な政宗は、傍らの僧に向って「これは何だ」と質問する。

僧は「恐ろしい顔をしていても仏です」と答えるが、政宗は納得しない。

つまり、政宗がそれまでに見た仏は、いずれも柔和な顔つきをしていたのでしょう。

「これは仏ではない」と政宗が言うと、僧は初めて不動明王のことを政宗に向って説明をし始めたと

いう。

すべての仏が柔和な顔をしているわけではないこと。世の中には悪人があるので、それを懲らしめる

ために不動明王のような恐ろしい顔をした仏もいること。つまり、不動明王は外には剛だが、内に慈悲

を備えるものであるということを政宗に説いたといいます。

話しを聞いた、政宗がポツリと一言「不動明王というのは、大名の手本になる仏だな。外には強いが

内には優しいということか」と言ったという。

政宗が育ったという米沢城
今では上杉家一色で、伊達を感じることは出来ないでしすよね。
yo.20100320 米沢城 01

5才の子供が、この通りのことを言ったのか怪しいが、片倉小十郎景綱いう守役に育てられ、次第に

帝王学を身に付けていったことは事実だったのでしょう。

幼年時の政宗に決定的な影響を与えた人物として、この片倉小十郎景綱の他にもうひとり存在します。

虎哉宗乙(こさいそういつ)という禅僧です。

戦国時代、学問の場としては何より寺が重視され、戦国大名も子供を寺に入れたり、学芸の師として

高僧を招いたりしています。

虎哉宗乙は、以前、伊達氏の菩提寺のひとつである東昌寺にいた関係から、父・輝宗にみこまれ、宗乙

43才、政宗6才の時から、2人の師弟関係は1611年の宗乙の死まで続いています。

政宗は、宗乙から仏教のことはもとより、漢字、兵書も学んだと思われます。



日本の三大悪女といえば、北条政子、日野富子、淀殿と言われますが、クラチーさんが「ハナヒゲを生やし
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pig 20110628 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 片倉景綱
        政宗の教育にはとても熱心で、家臣の「片倉小十郎景綱」などを当てるとともに、
        多くの高名な儒学者・僧を伊達家の居城である米沢城に招き、早くから政宗に
        仕えさせています。

≪本日の問題≫


                            <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>

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最後の戦国武将 その2 「伊達政宗略年譜」

最後の戦国武将・伊達政宗 その2 『伊達政宗略年譜』

伊達政宗は、弱肉強食の戦国的風潮が支配する混沌とした群雄割拠の真っただ中に生まれ、新しい

近世に変わろうとする時代に育ち、最後まで戦うことを諦めなかった最後の戦国武将と言われます

ので、先ず、政宗の略年譜と戦国の世の動きを関連付けてみたいと思います。

なお、年月日については、時節を感じることができるように、西暦で記載しています。

( )内は、政宗に関連する戦国の世の動きです。

伊達政宗騎馬像(仙台城)
この銅像は政宗の遺言に従い、独眼ではなく両眼を開いたものになっています。
da.伊達政宗騎馬像

1567年  1才 9月15日、政宗、米沢城に生まれる。幼名は梵天丸。
          (9月27日 織田信長が稲葉山城の斎藤龍興を滅し、美濃への進出を果たす。)

1568年  2才(10月26日 織田信長が足利義昭を奉じて入京する。)

1575年  9才(7月9日 織田信長、徳川家康連合軍が長篠の戦いで武田勝頼を破る。)

1578年 12才 1月3日 梵天丸、元服して政宗と名乗る。
           1月22日 祖父の晴宗が没する。

1579年 13才 この冬、三春城主・田村清顕の娘・愛姫と結婚。

1580年 14才(7月12日会津黒川城主・蘆名直盛が没する。)

1581年 15才 6月上旬 政宗、父・輝宗に従って初陣し、相馬氏と戦い勝利する。

1582年 16才 4月上旬 父と杉目城に出向き、蘆名・二階堂・田村3氏の和解を斡旋。
          (7月1日 本能寺の変で織田信長が没す。)

1583年 17才 3月4日 政宗、父とともに丸森城を攻める。
          (5月28日 羽柴秀吉、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。)

1584年 18才 6月下旬 父・輝宗、相馬氏と和睦。
           11月 輝宗、家督を政宗に譲り、伊達家17代当主となる。

1585年 19才 4月19日 政宗、従五位下、美作守に任ぜられる。
          (8月6日 羽柴秀吉、関白となる。)
           9月27日 小手森城の撫で斬り
           11月27日 二本松城主・畠山義継、輝宗・正宗親子に投降してくる。
           11月29日 父・輝宗、畠山義継に捕らえられ、伊達軍の発砲によって輝宗、
                 畠山義継が没する。

1586年 20才 1月6日 政宗、佐竹・蘆名らの連合軍と戦う。(人取橋の戦い)
           8月30日 政宗、二本松城を収める。

1587年 21才 10月11日 政宗、豊臣秀吉に馬を献上する。
           11月14日 鮎貝宗信が叛いて最上義光に通じたため、これを討つ。

1588年 22才(1月1日 豊臣秀吉、関東及び陸奥・出羽の私戦を禁止する。:惣無事令)
           2月13日 政宗、大崎氏を攻める。
           2月28日 中新田の戦いで、大崎氏に大敗する。(大崎合戦)
           8月25日 政宗、佐竹義重・蘆名義広らと戦い、16日に和睦する。(窪田の戦い)
           9月11日 政宗母・義姫の働きで、最上義光を和睦する。

1589年 23才 7月1日 政宗、相馬氏を攻め、駒ケ嶺城を奪う。
           7月17日 政宗、蘆名義広を破る。(摺上原の戦い)
           7月23日 政宗、蘆名氏累代の居城・黒川城に入る。
           8月14日 豊臣秀吉、上杉景勝・佐竹義重に政宗の討伐を命ずる。
           10月12日 政宗、上郡山仲為を上洛させ、豊臣秀吉に蘆名攻めの弁明をする。
           11月 政宗、須賀川城を攻め、二階堂氏を滅ぼす。
           12月31日 豊臣秀吉、宣戦布告状を北条氏直に送り、同文を政宗にも送る。

1590年 24才 2月24日 豊臣秀吉、政宗に小田原参戦を命じる。
          (5月6日 豊臣秀吉、小田原城を包囲する。)
           6月10日 政宗、小田原参陣のため、会津を出立。
           7月10日 政宗、豊臣秀吉に渇す。
           9月7日 豊臣秀吉、奥州仕置で天下を統一。
           11月13日 葛西・大崎一揆が起こる。
           11月23日 政宗、葛西・大崎一揆討伐のため米沢城を出発する。
           12月20日 政宗、佐沼城(宮城県久米市)の木村吉清・清久親子を救出する。

1591年 25才 2月20日 政宗、清洲において豊臣秀吉に渇する。
           8月3日 政宗、葛西・大崎一揆鎮定のため出陣する。
           11月9日 政宗、岩手沢城に移り、岩出山と改める。

1592年 26才(2月10日 豊臣秀吉、関白職を豊臣秀次に譲り、太閤となる。)
           この年 政宗、長井・信夫・伊達・田村・刈田・安達を没収され、葛西・大崎地方
           を与えられる。
           4月28日 政宗、豊臣秀吉の命を受け、京都をたち肥前名護屋城に向う。

1593年 27才 5月24日 政宗、文禄の役で朝鮮に渡海し、釜山に上陸する。
           10月23日 政宗、肥前名護屋城に帰陣する。

1594年 28才 4月17日 豊臣秀吉、大和吉野で花見を催し、その歌会の席に列す。

1595年 29才(3月17日 蒲生氏郷没する。)
          (8月8日 豊臣秀吉、石田三成・増田長盛らを聚楽第に遣わし、豊臣秀次を詰問。)
          (8月20日 豊臣秀次、高野山において切腹する。)
           9月上旬 政宗、大坂に着き、豊臣秀吉の使いより秀次との関係の詰問を受ける。

1596年 30才 3月25日 豊臣秀吉、諸大名に命じて伏見向島城を築く。政宗も勤める。
          (10月23日 豊臣秀吉、再び朝鮮への出兵を決意する。)

1597年 31才 この冬、政宗、従四位試下、右近衛権少将となり、大崎少将と呼ばれる。

1598年 32才(9月18日 豊臣秀吉、伏見城で没する)
           この年 政宗、豊臣秀吉の遺品として鍋藤四郎の脇差を貰う。

1599年 33才 2月15日 政宗の娘・五郎八姫と、徳川家康の6男・忠輝との婚約成る。
          (3月1日 徳川家康、前田利家と和し、誓紙を交換する。)
          (3月29日 前田利家没する。)

1600年 34才 6月13日 徳川家康、諸大名に上杉景勝討伐を命ずる。
           7月24日 政宗、上杉景勝を牽制するため大坂を立ち、帰国する。
           9月2日 政宗、上杉景勝の支城・白石城を攻め落とす。
           9月29日 徳川家康より政宗に旧領7ヶ所を与える覚えが出される。
         (10月21日 関ヶ原の戦いで、東軍が圧勝する。)
           11月11日 政宗、上杉領を侵し、福島城を攻める。
           12月18日 幕府より仙台城築城の許可がおりる。

1601年 35才 2月13日 仙台城の普請が始まる。
           5月16日 政宗、北目城から仙台城に移る。

1603年 37才(3月24日 徳川家康、征夷大将軍に補任される。)

1605年 39才 2月2日 松島五堂の造営成る。
           6月2日 徳川秀忠、将軍となる。政宗、秀忠に従って参内する。
           12月20日 政宗、領内荒地の検地を命ずる。

1606年 40才 3月3日 政宗、常陸国に1万石を加増される。
          (3月20日 徳川家康、駿府を隠居地と定める。)

1607年 41才 1月28日 政宗の娘・五郎八姫、松平忠輝に嫁ぐ。
           10月2日 大崎八幡の造営成る。

1608年 42才 2月 政宗、陸奥守に任ぜられ、松平姓を許される。
           10月 政宗、家臣の知行割を行う。

1609年 43才 4月3日 松島瑞巌寺の上棟式行われる。

1610年 44才 7月13日 徳川家康、政宗と上杉景勝を饗応する。
           この年 仙台城大広間の造営成る。

1611年 45才 4月18日より8月17日まで、政宗、江戸城西の丸造営課役を務める。
           11月 ソテロおよびスカイノ、前後して仙台に来る。

1613年 47才 1月15日 虎菊丸元服して忠宗と称し、従五位下、美作守に叙任される。
           6月13日 大久保長安没する。
           10月28日 枝倉常長、月ノ浦港を発し、ヨーロッパに向う。(慶長遣欧使節)

1614年 48才 11月21日 政宗、仙台を発ち大坂に向う。大坂冬の陣に参陣。

1615年 49才 3月14日 政宗、大坂城の堀埋めを終え、京都に入る。

1616年 50才 6月5日 徳川家康、駿府城で没す。
           8月21日 松平忠輝、改易される。

1636年 70才 6月27日 政宗、江戸桜田邸で没す。

1号 20110627 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 天然痘
        政宗は、幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから
        「独眼竜」等と称されています。

≪本日の問題≫


                             <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>

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最後の戦国武将 その1 「梵天丸の誕生」

最後の戦国武将・伊達政宗 その1 『梵天丸の誕生』

戦国武将と言ったら、西方の武将を中心に目を向けてきましたが、生まれてくるのが遅かった「伊達

政宗」について、少し勉強してみたいと思いますので、お付き合いください。

仙台城の政宗
se.仙台城 001-1

伊達政宗は、1567年9月15日に輝宗の長男として生まれる。

この年といえば、織田信長が美濃稲葉山城の斎藤龍興(道三の子)を攻めて滅ぼし、有名な「天下

布武」の印判を用い始めた年にあたります。

全国的にみれば、室町幕府の衰退は誰の目にも明らかであり、それに代わる中心を見定めることも

できなく、弱肉強食の戦国的風潮が支配する混沌とした群雄割拠の真っただ中であった。

母は、輝宗の正室・義姫(よしひめ)といった。

この義姫は、山形城主・最上義守の娘であった。伊達氏と最上氏は度々の婚姻関係を結んでいた。

政宗の誕生に関して、伊達家に興味深いエピソードが伝えられている。

輝宗に嫁いだ義姫は、時世を考え何とか領国を興隆させるため、男子の誕生を願い、かねて信仰厚

かった米沢の近くに住む行者の長海上人に、湯殿山への祈祷を依頼したという。

湯殿山は出羽三山のひとつで、羽黒山・月山とならぶ信仰の山なのです。

長海上人は湯殿山に登り祈願し、弊束を湯殿の湯に浸し、それを義姫のもとに持帰り、御寝所の屋

根に安置させた。

ある夜、義姫の枕元に白髪の僧が現れ「胎内に宿を借りたい」といってきた。

義姫は「自分一人では返事しかねるので、夫に相談してから」とその夜は帰ってもらったという。

翌朝、義姫は目をさまして輝宗に、このことを話したところ、輝宗は「これは瑞夢である。何で許さない

ことがあろう。今度、再び、その僧が現れれば、許しなさい」という。

その夜、再び白髪の僧が義姫の夢枕に立ったところ、義姫は夫から許しを得たことを告げた。すると

僧は喜んで義姫に幣束を授け「胎育したまえ」といって消えていった。(隻眼の行者、満海上人の生

れ変わり説)

義姫は懐妊し、1567年9月に、無事男子を産んだことになる。

誕生した男子に梵天丸という童名を授けたのも長海上人であるという。

その後、伊達家では湯殿山には4月2日に参脂することを例とし、それ以前には一般の人には山に

登らせなかったという。

ちなみに、修験道では幣束のことを梵天と呼ぶそうです。

それにしても。伊達と最上の血を受けて生まれたのが政宗である。一筋縄ではいかないのは当然の

ことでしょう。

「闊達にして大らかな“伊達の血”と、老獪で陰湿な“最上の血”が一体となり、政宗という世紀の“突

然変種”が創造された」(危うし独眼流:紫桃正隆署)に頷ける気がします。

pig 20110626 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 蛍大名
        お江の次姉・お初は、1587年に豊臣秀吉の仲介で、従兄弟にあたる京極高次の正室に
        なります。
        当時、高次は1万石の大溝城主であったが、以降、お初の七光りで出世したことから、
        蛍大名と呼ばれたそうです。

≪本日の問題≫


                            <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>

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お江(58) 『末娘・和子、天皇家へ入輿』

お江(58)『末娘・和子、天皇家へ入輿』

お江はもう一人、和子にとっての嬉しい援軍を得ていた。

九条忠栄です。

忠栄は、姉・淀殿によって嫁いだ、お江の娘・定子の夫なのです。

嫁ぐ和子を迎えてくれる朝廷にあって、忠栄は関白の地位についていた。

今、お江は将軍御台所として武家における最高位にあり、最初に産んだ娘・定子は公家の最高位で

ある関白夫人になっているのです。

しかも、末娘が天皇の女御になろうとしていた。

母娘3人が期せずして女と生まれて望みえる、それぞれの最高峰、皇室、公家、武家の頂点に立つ

ことになるのです。

まさに望んでも望み得ない、軌跡ともいえる驚くべき女系譜なのです。

和子入内が難航するなか、いうまでもなく九条家は良き徳川の理解者であり、和子の入内に尽力

した。

二条城
百名城巡りでは、まだ未登城です。
写真は平成20年5月10に撮ったものです。
ni.二条城 002

京都二条城に入った和子は従二位に叙せられ、入内(じゅだい)を迎えた。

1620年6月18日、入内当日を迎え、長櫃160棹を先頭に、天皇に贈られる御装束の入った唐櫃など

378荷が列をなし、二条城を出て御所に向った。

後水尾天皇は、后(きさき)となる徳川の娘は東国武士の娘だけに、いかつい可愛げのない女に違い

ないと高を括っていた。また、宮中の者たちも、どんな田舎娘が現れるか、さげすみの態度でまってい

た。

和子の入内絵(東福門院入内図屏風絵)
*徳川美術館HPよりお借りしています。
to.徳川和子入内絵

しかし皆が、牛車を降りる14歳の女性にビックリしたという。

一番驚いたのは、后とする天皇本人であった。

実に愛らしく気品に溢れていた。公家の息女でもこれだけの器量は少ないと思えた。養源院に残る

お江の肖像画の上品さ、また美形の織田家の血を引くだけに、和子は美質の女であった。

1号 20110625 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 長尾為影(謙信の父)
        長尾為影(謙信の父)は、越後の守護上杉為家を殺害し大名になっています。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:お江(楠戸義昭薯)>

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蝮と呼ばれた道三 その8 「非業の最期」

斎藤道三 その8 『非業の最期』

1556年4月20日、道三は新緑の中に立つ岐阜城を目がけ、長良川へと押し出した。

合戦は朝に始まり、道三の采配よく、一度は敵を退ける。

しかし、兵力の乏しい道三は、時間がたつにつれ、次第に追い詰められていく。

道三は恐れない。すでに国も捨て、自分の命も捨ててしまっていたからです。

敵が走り込んできた。

道三は、両膝を斬り落とされ、ドット倒れる。

敵は踊りかかって首を討った。道三63歳であった。


道三が討たれた長良川(岐阜城より)
gi.岐阜城 長良川 001 gi.岐阜城 長良川 002

無理に無理を重ねると、やはり最後は非業に倒れるのです。

しかし、その壮烈なことが道三みたいに徹底していればいいのかも知れません。

最後に自分の人生がそういうものだということを見極めて、最後の遺言状も記し、出陣の時の潔さ、

これでおれの人生の幕は降りたと・・・。

自分が役者というより、観客になってしまって、自分の芝居を見ていたのかも知れません。

彼は野蛮人でなく、大変な文明人だったのかも知れません。美濃のマムシですし。

pig 20110625 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 自身への従属の証明のため
        豊臣秀吉も自身への従属の証明として、全国の大名に対して上洛を下命しています。
        長宗我部元親、島津義久や北条氏政は、上洛命令を拒絶したため征伐の対象になって
        います。

≪本日の問題≫


                                   <参考文献:日本史探訪(角川書店編)>

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蝮と呼ばれた道三 その7 「義龍の謀叛」

斎藤道三 その7 『義龍の謀叛』

道三は、国主の座を息子・義龍に譲って隠居する。義龍30歳の時です。

1555年11月に、義龍は2人の弟を岐阜城で突然殺しています。道三への謀叛です。

斎藤義龍(1527-1561年)
sa.斎藤義龍

義龍は国中に檄を飛ばした。

「実父、土岐頼芸の仇、道三入道を討つ」

義龍は道三に育てられたとはいえ、道三がかつて追放した国主・頼芸の愛妾の子であったという。

道三は兵を集めた。

2千7百の兵が駆けつけたが、義龍は1万2千もの兵を集め、しかも岐阜城に居座ってしまった。

しかし、道三は逃げなかった。

道三が、この30年をかけて戦ってきたのは、中世の古びた秩序であった。土岐家の血脈を語るとき、

義龍はまさに中世そのものであったから。

道三は、その持てるすべての力をふるって、美濃における自らの意義を天に問おうとする。そして、岐

阜の城下町に火を放った。


道三は中世の壊し手として、ひとつの意義があったのでしょう。

そして新しい経済というものを導入して、現実に適応した経済政策をとったということは評価するべき

ことなのでしょう。

しかし、それは道三が背負った無数の悪名が彼にとっての代償だとすれば、革命に成功しなければ

悪人と評される訳ですから、革命家として彼を見るならば、彼の生涯は象徴的だということかも知れま

せん。

道三の遺言状の墨付きは乱れている。決して一息に書かれたものではないと言われます。

道三はこの中で、国を信長に譲り、息子には出家することを命じているそうです。


別室のクラチーさん」が「魔王とマムシ」について考察しています。 別室のクラチーさんは、「こちら」です。
クラチー 002
           【クラチーさんの考察の一部です】
            …歴史上の人物ってさ、「自国の英雄、他国の侵略者」みたいなノリなんですよね。
           それに、「実は勝った側の口封じ」ってのもありますし。
           結局は勝って生き残った奴らが、今日までの歴史を作ってきたんですから、
           自分たちの都合で誇張している表現もあるはずですしね。




sa-ko 20110623 001

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 新参者の武将
        先鋒を命じられることは名誉とされ、口先では先鋒を希望するが心の奥底では回避した
        かったという。
        そのため、新参者が新しい主人に対する忠誠心を証明するため、その役割を命じたという。

≪本日の問題≫


<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>

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