お江(62) 『お江逝く』
お江(62) 『お江逝く』
お江は1624年、江戸城・西の丸で病に倒れます。
その時、秀忠も家光も、また忠長も上洛しており、江戸城には誰もいなかった。
秀忠と家光はすべての大名を引連れて上洛し、この度の最大の目的のため二条城は改築・増築が
なされ、豪壮華麗なたたずまいとなり、10月2日そこに後水尾天皇の行幸を仰いだ。
江戸を出る時、お江は元気そのものであった。
何がお江の身に起きたのか、残念ながら彼女の病状など伝わるものはありません。
天皇の行幸を仰ぎ、中宮和子もうきうきした高揚感に浸っていたとき、夫と息子の晴れ舞台に想い
を馳せるなかで、お江は重病に陥ったのでした。
母想いの駿河大納言忠長は母危篤の報に、すぐその夜半、馬に飛び乗って、僅かの供と京都を離れ
ています。
お江(崇源院)(1573-1626)

家光は側近の稲葉正勝(春日の局の息子)を名大として江戸に遣わした。
家光は将軍としてやらなければならぬ仕事があって、急ぎ大坂城に向った。
豊臣家の大坂城を破却して、石垣を積みなおし、まったく徳川好みに造り替える工事が進捗中であっ
たのです。
家光は本丸の仮御殿に泊まって、本丸の縄張りを指図すると、二条城にとって帰した。
そして10月14日、突如、日程を変更し、明日、母・お江のために江戸に帰るとの御触れをだした。
だが、その夜、家光のもとに母が10月11日に亡くなったとの報がもたらされる。
一方、お江から溺愛された忠長は、生きていて欲しい心に念じて、東海道を急ぎ10月11日に江戸城
に着いたが、ほんの一時(いっとき)前にお江は事切れたばかりで、忠長は母の死に目に会えなかっ
たという。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 竹中半兵衛
黒田孝高(官兵衛)と竹中重治(半兵衛)は、後世、共に秀吉の双璧と謳われ、
「両兵衛」・「二兵衛」と称されています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
お江は1624年、江戸城・西の丸で病に倒れます。
その時、秀忠も家光も、また忠長も上洛しており、江戸城には誰もいなかった。
秀忠と家光はすべての大名を引連れて上洛し、この度の最大の目的のため二条城は改築・増築が
なされ、豪壮華麗なたたずまいとなり、10月2日そこに後水尾天皇の行幸を仰いだ。
江戸を出る時、お江は元気そのものであった。
何がお江の身に起きたのか、残念ながら彼女の病状など伝わるものはありません。
天皇の行幸を仰ぎ、中宮和子もうきうきした高揚感に浸っていたとき、夫と息子の晴れ舞台に想い
を馳せるなかで、お江は重病に陥ったのでした。
母想いの駿河大納言忠長は母危篤の報に、すぐその夜半、馬に飛び乗って、僅かの供と京都を離れ
ています。
お江(崇源院)(1573-1626)

家光は側近の稲葉正勝(春日の局の息子)を名大として江戸に遣わした。
家光は将軍としてやらなければならぬ仕事があって、急ぎ大坂城に向った。
豊臣家の大坂城を破却して、石垣を積みなおし、まったく徳川好みに造り替える工事が進捗中であっ
たのです。
家光は本丸の仮御殿に泊まって、本丸の縄張りを指図すると、二条城にとって帰した。
そして10月14日、突如、日程を変更し、明日、母・お江のために江戸に帰るとの御触れをだした。
だが、その夜、家光のもとに母が10月11日に亡くなったとの報がもたらされる。
一方、お江から溺愛された忠長は、生きていて欲しい心に念じて、東海道を急ぎ10月11日に江戸城
に着いたが、ほんの一時(いっとき)前にお江は事切れたばかりで、忠長は母の死に目に会えなかっ
たという。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 竹中半兵衛
黒田孝高(官兵衛)と竹中重治(半兵衛)は、後世、共に秀吉の双璧と謳われ、
「両兵衛」・「二兵衛」と称されています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
孫子の兵法 『勝利の見通し』 (始計編)
孫子の兵法 『勝利の見通し』 (始計編)
開戦に先立つ作戦会議で、勝利の見通しが立つのは、勝利するための条件が整っているからである。
逆に見通しが立たないのは、条件が整っていないからである。
条件が整っていれば勝ち、整っていなければ負ける。
勝利する条件がまったくなかったら、まるで問題にならない。
この観点に立つなら、勝敗は戦わずして明らかとなる。
「勝算がなければ戦わない」(謀攻編)というのが「孫子」の基本認識である。
自国の戦力、彼我の優劣を検討するのは、みな勝算のあるなしを明らかにするためである。
それは可能であり、しかも必要不可欠な前提である孫武は考えている。
秀吉の軍師「黒田官兵衛」(1546-1604年)

山本五十六元帥は昭和の提督のなかでは1、2を争う名将だとされている。
しかし、その彼にして、太平洋戦争の開戦にあたって「1年ぐらいは存分に暴れてみせる。しかし、その
先のことはわからない」と語ったという。
他は押して知るべし。
勝利の見通しもなしに始められた太平洋戦争は「孫子」にいわせれば、最も拙劣な戦争であった。
百名城巡り同士の「みゅったさん」が、修復工事が終った「川越城」に登城し、詳しくレポートされて
いますので、時間のある方は訪問されてください。 「こちら」です。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 右眼
政宗は、天然痘で右眼を失明しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:孫子の兵法(守屋洋薯)>
開戦に先立つ作戦会議で、勝利の見通しが立つのは、勝利するための条件が整っているからである。
逆に見通しが立たないのは、条件が整っていないからである。
条件が整っていれば勝ち、整っていなければ負ける。
勝利する条件がまったくなかったら、まるで問題にならない。
この観点に立つなら、勝敗は戦わずして明らかとなる。
「勝算がなければ戦わない」(謀攻編)というのが「孫子」の基本認識である。
自国の戦力、彼我の優劣を検討するのは、みな勝算のあるなしを明らかにするためである。
それは可能であり、しかも必要不可欠な前提である孫武は考えている。
秀吉の軍師「黒田官兵衛」(1546-1604年)

山本五十六元帥は昭和の提督のなかでは1、2を争う名将だとされている。
しかし、その彼にして、太平洋戦争の開戦にあたって「1年ぐらいは存分に暴れてみせる。しかし、その
先のことはわからない」と語ったという。
他は押して知るべし。
勝利の見通しもなしに始められた太平洋戦争は「孫子」にいわせれば、最も拙劣な戦争であった。
百名城巡り同士の「みゅったさん」が、修復工事が終った「川越城」に登城し、詳しくレポートされて
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 右眼
政宗は、天然痘で右眼を失明しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:孫子の兵法(守屋洋薯)>
最後の戦国武将 その16 『政宗、黒川城に入城』
最後の戦国武将 その16 『政宗、黒川城(会津若松城)に入城』
黒川城(会津若松城)に入った政宗は、ここを本拠とすることを決意し入城の翌日の1589年7月12日に
母の義姫と、妻の愛姫を米沢から呼んでいます。
しかし、政宗は黒川城に対する本格的な修築工事をすることはなかった。
政宗の軍事行動の真の敵は佐竹義重であり、会津は佐竹攻略、すなわち関東進出の経過的な根拠地
として位置づけたと思われます。
会津若松城

織田信長が、那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城というように、新しい領土を獲得する度
に、その前衛に城を築いていったように、輝宗・政宗の2代で城を桑折西山城から米沢城、そして今回の
黒川城というように次々に移転していったことは、信長の考え方と同じなのです。
つまり、政宗は信長と比べても遜色ない考えを持っていたと推測できると思います。
黒川城入城から暫くの間、会津攻めに軍功のあった家臣に対する論功行賞が行われ、政宗に内通した
猪苗代盛国がもちろん軍功第一とされ、加増とともに一家に準ずる家格が許され、その他、蘆名家の宿
老なども寝返りを賞され、所領の安堵を受けています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 際立つ戦功は挙げていない
政宗らが渡鮮したことを実証するものとして、政宗の隠居所である若林城や政宗が再建
した瑞厳寺などに朝鮮から持ち帰った「臥龍梅」が残っているが、際立つ戦功は伝わって
いません。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
黒川城(会津若松城)に入った政宗は、ここを本拠とすることを決意し入城の翌日の1589年7月12日に
母の義姫と、妻の愛姫を米沢から呼んでいます。
しかし、政宗は黒川城に対する本格的な修築工事をすることはなかった。
政宗の軍事行動の真の敵は佐竹義重であり、会津は佐竹攻略、すなわち関東進出の経過的な根拠地
として位置づけたと思われます。
会津若松城

織田信長が、那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城というように、新しい領土を獲得する度
に、その前衛に城を築いていったように、輝宗・政宗の2代で城を桑折西山城から米沢城、そして今回の
黒川城というように次々に移転していったことは、信長の考え方と同じなのです。
つまり、政宗は信長と比べても遜色ない考えを持っていたと推測できると思います。
黒川城入城から暫くの間、会津攻めに軍功のあった家臣に対する論功行賞が行われ、政宗に内通した
猪苗代盛国がもちろん軍功第一とされ、加増とともに一家に準ずる家格が許され、その他、蘆名家の宿
老なども寝返りを賞され、所領の安堵を受けています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 際立つ戦功は挙げていない
政宗らが渡鮮したことを実証するものとして、政宗の隠居所である若林城や政宗が再建
した瑞厳寺などに朝鮮から持ち帰った「臥龍梅」が残っているが、際立つ戦功は伝わって
いません。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
最後の戦国武将 その16 『政宗と秀吉』
最後の戦国武将 その16 『政宗と秀吉』
もちろん政宗も、秀吉から問責されることは覚悟の上であった。
詰問される前に「なぜ会津を攻めたのか」を摺上原の戦い直後に、秀吉のもとに使者を送っている。
政宗主張の一番のポイントは「自分は奥州探題である。探題としての権限で蘆名氏を攻めたまでである」
と言い切っているのです。
その他にも「戦いは会津方から仕掛けたものである」とか「会津方が約束を違えた」と弁明しています。
これに対して秀吉は、この度の蘆名攻めの行為を非難する書状を政宗に遣わし、上杉景勝と佐竹義重
には相談のうえ、政宗を討つべきことを命じています。
長浜駅前の秀吉(1537-1598年)

政宗はこうした関白の論理に、奥州探題の論理では対抗できないと判断したのでしょう。秀吉側近の浅
野長政や豊臣秀次・前田利家らに馬を贈り、秀吉への取り成しを依頼します。
しかし、その一方では、北条氏直および氏照に書状を遣わし、佐竹義重を挟み撃ちにすることを申し入れ
ている。
この時期、石田三成が蘆名氏の旧臣・金上氏らのもとに兵糧米・鉄・鉛などを送っていることから、秀吉は
蘆名氏遺臣を再組織し、それと佐竹義重・上杉景勝に協力させ、蘆名領を奪回しようと考えたことが伺
えます。
クラチーさんが伊達政宗を描いてくださいました。 クラチーさんは「こちら」です。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 6男・徳川忠輝
政宗の娘・五郎八姫は、1599年1月20日に有力大名との関係を深めようとする家康の策謀
の一つとして、家康の6男・忠輝と婚約し、1606年12月24日に忠輝と結婚しています。
忠輝とは仲睦まじかったが子供は生まれなかったとされます。
1616年、忠輝が改易されると離縁され、父・政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らしたと
いいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
もちろん政宗も、秀吉から問責されることは覚悟の上であった。
詰問される前に「なぜ会津を攻めたのか」を摺上原の戦い直後に、秀吉のもとに使者を送っている。
政宗主張の一番のポイントは「自分は奥州探題である。探題としての権限で蘆名氏を攻めたまでである」
と言い切っているのです。
その他にも「戦いは会津方から仕掛けたものである」とか「会津方が約束を違えた」と弁明しています。
これに対して秀吉は、この度の蘆名攻めの行為を非難する書状を政宗に遣わし、上杉景勝と佐竹義重
には相談のうえ、政宗を討つべきことを命じています。
長浜駅前の秀吉(1537-1598年)

政宗はこうした関白の論理に、奥州探題の論理では対抗できないと判断したのでしょう。秀吉側近の浅
野長政や豊臣秀次・前田利家らに馬を贈り、秀吉への取り成しを依頼します。
しかし、その一方では、北条氏直および氏照に書状を遣わし、佐竹義重を挟み撃ちにすることを申し入れ
ている。
この時期、石田三成が蘆名氏の旧臣・金上氏らのもとに兵糧米・鉄・鉛などを送っていることから、秀吉は
蘆名氏遺臣を再組織し、それと佐竹義重・上杉景勝に協力させ、蘆名領を奪回しようと考えたことが伺
えます。
クラチーさんが伊達政宗を描いてくださいました。 クラチーさんは「こちら」です。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 6男・徳川忠輝
政宗の娘・五郎八姫は、1599年1月20日に有力大名との関係を深めようとする家康の策謀
の一つとして、家康の6男・忠輝と婚約し、1606年12月24日に忠輝と結婚しています。
忠輝とは仲睦まじかったが子供は生まれなかったとされます。
1616年、忠輝が改易されると離縁され、父・政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らしたと
いいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
最後の戦国武将 その15 『秀吉に、にらまれた政宗』
最後の戦国武将 その15 『関白秀吉に、にらまれた政宗』
政宗が1589年7月に宿敵ともいうべく蘆名氏を滅亡に追い込んで、奥州独立国構想の夢を膨らませて
いたとき、すでに豊臣秀吉による天下統一は、完成一歩手前の段階に至っていた。
伊達家は父・輝宗の時代から、織田信長に鷹を送ったりして好を通じ、政宗の時代になっても豊臣政権
と基本的には、その外交姿勢を保ち1587年には奥州産の名馬を関白・秀吉に送っている。
この頃に、秀吉から「大名同士が戦いあうのは、“私戦”として禁止する」という、いわゆる「私戦禁止令」
が政宗のもとにも届けられていた。
ところが、政宗は、この「私戦禁止令」を無視して領土を拡張していきます。
一応、馬を贈ったりしてご機嫌はとったりしているが、豊臣政権に組み込まれるつもりはなかったのでし
ょう。
“最上のキツネ”最上義光(1546-1614年)

事実、佐竹氏・蘆名氏との戦いを有利に展開するために、佐竹氏を牽制すべく、後北条氏と結んでいた。
この後北条氏は、最後の最後まで豊臣政権への屈服を拒絶した大名であり、政宗がこの後北条氏と同
盟していた意味は大きいものがあった。
政宗と最上義光との講和の直後、秀吉は政宗に上洛を命じるが、政宗はこれを黙殺します。
政宗にすれば、「私戦停止令」によって講和しても、“最上のキツネ”といわれる最上義光がいるので、
たとえ関白の命令であっても国を留守にすることはできなかった。とも思われます。
それともうひとつは、後北条氏との関係です。北条氏政・氏直父子も秀吉の命令にもかかわらず上洛を
拒否し続けていたのです。
政宗には、関白に支配される世界とは異なる「奥州世界」を支配する自負があったのでしょう。この自負
が1589年の蘆名討伐となって表れています。
秀吉にしてみれば、摺上原で蘆名氏と戦い、義広が敗れて家を滅ぼしてしまったことを見過ごすことは
できず、特に政宗の行為は「私戦禁止令」違反として、きびしく糾弾されることとなります。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 結論の出ない会議
秀吉の小田原征伐で、北条氏方の戦術を巡る評議における論争で、老臣松田憲秀は籠城
を主張したのに対し、北条氏康の四男である北条氏邦は箱根に出撃する野戦を主張して
意見が分かれ、また降伏に際しても仲介ルートの選択で結論が出るまで意見が分裂した
と言われている通説です。
この故事から、現在では小田原評定という言葉は「いつになっても結論の出ない会議や
相談」という意味の比喩表現として使われています。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
政宗が1589年7月に宿敵ともいうべく蘆名氏を滅亡に追い込んで、奥州独立国構想の夢を膨らませて
いたとき、すでに豊臣秀吉による天下統一は、完成一歩手前の段階に至っていた。
伊達家は父・輝宗の時代から、織田信長に鷹を送ったりして好を通じ、政宗の時代になっても豊臣政権
と基本的には、その外交姿勢を保ち1587年には奥州産の名馬を関白・秀吉に送っている。
この頃に、秀吉から「大名同士が戦いあうのは、“私戦”として禁止する」という、いわゆる「私戦禁止令」
が政宗のもとにも届けられていた。
ところが、政宗は、この「私戦禁止令」を無視して領土を拡張していきます。
一応、馬を贈ったりしてご機嫌はとったりしているが、豊臣政権に組み込まれるつもりはなかったのでし
ょう。
“最上のキツネ”最上義光(1546-1614年)

事実、佐竹氏・蘆名氏との戦いを有利に展開するために、佐竹氏を牽制すべく、後北条氏と結んでいた。
この後北条氏は、最後の最後まで豊臣政権への屈服を拒絶した大名であり、政宗がこの後北条氏と同
盟していた意味は大きいものがあった。
政宗と最上義光との講和の直後、秀吉は政宗に上洛を命じるが、政宗はこれを黙殺します。
政宗にすれば、「私戦停止令」によって講和しても、“最上のキツネ”といわれる最上義光がいるので、
たとえ関白の命令であっても国を留守にすることはできなかった。とも思われます。
それともうひとつは、後北条氏との関係です。北条氏政・氏直父子も秀吉の命令にもかかわらず上洛を
拒否し続けていたのです。
政宗には、関白に支配される世界とは異なる「奥州世界」を支配する自負があったのでしょう。この自負
が1589年の蘆名討伐となって表れています。
秀吉にしてみれば、摺上原で蘆名氏と戦い、義広が敗れて家を滅ぼしてしまったことを見過ごすことは
できず、特に政宗の行為は「私戦禁止令」違反として、きびしく糾弾されることとなります。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 結論の出ない会議
秀吉の小田原征伐で、北条氏方の戦術を巡る評議における論争で、老臣松田憲秀は籠城
を主張したのに対し、北条氏康の四男である北条氏邦は箱根に出撃する野戦を主張して
意見が分かれ、また降伏に際しても仲介ルートの選択で結論が出るまで意見が分裂した
と言われている通説です。
この故事から、現在では小田原評定という言葉は「いつになっても結論の出ない会議や
相談」という意味の比喩表現として使われています。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
日本百名城23 「小田原城」
日本百名城23 「小田原城」
7月17日(日)に石垣山一夜城に登城しましたので、下山後、秀吉に攻められた小田原城に登城しま
した。小田原城は、「日本百名城の旅」で平成21年11月24日に登城して以来の再登城です。
前回は本丸を中心に巡りましたので、今回は二の丸・馬出を巡ってみました。
小田原城天守
今回は、天守に行っていませんので、この写真は前回撮ったものです。

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられて
います。
1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備
され、豊臣秀吉の小田原征伐に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大
の中世城郭に発展しています。
江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、
城の規模は三の丸以内に縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、
近世城郭として生まれ変わっています。
明治3年に小田原城は廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年の関東大
震災で壊滅的な被害を受け、一部の堀などは埋め立てられています。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定され、本丸を中心に
「城址公園」として整備され、昭和35年に天守閣が復興、次いで昭和46年には常盤木門、平成9年には
銅門、平成21年には馬出門が復元されています。
常盤木門 銅門
この写真も前回撮ったものです。

残念ながら、現在見ている小田原城は豊臣秀吉が攻めた北条氏の小田原城ではなく、江戸時代に造ら
れた城なのです。
戦国期の小田原城の遺構である八幡山古郭は、15世紀末、伊勢宗瑞(北条早雲)が大森藤頼を破った
ころの小田原城の中心地の一つであったと考えられている場所で、県立小田原高校からその東側にか
けての一帯あたりといわれています。
小田原城八幡古郭曲輪

次回は、戦国小田原城まで足を運んでみたいと思います。
小田原城と石垣山一夜城の位置(距離は僅か3Km)

上空から見る小田原城

今回は、駐車場(コインP)に一番近い「学橋」から入城です。

銅門
かなり大きいので、11mmの広角を使用しています。

住吉橋と銅門
馬出曲輪から住吉橋を渡り銅門に入ります

「小田原城と馬出門」
馬出門
馬出門は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの場所に存在し、1672年に桝形
形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続しています。

馬出門は、小田原城の大手筋に位置し、二の丸を守る重要な門です。2009年春、総工費5億円余、江戸
時代の姿に甦っています。
馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ「桝形形式」の門で、二つの門には、
控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門です。
二の丸の隅櫓


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 名胡桃事件
申し訳ございません。昨日の問題で正解が表示されておりませんでした。
1589年、豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏になったが、
真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵された。
名胡桃城には鈴木重則が城代として入るが、同年11月、沼田城代となった北条の
猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する。(名胡桃事件)
これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い小田原征伐となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:小田原市役所HP>
7月17日(日)に石垣山一夜城に登城しましたので、下山後、秀吉に攻められた小田原城に登城しま
した。小田原城は、「日本百名城の旅」で平成21年11月24日に登城して以来の再登城です。
前回は本丸を中心に巡りましたので、今回は二の丸・馬出を巡ってみました。
小田原城天守
今回は、天守に行っていませんので、この写真は前回撮ったものです。

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられて
います。
1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備
され、豊臣秀吉の小田原征伐に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大
の中世城郭に発展しています。
江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、
城の規模は三の丸以内に縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、
近世城郭として生まれ変わっています。
明治3年に小田原城は廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年の関東大
震災で壊滅的な被害を受け、一部の堀などは埋め立てられています。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定され、本丸を中心に
「城址公園」として整備され、昭和35年に天守閣が復興、次いで昭和46年には常盤木門、平成9年には
銅門、平成21年には馬出門が復元されています。
常盤木門 銅門
この写真も前回撮ったものです。


残念ながら、現在見ている小田原城は豊臣秀吉が攻めた北条氏の小田原城ではなく、江戸時代に造ら
れた城なのです。
戦国期の小田原城の遺構である八幡山古郭は、15世紀末、伊勢宗瑞(北条早雲)が大森藤頼を破った
ころの小田原城の中心地の一つであったと考えられている場所で、県立小田原高校からその東側にか
けての一帯あたりといわれています。
小田原城八幡古郭曲輪

次回は、戦国小田原城まで足を運んでみたいと思います。
小田原城と石垣山一夜城の位置(距離は僅か3Km)

上空から見る小田原城

今回は、駐車場(コインP)に一番近い「学橋」から入城です。

銅門
かなり大きいので、11mmの広角を使用しています。

住吉橋と銅門
馬出曲輪から住吉橋を渡り銅門に入ります

「小田原城と馬出門」
馬出門
馬出門は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの場所に存在し、1672年に桝形
形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続しています。


馬出門は、小田原城の大手筋に位置し、二の丸を守る重要な門です。2009年春、総工費5億円余、江戸
時代の姿に甦っています。
馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ「桝形形式」の門で、二つの門には、
控柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門です。
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昨日の正解: 名胡桃事件
申し訳ございません。昨日の問題で正解が表示されておりませんでした。
1589年、豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏になったが、
真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵された。
名胡桃城には鈴木重則が城代として入るが、同年11月、沼田城代となった北条の
猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する。(名胡桃事件)
これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い小田原征伐となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:小田原市役所HP>
小田原征伐で「秀吉が造った一夜城」
小田原征伐で「秀吉が造った一夜城・石垣山城」
石垣山はもともと笠懸山などと呼ばれていたが、1590年豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を
水陸15万(22万とも)の大軍を率いて包囲した時、その本営として総石垣の城を築いたことから石垣山
と呼ばれるようになっています。
この城を秀吉が一夜で築いたように見せたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城と呼ばれてい
ます。
「石垣山一夜城」
登城日:平成23年7月17日

<画像はクリックで拡大します>
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」です。
秀吉はこの城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎たり、千利休や能役者などを呼び寄せ
ています。
この城は単に小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すとともに、長期戦に備
えた本格的な城構えだったといいます。
この城は関東で最初に造られた石垣の城で、石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積み
といわれるもので、小田原藩下の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大震災にも耐え、今日
まで当時の面影を大変良く残している貴重な城跡です。
「二の丸」
二の丸(馬屋曲輪)は、本丸と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張り出した部分及び
東腰曲輪部分の3つの部分からなっています。
伝承によれば、馬屋が置かれ、本丸よりには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。
「井戸曲輪」

井戸曲輪は二の丸北東側にあり、もともと沢になっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲む
ように造られている場所です。
井戸は二の丸から25mも下がったところにあり、今でも湧き水が出ています。
この井戸は「淀殿化粧井戸」とも呼ばれています。
井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿を良く留めている部分です。
「本丸から小田原を望む」

「本丸(奥が天守台)」 「本丸の石垣」

「石垣山一夜城の構造」
石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5mあり、小田原城の本丸より227m高く、また小田原
城までの距離は3Kmと近く、眼下に小田原城やその城下はもとより、遠くには三浦半島や房総半島まで望む
ことができます。
小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所だったといえます。
この城が一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って
白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと言われています。
しかし、実際には4万人が動員され4月初めから6月下旬までの80日間が費やされたといいます。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 肥後熊本藩加藤氏
徳川家光は、旗本を中心とする直轄軍の再編に着手し、肥後熊本藩主加藤忠広の改易を
命じています。
≪本日の問題≫
<参考文献:現地案内板・小田原市役所HP>
石垣山はもともと笠懸山などと呼ばれていたが、1590年豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を
水陸15万(22万とも)の大軍を率いて包囲した時、その本営として総石垣の城を築いたことから石垣山
と呼ばれるようになっています。
この城を秀吉が一夜で築いたように見せたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城と呼ばれてい
ます。
「石垣山一夜城」
登城日:平成23年7月17日


<画像はクリックで拡大します>
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」です。
秀吉はこの城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎たり、千利休や能役者などを呼び寄せ
ています。
この城は単に小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すとともに、長期戦に備
えた本格的な城構えだったといいます。
この城は関東で最初に造られた石垣の城で、石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積み
といわれるもので、小田原藩下の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大震災にも耐え、今日
まで当時の面影を大変良く残している貴重な城跡です。
「二の丸」

二の丸(馬屋曲輪)は、本丸と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張り出した部分及び
東腰曲輪部分の3つの部分からなっています。
伝承によれば、馬屋が置かれ、本丸よりには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。
「井戸曲輪」


井戸曲輪は二の丸北東側にあり、もともと沢になっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲む
ように造られている場所です。
井戸は二の丸から25mも下がったところにあり、今でも湧き水が出ています。
この井戸は「淀殿化粧井戸」とも呼ばれています。
井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿を良く留めている部分です。
「本丸から小田原を望む」

「本丸(奥が天守台)」 「本丸の石垣」


「石垣山一夜城の構造」
石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5mあり、小田原城の本丸より227m高く、また小田原
城までの距離は3Kmと近く、眼下に小田原城やその城下はもとより、遠くには三浦半島や房総半島まで望む
ことができます。
小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所だったといえます。
この城が一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って
白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと言われています。
しかし、実際には4万人が動員され4月初めから6月下旬までの80日間が費やされたといいます。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 肥後熊本藩加藤氏
徳川家光は、旗本を中心とする直轄軍の再編に着手し、肥後熊本藩主加藤忠広の改易を
命じています。
≪本日の問題≫
<参考文献:現地案内板・小田原市役所HP>