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お江(63) 『芝増上寺で葬儀』

お江(63)『芝増上寺で葬儀』

お江の亡骸は死去の3日後に芝増上寺に運ばれ安置され、家光は江戸に10月9日に帰還した。

芝増上寺
お江墓所 002

不思議なことに夫・秀忠は、お江危篤にも行動を起こさず、その死にも悠然として京都に留まっています。

死んだ妻お江に対してあまりにも冷たい。

ただ当時は、妻の葬儀に参列しないのが普通だったようですが・・・。

秀忠が京都を発ったのは10月6日で、秀忠が江戸に帰ったのは、お江の葬儀が終るのを見計らったように、

その3日後の21日であった。

10月18日、将軍家光は享年54歳で逝ったお江の葬儀を、徳川幕府の威信をかけて執り行い、将軍の生母、

また大政所にふさわしい、当時の女性の葬儀としては前例のない規模であったという。

現在の六本木駅がある真上あたりの麻布野で荼毘伏された、お江の遺骨は増上寺の北墓所に埋葬されて

います。

お江は荼毘に伏されましたが、歴代の徳川将軍・御台所はすべて土葬であり、なぜお江だけが火葬なのか

は不思議とされています。

伝染病でなどが死因で火葬にしなければならない理由があったのか、遺言であったのか、それを知る史料

はありません。

夫・秀忠が死んだのは、お江の死から6年後、2人は6つ違いだから、享年は仲良く同じ54歳であった。

秀忠の霊廟の東隣りに、ひと回り小さいが、夫と同じ構造の権現造りの本殿を核としたお江の霊廟が営ま

れ、徳川将軍家の権威を誇示していた。

徳川家墓所               秀忠・お江石塔
pigletも一緒した、増上寺墓所訪問記は「こちら」です。 焼失前のお江霊廟写真もあります。
増上寺 006 お江墓所 005

しかし、その華麗な霊廟群は、一部の門などを除き昭和20年3月の米軍の空襲によって灰燼に帰し、この

地上から姿を消してしまっています。

ところが、不思議にもお江の霊廟の建物が鎌倉に現存しているとのことで、鎌倉に行ってきましたので、次回、

記事にしてみたいと思います。

pig 20110730 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上杉謙信
        甲斐国の武田信玄(武田晴信)と上杉謙信との間で、北信濃の支配権を巡って行われた
        数次の戦いをいう。
        最大の激戦となった第4次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島
        を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと
        呼ばれています。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:お江(楠戸義昭署)>
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テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

牛に引かれて「善光寺」参り

『 一生に一度は善光寺参り 』

長野市内は仕事で何度か訪れたことはありますが、善光寺に足を運んだことがなかったので、「一生に

一度は善光寺参り」ということで、信州・善光寺に7月24日に行ってきました。

善光寺は広大な敷地に大勧進や大本願と39の塔頭からなる大寺院で、日本最古といわれる仏像「一光

三尊阿弥陀如来」を本尊とし、約1400年前の飛鳥時代に創建されたと伝えられています。

善光寺は江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定され、全国からは宗派を問わず、多くの人

が観光で訪れ賑わっています。


【山門(三門)】(重要文化財)

1750年に建立された二層入母屋造りの門です。

屋根は大正年間の葺き替え時に檜皮葺きとなりましたが、平成14年から19年にかけて行われた平成

大修理において、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原されています。

楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられています。

これは通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されています。

更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を如実に物語ってい

ます。

ze.善光寺三門 001

「鳩字の額」
「善」の文字が牛に見えますが、鳩は2羽しか分りません…。ご存知のかた教えてください!
ze.善光寺三門 002

「牛に引かれて善光寺お参り」したいところですが、牛は休憩して動いてくれません。
ze.善光寺牛


【本堂】(国宝)
本堂は創建以来十数回もの火災に遭いましたが、そのたびに善光寺を慕う全国の信徒によって復興

されてきました。

現在の本堂は1707年の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されています。

間口約24m、奥行き約54m、高さ約26mという国内有数の木造建築で、T字型の棟の形が鐘を叩く

撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれています。

屋根は総檜皮(ひわだ)葺きです。

最奥の瑠璃壇には、御本尊・一光三尊阿弥陀如来様をお祀りしているそうです。

ze.善光寺本堂

狛犬さんが煙吐いています。       絵馬はかわいいクマさんです。
ze.善光寺狛犬 ze.善光寺絵馬


【経堂】(重要文化財)

1759年に建立された宝形造りのお堂です。

内部中央には八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められ、輪蔵に付属して

いる腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれています。

現在、経蔵は建物老朽化に伴う検査が行なわれているため、当面の間、内部参拝を停止になっています。

ze.善光寺経堂


【歴代回向柱】

数え年で7年に一度開かれる御開帳のシンボルとして、前立御本尊と人々との架け橋となった回向柱は、

御開帳終了後には経蔵裏手へ移動され、人々の思いと共に長い年月を経て土に還っていくそうです。

現在は昭和30年から平成21年までの10本の回向柱があり、一番古い柱は30cm程になっています。

50年間座って見ていることはできませんから、信じる者は救われるって感じですかね。

ze.善光寺柱

1号 20110729 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 慶長遣欧使節
        大坂の陣の直前、1613年に伊達政宗がヨーロッパに向け遣わせた使節は、当時の年号
        (慶長18年)から「慶長遣欧使節」と呼ばれています。
        家康が幕府を開き、天下人となった後のこの派遣は、密かに天下を狙っていた政宗の
        野心の表れだという説もあります。

≪本日の問題≫


                                        <参考文献:善光寺HPなど>

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最後の戦国武将 その21 「政宗、秀吉に謁見」

最後の戦国武将・伊達政宗 その21 『秀吉に謁見』

政宗は小田原到着後、4日目の7月11日に陣所の普請場ではじめて秀吉に謁見した。

諸将が見守るなか、髪を水引で結び、死装束で秀吉の前に出た。途中で脇差を差したままであるのに

気がついて、傍らの者にそれを投げ、秀吉に近づいた。

秀吉はかがんでいる政宗に近づき、もっていた杖を政宗の首にやり、

「もう少し来るのが遅ければ、ここが危なかったな」

といったという。

その後、秀吉は「かような大軍の陣くばりを見たことはあるまい」といって、政宗に小田原城包囲の陣立

を説明している。

このことから、政宗が秀吉に謁見した陣所は、秀吉の本陣が置かれた石垣山城であったことが判ります。

石垣山城は、7月11日の時点では、まだ普請中だった。


石垣山城
石垣山城登城記は「こちら」です。
is.石垣山城二の丸 001

政宗は、よほど秀吉に気に入られたとみえ、翌12日には今度は茶の湯の席に招かれています。

この席での会話はわかりませんが、秀吉は24歳のこの若者に興味を持ったのでしょう。刀一腰を与えて

います。

政宗が、会津・岩瀬・安積3郡の没収という「軽い怪我」で済んで、小田原をあとにしたのが、7月16日で

27日には黒川城に戻っています。

もっとも、黒川城は没収なので、この帰国のときには接収使が伴っていたそうです。


『上高地』

上高地はマイカー規制から始まり、現在は観光バス規制も始まっています。

6月~10月の多くの週末は観光バスも規制対象なっていますので、調べてから計画を組まれることをお勧め

します。

前回は帝国ホテルからウェストン地区を経由して河童橋まで歩きましたので、今回は明神池往復の時間は

ありませんので、河童橋から明神地区の湿原・木道を歩いてみました。

この時期、河童橋際は人で渋滞しています。(7月25日)
ka.上高地 002 ka.上高地 001

河童橋から梓川上流を望む
ka.上高地 007

明神地区の木道
ka.上高地 007

今回は、この風景を見るための上高地でしたが、ここで雨が降り出しましたので
残りは次回のお楽しみですね。
ka.上高地 004 ka.上高地 005

pig 20110728 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: いろはひめ
        政宗と正室・愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、
        当然夫妻は伊達家後継者となる男児誕生を熱望いましたが、生まれた子は女だった。
        このため、男子名の名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫
        (いろはひめ)と命名したといいます。

≪本日の問題≫


                              <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>

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最後の戦国武将 その20  「政宗、小田原への遅参」

最後の戦国武将・伊達政宗 その20 『小田原への遅参』

家中騒動により、政宗の小田原参陣は5月10日の予定が大幅に遅れてしまった。

実際に黒川城を出発したのは5月19日であった。しかし、南会津の大内に着いたところで、黒川城に戻っ

ている。

これまたその理由は明確でない。

小田原参陣が決まって、黒川城を出発したが、あくまで参陣に反対し、徹底抗戦を主張していた伊達成実

に不穏な動きを察知し、不穏グループをもう一度説得したのでは、とも考えられます。

小田原参陣の断を下した政宗自身ですら4月中旬くらいまで迷っていたのだから、家中において参陣派・

敵対派が睨み合っていたことは容易に推測できます。

家中の意見をまとめ、再び黒川城を出発したのは、6月12日であった。初めの予定から既に1ヵ月余り遅

れていた。

黒川城を出た政宗は、片倉景綱ら百騎ほどを従え、越後の上杉領を通って小田原に向った。後北条氏領

を避けて遠回りをしたこともあり、小田原に到着したのは、7月7日であった。


小田原城(画像は小田原市役所HPよりお借りしています)
od.小田原城 100

小田原開城=後北条氏滅亡が8月5日であるので、まさに「ぎりぎりセーフ」であった。

この時の政宗の恰好は、髷を切り、白麻の陣羽織を着ていたと伝えられるように、死を覚悟している風で

あったという。

その日、秀吉は政宗の謁見を許さず、2日後、秀吉は、前田利家・浅野長政ら5人の詰門を政宗もとに遣

わし、

「上洛御礼言上が遅れたのはなぜか」

「秀吉麾下(きか)の蘆名氏の討伐したのはどうしてか」

「なぜ親類である諸家と戦うのか」

といったことを詰問している。

詰問使から報告を聞いた秀吉は、会津攻めより前のことは不問とし、会津攻めの罪を責める態度を決め、

その結果、会津・岩瀬・安積の3郡を没収することとなった。

政宗が殺されるかも知れないという綱渡りのような遅参にもかかわらず、本領に加え二本松・塩松を安堵

されたことの背景には、秀吉が政宗の器量を見抜いていたからという。

政宗にしてみれば、詰問使が前田利家や浅野長政であったことが幸いした。これがもし、石田三成だった

ら政宗の命はどうなっていたかわからない。

三成はこの時期、落とせない忍城を水攻めしていたのでしょう。

前田利家や浅野長政らとは、前々から手紙のやりとりがあり、しかも政宗は抜かりなく彼らに贈り物攻勢

をかけていたのです。

度々の贈り物によって政宗に対する心証をよくしていた詰問使が、秀吉の前で政宗のことを悪くいう筈は

なかったということでしょう。

sa-ko 20110727 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 長谷堂城
        関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が
        最上氏居城山形城を攻撃した際、留守政景を名代として最上に援軍を派遣し、長谷堂城
        で戦っています。
        一説には山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得ようとして
        いたともいう。しかしいずれにしても、伊達の援軍をあわせても、上杉軍の兵力における
        優位に変わりはなかった。

≪本日の問題≫


                             <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>

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最後の戦国武将 その19  「伊達家の家中騒動」

最後の戦国武将 その19 『伊達家の家中騒動』

政宗の弟・小次郎殺害惨劇はいったいどのような意味を持ったのでしょう。

先に父を殺し、自らの手で弟を殺した。

この時点で弟を殺さなければならなかった必然性は何であったのか。

弟・小次郎を擁立して政宗をなきものにしようとする陰謀に対する先制攻撃であったのでしょうが、確たる

証拠は伝わっていません。

しかし、最上義光と母・義姫による最上氏の陰謀であり、伊達家中における政宗廃立を指示するグループ

のあったことを否定できないことでしょう。

伊達家内部に亀裂を生ずるのを恐れた政宗が、弟を生かしておくことはマイナスになると判断したことは

間違いないことだろうと思われます。

この戦国時代は、今の私たちが考えるのとは違って、兄弟というのは、そこに様々な矛盾を内包していた

のです。

弟を殺して成功した織田信長、斉藤義竜の例、弟を殺さないで失敗した長尾晴景の例が挙げられます。

他方の母・義姫は、兄の最上義光のもとでそのまま暮らすことになり、1622年の最上氏改易後は政宗の

もとに引き取られ、その1年後に彼女は亡くなっています。


『白根山湯釜』

涼を求めて、車で行ける山に登ってきました。

出発したのは7月24日(日)、草津温泉経由で白根山を目指しました。

志賀高原に向うこのルートは、以前から良く利用していましたが、湯釜に立寄ることはありませんでした

ので、今回は天気も良かったので、湯釜まで登ることにしました。

湯釜まで、登り20分、下り15分です。
蟻さんみたいに、沢山の人が登っています。
si.白根山・湯釜 001

登る途中に休憩のため、眼下を見下ろせば、白根山の噴火により出来た弓池や湿原などが広がっています。
si.白根山・湯釜 002

草津と志賀を結ぶ国道292号線の中間地点にある白根山は、標高2161mの活火山で、山頂の火口湖が
湯釜で、直径300m、水深30mで美しいエメラルドグリーンの火口湖です。
si.白根山・湯釜 003

湯釜は世界一の酸性湖でPH1,2の濃度で魚も住めないほどの強度の酸性湖です。
21℃の涼しい場所で湯釜を堪能していると、霧が発生してきましたので、急いで下山しました。
si.白根山・湯釜 004

今回の涼を求めて「山」は、上高地をメインにしましたので信州に向けて下山しました。

pig 20110726 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 軍師
        はじめ伊達政宗の父・輝宗の徒小姓として仕えた。その後、遠藤基信の推挙によって
        1575年に政宗の近侍となり、のち軍師として重用されるようになっています。

≪本日の問題≫


                               <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>

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最後の戦国武将 その18 「母の毒殺計画」

最後の戦国武将 その18 「母の毒殺計画」

秀吉が3万2千の直轄軍を率いて京都の聚楽第を出馬したのは、1590年4月3日であった。

5月1日の秀吉軍による山中城攻撃を皮切りに、小田原征伐の火ぶたが切って落とされた。

秀吉軍の総勢は21万とも22万ともいわれる大軍であった。

この間にも政宗に対しては、秀吉の家臣や前田利家などから帰属を勧告する書状が届けられていたが、

最終的には秀吉の動員力の大きさに圧倒され「もともに当たって勝てる相手ではない」と判断したので

しょう。

「小田原に参陣する」と態度表明し、5月8日に黒川城を出陣します。

出発前日の4月7日に政宗は珍しく母・義姫のいる黒川城(会津若松城)内の西館を訪ねます。

「死出の旅路になるかも知れない。死ぬ前に母の顔をもう一度」

と思ったのか、小田原参陣を知った母が「一献差し上げたい」と言って政宗を招待したのかは分から

ない。

政宗は母の料理を食べたところ、たちまち激しい腹痛に襲われた。

「しまった、毒を盛られた」

と判断した政宗は、その場で食べたものを吐き出し、すぐに館に戻り、発毒丸を服用した。(毒味役で

あったなどの説もあります。)

毒消しの効果のある初毒丸によって一命はとりとめたのです。

この政宗の母の毒殺計画は、母・義姫の単独計画ではなく、義姫の兄・最上義光が糸を引いていた

と考えられ、その後、義姫は黒川城を脱出し兄・義光のもとに逃げ込むことになります。

一命をとりとめた政宗は、7日後に行動を起こします。


伊達政宗(クラチーさん作)
*クラチーさんのブログは、リンク蘭の『蓼食う虫も好き好き』です。
da.伊達政宗 by クラチー

政宗は少数の側近を連れて、弟・小次郎がいる小原縫殿之助の屋敷に出向う。

すぐに呼ばれたのであろう、小次郎が政宗のいる部屋に近づいた。

政宗は側近の屋代勘解由兵衛に向かって「小次郎を討て」と命じますが、屋代は突然のことでもあり

「主人の弟を討つことはできない」といって辞退します。

そうこうする内に小次郎が部屋に入ってきた。

政宗は、部屋に入って正座し挨拶を始めた小次郎に向かい、立ち上がりざまに切りつけ、二太刀で

刺し倒しています。

屋代にとどめ刺すことを命じて、小原邸をあとにした。

このことを知った母・義姫は、その日の夜中に黒川城西館を出奔し、兄・義光のもとに逃れていったの

です。

この悲劇は、いったいどのような意味を持ったのでしょうか。

1号 20110726 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 相馬義胤
        政宗の初陣は15才の時で、相馬義胤が伊達氏の領地である亘理郡に侵入した際に、
        父・輝宗に同行し出陣しています。

≪本日の問題≫


                             <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>

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最後の戦国武将 その17 『小田原評定』

最後の戦国武将 その17 『小田原評定』

1589年の後半、政宗が秀吉から問責され、それに対して必死に弁明している頃に、関東においてもう

ひとつの事件が持ち上がっていた。

後北条氏の家臣で、沼田城の城代であった猪俣範直が、真田領の名胡桃城を奪ってしまったのです。

秀吉は、この名胡桃城奪取事件を重視し、「私戦禁止令」に違反するものだと位置づけ、いよいよ

後北条の討伐を決意し、1589年12月18日に全文5ヵ条からなる宣戦布告状を北条氏政・氏直父子に

送っています。

名胡桃城
写真は、平成22年11月2日に撮ったものです。 名胡桃登城記は「こちら」です。
na.名胡桃城

宣戦布告状を受け取った北条氏側は、1590年2月4日に小田原城に重臣が集められ大評定が開かれ

た。

「戦うべきだ」、「降伏するしかない」、「いや戦う」、「戦うなら箱根で防ぐ」、「いや籠城だ」

等々、論議が繰り返され、後年「広く衆議が一致せず、物事の決定が長引くことのたとえ、また決定しな

い相談をいう」との諺にもなった「小田原評定」が繰り広げられた。

結局、後北条氏は秀吉に屈せず、小田原城に籠城して戦うことになった。

これには、政宗と連携を保っていた北条氏側では「秀吉の大軍に包囲されたとしても、伊達政宗が後詰

として来てくれる」という期待感もあったのでしょう。

pig 20110724 001

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強調文『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 巨済島
        豊臣秀勝は1592年に秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、在陣中の同年9月に朝鮮国
        の巨済島において病死しています。

≪本日の問題≫


                                <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>

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Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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