piglet一家のハロウィン
『2011年 piglet一家のハロウィン』
piglet一家は、早めのハロウィンを10月29日にやりましたので、その時の写真を紹介させて頂きます。
主のpigletは始終消極的な様子で、記念撮影も最後は逃げ出す始末でした。


母のsa-ko譲は、この日を待ってましたと妖艶な雰囲気をかもし出しています。


大人しい「うめ」は静かに参加です。


さくらは初めてのハロウィンでしたので、数日前から衣装を着る練習をしての参加です。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 大奥の創設
家光の乳母・お福(春日局)が、多くの女性を抱える大奥を創設し、家光にさまざまな
女を引き合わせ、これがうまくいって家光は男色を卒業し跡継ぎを得ています。
≪本日の問題≫
piglet一家は、早めのハロウィンを10月29日にやりましたので、その時の写真を紹介させて頂きます。
主のpigletは始終消極的な様子で、記念撮影も最後は逃げ出す始末でした。



母のsa-ko譲は、この日を待ってましたと妖艶な雰囲気をかもし出しています。



大人しい「うめ」は静かに参加です。



さくらは初めてのハロウィンでしたので、数日前から衣装を着る練習をしての参加です。



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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 大奥の創設
家光の乳母・お福(春日局)が、多くの女性を抱える大奥を創設し、家光にさまざまな
女を引き合わせ、これがうまくいって家光は男色を卒業し跡継ぎを得ています。
≪本日の問題≫
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お江 [総集編] その9 「千姫輿入れ」
『淀殿による千姫いびりは史実なのか?』
関が原合戦後、徳川家康が事実上の天下人になるとともに、お江も次期天下人の妻に昇格。
お江は、長女の千姫を1597年に出産後、1599年には次女、1600年には3女を出産し、1603年には3女
を懐妊中にもかかわらず、長女・千姫と秀頼との婚儀に立ち会うために上洛。7月28日、大坂城内で11歳
の秀頼と7歳の婚儀が挙行された。
その後、お江は伏見城内で4女・初姫を出産。初姫は姉のお初に養女として引き取られた。
お初は、夫・高次との間に子が恵まれなかったことから、お初は妹のお江に対し、もう一人女子が生まれた
ら養女にする約束を交わしていたので、お初の願い通りに引き取られたのです。
秀忠とお江は、政略結婚で結ばれながらも、この時点で4人の子に恵まれており、夫婦仲は良かったと思
われます。ただ、すべてが女子だったことは、夫の秀忠や舅の家康の期待に沿うことは出来なかったが、
1604年には待望の男子を授かります。
後の3代将軍・家光の誕生です。
淀殿(1569-1615年)

淀殿は、お江が無事に男児を出産したことを喜ぶ手紙を知人に送っています。このことからも3姉妹は、それ
ぞれ異なる立場にありながら、血縁者としての絆を保ち続けていることが伺えます。
一般的には、淀殿は徳川家から嫁いだ千姫を憎み、姑として陰湿ないじめを繰返したとイメージされるが、
淀殿は豊臣家を滅亡へと追い込んだ張本人として悪女役を演じさせられている傾向が強い。
淀殿にとり、千姫は豊臣家の天下を奪い取った憎き家康の孫である前に、数少ない身内であるお江の子
だった。
小谷城陥落以来、戦国乱世の翻弄された少女時代を送った淀殿であれば、実家を離れて大坂城で暮らさ
なければならなくなった姪の心細さを理解できたと思われます。
浅井3姉妹は、戦国乱世に翻弄されながらも、お互いの幸福を願いながら、動乱の時代に必死に生き続け
たのでしょう。
piglet一家のハロウィンは土曜日でした。
明日、写真をアップさせて頂きます。

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東京都立 旧古河庭園「秋のバラフェスティバル」
10月15日~30日まで開催されていますので、29日(土)に行ってきました。
この庭園は大正6年、古河虎之助が経営した大正初期の代表的な庭園です。
洋風庭園は邸主の住居であるルネッサンス風の本館と、それをとりまく方式庭や、花壇、芝生など
からなり、明治から大正初期にかけて作られた東京における代表的庭園です。

<写真はクリックで拡大します>



『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 現在も残っている
家康は豊臣討滅の口実をつくっただけで、現在も京都の街に時を告げる鐘の音を響かせて
います。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
関が原合戦後、徳川家康が事実上の天下人になるとともに、お江も次期天下人の妻に昇格。
お江は、長女の千姫を1597年に出産後、1599年には次女、1600年には3女を出産し、1603年には3女
を懐妊中にもかかわらず、長女・千姫と秀頼との婚儀に立ち会うために上洛。7月28日、大坂城内で11歳
の秀頼と7歳の婚儀が挙行された。
その後、お江は伏見城内で4女・初姫を出産。初姫は姉のお初に養女として引き取られた。
お初は、夫・高次との間に子が恵まれなかったことから、お初は妹のお江に対し、もう一人女子が生まれた
ら養女にする約束を交わしていたので、お初の願い通りに引き取られたのです。
秀忠とお江は、政略結婚で結ばれながらも、この時点で4人の子に恵まれており、夫婦仲は良かったと思
われます。ただ、すべてが女子だったことは、夫の秀忠や舅の家康の期待に沿うことは出来なかったが、
1604年には待望の男子を授かります。
後の3代将軍・家光の誕生です。
淀殿(1569-1615年)

淀殿は、お江が無事に男児を出産したことを喜ぶ手紙を知人に送っています。このことからも3姉妹は、それ
ぞれ異なる立場にありながら、血縁者としての絆を保ち続けていることが伺えます。
一般的には、淀殿は徳川家から嫁いだ千姫を憎み、姑として陰湿ないじめを繰返したとイメージされるが、
淀殿は豊臣家を滅亡へと追い込んだ張本人として悪女役を演じさせられている傾向が強い。
淀殿にとり、千姫は豊臣家の天下を奪い取った憎き家康の孫である前に、数少ない身内であるお江の子
だった。
小谷城陥落以来、戦国乱世の翻弄された少女時代を送った淀殿であれば、実家を離れて大坂城で暮らさ
なければならなくなった姪の心細さを理解できたと思われます。
浅井3姉妹は、戦国乱世に翻弄されながらも、お互いの幸福を願いながら、動乱の時代に必死に生き続け
たのでしょう。
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洋風庭園は邸主の住居であるルネッサンス風の本館と、それをとりまく方式庭や、花壇、芝生など
からなり、明治から大正初期にかけて作られた東京における代表的庭園です。


<写真はクリックで拡大します>









『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 現在も残っている
家康は豊臣討滅の口実をつくっただけで、現在も京都の街に時を告げる鐘の音を響かせて
います。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
『戦国時代の美男美女とは』
『しょう油顔が美男子の条件? 戦国時代の美男美女とは』
大変に単純化した説ですが、日本人は古くからこの島国に住んでいた縄文人と、新たに大陸から渡来して
きた弥生人の二重構造を持つと言われています。
人種的に言うならば、南方のマレー系と北方のモンゴル系。
つまり背が低く、ずんぐり体系、顔は四角か丸、目は大きくて二重が多く、鼻は幅広く、唇は厚い南方系。
背が高く、すらりとした体格、面長の顔、目は細く一重が多い、鼻の幅は狭く、薄い唇の北方系。
大まかにいうと、原日本人的な南方系が庶民顔、大陸渡来人の北方系が貴族顔ということになります。
そして世の中の治乱に伴って、その時代に必要とされる人物の顔が変容してきたのです。
平安時代の貴族顔、初の武士政権ができた鎌倉時代の庶民顔、再び京に幕府を置いた室町時代の貴族
顔、と循環を繰り返す日本人の顔は、下克上の戦国に入って再びたくましい庶民顔が幅を利かせるように
なります。
極端な性格、気性の烈しい性格では、かえって長期的な領国経営や軍備、人材登用などに思わぬ破綻を
きたしてしまう。治山治水、農業を始めとする産業の育成、部下の評価、賞罰などは、やはり角の取れた
円満な指導者で、安心ができる大将がいい。
しかし、武勇は欠かせず、威あって猛からずというのが理想であったようです。
美男や優男では、やはり戦国時代の激務は勤まらなかったようで、そういった可愛い男たちは衆道の対象
となったようです。
戦国一の美女・お市の方(1547-1583年)

一方、戦国時代ほど女性たちが虐げられた時代はなかったでしょう。
政略結婚の駒として、父親や兄の意のままに動かされ、結婚すると、夫には疎んじられたり、側室が増え
たりし、子を産まないとすぐ離縁される。和議の仕上げに、妻や娘、母までも人質として他国に送られる。
戦いに負ければ、勝者に妻や娘は略奪され、女房たちは雑兵どもに踏みにじられる。男たちの勝手な都合
にあわせて、子を産む道具としか思わなかったのが、戦国の女性たちの姿です。
ただ、ただ、男たちの庇護の下に、じっと耐えを忍んで生きるしかなかった。
哀愁をたたえる戦国美女に共通するのは、すんなりした瓜実顔、面長の美貌、切れ長の目、黒い瞳、小さ
な赤い唇、緑の黒髪は長く、美しい。
いくつか残された、戦国の美女たちの絵から見えるのは、伝統的な日本の貴族顔が多いようです。


誕生日お祝いは、ケーキではなく
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 乞食若殿
最愛の母が死去し、松寿丸(元就)10歳の1506年に、父・弘元が酒毒で死去。
松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、
城から追い出されます。
松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と呼ばれたそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>
大変に単純化した説ですが、日本人は古くからこの島国に住んでいた縄文人と、新たに大陸から渡来して
きた弥生人の二重構造を持つと言われています。
人種的に言うならば、南方のマレー系と北方のモンゴル系。
つまり背が低く、ずんぐり体系、顔は四角か丸、目は大きくて二重が多く、鼻は幅広く、唇は厚い南方系。
背が高く、すらりとした体格、面長の顔、目は細く一重が多い、鼻の幅は狭く、薄い唇の北方系。
大まかにいうと、原日本人的な南方系が庶民顔、大陸渡来人の北方系が貴族顔ということになります。
そして世の中の治乱に伴って、その時代に必要とされる人物の顔が変容してきたのです。
平安時代の貴族顔、初の武士政権ができた鎌倉時代の庶民顔、再び京に幕府を置いた室町時代の貴族
顔、と循環を繰り返す日本人の顔は、下克上の戦国に入って再びたくましい庶民顔が幅を利かせるように
なります。
極端な性格、気性の烈しい性格では、かえって長期的な領国経営や軍備、人材登用などに思わぬ破綻を
きたしてしまう。治山治水、農業を始めとする産業の育成、部下の評価、賞罰などは、やはり角の取れた
円満な指導者で、安心ができる大将がいい。
しかし、武勇は欠かせず、威あって猛からずというのが理想であったようです。
美男や優男では、やはり戦国時代の激務は勤まらなかったようで、そういった可愛い男たちは衆道の対象
となったようです。
戦国一の美女・お市の方(1547-1583年)

一方、戦国時代ほど女性たちが虐げられた時代はなかったでしょう。
政略結婚の駒として、父親や兄の意のままに動かされ、結婚すると、夫には疎んじられたり、側室が増え
たりし、子を産まないとすぐ離縁される。和議の仕上げに、妻や娘、母までも人質として他国に送られる。
戦いに負ければ、勝者に妻や娘は略奪され、女房たちは雑兵どもに踏みにじられる。男たちの勝手な都合
にあわせて、子を産む道具としか思わなかったのが、戦国の女性たちの姿です。
ただ、ただ、男たちの庇護の下に、じっと耐えを忍んで生きるしかなかった。
哀愁をたたえる戦国美女に共通するのは、すんなりした瓜実顔、面長の美貌、切れ長の目、黒い瞳、小さ
な赤い唇、緑の黒髪は長く、美しい。
いくつか残された、戦国の美女たちの絵から見えるのは、伝統的な日本の貴族顔が多いようです。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 乞食若殿
最愛の母が死去し、松寿丸(元就)10歳の1506年に、父・弘元が酒毒で死去。
松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、
城から追い出されます。
松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と呼ばれたそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>
中国を掌中に収めた謀略家 「毛利元就」 その4
『血の粛清』
1550年、54歳の元就は血の粛清を繰り返していた。
家臣・井上一族を一網打尽に制裁。
罪状は元就が宗家を継いで以来、40年間元就を軽んじ、欲しいままに振舞っていたからだという。
同じ年、元就は3男・隆景に小早川家を相続させ、この反対者にはことごとく血の粛清で報いた。
小早川家は、瀬戸内海の島々にも所領をもち、配下の水軍は強力であった。
山陽道制圧の要、瀬戸内海制圧の足がかりを元就は掴む。
陶晴賢が主君・大内義隆を滅ぼすのは、この年であった。
大内義隆(1507-1551年)

元就は粛清の手を休めることはなかった。
同じ年の2月、次男・元春を吉川家に入れると、その9月には当主親子を殺害し、山岳戦に強い吉川家を
完全に毛利家の配下に入れています。
小早川家の場合、当主とその息子がタイミングよく亡くなっています。それだけでなく小早川家内部で、
元就の子を養子とするのに反対する者が多く、内応した小早川の家臣の協力で強引に決めたが、それが
実現するまで3年かかっています。
一方、吉川家の場合は、これは明らかに乗っ取りで、理由のつけようがありません。当主が健在でやって
いるのに、家来の中に反対派がいるからと、その当主を止めさせているのです。
これは明らかに海の小早川家に対して、山の吉川家たるものが、毛利にとってどうしても必要であり、無理
やりに当主を止めさせているのです。
しかもその時の条件として、後に吉川家の子供に後を継がせるという条件であったが、数ヵ月後には隠居
させた当主とその子供を元就が殺して、完全に吉川家の禍根を絶っています。
これらは明らかに、山陰の尼子氏を攻める足がかりとして、吉川家を手中に入れる必要があったのでしょう。
海と山の双方を制覇して、毛利家が安泰となって大きく伸びていくことになります。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 龍造寺氏
尼子氏は出雲、吉川氏は安芸、龍造寺氏は肥前(佐賀)の戦国大名です。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>
1550年、54歳の元就は血の粛清を繰り返していた。
家臣・井上一族を一網打尽に制裁。
罪状は元就が宗家を継いで以来、40年間元就を軽んじ、欲しいままに振舞っていたからだという。
同じ年、元就は3男・隆景に小早川家を相続させ、この反対者にはことごとく血の粛清で報いた。
小早川家は、瀬戸内海の島々にも所領をもち、配下の水軍は強力であった。
山陽道制圧の要、瀬戸内海制圧の足がかりを元就は掴む。
陶晴賢が主君・大内義隆を滅ぼすのは、この年であった。
大内義隆(1507-1551年)

元就は粛清の手を休めることはなかった。
同じ年の2月、次男・元春を吉川家に入れると、その9月には当主親子を殺害し、山岳戦に強い吉川家を
完全に毛利家の配下に入れています。
小早川家の場合、当主とその息子がタイミングよく亡くなっています。それだけでなく小早川家内部で、
元就の子を養子とするのに反対する者が多く、内応した小早川の家臣の協力で強引に決めたが、それが
実現するまで3年かかっています。
一方、吉川家の場合は、これは明らかに乗っ取りで、理由のつけようがありません。当主が健在でやって
いるのに、家来の中に反対派がいるからと、その当主を止めさせているのです。
これは明らかに海の小早川家に対して、山の吉川家たるものが、毛利にとってどうしても必要であり、無理
やりに当主を止めさせているのです。
しかもその時の条件として、後に吉川家の子供に後を継がせるという条件であったが、数ヵ月後には隠居
させた当主とその子供を元就が殺して、完全に吉川家の禍根を絶っています。
これらは明らかに、山陰の尼子氏を攻める足がかりとして、吉川家を手中に入れる必要があったのでしょう。
海と山の双方を制覇して、毛利家が安泰となって大きく伸びていくことになります。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 龍造寺氏
尼子氏は出雲、吉川氏は安芸、龍造寺氏は肥前(佐賀)の戦国大名です。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>
中国を掌中に収めた謀略家 「毛利元就」 その3
『隠忍自重型』
中国山地の中にありながら、広島県内でただひとつ北流する川を持つ吉田町。
ここは昔から、山陰・山陽を結ぶ道筋として、商人の往来が多かったといわれる。1497年、元就はわずか
3千貫の小領主毛利家の、しかも次男に生まれた。
次男坊の元就が宿老14人の連署によって城主の座につけたのは、兄が死に、続いてその子が死ぬという
好運を得たからでした。
27歳で宗家を継いだ元就は、翌年、元就に不満を示した弟を殺してしまいます。
厳島神社(広島)

元就についてこんな逸話があります。
13歳の時に、元就が家臣を連れて厳島神社に参脂に行った時の話しです。
参拝が終わって、元就が家来に
「今、お前は何といって拝んだ。何を願ったんだ」と聞いたら、
家来は
「わが君を中国の太守にしたまえ、ということを祈りました」と答えたという。
すると元就は
「棒ほど願っても、針ほどしか願いというものは叶わないものだ。中国の太守なんて願ったらとてもなれや
しない。同じ願うなら、なぜ天下を取れるように、天下の主となるようにと願わなかったか」
と言って家臣を叱った。
13歳の時から、既に大きな気持ちを持っていたということですね。
元就は語っています。
「われら4歳にて、母を離れ候。10歳にて、父に離れ候。その間、興元(元就の兄)たのみ申し候へば、
力も強く候つるところ、また幾ほどもなく、元就19歳の時、興元早世候。かくのごとき以後は、もちろん、
親にても兄弟にても、あるいは伯父にて候、甥にて候など、一人ももたず、ただただひとり身にて候。」
(1558年8月、長男・隆元に書き送った述懐)
信じられる者が身近にいない。この生活環境は、元就を特異な武将に仕立て上げていった。
この頃、大内氏、尼子氏などが周囲にあって、元就の郡山城は小さく武力の弱いものが生き延び、生き
長らえていくためには、謀略を考えて謀略を持って生き延びる方法を考えるしかなかったのだろうと思わ
れます。
若い時に、いつ滅ばされるか判らない小国にあって、苦労して育ったということが、隠忍自重するところは
自重して、我慢を重ね力がつくのをじっと待っていた、そういう武将だと思われます。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 200以上
元就が生涯に経験した合戦の数は、公式な書類などで判明しているだけでも200以上ある
そうです。
これは日本の戦国時代のみならず、世界の英雄伝においても稀な記録だそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>
中国山地の中にありながら、広島県内でただひとつ北流する川を持つ吉田町。
ここは昔から、山陰・山陽を結ぶ道筋として、商人の往来が多かったといわれる。1497年、元就はわずか
3千貫の小領主毛利家の、しかも次男に生まれた。
次男坊の元就が宿老14人の連署によって城主の座につけたのは、兄が死に、続いてその子が死ぬという
好運を得たからでした。
27歳で宗家を継いだ元就は、翌年、元就に不満を示した弟を殺してしまいます。
厳島神社(広島)

元就についてこんな逸話があります。
13歳の時に、元就が家臣を連れて厳島神社に参脂に行った時の話しです。
参拝が終わって、元就が家来に
「今、お前は何といって拝んだ。何を願ったんだ」と聞いたら、
家来は
「わが君を中国の太守にしたまえ、ということを祈りました」と答えたという。
すると元就は
「棒ほど願っても、針ほどしか願いというものは叶わないものだ。中国の太守なんて願ったらとてもなれや
しない。同じ願うなら、なぜ天下を取れるように、天下の主となるようにと願わなかったか」
と言って家臣を叱った。
13歳の時から、既に大きな気持ちを持っていたということですね。
元就は語っています。
「われら4歳にて、母を離れ候。10歳にて、父に離れ候。その間、興元(元就の兄)たのみ申し候へば、
力も強く候つるところ、また幾ほどもなく、元就19歳の時、興元早世候。かくのごとき以後は、もちろん、
親にても兄弟にても、あるいは伯父にて候、甥にて候など、一人ももたず、ただただひとり身にて候。」
(1558年8月、長男・隆元に書き送った述懐)
信じられる者が身近にいない。この生活環境は、元就を特異な武将に仕立て上げていった。
この頃、大内氏、尼子氏などが周囲にあって、元就の郡山城は小さく武力の弱いものが生き延び、生き
長らえていくためには、謀略を考えて謀略を持って生き延びる方法を考えるしかなかったのだろうと思わ
れます。
若い時に、いつ滅ばされるか判らない小国にあって、苦労して育ったということが、隠忍自重するところは
自重して、我慢を重ね力がつくのをじっと待っていた、そういう武将だと思われます。

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昨日の正解: 200以上
元就が生涯に経験した合戦の数は、公式な書類などで判明しているだけでも200以上ある
そうです。
これは日本の戦国時代のみならず、世界の英雄伝においても稀な記録だそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>
中国を掌中に収めた謀略家 「毛利元就」 その2
『中国地方の制覇』
厳島の対岸にある名刹・応竜山洞雲寺に、35歳で戦国武将の夢を破られた陶尾張守晴賢の首塚があり
ます。
東で川中島の合戦が行われた同じ年の1555年9月、陶晴賢(すえはるかた)は、毛利元就を討たんもの
と2万の大軍を率いて厳島に陣を構えた。
この年、元就59歳。手兵わずかに4千。
元就は折からの悪天候を利用して厳島に押し渡り、敵の油断をついて一挙に陶軍をせん滅してしまう。
境内を血で染めたこの合戦は、後世に名高い日本三大奇襲作戦のひとつ「厳島の戦い」で、元就の武名
は一挙に高まったという。
しかも、陶晴賢が主人・大内義隆を殺していたことで、その仇を討った忠臣と称えられることになる。
厳島(広島県)

しかし、実態は大内氏を滅ぼし、それに変わって実力を持ってきた陶氏が、大内氏と同じように広島湾
あたりを制覇しているので、どうしても撃退し滅亡させないと、毛利の勢力が伸びていかない。
交通や商いに欠くことのできない瀬戸内海に出ないことには、新しい発展が望めないという、毛利家の
存続のために必要でやったことと思われます。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 厳島の戦い
1555年10月16日に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦を「厳島の戦い」
といいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>
厳島の対岸にある名刹・応竜山洞雲寺に、35歳で戦国武将の夢を破られた陶尾張守晴賢の首塚があり
ます。
東で川中島の合戦が行われた同じ年の1555年9月、陶晴賢(すえはるかた)は、毛利元就を討たんもの
と2万の大軍を率いて厳島に陣を構えた。
この年、元就59歳。手兵わずかに4千。
元就は折からの悪天候を利用して厳島に押し渡り、敵の油断をついて一挙に陶軍をせん滅してしまう。
境内を血で染めたこの合戦は、後世に名高い日本三大奇襲作戦のひとつ「厳島の戦い」で、元就の武名
は一挙に高まったという。
しかも、陶晴賢が主人・大内義隆を殺していたことで、その仇を討った忠臣と称えられることになる。
厳島(広島県)

しかし、実態は大内氏を滅ぼし、それに変わって実力を持ってきた陶氏が、大内氏と同じように広島湾
あたりを制覇しているので、どうしても撃退し滅亡させないと、毛利の勢力が伸びていかない。
交通や商いに欠くことのできない瀬戸内海に出ないことには、新しい発展が望めないという、毛利家の
存続のために必要でやったことと思われます。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 厳島の戦い
1555年10月16日に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦を「厳島の戦い」
といいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>
中国を掌中に収めた謀略家 「毛利元就」 その1
『非常な謀略家』
「一本の矢はすぐ折れても、三本の矢を折ることは難しい。この矢のように、お前たちも一人ずつでは
力が弱い。」
毛利元就の「三矢の訓(さんしのおしえ)」は、兄弟の争いを戒める例として良く知られた話です。
確かに、骨肉相食む乱世にありながら、元就の3人の子供たちは争うことなく助け合い、毛利の名を天
下に高らしめ、戦国諸大名の羨望を集めています。
さらに、戦国の世をくぐり抜けた毛利家は、その後豊臣政権、徳川政権の下でも巧みにその家を守り、
幕末には維新の志士たちを輩出させ、明治の世には徳川家に勝る権威を掌中にしています。
この毛利家の繁栄とその生命力は「三矢の訓」がもたらしたものだと言われます。
しかし、この三本の矢の話しが事実であったことを証明する記録は、毛利家のどこを探しても見当たら
ないという。
この「三矢の訓」というのは、中国の故事で徳川時代になってから、元就のやったことと関連させて創
作して、元就父子の話にしてしまったというのが事実のようです。
毛利元就(1497-1571年)

江戸時代というのは、朱子学で、何でもそういう教訓話を作るのが得意だったようです。
つまり、兄弟仲良くということ。
これは戦国時代と違い、骨肉相食むという悲惨な残酷な時代ではありませんが、やはり遺産相続は長
男が中心であったが、それに対して色々と兄弟の仲が悪くなって、喧嘩のもとになると訳です。
そのため肉親は仲良くし、助け合いするという教訓を探すには、元就とその子供たちの関係が最も適切
であり、また元就が子供らに与えた14ヵ条の手紙の訓戒を分かりやすく意味からも「三矢の訓」を江戸
時代の人が作り上げたといえます。
実際の毛利元就は、家名を守るという中世に生まれた血の原理に、晩年、異常な執念を見せていますが、
彼の生涯を貫くものは、相手を倒すに手段を選ばず、いささかも情けに流されない戦国武将であったとい
います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 信玄公墓所
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿にして
います。
現在の甲府市岩窪町の武田信玄公墓所が信玄の火葬地とする伝承があり、1779年に甲府
代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録が
あります。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>
「一本の矢はすぐ折れても、三本の矢を折ることは難しい。この矢のように、お前たちも一人ずつでは
力が弱い。」
毛利元就の「三矢の訓(さんしのおしえ)」は、兄弟の争いを戒める例として良く知られた話です。
確かに、骨肉相食む乱世にありながら、元就の3人の子供たちは争うことなく助け合い、毛利の名を天
下に高らしめ、戦国諸大名の羨望を集めています。
さらに、戦国の世をくぐり抜けた毛利家は、その後豊臣政権、徳川政権の下でも巧みにその家を守り、
幕末には維新の志士たちを輩出させ、明治の世には徳川家に勝る権威を掌中にしています。
この毛利家の繁栄とその生命力は「三矢の訓」がもたらしたものだと言われます。
しかし、この三本の矢の話しが事実であったことを証明する記録は、毛利家のどこを探しても見当たら
ないという。
この「三矢の訓」というのは、中国の故事で徳川時代になってから、元就のやったことと関連させて創
作して、元就父子の話にしてしまったというのが事実のようです。
毛利元就(1497-1571年)

江戸時代というのは、朱子学で、何でもそういう教訓話を作るのが得意だったようです。
つまり、兄弟仲良くということ。
これは戦国時代と違い、骨肉相食むという悲惨な残酷な時代ではありませんが、やはり遺産相続は長
男が中心であったが、それに対して色々と兄弟の仲が悪くなって、喧嘩のもとになると訳です。
そのため肉親は仲良くし、助け合いするという教訓を探すには、元就とその子供たちの関係が最も適切
であり、また元就が子供らに与えた14ヵ条の手紙の訓戒を分かりやすく意味からも「三矢の訓」を江戸
時代の人が作り上げたといえます。
実際の毛利元就は、家名を守るという中世に生まれた血の原理に、晩年、異常な執念を見せていますが、
彼の生涯を貫くものは、相手を倒すに手段を選ばず、いささかも情けに流されない戦国武将であったとい
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 信玄公墓所
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿にして
います。
現在の甲府市岩窪町の武田信玄公墓所が信玄の火葬地とする伝承があり、1779年に甲府
代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録が
あります。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>