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日本一の兵・真田幸村 『猜疑横行』

日本一の兵・真田幸村 『猜疑横行』

大坂城では、幸村を大変優遇した。

5千の兵をあずけ、騎馬の士100騎を下につけています。

騎馬の士というのは、今の兵隊でいえば将校になります。

当時、大坂城内では100騎以上の将校を組下に持っているのは、大野治長・大野主馬・長曾我部盛親・

毛利勝永・木村重成・仙石宗也・明石全登・真田幸村くらいのものであったという。

また、このうちで幸村・毛利勝永・長曾我部盛親を3人衆として呼び、浪人部の軍事最高顧問であった。

後にこれに、明石全登と後藤又兵衛を加えて5人衆と称した。

「3人衆はいずれも関ヶ原の戦いで、東軍を敵として戦わしゃった方々ではあるが、真田様は当時はまだ

親がかりの身であったゆえ、家康公と秀忠公とのおん憎しみもそう強くない筈じゃ。また真田様の兄・

信之は徳川方に無二の忠誠の者じゃ。用心せねば、飛んだことになろうぞ」

という噂が広がった。

幸村はこれを聞くと、誠に心外なことに思ったでしょう。

幸村はその生涯を通して清潔な人物です。彼の父・昌幸は信義の人とはいえない人柄であったが、幸

村は違っていました。心外に思ったことでしょう。

豊臣大坂城(CG画像)
大坂城大手門と西の丸

大坂城は秀吉が心血を注いで構築しただけに要害も完全なものであったが、南の方がいくらか手薄によ

うに見え、敵は必ずこの方面から押し寄せるであろうと判断されたので、この方面に出丸を築いて自分で

守ろう。そうすれば城内の人々も無用な疑惑を自分に対して抱くことは無くなるだろうと思案したのです。

しかし、幸村がこの提議をすると、大野治長はかえって幸村の心事を疑い、後藤又兵衛に相談すると、

又兵衛は

「その武功といい、その家柄といい、その人柄といい、どうして逆意などござろうや。そのような逆意は、

古今同じ、実力もないくせに栄華を好む者のすることでござる。この度の籠城の諸将の中で、幸村殿は

名家の大名の生まれでござる。万代に名を残さんと必死に謀計をめぐらしてこの工夫に達せられたので

ござる。誠によき計画。その意に任せられるがようござる。」

と答えたという。

中心になって事をさばくべき立派な人物もいない。孤立無援の籠城です。

猜疑横行は言うまでもないことだったのでしょう。


pigletにも可愛いところがあります
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 後藤又兵衛
        幸村・毛利勝永・長曾我部盛親を3人衆として呼び、後にこれに、明石全登と後藤又兵衛を
        加えて5人衆と称しています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

日本一の兵・真田幸村 『九度山から脱出』

日本一の兵・真田幸村 『九度山から脱出』

大坂入城の契約はしても、九度山を立ち退くことが、なかなか難しかった。

幸村は自分の宿所の傍に仮屋をこしらえ、理由を設けて九度山付近の庄屋や、年寄や、百姓らを残らず

招いて饗応し、上戸にも下戸にも酒を強いて飲ませた。

皆酔いつぶれて前後も知らずに寝込んでしまうと、百姓らの乗って来た馬に大急ぎで荷をつけ、女子ども

は乗り物にのせ、上下100人ばかり、弓鉄砲の物を前後に立てて山を下り、紀ノ川を渡り、木目峠を越え

て河内にいり、大坂に行った。

百姓らは夜が明けてから酔いがさめて見ると、幸村の宿所には誰もいない。

雑具まで持ち去っている。

「これは出し抜かれた」

探しまわったが、昨夜立ち退いていたので、どうしようもなかった。

以上は、武辺咄聞書の記載ですが、翁物語の記述は少し違う。

真田庵(善名称院)
sa.真田庵 002

幸村は九度村の者共を集めて、手厚く饗応して、その席上で、

「わしはこの度、大坂の招きにあずかったので、武士としてそれに応じたいということは山々じゃが、久し

く当村に厄介になって、随分おぬしらに親切にしてもろうたに、わしが行ってしもうたら、おぬしらにお咎め

があろうと思われるので、それもならずと思っているわの」

と誠に余儀なき定で言った。

すると百姓らは気の毒がり、

「お武家様としては、ご入城なさりたいお心、良く分かります。てまえ共にはおかまいなくそうして下さり

ませ。あとのお取調べの時には、お武家が知らせないでそっと立ち退かれるのを、百姓風情がどう出来

ましょう。夜中にそっと立ち行かれましても、わたくしども夜が明けてからやっと気づいた次第でございま

す。というような具合に申し開きましたら、さしたるお咎めもありますまい。少しでも早く大坂にお出なさ

れよ」

と勧めて、従者も差出してくれた。

幸村は礼を言って、明け方に立ち退いた。

百姓どもは、なお酒を飲んで、やっと飲み終わり後始末をしていると、和歌山から4、50騎の武士らが村

に駆けつけて来て、庄屋を呼んで、

「真田幸村の宅へ案内せい」と命じた。

庄屋は、

「真田殿は、ゆうべここを立ち退かれました。どこへ参られたかは少しも知りませんで、どうしようかと皆が

相談しているところでございます。ゆうべ宵のうちに立ち退かれたらしゅうござれば、もう10里も行かれま

したろうな」

「宵に立った?それではもう追いかけてもしかたないの」

と言って、武士らは帰って行った。

幸村の大坂城入城は1614年10月6日であるという。

この時、幸村49歳。


pigletは温厚ですから、付き合ってくれています。
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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 三方ヶ原の戦い
        信玄は三方ヶ原の戦い(野田城を落とした直後)の後、持病が悪化し喀血が続いたため
        武田軍の進撃は突如として停止する。
        このため、信玄は長篠城において療養していたが、軍を甲斐に引き返す三河街道上で没
        しています。

≪本日の問題≫


                                <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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ジャンル : 学問・文化・芸術

「武田家ゆかりの地」探訪の旅

「甲州武田家ゆかりの地」探訪の旅

山梨の「武田家ゆかりの地・探訪」と紅葉を求めて、11月18日、19日で旅をしてきましたので、本日は

2日目の「武田家ゆかりの地・探訪」を訪問順にダイジェストで記事にしてみたいと思います。

『信玄公像』
昭和44年4月12日(信玄公の命日)に甲府駅前に武田信玄公が建立されています。
強面の信玄公銅像の高さは3.1mもあり、迫力があります。
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『武田神社』
武田神社は、武田信玄が居城としていた「躑躅ヶ崎館」の跡地に作られた神社です。
境内には武田氏ゆかりの品々が展示された宝物殿などもあり、武田信玄の生きた時代に思いを馳せる
ことが出来ます。
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『信玄公墓』
信玄公の遺体を火葬した場所だといわれ、火葬塚とも呼ばれています。
20111119 004

『大泉寺』
1521年、信玄の父・武田信虎が天桂禅長を開山として建てた寺で、信虎の菩提寺です。
1574年3月、信虎が信州で没した時、その遺骸を国元に送り、ここに埋葬されました。
もみじが綺麗に紅葉していました。
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『法泉寺』
天目山で自害した勝頼の首は京に送られさらされましたたが、妙心寺の住職がその遺骸を引き取って
葬儀を営んだという。
信玄時代からの法泉寺の住職快岳が、たまたまそこに来ていて、勝頼の髪と歯を持ち帰ってこの寺に
葬ったといわれます。
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『積翠寺(信玄誕生の地)』
積翠寺は、武田信虎が築いた要害城のふもとにある寺で武田信玄誕生の地といわれています。
信玄の産湯に使った井戸が残っています。
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山梨といったら「ほうとう」ですよね。
甲府駅前の有名なほうとう屋で大好きな「きむちほうとう」を探すも“なし”です。
しかたなく、「かぼちゃほうとう」を食す。
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この後、「ほったらかし温泉」に行く予定でしたが、雨が強く見晴らしも望めなく、時間も押していたので、
最後の訪問地に急ぎました。

『恵林寺』
恵林寺は、武田氏ゆかりの寺院として有名な場所です。
1582年の織田信長による武田狩りの影響で焼き討ちに合い「心頭滅却すれば火もまた涼し」の逸話を遺した
ことでも有名です。
庭園は風光明媚な美しさを保っています。
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今回の旅には、pigletも同行する予定でしたが、天気が崩れる予報でしたので留守番になってしましま
した。
今回のお土産は、道の駅で新鮮な「チンゲン菜」をゲットして帰りました。
「うめ」以外は、チンゲン菜を喜んで食べてくれました。
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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 六角氏の家臣
        15歳で長政が元服した時、六角氏は、長政に当主・六角義賢の一字をとって「賢政」
        と名乗らせています。
        また、六角氏の家臣・平井定武の娘との婚姻も強いています。
        このような状況に不満を持つ家臣達は知勇に優れた長政に期待を寄せ、久政を竹生島
        に追放して隠居を強要し、長政は六角氏から離反する意思を明確にするため「賢政」の
        名と平井定武の娘を六角氏に返上し、名を新九郎に戻しています。

≪本日の問題≫

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

お江 [総集編] その12 「お江に関係が深かった人々(1)」

お江 [総集編] その12「お江に関係が深かった人々(1)」

大河ドラマ「お江」も、今日の放映を含めて残り2回になりましたが、当ブログのお江も彼女に関わりの

深かった人々を回顧して、来週の日曜日で完結にしたいと思います。


浅井長政(1545-1573年)

小谷城主の浅井久政の嫡男として生まれる。

観音寺城の六角氏とは近江の覇権を巡って激しい攻防戦を展開。

一旦は、六角氏重臣の平井氏の娘を妻に迎えることにより、服属の意思を明らかにする。だが、一乗谷

城主の朝倉氏との関係を強化することにより、再び六角氏と絶縁し、平井氏の娘を離縁する。

1568年、信長の妹・お市を妻に迎えるが、その4年前には側室との間に長男の万福丸をもうける。

義兄にあたる織田信長に反旗を翻し、その結果、小谷落城ともに覚悟の自害を遂げた。


大蔵卿局(?-1615年)

前歴は不詳。

お市に仕え、長女お茶々の乳母となる。

お茶々が豊臣秀吉の側室となり、淀殿の称されると深い信任を受け、豊臣家有数の実力者となる。加え

て、子の大野治長のまた、豊臣秀頼の側近として権力を握った。

関ヶ原合戦では、対立する東軍に属した京極家の帰順のために力を尽くす。

大坂冬の陣が勃発すると、この治長とともに豊臣家の生き残りのため奔走した。

一旦は和議を締結へと導くが、その願いは叶えられることはなかった。

大坂城が落城の炎に包まれると、淀殿や治長とともに自害することを余儀なくされた。


織田信包(のぶかね)(1543-1614年)

織田信秀の4男として生まれる。

北伊勢を所領とする長野氏の養子に迎えられるが、ほどなく織田の姓に復す。

信長の命に従って各地を転戦。親族衆として伊勢上野城主の座を与えられる。

浅井家滅亡後は、妹・お市と3人の娘たちを保護した。

これは、数多い信長の兄弟のなかでも、信包とお市の母が同じだったことによる処置と思われる。

兄・信長の死後、豊臣秀吉に臣従し、伊勢安濃津城主となるが、小田原合戦で秀吉の不興を買い、一旦は

領地を失った。

その後、御伽衆として秀吉に仕え、丹波柏原の大名に復帰。

関ヶ原合戦の後、豊臣秀頼に仕え、姪の淀殿を支えたが大坂冬の陣勃発直前に病没した。


柴田勝家(1522?-1583年)

出自は不詳。

織田信長の弟・信行に仕えるが、信行が兄・信長に反旗を翻したのち、信長の家臣となる。

主君信長の天下布武のために尽力。

1575年、越前平定後、北ノ庄城の座を与えられる。

知名度の高い武将であるのにもかかわらず、配偶者は不詳であり、2人の姉の子(勝政、勝豊)をそれぞれ

養子に迎えている。

お市を妻に迎えたとき、すでに60歳前後と推定され、お市とは25歳前後の年齢差があった。

お市との婚儀は恋愛感情というより、織田信孝が反秀吉包囲網の結束強化のため、叔母のお市を利用した

という要素が強かった。

賤ヶ岳合戦に敗れたのち、北ノ庄城で自害を遂げた。


高台院(1548-1624年)

杉原定利の娘として生まれ、浅野長勝の養女となる。

足軽時代の豊臣秀吉に嫁ぎ、糟糠(そうこう)の妻として夫の驚異的な出世を支える。

秀吉との間には子どもには恵まれなかったが、正室の座は守り抜く。

側室の淀殿とは、女同士の激しいつばぜり合いを演じたというイメージが強い。だが、高台院は、大津城

攻防戦ではお初の身に危険が迫らないように、淀殿と協力して京極高次を降伏へと導いた。

また、大坂の陣でも大坂方と徳川方が決裂しないように斡旋しており、淀殿との女の戦いは後世のフィク

ションによるところが多いと思われる。

京都の高台院で余生を過ごし、77歳で病没した。


松ボックリが、すっかりお気に入りのさくらです。
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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
11月18日の正解: 片倉重長(小十郎)
           幸村の次男・大八(真田守信)は、伊達家重臣で後に三女・阿梅の夫となる片倉重長
           の元で姉達とともに保護され、後に元服し片倉守信となっています。
           以降、公式に残る信繁唯一の家系・仙台真田家として現在も続き、守信の子・辰信の時、
           片倉姓から真田姓に復しています。

≪本日の問題≫


                             <参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>

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ジャンル : 学問・文化・芸術

孫子の兵法『十をもって一を攻める』(虚実編)

孫子の兵法『十をもって一を攻める』(虚実編)

こちらからは、敵の動きは手にとるように判るが、敵はこちらの動きを察知することはできない。

これなら、味方の力は集中し敵の力を分散させることができる。

こちらが仮に一つに集中し、敵が十に分散したとする。

それなら十の力で一の力を相手することになる。つまり、味方は多勢で敵は無勢。

多勢で無勢を相手すれば、戦う相手が少なくて済む。

どこから攻撃されるか判らないとなれば、敵は勢力を分散して守らなければならない。

敵が兵力を分散すれば、それだけこちらと戦う兵力が少なくなる。

従って敵は、前を守れば後ろが手薄になり、後ろを守れば前が手薄になる。左を守れば右が手薄になり、

右を守れば左が手薄になる。

四方八方すべてを守れば、四方八方すべてが手薄になる。

これで明らかのように、兵力が少ないというのは、分散して守らざるを得ないからである。

また、兵力が多いというのは、相手を分散して守らせるからである。


【集中と分散】

兵力の多少は、絶対的なものではなく相対的なものである。

その鍵は集中と分散にあるという。

こちらが集中し、相手を分散させれば、劣勢を優勢に転化することができる。

太平洋戦争のとき、日本軍は太平洋の島々に兵力を分散させ、米軍の各個撃破にあって、次々と玉砕を

余儀なくされた。

明らかに孫子の兵法の逆をいったのです。

これを企業経営に当てはめると、兵力劣勢な中小企業が大企業に互して行くには、一点集中主義、つまり

有力なアイデア商品の開発に努めよということなのでしょう。

大企業と同じことをやっていたのでは、勝負にならないということです。


昨日から、武田家ゆかりの地と紅葉を求めて山梨に来ています。

甲斐大和駅前の武田勝頼像
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武田勝頼自刃の地(景徳寺)
DSC_0013-1.jpg

昇仙峡
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信玄堤防
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武田八幡宮
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新府城跡
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武田氏ゆかりの地は、別途、個別に記事にしたいと思います。

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戦国クイズは、今日はお休みにさせて戴きます。

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日本一の兵・真田幸村 『徳川家の策略』

日本一の兵・真田幸村 『徳川家の策略』

昨日の話は、小説的に過ぎる話でありましたが、幸村は自由に九度山から出られない身の上だから、

出るときには変装する必要はあったでしょう。

また支度金として秀頼が与えたという金子・銀子は、真武内伝に伝えるところと同額であり、嘘である

と断定することも出来ないのでしょう。

ともかく、幸村は大坂入城を承諾したのであるが、九度山を立ち退いて入城するのは、なかなか難しい

ことであった。

東西の風雲が急になって、大坂方が浪人を召集めていることは徳川方もよく知っている。

幸村に対しても大坂方から招聘の手が伸びていることも容易に推察がつく。

真田幸村(信繁)(1567-1615年)
sa.真田幸村 001

徳川家の対策は二様に講ぜられたようです。

一つは幸村を大坂方に先立って味方にすることです。

家康の書面と兄・信之(関ヶ原の戦い後、信幸は改名しています)の手紙を大和五条の領主・松倉

重政に持たせて、幸村のもとに遣わしています。

幸村は、先ず家康の書面を読んで、それから言った。

「ふつつか者のそれがしに御恩命の趣き、冥加(みょうが)しごくでござる。そのうえ莫大な御恩禄を

賜わるとのことでござれば、お味方いたしたくは存ずるが、亡父の遺言がござるによって、関東へは

伺候いたすわけにはまいりませぬ。このように御厳命にそむきます以上、兄の書面は披見(ひけん)

ぜず、封のままお返しいたす。この趣きよろしくご披露を」

きっぱりとした態度に、松倉はせん方なく下山したという。

第二には、第一の計略が齟齬したので、こんどは幸村を九度山から出さぬ手を巡らした。

家康は、松倉に

「真田が大坂に入城しようとするならば、途中で討取れ」

と命じた。

松倉は昼夜間者を九度山に入れて動性を伺ったという。

また、家康は紀州和歌山の浅野長晟にもこの旨を命じたので、浅野家では九度山付近の百姓らに

下知を伝えて、真田が大坂に走りこむようなことがあるやかも知れないから油断なく見張っておれと

触れ、高野山からもこのことを申しつけさせた。


初めて見るクリスマスツリーに興味深々のさくら
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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 江戸時代初期
        信繁(幸村)直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われ
        ているものは見つかっていません。従って実在の人物の名としては「信繁」が正しいです。
        「幸村」の名が見られるようになったのは江戸時代で、1672年成立の軍記物語『難波戦記』
        がその初出であると考えられています。
        その『難波戦記』が人気を博し、広く読まれたため「信繁」ではなく「幸村」とすることのほうが
        一般的となったといわれます。

≪本日の問題≫


                                    文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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日本一の兵・真田幸村 『大坂の陣への参陣依頼』

日本一の兵・真田幸村 『大坂の陣への参陣依頼』

幸村が大坂城入城の交渉を受けた頃のこととして、こんな逸話があります。

大坂城内の大野修理の屋敷へ、一人の山伏は訪問してきた。

「拙者は大峯の山伏にて、伝心月叟(げつそう)と申すものでござるが、かねてご依頼の御祈祷のこと

にて参上いたしました。なにとぞお取次ぎ願いたい」と、いんぎんに言う。

取り次ぎの侍は、

「しかじが不在である。しかし、こちらでお待ちになるがよい」

と番所の脇に呼び入れて席を与えた。

豊臣大坂城
oo.豊臣大坂城

番所には若い侍が10人ばかりいて、退屈しのぎに、お互いの刀と脇差の鑑定をしていたが、ふと一人

が山伏の刀に目を付けて

「和僧も差してござるな。見せられよ」と所望した。

「いやいや、これはほんの犬おどしの為のものでござれば、とてもお目にかけるようなものではござらな

ぬ」

と辞退したが、ぜひにと所望してやまない。

「それでは」

やむなしに、両刀を差し出した。

若侍は受取って、先ずは刀の方をするりと抜いて見て驚いた。どうせ山伏風情の差料だ、錆びていなけ

ればよい方という気持ちだったのだが、姿といい、金色といい、地肌といい、刃の匂いといい、たとえよう

のないほどだ。

「見事なものじゃわ」

と皆に見せると、皆、感嘆してどよめいた。

次に脇差を抜いて見ると、これもまた劣らず見事なもの。

「中子を見たい。見てよろしいか」

と外してみると、刀は正宗(村正の説もあり)、脇差は定宗とあったので、皆々、この山伏はただ人では

ないぞと、恐縮しているところに、修理が帰宅してきた。

「山伏どの、主人が帰ってまいりました。玄関にてお目見えされよ」

と取り次ぎの侍が連れ出た。

修理は一目見て、驚いた顔になり

「これはこれは」

と山伏の前に手をついてかしこまり、

「近日お越しあるべしとは承っていましたが、早速のおいで満足でござる」

と挨拶し、書院に導いて丁寧に饗応し、城に知らせを走らせると、速水甲斐守が秀頼の使者として来て、

「遠方早速にまいられ、満足に思し召さる。これはお支度のため」

と言って、黄金2百枚、銀30貫目を与えた。

修理の家の若侍らは、この山伏が真田幸村であることを知ってさらに驚いたが、その後、入城後、幸村

がその若侍らに会ったとき、

「いかが、刀の目利きは上がったのか」

と言ったので、皆々赤面したという。


マフラー巻きにチャレンジのsa-ko譲です。
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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 真田丸
        幸村が造った出城は真田丸と呼ばれ、構造は東西180メートルほどの半円形の曲輪で、
        出口は後方と両脇に位置し、三方に堀、塀を配し、外側には三重の柵を敷いたそうです。
        冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊されています。

≪本日の問題≫


                                   文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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