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日本一の兵・真田幸村 『家康の寝返り工作』

日本一の兵・真田幸村『家康の寝返り工作』

真田丸における幸村の合戦ぶりがあまりにも鮮やかであるので、家康は動きます。

幸村の叔父・真田信尹(のぶただ)を呼んで、言いふくめた。

信尹は真田丸を訪問して、家康の旨を伝えた。

「城を出てお味方に参するなら、10万石をあてがうとの、大御所の仰せじゃ。もし、そなたが承諾するなら

本多正純殿が誓書を出されることになっている」

幸村は答えた。

「親類のよしみあればこそ、その御推挙かたじけなく存じるが、われら関ヶ原合戦に徳川家のおん敵となっ

て浪々の身となり、高野山にて乞食同然のさまでおりましたのを、秀頼公のお召しを受け、一方の大将とし

てこの出丸を預けられましたこと、弓矢取る身の面目もこれに過ぎずと思うております故、秀頼公に叛いて

城を出て徳川方に属せんこと思いもよりません。平にご容赦」

真田信繁(幸村)(1567-1615年)
20100624 003

信尹が帰って復命して暫くすると、本多正純から、

「信濃一国を賜わろうとの御上意でござる。今一度行ってくだされ」

と言って来た。

信尹はまた行って告げた。幸村は、

「不肖のわれらに過分の禄を賜ろうとの思召し、ありがたくはござるが、利欲のために心をひるがえすは、

侍の羞じるところでござる。今度の合戦がしょせん勝ち目のない戦いであることは、われらよく存じてあ

る。討死と思い定めております。万一にも和睦ということになりましたら、われらにおいては領地の望み

などさらにござらねば、叔父上に奉公して御扶持を受けましょう。この戦さのある限りは秀頼公への忠義

以外は考えておりません。もはや重ねて参られても、今生の暇乞いでござる」

と答えたという。

また、

「10万石では、不忠者にならぬが、信濃一国なら不忠者となると思し召されたか」

と怒って会いもしなかったという説もありますが、幸村の性格と年齢から考えて、前者の方が本当かも知

れません。

幸村は芯の強さは非常なものだが、うわべは真に穏やかだったといいますから、諄々と説いた可能性が

高いと思われます。


初めてハーネスを付けて、目が飛んでいます。
sakura 20111129 001

「未知との遭遇!?」
数日前、帰宅途中にUFOが現れました。?
狭い道路でしたので、直ぐに視角から外れてしまいましたが、飛行船か何かだったのでしょうね。
uf.ufo 001 uf.ufo 002

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 初(常高院)
        交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方
        の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意。
        20日に誓書が交換され和平が成立し、この日から家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させてい
        ます。

≪本日の問題≫


                                  <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>
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日本一の兵・真田幸村 『真田丸の攻防』

日本一の兵・真田幸村 『真田丸の攻防』

翌日の4日に、真田丸はまた敵の猛攻を受けた。

この前夜の夜半から真田丸の空壕の中に越前の松平忠直の兵が3、4百人忍び込み、井伊家の兵も間近く

忍び寄っていた。

どうした訳かというと、城方の将の一人・南条光明という男が伊達政宗に誘惑されて、関東勢を手引きして

城内にもぐり込ませる約束をした。

その南条は密計が露見して誅されたのだが、寄せ手はそれを未だ知らなかった。

てっきり城は4日の早朝には落ち、城内は混乱に陥るに決まっている故、それに乗じて真田丸に乗り入ろう

というつもりだったのです。

上田駅前の幸村像
20100624 001

この朝は霧が深く、全然見通しがきかなかった、夜が明けて幸村は敵が間近く敵が迫っていることが分か

ったので、直ちに射撃の命令を下して、つるべ撃ちに放させた。

塀際に取り付いている越前兵は一人残らず撃ち落され、井伊家の軍勢は撃ちまくられ、壕際に寄りつくこと

も出来ず混乱した。

これを見て、出丸の中では、

「よい機(しお)、討って出るしょうぞ」

と勇みたったが、幸村は首を横に振った。

「今、討って出れば、一旦の勝利は得ることができるが、引き上げの時、必ず付け入らされる。付け入ら

せないようにすれば、討って出た者を捨て殺しにせねばならぬことになる。すべて城内から討って出る時

は、引き上げの工夫がある時に限るのだ」

と教えた。

寄せ手は多大の損害を受けながらも、今にも南条の裏切りで城中が混乱に陥ると思い込んでいるので、

ひるまず、後から後から攻勢に出てくる。


鉄砲を撃ちかけているうちに、誤って火縄を火薬箱に落としてしまい、轟然と爆発した。

「それ! 今こそ裏切りぞ!」

と越前勢はもとより、井伊勢、藤堂勢、皆勇み立って、今度は城へ向って突進した。

しかし、木村重成が良く士卒を指揮して、間断なく猛射を浴びせかけたので、諸軍死傷者が続出した。

はやり立った勢いで、竹束の盾も携えていない。右往し、左往し、人を盾にとって混乱した。

それを見て、幸村は、

「今ならよいわ」

と、嫡男の大助と伊木遠雄とに命じて、5百の兵を授けて、東の城戸から討って出させ、松倉重政と寺沢

志摩の隊に攻めかからせた。

思いもかけない攻撃に、2隊はたちまち崩れて越前側になだれ込んだ。越前勢も騒ぎ立て混乱している

ところへ、城内から鉄砲玉を雨注したので、越前勢は益々乱れたいう。

幸村は合図の貝を吹いて要領よく引き上げさせた。

この時、大助はわずかに13歳です。

大助は幸村の高野山時代九度山村で生まれたのです。母は大谷吉継の娘。

ume 20111128 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 13歳
        幸村の嫡男・大助は初陣で大坂冬の陣に参陣していますが、この時に大助はわずかに13歳
        でした。大助は幸村の高野山時代九度山村で生まれ、母は大谷吉継の娘です。
        大助は、この後の夏の陣において大坂城で切腹しています。この時14歳です。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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日本一の兵・真田幸村 『大阪冬の陣のはじまり』

日本一の兵・真田幸村 『大阪冬の陣のはじまり』

家康は10月23日に京都に到着し二条城に入った。

秀忠は11月10日伏見に到着し、翌日二条城で家康に会った。この間にも諸大名の兵は集まり、大坂に

向って進撃した。

11月15日、家康は京都を出発し奈良街道をとって、5時頃に奈良奉行の中坊秀政の屋敷に入り、ここに

泊まった。

秀忠も15日に伏見を出発、淀川の東岸に沿った大坂街道をとって枚方に入り、その夜はそこに泊まった。

家康・秀忠ともに大坂に着き、いよいよ戦闘が始まった。

本格的な戦いは26日の鴫野・今福の合戦であった。初陣の木村重成が佐竹・上杉両家の勢と戦って見

事な働きぶりを見せ、秀頼の命によって助勢に駆けつけた老巧・後藤又兵衛を感嘆させたという。

次は12月1日の真田丸の合戦です。

大坂冬の陣布陣図
大坂冬の陣布陣図
<クリックで拡大します>

ここを攻め口として受取ったのは、加賀の前田家であった。

前田家と真田丸との間に小さい笹山があって、いつもここに真田丸の兵が出入して鉄砲を撃ちかけるので、

この日、前田家の重臣・奥村摂津は

「あの山がじゃまだわ、あれにいる敵を追い払わないとどうにもならぬ」

と言って、手勢を率いて用心しながら駆り立ててみると、一兵もいない。勢い込んで出たこととて、体裁悪

く引き取りにかかると、真田丸の塀の上に突き立って呼ばわる者がいた。

「もうし、もうし、加賀の衆。笹山を駆り立て召されたは、ご退屈しのぎの追鳥狩のためでござるかや。

それほどご退屈ならば、一番この出丸を攻めてご覧あれ。われらが所在の上田鍛冶の打ったる矢の根にて、

ご重代の鎧の札を試してみるのも御一興でござるや」

ふざけ切ったこの嘲弄に加賀勢はかっと激昂し、

「生意気な!踏み潰せ」

とばかりに、まっしぐらに押し寄せて来た。

塀を引き崩せと濠に飛び込み、塁をよじ登ろうとしたが、真田方では全てがこうなるようにと計画していた

ことだったので、雨のように鉄砲と弓を射かけた。

竹束も盾も用意していなかった奥村勢は散々に打ちなされ、多数の死傷者を残して退却した。

前田利常は、

「軍令を破って勝手な戦さし、加賀の恥をさらした」

と怒って、奥村を勘当したという。

さくらも上手に足回りが出来るようになりました。
sakura 20111127 001 sakura 20111127 002

昨日、明治大学の泉キャンパスに行きましたが、秋が進んでいました。
キャンパスの秋風景もいいですね。
me.明治大学泉キャンパス

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 崇源院
        お江の墓碑は、京都市・金戒光明寺の宝篋印塔碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽仁」
        とあり、高野山金剛峰寺の五輪塔碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」、また、
        同寺院には、六角宝塔内卵塔碑銘には「崇源院殿源夫人昌譽大姉」とあります。

≪本日の問題≫


                                <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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お江 [総集編] その13 「お江に関係が深かった人々(2)」

お江 [総集編] その13「お江に関係が深かった人々(2)」

京極マリア(?-1618年)

浅井久政の娘として生まれる。

そのため、長政の姉にあたるが、一説には久政の妹ともいう。

京極忠吉のもとに嫁ぎ、夫との間に高次、高知、龍子をもうける。

1581年、夫とともに安土で洗礼を受け、マリアと名乗った。豊臣秀吉によるキリシタン禁止後も信仰を守る。

龍子は、母の影響を受けることなく洗礼を受けず、豊臣秀吉の側室に迎えられて松丸殿と称された。

お茶々をはじめとする3姉妹にとり、マリアは伯母にあたりその娘の松丸殿は従姉妹にあたる。

そのため北ノ庄城陥落後、3姉妹は一時マリアに預けられたともいう。


羽柴秀勝(1569-1592年)

三次吉房の次男。母は秀吉の姉にあたる瑞龍院。

幼名は小吉。叔父秀吉の数少ない親族の一人として重用される。

秀吉は、信長の4男にあたる於次を養子とし、秀勝と名乗られていたが、1585年18歳で病没。

その後、丹波亀山城主の座とともに、秀勝の名を甥の小吉に与えた。

禄高への不満を訴えたことから、秀吉によって所領を一旦は没収されたが、兄・秀次の取り成しにより、甲斐

府中城主を経て岐阜城主の座を与えられた。

お江を妻に迎え、秀吉によるアジア制覇が完成すれば、朝鮮の統治を一任される予定だったという。

しかし、朝鮮出兵のさなか、巨済島で陣没した。

お江(1573-1626年)
og.お江(崇源院)02

豊臣定子(1592-1658年)

羽柴秀勝とお江の長女として生まれる。

父は誕生前に病没。母は徳川秀忠に再婚したため、伯母の淀殿に養女として育てられる。

1604年、淀殿の斡旋で九条幸家のもとに嫁ぐ。

1608年には夫・幸家が関白に就任。以後、北政所と敬称される。(北政所は秀吉の妻だけの名称ではありま

せん)

豊臣家滅亡後は、秀忠の養女として扱われ、夫の幸家は幕府との折衝役として朝廷内での影響力を誇示。

2人の間に生まれた道房は、公卿の最高位である摂政に就任し、父と同じように朝幕関係の円滑化に尽力。

定子は、異父兄弟の和子が後水尾天皇に嫁ぐと、朝廷内で数少ない近親者として尽くした。


千姫(1597-1666年)

徳川秀忠とお江との間に生まれた長女。

豊臣秀吉の遺命により、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。

大坂の陣後、豊臣家が滅亡したのち、父・秀忠の意向により、徳川四天王の一人として知られる本多忠勝の

嫡孫にあたる忠刻に再嫁した。

一説によると、家康は千姫を助けた者の嫁にすると約束。

坂崎直盛は助け出しながらも、約束は履行されず、千姫奪取計画を実行に移そうとしたところ家臣に殺害され

たともいう。

1626年、夫の忠刻の死後、加賀前田家との3度目の婚姻も検討されたが、双方ともに気乗り薄のため、破談

となった。

その後、70歳で天寿を全うするまで、3代将軍の姉として影響力を保持した。


徳川和子(1607-1678年)

徳川秀忠とお江の間に生まれた5女。“まさこ”とも読む。

誕生の翌年には天皇家との婚儀が噂された。結果としては大坂の陣の勃発、後陽成上皇の崩御、後水尾天

皇の女性問題によって先送りにされ、14歳で後水尾天皇に嫁いだ。

婚儀にあたっては、徳川家康の側室だった阿茶局が母親代わりとして同行し、御所での世話にあたった。

この婚儀は、徳川家の権威を高めるための政略結婚であり、御所内における風当たりは強かった。だが、和

子は母譲りの根気強さを発揮し、朝廷や幕府の関係が円滑になるように心を配り続けた。

娘の明正天皇の即位後、東福門院と名乗った。

手芸を得意とし、小袖のデザインには定評があったという。


後水尾天皇(1596-1680年)

後陽成天皇の第3皇子。母は関白・近衛前久の娘。

16歳で即位。25歳で徳川家から和子を女御として迎える。

幕府による締め付けへの反発から、和子との間に生まれた皇女(明正天皇)に譲位する。

幕府による圧迫に対して深く憤慨はしていたが、武家政権によって隠岐に配流された後鳥羽上皇や後醍醐天

皇を教訓とし、基本的には協調路線を維持した。

退位してからは、和歌・茶道・書道などの文芸活動に専念した。

また、多くの寺社の建立や復興に関与している。

対する幕府は、上皇の遊行費を負担することにより、不満が高まらないよう配意した。



ほぼ一年に渡り、「お江」におつき合いを戴きましてありがとうございました。

このブログを通じて、浅井3姉妹について勉強することができました。

どうしても、豊臣方の記事が多くなっていますが、来年は徳川方についても取り上げてみたいと思いますの

で、お付き合いください。

sakura 20111125 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 高坂昌信
        武田四天王とは、武田信玄・勝頼期の重臣のうち、馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、高坂
        昌信を指す総称です。
        いずれも譜代家老層の出身で、信玄に登用され壮年・晩年期に活躍した主要家臣です。

≪本日の問題≫


                            <参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>

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日本百名城24 「武田氏館」(躑躅ヶ崎館)

『戦国大名の雄 武田氏3代の居館』

【主郭は単郭式の方形館の姿をよく示す】

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、甲斐源氏の流れを汲む甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田

氏の領国経営における中心地でした。現在は跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の

史跡に指定された中世の城館跡です。

16世紀初頭、有力国人層を制圧して甲斐統一を進めていた信玄の父・信虎は、1519年に盆地中央に近い

相川扇状地への居館構築をはじめ、有力家臣らを府中に住まわせています。

晴信(信玄)時代の武田氏は大きく所領を拡大させ、信濃、駿河、上野、遠江、三河などを勢力下に収めま

すが、本拠地は一貫して要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった。


平成23年11月19日、武田氏館に登城しましたので記事にしてみます。

甲府駅南口に鎮座する信玄公(武田氏館とは反対側になります)
信玄公 001

「武田神社入口」
立派な石垣がありますが、この入口は神社建設に伴って造られたもので、本来の虎口ではありません。
武田神社 001 武田神社 002

「正面の水堀」
正面の水堀。幅15mほどで、深さもけっこうありそうです。
武田神社 003

「中世式の武士館」
広さは周囲の堀を含めて東西約200m・南北約190m、面積は約4.6万㎡と推定され、外濠、内濠、空濠に
囲まれた三重構造で、中世式の武家館です。
武田神社 004

「境内の紅葉」
登城日は、あいにくの雨でしたが境内のモミジが綺麗に紅葉していました。
武田神社 005 武田神社 006

「内濠と空堀」
西曲輪と主郭部の間の水堀と空堀
武田神社 007 武田神社 008

武田神社・宝物殿では、「川中島合戦450年 特別展」が開催されていました。
武田神社 009 武田神社 010

「信玄公生誕の地」
要害山城は躑躅ヶ崎館の詰の城として築かれた山城で、この麓に信玄公生誕の地・積翠寺があり信玄公が
生まれたとき、産湯を使ったとされる井戸が残っています。
躑躅ヶ崎館登城後に行ってみました。
積翠寺 001 積翠寺 002

「姫の井戸」
躑躅ヶ崎館の内でも、生活の中心となる場所に有り、一説によると信玄公の息女誕生の折、産湯に使用した
といい「姫の井戸」と名づけられています。
武田神社 011

紅葉が満開の武田氏館跡でした。
武田神社 012 武田神社 013

紅葉がきれいだわ! by sa-ko譲
sa-ko 20111126 001


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 再仕官できない回状
        奉公構(ほうこうかまい)は、武士に対する刑の一つで、出奔した家臣又は改易された者
        に対し大名が出す回状のことをいう。
        これによって他家への再仕官が出来なくなり、その土地から追放される。武士階級におい
        て切腹につぐ重刑です。豊臣秀吉によって始められたといいます。

≪本日の問題≫

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日本一の兵・真田幸村 『大坂城内の葛藤』

日本一の兵・真田幸村 『大坂城内の葛藤』

いよいよ籠城と決まって、それぞれの持場をクジ引きで取り決めた。

そのクジ取奉行は大野治長・渡辺内蔵介・北川次郎兵衛がつとめて、大体済んだところ、大野治長が、

「大手の黒門30間は、わしが持口にして貰いたい」

というと、渡辺内蔵介は怒って、

「黒門はわしの持場だ、我が侭なことを言うてもうろうまい」

と荒々しく言い返した。

売り言葉に買い言葉で、治長も言う。

激しい論争になったので、北川次郎兵衛は両人に間に割って入り、

「治長は口を利くな。内蔵介は無法だぞ」

と止めおいて、

「この分では両人とも刺し違えねば収まるまいが、俺はどうなる。あの両人はしかじかの次第で刺し違え

て死に申したというて、おれが御前へ帰られるか。あくまでやるというなら、先ずおれを討ち果たしてから

にさっしゃれ」

と怒鳴りつけたが、治長は収まらず、

「内蔵介が申すところに理があるなら、おれを斬れい、おれは決して敵対せずぞ」

と言い張り、内蔵介また激し上がり、今にもこと起きそうであった。

次郎兵衛は、

「今どんな時と思うているか、犬の子でも人間として使いたい程の時じゃぞ。よい侍が3人犬死してよい

ものか」

と泣き出して訓戒して、やっと事が収まったという。

上押しになる人物がいないため、まるで無統制になっている大坂城中のことが良く分かる話しです。

大野治長はまんざらのアホではなく、いくらかの才気はあった人物でしょうが、こんな人物が団体の上位

に座ると、かえって害悪をなすものです。

老巧な人の言うことを聞かず、自分を立てようとするからです。

大阪城大手門
oo.大阪城大手門と天守

また、このような話も伝わります。

治長は船場の町を確保するため、城のはるか西方から西南に至る線に防衛線を設定し、この防衛線上

の3ヶ所に砦を構えようとした。

幸村や毛利勝永や、後藤又兵衛や明石掃部らは反対した。

「さように防衛戦を拡げて、所々に人数を分けおいては全体の守りが手薄になる。その上、一ヶ所でも敵

に取られると、味方の心の弱みになる」

治長は聞かず、言い分を通した。

船場の町を防衛線の内に入れるとしたのは、物資の補給路を確保しようという考えからで、考えそのもの

は悪いとは言えないが、それが出来るためには、もっと軍勢が必要であった。

治長は、この者どもは戦場に臨んでの駆け引きは達者かも知れぬが、大きい意味での戦略はわからぬ

わの。

と思ったのでしょうが、老練者の忠告を軽蔑して、現実を無視してお先真暗に目的を追求する小才子に

は良くある話です。


耳が勝手に上がります
sakura 20111124 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 黒田如水
        後藤又兵衛(基次)は、後藤新左衛門基国の次男として生まれ、幼少の頃に父が病死した
        後は、父の友人であった黒田如水に引き取られています。
        その後、如水に家臣として仕え、数多くの軍功を挙げ「黒田二十四騎」や「黒田八虎」の一人
        に数えています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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日本一の兵・真田幸村 『幸村の出撃策は没する』

日本一の兵・真田幸村 『幸村の出撃策は没する』

出丸をこしらえて良いということになったので、幸村は早速、構築にかかります。

場所は、当時の玉造口御門の南、東八町御門の東です。

ここは一段高くなった畑地であったのを、三方に空壕を掘り、柵を一重かけ空濠のなか、壕際に柵を三重

につけ、所どころに矢倉と井桜(せいろう)を上げ、塀の腕木の上には幅7尺の武者走りが付けてあったと

いいます。

出丸が出来上がると、誰言うとなく、これを「真田丸」と呼ぶようになった。

幸村はここに5千の兵をもって籠ったが、のぼり・指物・具足・兜など、上下赤一色であったといいます。

この頃の軍議の席上、幸村は父・昌幸の遺策を提案しています。

「籠城作戦というのは、いずれよりか援軍の到来を期待できる時のみ利がある。今度の合戦は天下を敵

としてことなれば、初めより籠城に出ずるは策を得たものではない。敵に気を奪われ、やがては糧食も尽

き、力も衰えて、ついには落城に至る。出て戦うしかない。出て戦って、時をかせぎ、2、3度勝つうちに必

ず豊臣家恩顧の大名らの間に心を動かして味方する者が出て来るであろう。それには、機先を制するが

第一である。関東、北国の兵がまだ京都に入らぬ先に、秀頼公御出陣あって御旗を天王寺に立て、兵を

山崎に出し、拙者と毛利勝永とを先鋒とし、長蘇我部と後藤に大和路を攻めさせ、伏見城を陥れ、京都を

焼きはらい、宇治、瀬田を固めて、畿内・中国・九州にふれて大名どもを招いたら、必ず味方に馳せ参ずる

者が多いであろう。関東方は長途に疲れている身で、この寒さの河を渡るのだ。意気上がらぬに決まって

いる。味方の利は必定だ。大河をひかえて戦うは大軍を防ぐ常道である。かくして利がなかったら、籠城す

べきで、籠城を急ぐことはない」と主張し、後藤又兵衛もまた出撃策を説いたが、いずれも行われなかった。

「そちらには俺ほどの貫禄がない。同じ策を立てても、人が従わぬであろう」

と昌幸が末期に言って嘆息した通りになったのです。

この際、秀頼でもよければ大野治長でもよい、実力と貫禄を備えていて、良作と見抜いて決断を下せばい

いのだが、秀頼は素質的に優れた人間だったかも知れないが、親の七光りで立てられているだけの人物

であり。大野治長は淀殿の老女・大蔵卿ノ局の子供であるというだけで、豊臣家の家老的地位に上った男

だ。武将としての閲歴もなければ、貫禄もあろう筈がない。

結局は多数決のようになるから、どんな良策もドン栗連に制せられてしまうのである。

さくらも生後4ヶ月を過ぎて、顔・耳の色ずきが良くなりました。
sakura 20111123 001


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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 淀殿の老女・大蔵卿ノ局の子
        大野治長は淀殿の老女・大蔵卿ノ局の子供であるというだけで、豊臣家の家老的地位に
        上った男で、武将としての閲歴もなければ、貫禄もなかったといいます。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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