2011年日本百名城巡りの総括
『2011年は日本百名城12城、その他の城9城を攻略』
日本百名城巡りも、今年は3年目で新たに6城を攻略して、トータルで78城を制覇しました。
今年の城巡りを総括しますと、百名城12城(6城は再登城)・その他の城7城を攻略し、19城を巡ること
ができました。
今年は九州・沖縄を中心に攻めましたので、お伺いした地域は少なかったようです。
福島県:1、埼玉県:2、茨城県:1、千葉県:1、東京都:2、山梨県:2、佐賀都:2、長崎県:1、熊本:1、
沖縄県:4 の城を巡っていました。
まだ、まだ、近畿・山陰・九州・北海道と多くの城を残しておりますので、来年も時間を作ってチャレンジ
したいと思います。
今年も、皆さまに多くの応援を頂きまして励みになりました、皆様のご支援に感謝申し上げます。
今年、巡りました城を順に紹介したいと思います。
2月2日
日本百名城89 佐賀城
「クリークの地形を生かして築かれた鍋島氏の巨城」

2月2日
日本百名城88 吉野ヶ里
「日本の城の起源ともされる環濠集落」

2月2日
日本百名城90 平戸城
「平戸瀬戸を望む松浦家代々の城」

2月4日
日本百名城92 熊本城
「加藤清正が築いた鉄壁の守りを誇った大城郭」
故郷の城ですから、何度、登城したか判りませんが、登城の度に復元が進んでいます。

3月6日
日本百名城21 江戸城
「将軍家とともに歴史を刻んだ日本最大の城郭」
pigletも登城したいということで、お付き合いの登城です。

4月25日
日本百名城99 中城城
「先中城按司が中城湾に臨んで築いた堅城」

4月25日
沖縄・座喜味城
城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態

4月26日
日本百名城98 今帰仁城
「10の曲輪を構えていた北山王の居城」

4月27日
日本百名城100 首里城
「琉球王国の栄華を伝える華麗なる王城」

5月8日
日本百名城19 川越城
「幕閣重鎮が城主となった江戸背後の拠点城郭」
本丸御殿の保存解体工事が終ったので、再登場しました。

5月15日
千葉・大多喜城
勇将・本多忠勝が近代城郭に改築し、城下町を整備

6月3日
埼玉・岩槻城
荒川の台地を利用した、珍しい総曲輪型城郭の縄張りの平城

7月17日
神奈川・石垣山城
小田原の役の際に、小田原城の西の笠懸山の山頂に構築した有名な一夜城

7月17日
日本百名城22 小田原城
「東海道筋の関東入口の要衝を占めた堅城」
秀吉の攻城(石垣山城)の後は、攻められた小田原城に再登城

9月9日
日本百名城12 会津若松城
「戊辰戦争を戦い抜いた奥州屈指の堅城」
朱瓦になった会津若松城を見るため、二度目の登城です。

9月23日
東京・渋谷城
平安時代末期の陣所で、城には渋谷川を水源に水堀を巡らしていた大都会の城跡。

11月18日
山梨・新府城
織田軍の侵攻に備えて、武田勝頼が真田昌幸へ普請を命じた城郭。

11月19日
日本百名城24 武田氏館
「戦国大名の雄、武田氏3代の居館」

12月26日
茨城・土浦城
水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ

2011年、大変お世話になりました。
皆さま、輝く新年をお迎えください。

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 滝川一益
武田征伐において武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げています。
引き続き信長は、一益に関東統治を命じています。
≪本日の問題≫
日本百名城巡りも、今年は3年目で新たに6城を攻略して、トータルで78城を制覇しました。
今年の城巡りを総括しますと、百名城12城(6城は再登城)・その他の城7城を攻略し、19城を巡ること
ができました。
今年は九州・沖縄を中心に攻めましたので、お伺いした地域は少なかったようです。
福島県:1、埼玉県:2、茨城県:1、千葉県:1、東京都:2、山梨県:2、佐賀都:2、長崎県:1、熊本:1、
沖縄県:4 の城を巡っていました。
まだ、まだ、近畿・山陰・九州・北海道と多くの城を残しておりますので、来年も時間を作ってチャレンジ
したいと思います。
今年も、皆さまに多くの応援を頂きまして励みになりました、皆様のご支援に感謝申し上げます。
今年、巡りました城を順に紹介したいと思います。
2月2日
日本百名城89 佐賀城
「クリークの地形を生かして築かれた鍋島氏の巨城」

2月2日
日本百名城88 吉野ヶ里
「日本の城の起源ともされる環濠集落」

2月2日
日本百名城90 平戸城
「平戸瀬戸を望む松浦家代々の城」

2月4日
日本百名城92 熊本城
「加藤清正が築いた鉄壁の守りを誇った大城郭」
故郷の城ですから、何度、登城したか判りませんが、登城の度に復元が進んでいます。

3月6日
日本百名城21 江戸城
「将軍家とともに歴史を刻んだ日本最大の城郭」
pigletも登城したいということで、お付き合いの登城です。

4月25日
日本百名城99 中城城
「先中城按司が中城湾に臨んで築いた堅城」

4月25日
沖縄・座喜味城
城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態

4月26日
日本百名城98 今帰仁城
「10の曲輪を構えていた北山王の居城」

4月27日
日本百名城100 首里城
「琉球王国の栄華を伝える華麗なる王城」

5月8日
日本百名城19 川越城
「幕閣重鎮が城主となった江戸背後の拠点城郭」
本丸御殿の保存解体工事が終ったので、再登場しました。

5月15日
千葉・大多喜城
勇将・本多忠勝が近代城郭に改築し、城下町を整備

6月3日
埼玉・岩槻城
荒川の台地を利用した、珍しい総曲輪型城郭の縄張りの平城

7月17日
神奈川・石垣山城
小田原の役の際に、小田原城の西の笠懸山の山頂に構築した有名な一夜城

7月17日
日本百名城22 小田原城
「東海道筋の関東入口の要衝を占めた堅城」
秀吉の攻城(石垣山城)の後は、攻められた小田原城に再登城

9月9日
日本百名城12 会津若松城
「戊辰戦争を戦い抜いた奥州屈指の堅城」
朱瓦になった会津若松城を見るため、二度目の登城です。

9月23日
東京・渋谷城
平安時代末期の陣所で、城には渋谷川を水源に水堀を巡らしていた大都会の城跡。

11月18日
山梨・新府城
織田軍の侵攻に備えて、武田勝頼が真田昌幸へ普請を命じた城郭。

11月19日
日本百名城24 武田氏館
「戦国大名の雄、武田氏3代の居館」

12月26日
茨城・土浦城
水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ

2011年、大変お世話になりました。
皆さま、輝く新年をお迎えください。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 滝川一益
武田征伐において武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げています。
引き続き信長は、一益に関東統治を命じています。
≪本日の問題≫
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西の富士、東の筑波
『古来・大規模な歌垣が行なわれた筑波山』
平成23年12月23日、土浦城に登場後、天気が良かったので筑波山に登ってきました。
筑波山は、関東地方東部の茨城県つくば市北端にある標高877mの山で、西側に位置する男体山(標高
871m)と東側に位置する女体山(標高877m)からなります。
筑波山は万葉の時代より農閑期の行事として大規模な歌垣が行われ、近隣から多数の男女が集まって歌
を交わし、舞い、踊り、性交を楽しむ習慣があったそうです。これは今年の豊穣を喜び祝い、誰かれなく言い
寄り自由に性交することで、さらに来る年の豊穣を祈る意味があったそうです。
だから、男体山と女体山(?)、奥が深いですね!
西の富士に対する、東の筑波山

今回のコースは「表筑波スカイライン」を経由して、「つつじヶ丘」からロープウェイで女体山へと登るコース
です。
つつじヶ丘で迎えてくれる巨大なガマ

つつじヶ丘からはロープウェイで昇るコースになります。

目指すは女体山頂です。

ロープウェイ駅からは整備された登山道を登ります。

女体山頂の祠(ほこら)と標識

山頂から見る霞ヶ浦
生憎、西側には雲がかかっていましたので、富士山は見ることは出来ませんでした。

男体山への登山コースが整備されていますので、登ってみたかったのですが、強風のためロープウェイが
止まる恐れがあるとのアナウンスが流れていましたので、断念して下山しました。
次回は、ケーブルカーで男体山に登ってみたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 細川氏と山名氏の権力争い
応仁の乱は、室町時代の1467年に発生し、1477年までの11年間にわたって継続してい
ます。
幕府重臣の細川勝元と山名宗全の権力争いが絡み合い、京都室町の幕府政庁に陣を置く
細川軍(東軍)と、山名邸に本陣を構えた山名軍(西軍)の戦いは、京都を焼き尽くす
ほどの激しさでした。
九州など一部の地方を除く全国に拡大した乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、
戦国時代に突入するきっかけとなっています。
≪本日の問題≫
平成23年12月23日、土浦城に登場後、天気が良かったので筑波山に登ってきました。
筑波山は、関東地方東部の茨城県つくば市北端にある標高877mの山で、西側に位置する男体山(標高
871m)と東側に位置する女体山(標高877m)からなります。
筑波山は万葉の時代より農閑期の行事として大規模な歌垣が行われ、近隣から多数の男女が集まって歌
を交わし、舞い、踊り、性交を楽しむ習慣があったそうです。これは今年の豊穣を喜び祝い、誰かれなく言い
寄り自由に性交することで、さらに来る年の豊穣を祈る意味があったそうです。
だから、男体山と女体山(?)、奥が深いですね!
西の富士に対する、東の筑波山

今回のコースは「表筑波スカイライン」を経由して、「つつじヶ丘」からロープウェイで女体山へと登るコース
です。
つつじヶ丘で迎えてくれる巨大なガマ

つつじヶ丘からはロープウェイで昇るコースになります。


目指すは女体山頂です。

ロープウェイ駅からは整備された登山道を登ります。

女体山頂の祠(ほこら)と標識


山頂から見る霞ヶ浦
生憎、西側には雲がかかっていましたので、富士山は見ることは出来ませんでした。

男体山への登山コースが整備されていますので、登ってみたかったのですが、強風のためロープウェイが
止まる恐れがあるとのアナウンスが流れていましたので、断念して下山しました。
次回は、ケーブルカーで男体山に登ってみたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 細川氏と山名氏の権力争い
応仁の乱は、室町時代の1467年に発生し、1477年までの11年間にわたって継続してい
ます。
幕府重臣の細川勝元と山名宗全の権力争いが絡み合い、京都室町の幕府政庁に陣を置く
細川軍(東軍)と、山名邸に本陣を構えた山名軍(西軍)の戦いは、京都を焼き尽くす
ほどの激しさでした。
九州など一部の地方を除く全国に拡大した乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、
戦国時代に突入するきっかけとなっています。
≪本日の問題≫
巨万の富を築いた「悪女」「守銭奴」
『悪女と呼ばれる日野富子の本当の姿とは』
室町幕府8代将軍・足利義政の妻である日野富子に対する悪評を纏めると、「権利欲のあげく応仁の乱を引
き起こして京都を破壊させ、民衆を苦しめた守銭奴」というところでしょうか。
しかし、最近では「経済に明るいファースト・レディー」という評価もあるそうです。
なぜ、彼女はそこまで評価が異なるのでしょうか。
富子の夫:足利義政 義政が建立した銀閣寺

日野富子は、1455年16歳で足利義政の妻になっています。
日野家は公家でありながら、高利貸しと関係を持っていたので、貨幣経済への転換を敏感に感じとれる環境
で生まれ育っています。
1460年、激しい飢饉が京都を襲い、鴨川は死体で流れがせき止められる程だったいう。
このような状況下、何もしない義政に代わって、富子は民衆と僧侶に幕府の名前でお金を与えます。このこと
が、民衆に富子の存在を深く認知させたに違いありません。
結婚して8年目、世継ぎが生まれなかったため、義政は出家していた弟の義視を還俗させ、将軍を継がせる
約束をします。
しかし、その翌年、富子は男の子を産みます。後の将軍・義尚です。
ここで富子は義尚を将軍につけるため、義政に対し、義視との約束を撤回させるように懇願します。その結
果、義視には管領・細川勝元がつき、義尚には侍所の長官・山名宗全が味方となり、他の家の家督争いも
巻き込んだ応仁の乱が始まります。
この応仁の乱は、足軽と呼ばれる傭兵の活躍が勝敗を握り、ただでさえ戦には金がかかるのに、さらに足
軽を雇わなければならず、武将たちは高利貸しから金を借りて、なんとか戦争を続けている状態だった。
それを見て富子は敵味方関係なく、武将たちに幕府の金を貸し付けて利子を稼ぐことを思いつき、これによ
って富子は7万貫(現在のお金で約70億円)もの利益を得ます。
このことが、富子の「守銭奴」というイメージを持たせた理由のひとつかも知れませんが、富子は決して自分
のためにお金を使っていた訳ではありません。
山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、乱の理由がなくなってからは、富子は京都の復興を最優先にか
かげ、交戦を貫く姿勢だった畠山氏に1000貫文を渡して兵を引き揚げさせ、乱を終結させたのです。
そして乱の最中に9代将軍になったまだ幼い義尚に代わり、富子は幕府の財政再建と京都の復興のために、
さまざまな経済政策をとっています。
京都の町に入る者から、一種の通行税である「関銭」を徴収したり、「分一徳政禁令」という金融業者を徳政
令から保護する命令を出すなど、一般庶民からは恨まれながらも室町幕府のために富子は一生力を注ぎ続
けています。
日野富子は、やはり「守銭奴」だったのでしょうか。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 毛利輝元
関ヶ原の戦いは、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心
とする西軍で戦っています。
東軍西軍とも、その多くは豊臣恩顧の武将であり、戦いの性格を家康は豊臣家の家臣同士
の成敗合戦という建前をとったことから、豊臣家は表向き静観の立場をとっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
室町幕府8代将軍・足利義政の妻である日野富子に対する悪評を纏めると、「権利欲のあげく応仁の乱を引
き起こして京都を破壊させ、民衆を苦しめた守銭奴」というところでしょうか。
しかし、最近では「経済に明るいファースト・レディー」という評価もあるそうです。
なぜ、彼女はそこまで評価が異なるのでしょうか。
富子の夫:足利義政 義政が建立した銀閣寺


日野富子は、1455年16歳で足利義政の妻になっています。
日野家は公家でありながら、高利貸しと関係を持っていたので、貨幣経済への転換を敏感に感じとれる環境
で生まれ育っています。
1460年、激しい飢饉が京都を襲い、鴨川は死体で流れがせき止められる程だったいう。
このような状況下、何もしない義政に代わって、富子は民衆と僧侶に幕府の名前でお金を与えます。このこと
が、民衆に富子の存在を深く認知させたに違いありません。
結婚して8年目、世継ぎが生まれなかったため、義政は出家していた弟の義視を還俗させ、将軍を継がせる
約束をします。
しかし、その翌年、富子は男の子を産みます。後の将軍・義尚です。
ここで富子は義尚を将軍につけるため、義政に対し、義視との約束を撤回させるように懇願します。その結
果、義視には管領・細川勝元がつき、義尚には侍所の長官・山名宗全が味方となり、他の家の家督争いも
巻き込んだ応仁の乱が始まります。
この応仁の乱は、足軽と呼ばれる傭兵の活躍が勝敗を握り、ただでさえ戦には金がかかるのに、さらに足
軽を雇わなければならず、武将たちは高利貸しから金を借りて、なんとか戦争を続けている状態だった。
それを見て富子は敵味方関係なく、武将たちに幕府の金を貸し付けて利子を稼ぐことを思いつき、これによ
って富子は7万貫(現在のお金で約70億円)もの利益を得ます。
このことが、富子の「守銭奴」というイメージを持たせた理由のひとつかも知れませんが、富子は決して自分
のためにお金を使っていた訳ではありません。
山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、乱の理由がなくなってからは、富子は京都の復興を最優先にか
かげ、交戦を貫く姿勢だった畠山氏に1000貫文を渡して兵を引き揚げさせ、乱を終結させたのです。
そして乱の最中に9代将軍になったまだ幼い義尚に代わり、富子は幕府の財政再建と京都の復興のために、
さまざまな経済政策をとっています。
京都の町に入る者から、一種の通行税である「関銭」を徴収したり、「分一徳政禁令」という金融業者を徳政
令から保護する命令を出すなど、一般庶民からは恨まれながらも室町幕府のために富子は一生力を注ぎ続
けています。
日野富子は、やはり「守銭奴」だったのでしょうか。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 毛利輝元
関ヶ原の戦いは、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心
とする西軍で戦っています。
東軍西軍とも、その多くは豊臣恩顧の武将であり、戦いの性格を家康は豊臣家の家臣同士
の成敗合戦という建前をとったことから、豊臣家は表向き静観の立場をとっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
日本史上の戦いで、呼び名が異なるのはなぜ?
日本史上の戦争で、呼び名が「役」「戦い」「乱」「変」と異なるのは?
歴史に残るような戦いには、いくつかの呼び名があります。
ひとつは“役”。
2度の元寇は「文永の役」、「弘安の役」と呼ぶし、豊臣秀吉の2度に渡る朝鮮出兵も「文禄の役」、「慶長の
役」という。また、平安期における奥州の争乱は「前九年の役」、「後三年の役」と呼ぶ。
オーソドックスな“○○の戦い”では、「壇ノ浦の戦い」、「川中島の戦い」、「桶狭間の戦い」、「関ヶ原の戦い」、
「鳥羽伏見の戦い」などが代表格。
また、“乱”の代表例は「壬申の乱」、「承平・天慶の乱」、「保元の乱」、「平治の乱」、「承久の乱」、「応仁の
乱」。
そして、“変”は、「安和の変」、「正中の変」、「慶安の変」、「桜田門の変」などがあります。
歴史上の一大事は、以上のような名称で通ってきていますが、何をもって「役」、「戦い」、「乱」、「変」の部類
に区別されているのか分からない。
関ヶ原の戦い(CG画像)

これらの区別は、厳密な分類ではありませんが、それなりの根拠があります。
例えば「乱」には、政治的権力闘争が、大きな武力闘争に発展した場合に使われることが多い。
一方「変」は、政治的陰謀や謀殺・暗殺を指し、有名な「乙巳の変」と「桜田門の変」は、政治的背景・思想的
背景は重大ですが、行動のタイプとしては大掛かりな軍事行動ではなく、数名による要人の暗殺という形を
とっています。
このように「乱」と「変」には、それなりの明確な語義がありますが、「役」、「戦い」、「戦争」になると、かなり
曖昧になってきます。
例えば、西洋史の教科書では、ポエニ戦争と呼んだりポエニ戦役と呼んだりしていますが、戦争について
「役」の言葉を使うのは、人民に戦闘の「役」を課す徴発からきているという。
つまり「役」、「戦争」、「戦い」は殆ど同義で、規模の点で「役」→「戦い」→「戦争」の順で大きくなるといえ
そうです。
このあたりは、クラチー女史が詳しいですね。多分、フォローしてくれるかも知れません。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 壇ノ浦の戦い
1185年4月25日壇ノ浦で行われた源平最後の合戦で平氏は滅亡しています。
屋島の戦いで敗れ下関に退いた平氏軍を源氏軍が追撃。
平氏は総帥平宗盛が安徳天皇と神器を奉じ、源義経を総大将とした源氏軍を迎撃、激戦の
後に宗盛は生けどられ斬首、平氏は滅亡。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
歴史に残るような戦いには、いくつかの呼び名があります。
ひとつは“役”。
2度の元寇は「文永の役」、「弘安の役」と呼ぶし、豊臣秀吉の2度に渡る朝鮮出兵も「文禄の役」、「慶長の
役」という。また、平安期における奥州の争乱は「前九年の役」、「後三年の役」と呼ぶ。
オーソドックスな“○○の戦い”では、「壇ノ浦の戦い」、「川中島の戦い」、「桶狭間の戦い」、「関ヶ原の戦い」、
「鳥羽伏見の戦い」などが代表格。
また、“乱”の代表例は「壬申の乱」、「承平・天慶の乱」、「保元の乱」、「平治の乱」、「承久の乱」、「応仁の
乱」。
そして、“変”は、「安和の変」、「正中の変」、「慶安の変」、「桜田門の変」などがあります。
歴史上の一大事は、以上のような名称で通ってきていますが、何をもって「役」、「戦い」、「乱」、「変」の部類
に区別されているのか分からない。
関ヶ原の戦い(CG画像)

これらの区別は、厳密な分類ではありませんが、それなりの根拠があります。
例えば「乱」には、政治的権力闘争が、大きな武力闘争に発展した場合に使われることが多い。
一方「変」は、政治的陰謀や謀殺・暗殺を指し、有名な「乙巳の変」と「桜田門の変」は、政治的背景・思想的
背景は重大ですが、行動のタイプとしては大掛かりな軍事行動ではなく、数名による要人の暗殺という形を
とっています。
このように「乱」と「変」には、それなりの明確な語義がありますが、「役」、「戦い」、「戦争」になると、かなり
曖昧になってきます。
例えば、西洋史の教科書では、ポエニ戦争と呼んだりポエニ戦役と呼んだりしていますが、戦争について
「役」の言葉を使うのは、人民に戦闘の「役」を課す徴発からきているという。
つまり「役」、「戦争」、「戦い」は殆ど同義で、規模の点で「役」→「戦い」→「戦争」の順で大きくなるといえ
そうです。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 壇ノ浦の戦い
1185年4月25日壇ノ浦で行われた源平最後の合戦で平氏は滅亡しています。
屋島の戦いで敗れ下関に退いた平氏軍を源氏軍が追撃。
平氏は総帥平宗盛が安徳天皇と神器を奉じ、源義経を総大将とした源氏軍を迎撃、激戦の
後に宗盛は生けどられ斬首、平氏は滅亡。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
『源頼朝が伊豆に流された結果』
『源頼朝が伊豆に流された結果』
1156年に起こった保元の乱は、武家が中央政権に進出するきっかけとなった。
そして、その3年後に起こった平治の乱は、平家が源氏を倒して時の覇権を握る契機となっています。
その平治の乱で平清盛に敗れた源義朝(頼朝の父)は、京都から東国へと落ちのびる途中、尾張で斬殺
されている。そして、父・義朝と行動を共にしていた頼朝は捕らえられ京都に護送され後、処刑を免れ伊豆
へ流されています。
頼朝が命を助けられた背景には、清盛の母・池禅尼が六波羅に引き立てられた頼朝の顔に、早世した息
子・家盛の面影を認めて助命嘆願したことにより、清盛の気持ちが頼朝処刑から配流へと動いたという。
頼朝が伊豆に流されたのは、伊豆国が配流の地となっていたこと、また、この地が清盛の異母弟・頼盛
の所領であった駿河大岡荘(沼津市)に隣接したからだという。
つまり、平家にとって源氏の動静を左右する頼朝を監視するには、絶好の場所であったのです。
源氏の後継者に指名されていた頼朝は、14歳にして伊豆の地に閉じ込められ、20年間を流人として過
ごすことになります。
源頼朝(1147-1199年)

そこには歴史の大きなイタズラが仕掛けられていました。
のんびりと暮らしていた頼朝が、地元豪族の娘に手を出したことで追われる身となり、伊豆の小豪族で
あった北条氏の館に逃込む。
そこで頼朝は、北条時政の娘・政子と運命的に出会い、かくまわれている身でありながら、頼朝は政子
とデキてしまったのです。
北条時政が頼朝への支援を決めたのは、娘と頼朝の結びつきだけでなく、源氏の旗印ともいうべき頼朝
を担ぐことは、伊豆の小豪族が天下を狙う千載一遇のチャンスと見たのです。
北条氏と頼朝が結束して伊豆における挙兵が、源氏による平家政権の覆滅に繋がります。
つまり、頼朝を伊豆に流したことは、結果的には平家にとって最悪の選択だったのです。
まさに悪女の異名を持つ北条政子は、時を動かす原動力になったのですね。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 神指城
会津へ移封された上杉景勝は、会津盆地の東南隅に位置する若松城は拡張が難しいと
判断、盆地中央で阿賀川畔の神指ヶ原に新たな城(神指城)の建設を家老・直江兼続
に命じています。
石垣、土塁、堀、門、などを完成させますが、天守着工前に徳川家康の会津征伐により
工事は中断しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
1156年に起こった保元の乱は、武家が中央政権に進出するきっかけとなった。
そして、その3年後に起こった平治の乱は、平家が源氏を倒して時の覇権を握る契機となっています。
その平治の乱で平清盛に敗れた源義朝(頼朝の父)は、京都から東国へと落ちのびる途中、尾張で斬殺
されている。そして、父・義朝と行動を共にしていた頼朝は捕らえられ京都に護送され後、処刑を免れ伊豆
へ流されています。
頼朝が命を助けられた背景には、清盛の母・池禅尼が六波羅に引き立てられた頼朝の顔に、早世した息
子・家盛の面影を認めて助命嘆願したことにより、清盛の気持ちが頼朝処刑から配流へと動いたという。
頼朝が伊豆に流されたのは、伊豆国が配流の地となっていたこと、また、この地が清盛の異母弟・頼盛
の所領であった駿河大岡荘(沼津市)に隣接したからだという。
つまり、平家にとって源氏の動静を左右する頼朝を監視するには、絶好の場所であったのです。
源氏の後継者に指名されていた頼朝は、14歳にして伊豆の地に閉じ込められ、20年間を流人として過
ごすことになります。
源頼朝(1147-1199年)

そこには歴史の大きなイタズラが仕掛けられていました。
のんびりと暮らしていた頼朝が、地元豪族の娘に手を出したことで追われる身となり、伊豆の小豪族で
あった北条氏の館に逃込む。
そこで頼朝は、北条時政の娘・政子と運命的に出会い、かくまわれている身でありながら、頼朝は政子
とデキてしまったのです。
北条時政が頼朝への支援を決めたのは、娘と頼朝の結びつきだけでなく、源氏の旗印ともいうべき頼朝
を担ぐことは、伊豆の小豪族が天下を狙う千載一遇のチャンスと見たのです。
北条氏と頼朝が結束して伊豆における挙兵が、源氏による平家政権の覆滅に繋がります。
つまり、頼朝を伊豆に流したことは、結果的には平家にとって最悪の選択だったのです。
まさに悪女の異名を持つ北条政子は、時を動かす原動力になったのですね。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 神指城
会津へ移封された上杉景勝は、会津盆地の東南隅に位置する若松城は拡張が難しいと
判断、盆地中央で阿賀川畔の神指ヶ原に新たな城(神指城)の建設を家老・直江兼続
に命じています。
石垣、土塁、堀、門、などを完成させますが、天守着工前に徳川家康の会津征伐により
工事は中断しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
水に浮かぶ亀の甲羅・土浦城
『水に浮かぶ亀の甲羅・土浦城』
近くても登城していなかった土浦城を、平成23年12月23日に今年最後の城攻めで攻めてきました。
平安時代に平将門が砦を築いたという伝説もありますが定かではありません。
土浦城は別名・亀城とも呼ばれ、平城で幾重にも巡らした濠を固めとする水城でもあった。
城は、城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に三の丸・外丸のほか武家屋敷や町家を含み、北門・南
門・西門を結ぶ濠で囲む総構えの規模を持っていた。
江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門・裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移設された高麗門があり、
復元された建物として、東櫓・西櫓があります。
水城・土浦城縄張り図

戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅田氏と変遷したが、織田・豊臣時代には結城秀康の支配下に
入っています。
江戸時代の城主は、松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変わったが、土屋政直
が再び5万9千石で入封し、明治維新まで土屋氏の居城となっています。
朽木氏の時代に作られたという本丸櫓門

本丸の東櫓と西櫓
西櫓は、3月11日の地震で壁が落ちていますので、立寄ることはできません。

本丸広場
西櫓から東櫓方面を見た本丸。本丸に天守が建てられることはなかった。

二ノ丸門の位置に移築された旧前川口門(高麗門)

二の丸(土浦市立博物館)から見る西櫓

土浦城址は、現在、本丸と二の丸の一部が「亀城公園」として整備され残されております。
公園に隣接する二の丸跡には土浦市立博物館が建ち、館内には土浦城の模型などが展示されています。
駐車場はこの博物館の駐車場を利用し、入館料100円で駐車場は無料になります。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 春日局
1618年、2代将軍・徳川秀忠の時代、「大奥法度」を制定した時、本丸は幕府政庁の
「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分されています。
3代将軍徳川家光乳母・春日局によって組織的な整備がなされ、現在知られる形の大奥
に整えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:現地案内板>
近くても登城していなかった土浦城を、平成23年12月23日に今年最後の城攻めで攻めてきました。
平安時代に平将門が砦を築いたという伝説もありますが定かではありません。
土浦城は別名・亀城とも呼ばれ、平城で幾重にも巡らした濠を固めとする水城でもあった。
城は、城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に三の丸・外丸のほか武家屋敷や町家を含み、北門・南
門・西門を結ぶ濠で囲む総構えの規模を持っていた。
江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門・裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移設された高麗門があり、
復元された建物として、東櫓・西櫓があります。
水城・土浦城縄張り図

戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅田氏と変遷したが、織田・豊臣時代には結城秀康の支配下に
入っています。
江戸時代の城主は、松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変わったが、土屋政直
が再び5万9千石で入封し、明治維新まで土屋氏の居城となっています。
朽木氏の時代に作られたという本丸櫓門

本丸の東櫓と西櫓
西櫓は、3月11日の地震で壁が落ちていますので、立寄ることはできません。


本丸広場
西櫓から東櫓方面を見た本丸。本丸に天守が建てられることはなかった。

二ノ丸門の位置に移築された旧前川口門(高麗門)

二の丸(土浦市立博物館)から見る西櫓

土浦城址は、現在、本丸と二の丸の一部が「亀城公園」として整備され残されております。
公園に隣接する二の丸跡には土浦市立博物館が建ち、館内には土浦城の模型などが展示されています。
駐車場はこの博物館の駐車場を利用し、入館料100円で駐車場は無料になります。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 春日局
1618年、2代将軍・徳川秀忠の時代、「大奥法度」を制定した時、本丸は幕府政庁の
「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分されています。
3代将軍徳川家光乳母・春日局によって組織的な整備がなされ、現在知られる形の大奥
に整えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:現地案内板>
Piglet一家のクリスマス♪
『Merry Christmas!』
皆さまも、ハッピー・クリスマスを迎えられていることと思います。
Piglet一家は、昨年に比べると少し地味なクリスマスでしたが、記念写真を撮りました。
チョット大きめなツリー

今年も少し増えた、クリスマス衣装

sa-ko譲のクリスマスツリーとプレゼンの点検が終ると、クリスマスイブの開始です。
プレゼントは、特別の物を用意せず「いつも食べているおやつ」の数々です。

pigletは唯一のオスですから、トナカイ衣装です。

sa-ko譲は、お気に入りのサンタ衣装です。

うめは衣装が小さくなってしまいましたので、急遽お母さんの衣装を借用です。

さくらは、23年7月生まれで初めてのクリスマスです。
piglet一家で、いちばん体が大きいので大きいサイズの衣装を用意したら、チョット大き過ぎたようです。
来年はピッタリサイズにならないといいですが・・・。

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今日は、「戦国クイズ」はお休みにさせて頂きます。
皆さまも、ハッピー・クリスマスを迎えられていることと思います。
Piglet一家は、昨年に比べると少し地味なクリスマスでしたが、記念写真を撮りました。
チョット大きめなツリー

今年も少し増えた、クリスマス衣装

sa-ko譲のクリスマスツリーとプレゼンの点検が終ると、クリスマスイブの開始です。
プレゼントは、特別の物を用意せず「いつも食べているおやつ」の数々です。


pigletは唯一のオスですから、トナカイ衣装です。


sa-ko譲は、お気に入りのサンタ衣装です。



うめは衣装が小さくなってしまいましたので、急遽お母さんの衣装を借用です。


さくらは、23年7月生まれで初めてのクリスマスです。
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