立花一族 その1 「雷切」
『雷切(らいぎり)』
九州の立花氏は豊後の大友氏の一族であった。
大友氏の第一世・能直(よしなお)は源頼朝の妾腹の子といわれる人です。
これは信ずるに足りませんが、大友氏ではそう信じていたし、世間でもそう信じていたといいます。
ともあれ、大友氏は鎌倉時代の初期以来、九州の名族となっています。
その2代目・親秀の次男に重秀というものがあり、これが豊後国戸次(べつき)にいたので、子孫・戸次氏と
称していた。
重秀から10数伝して鑑連(あきつら)に至る。
当時の大友家の当主・義鎮(宗麟)の命によって筑前・立花城の城主になったので、立花を名字として名の
るようになった。
鑑連は入道して道雪と名のる。
立花道雪(1513-1585年)

道雪は少年の頃から絶倫の武勇があり、攻城野戦があるごとに功を立て、ひとは皆な大器と称したが45歳
の時、不思議な大難にあった。
夏の暑い日、大樹の下で涼をとって昼寝していると、突然その木に落雷した。
道雪は千鳥と名付ける刀をいつも携えていたが、轟然たる落雷に目をさますと、瞬時にその刀をとり、抜打ち
に斬りつけた。
雷が電気の作用であることなど、当時の人は知らない。雷獣などという動物がいて、それが起すものだと思
っていた。
陰徳太平記では、
「雷と思しきものを抜打に丁と斬った」ところ、形は分明できなかったが、手ごたえとして飛び去ったとある。
確かに斬ったと道雪は信じたので、刀の名を「千鳥」から「雷切」と改め、益々珍重して常の差料としたが、
道雪は以後から体が尋常ではなくなった。
感電して、怪我をしたばかりでなく、足が萎えて歩行が自由にできなくなったのです。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 大友宗麟
立花道雪は豊後の戦国大名大友氏の家臣です。
本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
九州の立花氏は豊後の大友氏の一族であった。
大友氏の第一世・能直(よしなお)は源頼朝の妾腹の子といわれる人です。
これは信ずるに足りませんが、大友氏ではそう信じていたし、世間でもそう信じていたといいます。
ともあれ、大友氏は鎌倉時代の初期以来、九州の名族となっています。
その2代目・親秀の次男に重秀というものがあり、これが豊後国戸次(べつき)にいたので、子孫・戸次氏と
称していた。
重秀から10数伝して鑑連(あきつら)に至る。
当時の大友家の当主・義鎮(宗麟)の命によって筑前・立花城の城主になったので、立花を名字として名の
るようになった。
鑑連は入道して道雪と名のる。
立花道雪(1513-1585年)

道雪は少年の頃から絶倫の武勇があり、攻城野戦があるごとに功を立て、ひとは皆な大器と称したが45歳
の時、不思議な大難にあった。
夏の暑い日、大樹の下で涼をとって昼寝していると、突然その木に落雷した。
道雪は千鳥と名付ける刀をいつも携えていたが、轟然たる落雷に目をさますと、瞬時にその刀をとり、抜打ち
に斬りつけた。
雷が電気の作用であることなど、当時の人は知らない。雷獣などという動物がいて、それが起すものだと思
っていた。
陰徳太平記では、
「雷と思しきものを抜打に丁と斬った」ところ、形は分明できなかったが、手ごたえとして飛び去ったとある。
確かに斬ったと道雪は信じたので、刀の名を「千鳥」から「雷切」と改め、益々珍重して常の差料としたが、
道雪は以後から体が尋常ではなくなった。
感電して、怪我をしたばかりでなく、足が萎えて歩行が自由にできなくなったのです。

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昨日の正解: 大友宗麟
立花道雪は豊後の戦国大名大友氏の家臣です。
本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
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今年はじめての「うさんぽ」
『今年、はじめてのうさんぽ』
28日(土)、天気が良く風が吹いていなかったので、前から気になっていた「所沢航空記念公園」に、うさん
ぽに行ってきました。

所沢飛行機場は、明治44年4月、日本初の飛行機場として整備され、第二次世界大戦終了時まで使用さ
れ、大戦後はアメリカ軍の基地としてその機能を果たし、現在は70%が返還され、各種施設が整備されて
市民の憩いの場として整備されています。
今回の「うさんぽ」は、さくらの公園レビューにpiglet父ちゃんの付き添いでの散歩でした。

さくらは広い場所は初めてですので、へやんぽのような迫力ある行動はできないで、ただ、ただ、うずく
まるのみです。

それでも、父ちゃんに説得され、少しずつ行動開始することができました。

暫くは、広い公園を楽しむさくら。

広い場所は落ち着かないようで、生け垣を背にして、すぐうずくまってしまう、さくらです。

pigletは、ひとりで走り回ったり、スペースシャトルに興味を示したりで公園を堪能です。

雪が残る公園は寒くて、30分も遊んで帰る準備です。

また、暖かくなったらpiglet一家全員で遊びに来たい公園でした。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 皇位継承問題や摂関家の内紛
1156年、皇位をめぐる争いと藤原氏内部の勢力争いとが結びついておきた戦乱で、鳥羽法皇
の死後、後白河天皇・藤原忠通の天皇方と、崇徳上皇・藤原頼長(忠通の弟)の上皇方との
争いです。
≪本日の問題≫
28日(土)、天気が良く風が吹いていなかったので、前から気になっていた「所沢航空記念公園」に、うさん
ぽに行ってきました。

所沢飛行機場は、明治44年4月、日本初の飛行機場として整備され、第二次世界大戦終了時まで使用さ
れ、大戦後はアメリカ軍の基地としてその機能を果たし、現在は70%が返還され、各種施設が整備されて
市民の憩いの場として整備されています。
今回の「うさんぽ」は、さくらの公園レビューにpiglet父ちゃんの付き添いでの散歩でした。

さくらは広い場所は初めてですので、へやんぽのような迫力ある行動はできないで、ただ、ただ、うずく
まるのみです。

それでも、父ちゃんに説得され、少しずつ行動開始することができました。


暫くは、広い公園を楽しむさくら。


広い場所は落ち着かないようで、生け垣を背にして、すぐうずくまってしまう、さくらです。

pigletは、ひとりで走り回ったり、スペースシャトルに興味を示したりで公園を堪能です。

雪が残る公園は寒くて、30分も遊んで帰る準備です。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 皇位継承問題や摂関家の内紛
1156年、皇位をめぐる争いと藤原氏内部の勢力争いとが結びついておきた戦乱で、鳥羽法皇
の死後、後白河天皇・藤原忠通の天皇方と、崇徳上皇・藤原頼長(忠通の弟)の上皇方との
争いです。
≪本日の問題≫
平清盛 その10 『すが眼の子』
『すが眼の子』
藤原家も懸命に自分たちの一族の栄華を保とうとし、藤原頼長が内大臣となった。
藤原一族の中でも一番実力を持っているのは通憲だが、他の公卿と同様、武士たちをあなどり武士に実力
を持たせてはいけない、という信念を守り続けている。
通憲が清盛を警戒するようになったのは、その翌年1137年のことであった。
もともと、公卿の藤原家は、南家、北家、そして式家、京家と4つに分かれている。
その4家の中で、一番勢力を持っていたのは北家だが、それは道長という優れた政治力を持った人物が出
たからであった。この道長は62歳で没する。
その後も藤原氏の全盛時代が続き、今は南家藤原氏の通憲が一族の実権を握っている。通憲は博学多才
で政治力も優れていた。ことし30を少し出たばかりでだが、その妻が四の宮の乳母であり、朝廷の中でも勢
力を持っている。
平 清盛(松山ケンイチさん:スクリーンショット)

この通憲には、平忠盛も機嫌を損わないように気を遣い、平家一門の力を伸ばすには通憲の後ろ盾が必要
と考えている程であった。
その藤原通憲と19歳の清盛が争いを起こしたのは1137年の秋で、洛北蓮台野へ狩りに行ったときであっ
た。
この同じ蓮台野に通憲も狩りに来ていた。
清盛は、藪の中に大きな狐を見つけ、真っ直ぐにその狐を追って馬を走らせた。清盛が追っている狐をやは
り通憲が追っていることに気づいてはいなかった。
ちょうど雑木林を出たところで、清盛の眼の前を茶色の影が素早く走っていった。
清盛は機を逃がさずに矢を放った。同時に、雑木林の向こうから華やかな狩姿の公卿が狐を追って馬を走
らせてきた。
清盛の矢は的確に狐を射た。
その狐は首筋に矢を受けたまま、薄野原から高く飛び上がった。出会いがしらなので、通憲の馬は竿立ち
になり前足を大きく宙に浮かせた。
そのはずみで、通憲は馬の鞍から投げだされ、したたか身体を打って直ぐに起れなかった。
急いで藤原家の家来たちは、通憲を抱き起こし馬に乗せようとした。
「待て、わしの妨げをしたのは何者だ」
家来たちに抱かれながら通憲は、清盛を睨みつけた。
むっとして、清盛は答えた。
「お妨げしたのではござらぬ。それがしが、あの狐を射止めました。矢をお調べくだされば、おわかりになる
でしょう」
通憲は、笑いを含んだ声で言った。
「さては、伊勢平氏の“すが眼どの”が子か」
父の忠盛を、こうはっきりと“すが眼”と家来たちの前でからかわれ、清盛は怒りで我を忘れ思わず太刀に
手をかけたが、家来たちが押さえた。
やっと、清盛も怒りを抑え
「さよう、忠盛が子にござる。失礼を仕りました」
「それが分かればよい。公卿に向かって武士がたてつけば、おのれの不為と心得よ」
そう言って、通憲は馬を進め始めた。
暫くそれを見送っていた清盛は、ギリギリと歯をかみしめ悔しさを押さえている声で
「公卿の天下がいつまでも続くと思うているのか。庶民の苦しみを知らず、風流にその日を送っているうち
に、それがおのれたちの墓穴を掘ることになる。とやがて気がつくであろう」
昨日は、さくらの公園レビューでした。
piglet父ちゃんが、たくましく見えます。

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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 松平広忠
徳川家康の父親は、三河国額田郡岡崎城主で松平宗家8代当主の松平広忠です。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛(村上元三著)、平清盛をめぐる101の謎(川口素生)>
藤原家も懸命に自分たちの一族の栄華を保とうとし、藤原頼長が内大臣となった。
藤原一族の中でも一番実力を持っているのは通憲だが、他の公卿と同様、武士たちをあなどり武士に実力
を持たせてはいけない、という信念を守り続けている。
通憲が清盛を警戒するようになったのは、その翌年1137年のことであった。
もともと、公卿の藤原家は、南家、北家、そして式家、京家と4つに分かれている。
その4家の中で、一番勢力を持っていたのは北家だが、それは道長という優れた政治力を持った人物が出
たからであった。この道長は62歳で没する。
その後も藤原氏の全盛時代が続き、今は南家藤原氏の通憲が一族の実権を握っている。通憲は博学多才
で政治力も優れていた。ことし30を少し出たばかりでだが、その妻が四の宮の乳母であり、朝廷の中でも勢
力を持っている。
平 清盛(松山ケンイチさん:スクリーンショット)

この通憲には、平忠盛も機嫌を損わないように気を遣い、平家一門の力を伸ばすには通憲の後ろ盾が必要
と考えている程であった。
その藤原通憲と19歳の清盛が争いを起こしたのは1137年の秋で、洛北蓮台野へ狩りに行ったときであっ
た。
この同じ蓮台野に通憲も狩りに来ていた。
清盛は、藪の中に大きな狐を見つけ、真っ直ぐにその狐を追って馬を走らせた。清盛が追っている狐をやは
り通憲が追っていることに気づいてはいなかった。
ちょうど雑木林を出たところで、清盛の眼の前を茶色の影が素早く走っていった。
清盛は機を逃がさずに矢を放った。同時に、雑木林の向こうから華やかな狩姿の公卿が狐を追って馬を走
らせてきた。
清盛の矢は的確に狐を射た。
その狐は首筋に矢を受けたまま、薄野原から高く飛び上がった。出会いがしらなので、通憲の馬は竿立ち
になり前足を大きく宙に浮かせた。
そのはずみで、通憲は馬の鞍から投げだされ、したたか身体を打って直ぐに起れなかった。
急いで藤原家の家来たちは、通憲を抱き起こし馬に乗せようとした。
「待て、わしの妨げをしたのは何者だ」
家来たちに抱かれながら通憲は、清盛を睨みつけた。
むっとして、清盛は答えた。
「お妨げしたのではござらぬ。それがしが、あの狐を射止めました。矢をお調べくだされば、おわかりになる
でしょう」
通憲は、笑いを含んだ声で言った。
「さては、伊勢平氏の“すが眼どの”が子か」
父の忠盛を、こうはっきりと“すが眼”と家来たちの前でからかわれ、清盛は怒りで我を忘れ思わず太刀に
手をかけたが、家来たちが押さえた。
やっと、清盛も怒りを抑え
「さよう、忠盛が子にござる。失礼を仕りました」
「それが分かればよい。公卿に向かって武士がたてつけば、おのれの不為と心得よ」
そう言って、通憲は馬を進め始めた。
暫くそれを見送っていた清盛は、ギリギリと歯をかみしめ悔しさを押さえている声で
「公卿の天下がいつまでも続くと思うているのか。庶民の苦しみを知らず、風流にその日を送っているうち
に、それがおのれたちの墓穴を掘ることになる。とやがて気がつくであろう」
昨日は、さくらの公園レビューでした。
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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 松平広忠
徳川家康の父親は、三河国額田郡岡崎城主で松平宗家8代当主の松平広忠です。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛(村上元三著)、平清盛をめぐる101の謎(川口素生)>
平清盛 その9 『清盛の父・平忠盛』
『父・忠盛はどんな人物だったのか』
忠盛は、1129年には山陽道、南海道の海賊討伐で活躍していますが、さらに1135年にも山陽道、南海
道での実績をあげ、1140年には入京を企てる興福寺の僧兵を洛外で阻止しています。
このように忠盛は、人並み外れた手腕、軍事力を有する時を代表する武将だったといいます。
また、忠盛は1132年には寺院・得長寿院を寄進するなど、白河上皇、鳥羽上皇に忠節を尽くしています。
平 忠盛(1096-1153年)

忠盛は早くから肥前神崎荘(佐賀県神崎市)で宋国との貿易を行うなど時代を先取りした一面を持ち、
温厚な性格の持ち主で、和歌などにも造詣が深い教養人であったという。
この当時は、功績を挙げた者に代わって、その弟や子が官位、官職を得る「譲り」という制度があり、忠盛
は嫡子である清盛の栄達を願っていたのでしょう。清盛は1130年には従五位下、左兵衛佐の官位、官職
を得ているのは、忠盛の配慮のお陰でした。
また、1149年に忠盛の次男・家盛が病没した際には、相当嘆き悲しんだようで、その年の公式行事を全
てキャンセルしています。
忠盛がいかに家族思い出であったか伺うことができます。
そんな忠盛は、1153年に58歳で病没します。
公家・藤原頼長は、その日記「台記」に、
「人となり恭倹にして、未だかつて奢侈の行有らず。時の人、これ惜しむ」
と記しています。
恭倹は慎み深く、へりくだっていること。奢侈の行は贅沢な行いという意味です。
忠盛の人となりを端的に示した、的確な人物評といわれています。
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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 佐久間盛政
加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点であった尾山御坊(金沢御堂)を
1580年、佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用いたのが金沢城
の始まりです。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝源平編(海音寺潮五郎著)、平清盛(村上元三著)、平清盛をめぐる101の謎(川口素生)>
忠盛は、1129年には山陽道、南海道の海賊討伐で活躍していますが、さらに1135年にも山陽道、南海
道での実績をあげ、1140年には入京を企てる興福寺の僧兵を洛外で阻止しています。
このように忠盛は、人並み外れた手腕、軍事力を有する時を代表する武将だったといいます。
また、忠盛は1132年には寺院・得長寿院を寄進するなど、白河上皇、鳥羽上皇に忠節を尽くしています。
平 忠盛(1096-1153年)

忠盛は早くから肥前神崎荘(佐賀県神崎市)で宋国との貿易を行うなど時代を先取りした一面を持ち、
温厚な性格の持ち主で、和歌などにも造詣が深い教養人であったという。
この当時は、功績を挙げた者に代わって、その弟や子が官位、官職を得る「譲り」という制度があり、忠盛
は嫡子である清盛の栄達を願っていたのでしょう。清盛は1130年には従五位下、左兵衛佐の官位、官職
を得ているのは、忠盛の配慮のお陰でした。
また、1149年に忠盛の次男・家盛が病没した際には、相当嘆き悲しんだようで、その年の公式行事を全
てキャンセルしています。
忠盛がいかに家族思い出であったか伺うことができます。
そんな忠盛は、1153年に58歳で病没します。
公家・藤原頼長は、その日記「台記」に、
「人となり恭倹にして、未だかつて奢侈の行有らず。時の人、これ惜しむ」
と記しています。
恭倹は慎み深く、へりくだっていること。奢侈の行は贅沢な行いという意味です。
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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 佐久間盛政
加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点であった尾山御坊(金沢御堂)を
1580年、佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用いたのが金沢城
の始まりです。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝源平編(海音寺潮五郎著)、平清盛(村上元三著)、平清盛をめぐる101の謎(川口素生)>
戦国大名と対決した信徒衆 「一向一揆」 その8
『一向一揆の終末』
越中五箇山には、血染めの名号と称するものが幾つか伝わります。
これは一向一揆の末期、石山本願寺の応援に決死の覚悟ではるばる出陣した門徒たちが、指を切り、
血判を押していったものであるという。
しかし1580年、石山本願寺は信長の前に屈服し、ほとんど同時に、北陸のメッカ金沢御坊も陥落した。
これが100年に渡った一向一揆の終末であった。
五箇山相倉集落
五箇山訪問記は、「こちら」です。

一向一揆というものは振り返ってみた時、これは庶民にとって栄光を刻んだものではなく、庶民は踏み台
にされたのではないか、やはり庶民というものは悲しい存在であったような気がします。
結局残ったものは何か。
現在、私たちが目にしている東西本願寺の、豪壮な教団としての姿。
近世大名たちはやがて天下を統一し、徳川政権に移行して、武士の政権を打ち立てた。
教団も武将集団も共に確固たる実益を手にして、それぞれの栄光を自分の歴史の中に加えたにも拘わら
ず、一向一揆の痕跡の方は、現在は殆ど残っていない。
起爆剤となった庶民の底辺のエネルギーは、いつとはなしに教団や偽政者、権力者の力の中に吸収され
て、庶民はまたもとの無力な存在に還ってしまった。
一向一揆は、越中五箇山の人々に何を残したのでしょうか。
一向一揆の戦いで少なからぬ犠牲者を出した五箇山の村々では、その後も信仰の灯は消えることはなか
った。
500年前、この山深い村人たちの魂を揺さぶったもの、それが一度は巨大な津波のようになって、北陸の
大地を覆いつくした、これが一向一揆であったのでしょう。
本ブログは宗教の記事ではなく、戦国武将と対決した一向一揆について記したものです。
従いまして、宗教等についてのコメントなどの対応はできませんので、あらかじめご了承願います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 豪姫
前田利家は秀吉が足軽時代から夫婦共に親しく、1574年には子供のなかった秀吉夫婦
に四女の豪姫を授ける程の関係でした。
この豪姫は、15歳で秀吉の猶子であった岡山城主・宇喜多秀家の妻として嫁いでいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
越中五箇山には、血染めの名号と称するものが幾つか伝わります。
これは一向一揆の末期、石山本願寺の応援に決死の覚悟ではるばる出陣した門徒たちが、指を切り、
血判を押していったものであるという。
しかし1580年、石山本願寺は信長の前に屈服し、ほとんど同時に、北陸のメッカ金沢御坊も陥落した。
これが100年に渡った一向一揆の終末であった。
五箇山相倉集落
五箇山訪問記は、「こちら」です。

一向一揆というものは振り返ってみた時、これは庶民にとって栄光を刻んだものではなく、庶民は踏み台
にされたのではないか、やはり庶民というものは悲しい存在であったような気がします。
結局残ったものは何か。
現在、私たちが目にしている東西本願寺の、豪壮な教団としての姿。
近世大名たちはやがて天下を統一し、徳川政権に移行して、武士の政権を打ち立てた。
教団も武将集団も共に確固たる実益を手にして、それぞれの栄光を自分の歴史の中に加えたにも拘わら
ず、一向一揆の痕跡の方は、現在は殆ど残っていない。
起爆剤となった庶民の底辺のエネルギーは、いつとはなしに教団や偽政者、権力者の力の中に吸収され
て、庶民はまたもとの無力な存在に還ってしまった。
一向一揆は、越中五箇山の人々に何を残したのでしょうか。
一向一揆の戦いで少なからぬ犠牲者を出した五箇山の村々では、その後も信仰の灯は消えることはなか
った。
500年前、この山深い村人たちの魂を揺さぶったもの、それが一度は巨大な津波のようになって、北陸の
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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 豪姫
前田利家は秀吉が足軽時代から夫婦共に親しく、1574年には子供のなかった秀吉夫婦
に四女の豪姫を授ける程の関係でした。
この豪姫は、15歳で秀吉の猶子であった岡山城主・宇喜多秀家の妻として嫁いでいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
戦国大名と対決した信徒衆 「一向一揆」 その7
『武士に利用された一揆』
本願寺の寺院は、近世の城と良く似ています。
富山県井波の瑞泉寺もそのひとつです。
高まりを見せた本願寺門徒の勢力が、なぜ信長や家康などの戦国大名の前に屈したのでしょうか。
門徒の勢力のなかに大勢の武士が加わったことが、ある一面では一揆勢の戦闘力を増すとともに、また絶え
ざる内部抗争と裏切りを引き起こす原因ともなった。
1574年、越前に起こった一向一揆の末路は、まさにそれであった。門徒勢力が互いに抗争し合う隙を、織田
信長の軍隊に攻撃されて一気に惨敗した。
その時起こった悲劇を一枚の瓦が証言しています。瓦が発見されたのは、福井県武生市の小丸城の跡です。
「信長の麾下(きか)前田利家が、一揆勢の捕虜千人余りを磔にかけ、あるいは釜であぶり殺した」
とこの瓦の文字は語ります。
凄惨な虐殺の光景を目撃した一揆側の生き残りの一人がこの悲劇を後世に伝えるべく密かに書きつけたもの
でしょう。
織田信長(1534-1582年)

武士というものは、もともと弥陀の本願に惚れ込んで入ってきたのではないのでしょう。自分の支配するムラ
の農民が本願寺の門徒になって、自分が支配しきれなくなって、自分も仲間になっていった、つまり偽装入党
・偽装入信であったと思われます。
そして、自分に向けられた農民の反抗エネルギーを、その上に立つ守護に対して向けてゆく、これが一向一
揆の本質ではないのでしょうか。
加賀の国は一揆が成功しています。
成功した後には、指導的役割を持った武士たちや有力な坊主たちが加賀の支配権を握って、約一世紀の間、
親から子へ、子から孫へと集団指導を行っていた。
織田信長が出て、本願寺とぶつかると、一向一揆を利用して政界に出ようとしていた武士たちが自分の将来
を見て、これを天秤にかける。
本願寺に忠節を尽くすのが自分の将来の栄光への道か、あるいは織田信長に忠節を尽くすのが道か、ここ
で急に、一揆の勢力は加賀も正に半分に分かれ、有力な指導者が信長側についたという。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 松平 元康
1560年、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて
岡崎城へ入城すると今川と決別し、信長と同盟を組みます(清洲同盟)。
この後、元康は家康に名を改め、信長の盟友として、三河国・遠江国に版図を広げ、1567年
には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
本願寺の寺院は、近世の城と良く似ています。
富山県井波の瑞泉寺もそのひとつです。
高まりを見せた本願寺門徒の勢力が、なぜ信長や家康などの戦国大名の前に屈したのでしょうか。
門徒の勢力のなかに大勢の武士が加わったことが、ある一面では一揆勢の戦闘力を増すとともに、また絶え
ざる内部抗争と裏切りを引き起こす原因ともなった。
1574年、越前に起こった一向一揆の末路は、まさにそれであった。門徒勢力が互いに抗争し合う隙を、織田
信長の軍隊に攻撃されて一気に惨敗した。
その時起こった悲劇を一枚の瓦が証言しています。瓦が発見されたのは、福井県武生市の小丸城の跡です。
「信長の麾下(きか)前田利家が、一揆勢の捕虜千人余りを磔にかけ、あるいは釜であぶり殺した」
とこの瓦の文字は語ります。
凄惨な虐殺の光景を目撃した一揆側の生き残りの一人がこの悲劇を後世に伝えるべく密かに書きつけたもの
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武士というものは、もともと弥陀の本願に惚れ込んで入ってきたのではないのでしょう。自分の支配するムラ
の農民が本願寺の門徒になって、自分が支配しきれなくなって、自分も仲間になっていった、つまり偽装入党
・偽装入信であったと思われます。
そして、自分に向けられた農民の反抗エネルギーを、その上に立つ守護に対して向けてゆく、これが一向一
揆の本質ではないのでしょうか。
加賀の国は一揆が成功しています。
成功した後には、指導的役割を持った武士たちや有力な坊主たちが加賀の支配権を握って、約一世紀の間、
親から子へ、子から孫へと集団指導を行っていた。
織田信長が出て、本願寺とぶつかると、一向一揆を利用して政界に出ようとしていた武士たちが自分の将来
を見て、これを天秤にかける。
本願寺に忠節を尽くすのが自分の将来の栄光への道か、あるいは織田信長に忠節を尽くすのが道か、ここ
で急に、一揆の勢力は加賀も正に半分に分かれ、有力な指導者が信長側についたという。
本ブログは宗教の記事ではなく、戦国武将と対決した一向一揆について記したものです。
従いまして、宗教等についてのコメントなどの対応はできませんので、あらかじめご了承願います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 松平 元康
1560年、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて
岡崎城へ入城すると今川と決別し、信長と同盟を組みます(清洲同盟)。
この後、元康は家康に名を改め、信長の盟友として、三河国・遠江国に版図を広げ、1567年
には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
戦国大名と対決した信徒衆 「一向一揆」 その6
『一揆の分裂』
蓮如のたびたびの制止にも関わらず、一向一揆は北陸一帯に広がり、ついに1488年、守護の富樫政規を
高尾の城に囲んで倒し、加賀に本願寺の門徒領国を出現させた。
一方、本願寺は大阪の石山御坊に本拠地を移し、近畿・東海・北陸・中国の各地へ、教線を拡大していった。
後の大坂城の地が、この石山御坊の跡です。
戦国時代に覇を唱えた名だたる武将のほとんどが、一向一揆の洗礼を受けています。
徳川家康もその一人です。
1563年、まだ松平氏を名乗っていた22歳の家康に対して三河の門徒が蜂起し、一揆勢に多数の松平氏
の家臣が参加したことで、家康は苦境に落ちています。
一時は居城・岡崎城も危うかった程だったといいます。
しかし、この時期になると、一揆側にも足並みの乱れが目立ち、それを巧みに突いた家康方が勝利を収め
ます。
加賀の一向一揆より既に80年、一揆の勢力の内部にも分裂が起こっていた。
岡崎城
登城記は、「こちら」と「こちら」です。

三河の門徒勢力には、どちらつかずのヌエが混じっていたという。
それは松平家の武士たちです。
一揆と松平勢との戦争が始まると、彼らは動揺したといいます。
そして家康が自ら槍を取って攻めとくると、逃げ出したという。でも逃げながら振り返って「おれは松平勢
が怖くて逃げるのじゃないぞ。御主君が先頭に立って来るから、やむを得ず逃げるのだぞ」と叫んだとい
います。
しかも、いよいよ激戦になって、家康が一揆勢のために窮地に陥ってしまうと、矛(ほこ)を転じて松平側
に寝返り、家康のために戦って一揆勢を急に槍で突いたりする武士もいたという。
こういうどちらつかずの集団を抱え込んでしまったところに、三河一向一揆の特色と弱体化の原因がある
という。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 柴田勝家
信長は越前8郡75万石を柴田勝家に与え北ノ庄城主に命じています。
越前府中10万石は前田利家・佐々成政・不破光治に均等に与えられ、府中三人衆として
勝家の補佐・監視役を担わせています。
また、大野3万石は金森長近に、2万石は原長頼に与え、柴田勝家を総司令官とする織田家
の北陸軍団を誕生させています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
蓮如のたびたびの制止にも関わらず、一向一揆は北陸一帯に広がり、ついに1488年、守護の富樫政規を
高尾の城に囲んで倒し、加賀に本願寺の門徒領国を出現させた。
一方、本願寺は大阪の石山御坊に本拠地を移し、近畿・東海・北陸・中国の各地へ、教線を拡大していった。
後の大坂城の地が、この石山御坊の跡です。
戦国時代に覇を唱えた名だたる武将のほとんどが、一向一揆の洗礼を受けています。
徳川家康もその一人です。
1563年、まだ松平氏を名乗っていた22歳の家康に対して三河の門徒が蜂起し、一揆勢に多数の松平氏
の家臣が参加したことで、家康は苦境に落ちています。
一時は居城・岡崎城も危うかった程だったといいます。
しかし、この時期になると、一揆側にも足並みの乱れが目立ち、それを巧みに突いた家康方が勝利を収め
ます。
加賀の一向一揆より既に80年、一揆の勢力の内部にも分裂が起こっていた。
岡崎城
登城記は、「こちら」と「こちら」です。

三河の門徒勢力には、どちらつかずのヌエが混じっていたという。
それは松平家の武士たちです。
一揆と松平勢との戦争が始まると、彼らは動揺したといいます。
そして家康が自ら槍を取って攻めとくると、逃げ出したという。でも逃げながら振り返って「おれは松平勢
が怖くて逃げるのじゃないぞ。御主君が先頭に立って来るから、やむを得ず逃げるのだぞ」と叫んだとい
います。
しかも、いよいよ激戦になって、家康が一揆勢のために窮地に陥ってしまうと、矛(ほこ)を転じて松平側
に寝返り、家康のために戦って一揆勢を急に槍で突いたりする武士もいたという。
こういうどちらつかずの集団を抱え込んでしまったところに、三河一向一揆の特色と弱体化の原因がある
という。
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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 柴田勝家
信長は越前8郡75万石を柴田勝家に与え北ノ庄城主に命じています。
越前府中10万石は前田利家・佐々成政・不破光治に均等に与えられ、府中三人衆として
勝家の補佐・監視役を担わせています。
また、大野3万石は金森長近に、2万石は原長頼に与え、柴田勝家を総司令官とする織田家
の北陸軍団を誕生させています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>