立花一族 その17 「宗茂の秀吉謁見」
『宗茂の秀吉謁見』
秀吉は3月1日に大坂を出発し、28日には豊前小倉に着いています。
豊前の厳石城攻撃が最初の戦いで、ここを落すと表街道口はもう合戦の必要はなかった。
薩摩勢は全然戦闘せず本国に逃げ篭ったのです。
裏街道口では、秀吉の弟・秀長が秀吉に先立ち豊後に入ったが、その以前に大友氏の旧臣らが気力を
回復して蜂起したので、島津勢は日向に引き取った。
秀長勢が大挙して日向に南下すると、島津勢も相当激しく抵抗するも、この方面もまた本国に逃げ込んで
います。
秀吉は蛇の穴に篭るがごとく退却する島津勢を先鋒諸隊に追わせながら、遊山旅のように悠々と行軍を
続け、4月4日に秋月城に入った。
秋月城

その翌日、立花宗茂は秋月城で謁見した。
秀吉は唐織の夜具(ドテラでしょうか)を着、鉄漿(おはぐろ)をつけつつあった。
秀吉は関白だから、公家の最上席です。公家式におしろいを塗り、置眉をし、鉄漿を付けたのです。
大いに滑稽でありますが、当時の公家はそうしなければならないと思っていたのですから、仕方ありません。
しかし、自分の氏素性に対してコンプレックスを持っていながら、まるでテレを見せなかった秀吉は、得意
気に振舞っていたのでしょう。
「やあ、立花が来たのか。これへ、これへ」
「よう来た、よう来た」
と上機嫌で言い、名馬に自分の鞍を載せたのを与え、また
「九州者は、長い刀を好んで差すそうな、これをやろう」
と三尺ばかりの刀を与え、大名たちが居並ぶ座敷に連れ出して、これまでの宗茂の軍功を一々数えて、
「この若者はおれがために立花の孤城に篭って、島津の大軍にもびくともせず節を守り通した者ぞ。また、
長の籠城に少しも気を屈せず、島津勢が退くと見るや、直ちに追討ちをかけて多数を討取ったばかりか、
島津方の高島居城をも城兵を皆殺しにして乗りとった。忠義、鎮西一、剛勇、また鎮西一、上方にこの者
ほどの若者があろうとは思わぬぞ」
と激賞したので、居合わす大名らはうらやむ者はなかったという。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 有岡城
黒田孝高は、織田信長に対して反意した荒木村重を翻意させるため交渉に有岡城に
乗り込むが、成功せず逆に捕縛されています。
1年後、有岡城は落城し孝高は救出されますが、長期に渡って劣悪な環境の土牢に
押し込められていたため、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由に
なっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
秀吉は3月1日に大坂を出発し、28日には豊前小倉に着いています。
豊前の厳石城攻撃が最初の戦いで、ここを落すと表街道口はもう合戦の必要はなかった。
薩摩勢は全然戦闘せず本国に逃げ篭ったのです。
裏街道口では、秀吉の弟・秀長が秀吉に先立ち豊後に入ったが、その以前に大友氏の旧臣らが気力を
回復して蜂起したので、島津勢は日向に引き取った。
秀長勢が大挙して日向に南下すると、島津勢も相当激しく抵抗するも、この方面もまた本国に逃げ込んで
います。
秀吉は蛇の穴に篭るがごとく退却する島津勢を先鋒諸隊に追わせながら、遊山旅のように悠々と行軍を
続け、4月4日に秋月城に入った。
秋月城

その翌日、立花宗茂は秋月城で謁見した。
秀吉は唐織の夜具(ドテラでしょうか)を着、鉄漿(おはぐろ)をつけつつあった。
秀吉は関白だから、公家の最上席です。公家式におしろいを塗り、置眉をし、鉄漿を付けたのです。
大いに滑稽でありますが、当時の公家はそうしなければならないと思っていたのですから、仕方ありません。
しかし、自分の氏素性に対してコンプレックスを持っていながら、まるでテレを見せなかった秀吉は、得意
気に振舞っていたのでしょう。
「やあ、立花が来たのか。これへ、これへ」
「よう来た、よう来た」
と上機嫌で言い、名馬に自分の鞍を載せたのを与え、また
「九州者は、長い刀を好んで差すそうな、これをやろう」
と三尺ばかりの刀を与え、大名たちが居並ぶ座敷に連れ出して、これまでの宗茂の軍功を一々数えて、
「この若者はおれがために立花の孤城に篭って、島津の大軍にもびくともせず節を守り通した者ぞ。また、
長の籠城に少しも気を屈せず、島津勢が退くと見るや、直ちに追討ちをかけて多数を討取ったばかりか、
島津方の高島居城をも城兵を皆殺しにして乗りとった。忠義、鎮西一、剛勇、また鎮西一、上方にこの者
ほどの若者があろうとは思わぬぞ」
と激賞したので、居合わす大名らはうらやむ者はなかったという。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 有岡城
黒田孝高は、織田信長に対して反意した荒木村重を翻意させるため交渉に有岡城に
乗り込むが、成功せず逆に捕縛されています。
1年後、有岡城は落城し孝高は救出されますが、長期に渡って劣悪な環境の土牢に
押し込められていたため、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由に
なっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
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立花一族 その16 「秀吉の九州征伐」
『秀吉の九州征伐』
九州においては、大友氏はまだ島津に降伏はしていなかったが、気力は全くなく、立花宗茂だけが怒涛
のような気力を見せていた。
毛利三家の兵は、その先鋒隊が8月26日に門司に上陸し、10月初めに三家の本隊が九州に上陸した。
黒田孝高(如水)が軍監となっていた。
黒田孝高(官兵衛・如水)(1546-1604年)

小倉をぬいたのを手はじめに、豊前と筑前の大部分にわたる島津方与力の諸城は征伐軍のものになって
いった。
戦って抜かれたものもあったが、大部分は降伏している。
これは九州の表玄関口における秀吉軍の働きでしたが、秀吉は裏口の豊後方面にも先鋒隊を向けてい
ます。
この豊後方面隊は四国大名が受け、土佐の長曾我部元親父子、讃岐の十河存保を主力とし、淡路の仙
石秀久が軍監であった。
ところが、この四国勢は、戸次川で島津軍と戦って散々に撃破され、長曾我部元親の嫡子・信親と十河
存保とが戦死し、元親は伊予の日振島に逃れ、仙石秀久に至っては淡路まで逃げ帰っています。
この合戦は、長曾我部も十河も戦うべきでないと言ったのに、強がりの仙石さんが無理やり始めたので、
最後には醜態まで演じたという。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 義久
島津義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて
九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州全てを手中に収める
など、島津氏の最大版図を築きます。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡
を安堵されています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
九州においては、大友氏はまだ島津に降伏はしていなかったが、気力は全くなく、立花宗茂だけが怒涛
のような気力を見せていた。
毛利三家の兵は、その先鋒隊が8月26日に門司に上陸し、10月初めに三家の本隊が九州に上陸した。
黒田孝高(如水)が軍監となっていた。
黒田孝高(官兵衛・如水)(1546-1604年)

小倉をぬいたのを手はじめに、豊前と筑前の大部分にわたる島津方与力の諸城は征伐軍のものになって
いった。
戦って抜かれたものもあったが、大部分は降伏している。
これは九州の表玄関口における秀吉軍の働きでしたが、秀吉は裏口の豊後方面にも先鋒隊を向けてい
ます。
この豊後方面隊は四国大名が受け、土佐の長曾我部元親父子、讃岐の十河存保を主力とし、淡路の仙
石秀久が軍監であった。
ところが、この四国勢は、戸次川で島津軍と戦って散々に撃破され、長曾我部元親の嫡子・信親と十河
存保とが戦死し、元親は伊予の日振島に逃れ、仙石秀久に至っては淡路まで逃げ帰っています。
この合戦は、長曾我部も十河も戦うべきでないと言ったのに、強がりの仙石さんが無理やり始めたので、
最後には醜態まで演じたという。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 義久
島津義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて
九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州全てを手中に収める
など、島津氏の最大版図を築きます。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡
を安堵されています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
piglet 4日遅れの誕生日
『piglet4歳の誕生日』
pigletが2月22日に4歳の誕生日を迎えましたので、昨日、少し遅れの誕生日お祝いをしました。
先ずは、恒例のクス球割です。

最初は記念撮影用に、テープカットのようにポーズだけかと思っていましたけど、頑張っても割れて
くれません。

今年のプレゼントは、普段に食べている「オヤツ」と後ろに写っている「手作りの砂遊び」です。
*砂遊びは材料不足で未完成です。

クス球割りに、sa-ko嬢もumeも参加しましたが割ることができません。

sakuraにいたっては、危ないからと近づいてもくれません。

「砂あそび」には、pigletは興味がないようで、近づいてもくれませんので、sa-ko嬢の出番です。

さすが肝っ玉かあさん、豪快に遊んでくれました。

次は、sakuraの番でしたが、これも興味なくパスです。
umeは期待が持てる娘ですが散らかりすぎるので、場所を変えて「さあ、どうぞ」。

期待ができそうです。次回を期待してみます。

pigletは、ケージに帰っても「クス球割」にチャレンジしてくれましたが、割れません。

sa-ko嬢の砂遊びが、あまりにも見事だったのと、クス球が割れないのに熱中していまい、プレゼント
を食べさせてあげるのを忘れてしまいました。
piglet4歳の一年も元気で過ごしてくれることが、一番の望みです。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 蒲生氏郷
主なキリシタン大名には高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、
黒田長政、蒲生氏郷、筒井定次 などがいます。
蒲生氏郷は、千利休の弟子であった茶人仲間の高山右近の説得を受けキリシタンとなり、
レオンという洗礼名を持っていました。
≪本日の問題≫
pigletが2月22日に4歳の誕生日を迎えましたので、昨日、少し遅れの誕生日お祝いをしました。
先ずは、恒例のクス球割です。

最初は記念撮影用に、テープカットのようにポーズだけかと思っていましたけど、頑張っても割れて
くれません。

今年のプレゼントは、普段に食べている「オヤツ」と後ろに写っている「手作りの砂遊び」です。
*砂遊びは材料不足で未完成です。

クス球割りに、sa-ko嬢もumeも参加しましたが割ることができません。


sakuraにいたっては、危ないからと近づいてもくれません。

「砂あそび」には、pigletは興味がないようで、近づいてもくれませんので、sa-ko嬢の出番です。


さすが肝っ玉かあさん、豪快に遊んでくれました。

次は、sakuraの番でしたが、これも興味なくパスです。
umeは期待が持てる娘ですが散らかりすぎるので、場所を変えて「さあ、どうぞ」。


期待ができそうです。次回を期待してみます。

pigletは、ケージに帰っても「クス球割」にチャレンジしてくれましたが、割れません。


sa-ko嬢の砂遊びが、あまりにも見事だったのと、クス球が割れないのに熱中していまい、プレゼント
を食べさせてあげるのを忘れてしまいました。
piglet4歳の一年も元気で過ごしてくれることが、一番の望みです。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 蒲生氏郷
主なキリシタン大名には高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、
黒田長政、蒲生氏郷、筒井定次 などがいます。
蒲生氏郷は、千利休の弟子であった茶人仲間の高山右近の説得を受けキリシタンとなり、
レオンという洗礼名を持っていました。
≪本日の問題≫
『ザビエルは日本を離れたあとどうなった?』
『フランシスコ・ザビエルは日本を離れた後、どうなった?』
フランシスコ・ザビエルは良く知られるように、日本に初めてキリスト教を伝えた人物です。
スペイン人のザビエルが大洋を隔てた日本まで布教に来たのは、ポルトガル王ジョアン三世の依頼で
インド布教に赴き、ゴアを拠点に布教をしている時に、ヤジローという日本人と知り合ったのがきっかけ
であったという。
ザビエルは、1549年、ヤジローの案内で鹿児島に上陸、島津貴久に謁見して日本布教の足がかりを
つくっています。
フランシスコ・ザビエル(1506-1552年)

その後、天皇や将軍には謁見できなかったものの、九州から大坂、京都にまで布教活動を広げ、大内
義隆、大友宗麟らの戦国大名の庇護を受けています。
鹿児島に上陸してから2年3ヵ月後の1551年12月16日、豊後国日出の港から出帆して日本を去ってい
ます。
ザビエルは日本人の資質を高く評価し、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であると見
たそうです。特に名誉心、貧困を恥としないことを褒め、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある
人々であると見たという。
これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価であると同時に、ザビエルが驚いたこと
の一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色が日本において公然と行われていたことであった
そうです。

<クリックで拡大します>
その後、ザビエルはどうしたのでしょうか。
日本を去ったザビエルは、無事にゴアに帰任しています。
ゴアでの仕事を終えて中国に赴いたザビエルは、広東の港外・三州島に粗末な住居を設けて中国での
布教を開始し、1552年12月3日、貧苦の暮らしのなかで病没しています。
ザビエルが中国に入った理由は、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中
国での宣教が不可欠と考えたからとも言われています。
同地に埋葬された遺体はマラッカに移された後、さらにゴアの聖パウロ学院内に改葬されたという。
1614年、ザビエルの片腕がローマに送られていますが、この片腕は、戦後、日本でも公開されたことが
あるそうです。
ザビエルは、ローマ教皇の承認を受けたイエズス会に属していましたが、イエズス会の目的は海外布教
を前提とした世界的宗教改革にあったといいますから、その尖兵たるザビエルは、故国から遠く離れた布
教に地で死ぬことによって本懐を遂げたのでしょう。
豊後におけるザビエルの活動を「大分のまーりたんさん」が、「こちら」で記事にされています。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 聚楽第に戻った
秀吉の妹・朝日姫は、1586年に家康と結婚しますが、1588年に母大政所の病気の見舞い
を理由に上洛し、そのまま京都の聚楽第に住んでいます。
離婚などによる精神的負担のためか、晩年は病気がちで、1590年に母に先立って死去し
ています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
フランシスコ・ザビエルは良く知られるように、日本に初めてキリスト教を伝えた人物です。
スペイン人のザビエルが大洋を隔てた日本まで布教に来たのは、ポルトガル王ジョアン三世の依頼で
インド布教に赴き、ゴアを拠点に布教をしている時に、ヤジローという日本人と知り合ったのがきっかけ
であったという。
ザビエルは、1549年、ヤジローの案内で鹿児島に上陸、島津貴久に謁見して日本布教の足がかりを
つくっています。
フランシスコ・ザビエル(1506-1552年)

その後、天皇や将軍には謁見できなかったものの、九州から大坂、京都にまで布教活動を広げ、大内
義隆、大友宗麟らの戦国大名の庇護を受けています。
鹿児島に上陸してから2年3ヵ月後の1551年12月16日、豊後国日出の港から出帆して日本を去ってい
ます。
ザビエルは日本人の資質を高く評価し、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であると見
たそうです。特に名誉心、貧困を恥としないことを褒め、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある
人々であると見たという。
これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価であると同時に、ザビエルが驚いたこと
の一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色が日本において公然と行われていたことであった
そうです。

<クリックで拡大します>
その後、ザビエルはどうしたのでしょうか。
日本を去ったザビエルは、無事にゴアに帰任しています。
ゴアでの仕事を終えて中国に赴いたザビエルは、広東の港外・三州島に粗末な住居を設けて中国での
布教を開始し、1552年12月3日、貧苦の暮らしのなかで病没しています。
ザビエルが中国に入った理由は、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中
国での宣教が不可欠と考えたからとも言われています。
同地に埋葬された遺体はマラッカに移された後、さらにゴアの聖パウロ学院内に改葬されたという。
1614年、ザビエルの片腕がローマに送られていますが、この片腕は、戦後、日本でも公開されたことが
あるそうです。
ザビエルは、ローマ教皇の承認を受けたイエズス会に属していましたが、イエズス会の目的は海外布教
を前提とした世界的宗教改革にあったといいますから、その尖兵たるザビエルは、故国から遠く離れた布
教に地で死ぬことによって本懐を遂げたのでしょう。
豊後におけるザビエルの活動を「大分のまーりたんさん」が、「こちら」で記事にされています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 聚楽第に戻った
秀吉の妹・朝日姫は、1586年に家康と結婚しますが、1588年に母大政所の病気の見舞い
を理由に上洛し、そのまま京都の聚楽第に住んでいます。
離婚などによる精神的負担のためか、晩年は病気がちで、1590年に母に先立って死去し
ています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
立花一族 その15 「秀吉の始動と島津勢の撤退」
『秀吉の始動と島津勢の撤退』
この頃、秀吉と家康との間は大いに好転していた。
家康が秀吉の妹の朝日姫を妻として5月14日に迎えたのです。
随分と無理な結婚です。
朝日は人の妻となっていたのだし、年も44歳になっていたのを、秀吉は離婚させ、しわ面に紅おしろいを
つけさして、家康の後妻にやったのです。
ひどい話ではありますが、ここまで漕ぎつければ家康を籠絡して牙を出させない自身が秀吉にはあった。
これにより、秀吉は九州征伐をぼつぼつ実行に移し始めたのです。
豊臣秀吉(1537-1598年)

秋山種実がこう切り出した。
「長々の戦で、皆様お疲れであろう。ご休息のため一応帰国されて如何でござる。立花城のことは、お味
方になっている当地のわれらだけで談合して、必ず攻め落とすことにします。お心おきなくご退陣あられる
がよろしいと存ずる」
いい口実さえあれば、退却したいと思っていたところだ。
「よかろう。後は任せる。必ず攻落しなされよ」
秋月はじめ与党の豪族に言って、島津勢は陣所を引き払って帰国の途についた。8月24日であったという。
立花宗茂は天才的な戦争名人であったという。
薩摩勢が退却にかかったと見ると、すぐ足軽を出して追撃し多数の敵を討取り、翌日は薩摩方の居城・高
島城を攻めて城中の兵数百を一人残らず討取った。
これは直ぐに大坂に注進されたので、秀吉は感状を送りつけて激賞したうえ、
「以後はめったな冒険をするな。追々助勢の人数を送る。毛利三家も間もなく行くであろう。それに続いて
わしも出馬し、九州の逆徒らは残らず首をはねるであろう」
と言い添えたという。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 立花城
福岡城の石垣は主に立花山城から石垣を移築して作られています。
現在の立花城址は山頂の本丸跡にわずかに石垣跡、そして古井戸跡が残るのみになって
います。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
この頃、秀吉と家康との間は大いに好転していた。
家康が秀吉の妹の朝日姫を妻として5月14日に迎えたのです。
随分と無理な結婚です。
朝日は人の妻となっていたのだし、年も44歳になっていたのを、秀吉は離婚させ、しわ面に紅おしろいを
つけさして、家康の後妻にやったのです。
ひどい話ではありますが、ここまで漕ぎつければ家康を籠絡して牙を出させない自身が秀吉にはあった。
これにより、秀吉は九州征伐をぼつぼつ実行に移し始めたのです。
豊臣秀吉(1537-1598年)

秋山種実がこう切り出した。
「長々の戦で、皆様お疲れであろう。ご休息のため一応帰国されて如何でござる。立花城のことは、お味
方になっている当地のわれらだけで談合して、必ず攻め落とすことにします。お心おきなくご退陣あられる
がよろしいと存ずる」
いい口実さえあれば、退却したいと思っていたところだ。
「よかろう。後は任せる。必ず攻落しなされよ」
秋月はじめ与党の豪族に言って、島津勢は陣所を引き払って帰国の途についた。8月24日であったという。
立花宗茂は天才的な戦争名人であったという。
薩摩勢が退却にかかったと見ると、すぐ足軽を出して追撃し多数の敵を討取り、翌日は薩摩方の居城・高
島城を攻めて城中の兵数百を一人残らず討取った。
これは直ぐに大坂に注進されたので、秀吉は感状を送りつけて激賞したうえ、
「以後はめったな冒険をするな。追々助勢の人数を送る。毛利三家も間もなく行くであろう。それに続いて
わしも出馬し、九州の逆徒らは残らず首をはねるであろう」
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福岡城の石垣は主に立花山城から石垣を移築して作られています。
現在の立花城址は山頂の本丸跡にわずかに石垣跡、そして古井戸跡が残るのみになって
います。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
立花一族 その14 「宗茂の戦略」
『宗茂の戦略』
岩屋城を陥れた島津勢は宝満山城に使者を使わして、城を明け渡せよと要求した。
この城は元来筑紫氏の持城であったが、当主・筑紫広門が島津家に捕らえられたので、宝満山城に残っ
ていたのは筑紫氏の家臣らが広門の娘婿である高橋統増を迎えて、城主と仰いでいたのであった。
統増はこの時15歳であった。
城中の人員が複雑な構成であったから、はかばしい籠城は出来ないと判断し、開城することで相談一決し
て島津家へ申し込む。
「主人・統増と故紹運の妻・宗雲を無事に立花城へ送り届けてくださるのなら、開城いたしましょう」
「申し超さるる趣き承知でござる。相違あるまじく」
と島津家では返答した。
これで開城となったが、この島津方の約束が真っ赤なウソであった。
統増を立花とは反対の肥後の吉松(熊本県植木町)に、紹運の未亡人を筑後の北ノ関(山門・三池・玉名
の境)に連れて行き、番衆を付けて監視した。
立花城

こうして宝満山城を受取ると、島津軍はこの城と岩屋城を秋月種実に渡して、立花城に使僧を使わした。
「ご存知でもござろう。岩屋城も宝満山城もわれらが手に帰し申した。貴辺のご舎弟と母君もわれらが手に
ござる。無益なる籠城をなさるより、降参あれ。さもなくば、押し寄せ、即座に踏み潰し申すでござろう」
宗茂は、秀吉の命を受けた毛利三家(毛利・吉川・小早川)の軍勢が中国路から来ることを連絡によって知っ
ているから、それまでの時間を稼ぎたい。
宗茂は、こう答えた。
「ご懇諭を拝承しましたが、それについて立花の地は従前通り、拙者に賜りとうござる。さなくば、武士として
よき働きが出来申さぬにより、お断り申すほかはござらぬ」
島津方では、肥後の八代に来ている島津義久の許にこの返答を持って行き、指図を仰ぎ、
「立花の城はこちらにお渡しあれ。かわりに筑前の早良郡に荒平城をつけて進ぜるでござろう」
だいぶ時間も稼いだので、今度は本音を吐く、
「心得ぬことを仰せられるものかな。城の名と拙者の名字は切って離せぬものがあるを、何とお考え遊ばす
ぞ。当城の名も拙者の名字も、すでに関白殿下さえご存知でござる。されば天下の人皆知っていることでご
ざる。その名字の起こりである当城を捨てよと抑せられるのでござるかな、なり申さぬ。
ことさら、拙者はこの頃毛利氏へ助勢を乞い、人質を差し出し、鉄砲も多数送りよこされ、近々にはうしろ巻
きの軍勢も参ることになっています。今さら貴殿方へ降伏など思いもよらぬこと」
愚弄されたようなものです。
島津方ではかんかんに腹を立てたが、岩屋城攻撃に相当痛手い損害を受けているうえに、暑熱のひどい
季節です。腹が立ったからとて、すぐ攻撃には出られない。
そのうえ、毛利三家が秀吉の命を受けて、九州征伐の西部先鋒部隊として来ることが事実との情報が入
った。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 筑後柳川
秀吉は、立花宗茂の九州征伐での功を認めて、筑後柳川13万2,000石を与え大友氏から
独立した直臣大名に取り立てています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
岩屋城を陥れた島津勢は宝満山城に使者を使わして、城を明け渡せよと要求した。
この城は元来筑紫氏の持城であったが、当主・筑紫広門が島津家に捕らえられたので、宝満山城に残っ
ていたのは筑紫氏の家臣らが広門の娘婿である高橋統増を迎えて、城主と仰いでいたのであった。
統増はこの時15歳であった。
城中の人員が複雑な構成であったから、はかばしい籠城は出来ないと判断し、開城することで相談一決し
て島津家へ申し込む。
「主人・統増と故紹運の妻・宗雲を無事に立花城へ送り届けてくださるのなら、開城いたしましょう」
「申し超さるる趣き承知でござる。相違あるまじく」
と島津家では返答した。
これで開城となったが、この島津方の約束が真っ赤なウソであった。
統増を立花とは反対の肥後の吉松(熊本県植木町)に、紹運の未亡人を筑後の北ノ関(山門・三池・玉名
の境)に連れて行き、番衆を付けて監視した。
立花城

こうして宝満山城を受取ると、島津軍はこの城と岩屋城を秋月種実に渡して、立花城に使僧を使わした。
「ご存知でもござろう。岩屋城も宝満山城もわれらが手に帰し申した。貴辺のご舎弟と母君もわれらが手に
ござる。無益なる籠城をなさるより、降参あれ。さもなくば、押し寄せ、即座に踏み潰し申すでござろう」
宗茂は、秀吉の命を受けた毛利三家(毛利・吉川・小早川)の軍勢が中国路から来ることを連絡によって知っ
ているから、それまでの時間を稼ぎたい。
宗茂は、こう答えた。
「ご懇諭を拝承しましたが、それについて立花の地は従前通り、拙者に賜りとうござる。さなくば、武士として
よき働きが出来申さぬにより、お断り申すほかはござらぬ」
島津方では、肥後の八代に来ている島津義久の許にこの返答を持って行き、指図を仰ぎ、
「立花の城はこちらにお渡しあれ。かわりに筑前の早良郡に荒平城をつけて進ぜるでござろう」
だいぶ時間も稼いだので、今度は本音を吐く、
「心得ぬことを仰せられるものかな。城の名と拙者の名字は切って離せぬものがあるを、何とお考え遊ばす
ぞ。当城の名も拙者の名字も、すでに関白殿下さえご存知でござる。されば天下の人皆知っていることでご
ざる。その名字の起こりである当城を捨てよと抑せられるのでござるかな、なり申さぬ。
ことさら、拙者はこの頃毛利氏へ助勢を乞い、人質を差し出し、鉄砲も多数送りよこされ、近々にはうしろ巻
きの軍勢も参ることになっています。今さら貴殿方へ降伏など思いもよらぬこと」
愚弄されたようなものです。
島津方ではかんかんに腹を立てたが、岩屋城攻撃に相当痛手い損害を受けているうえに、暑熱のひどい
季節です。腹が立ったからとて、すぐ攻撃には出られない。
そのうえ、毛利三家が秀吉の命を受けて、九州征伐の西部先鋒部隊として来ることが事実との情報が入
った。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 筑後柳川
秀吉は、立花宗茂の九州征伐での功を認めて、筑後柳川13万2,000石を与え大友氏から
独立した直臣大名に取り立てています。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
立花一族 その13 「岩屋城の落城」
『岩屋城の落城』
島津氏の攻撃は7月から始まり、先ずは岩屋城にとりかけた。
本来の薩摩軍勢だけではない。秋月・龍造寺・城井らも加わっている。豊後を除く中部九州から北の豪族
全部です。
その勢10万余。大宰府のあたりにかけて、尺地の余地もない程であったという。
薩摩方では、使いを出し
「元来、宝満山城は筑紫氏のものであった。筑紫氏がわれらに降参した以上、われらに引き渡されるべき
に、貴殿子息を籠城させて守っておられる段、理由なきことである。早々、宝満山城はお引渡しあるべし」
と申し入れた。
紹運は
「拙者と立花宗茂は大友宗麟のとりなしをもって、関白閣下の家人となっています。宝満山・岩屋・立花の
3城は閣下のお城で、われわれは閣下に仰せによって守っています。主命をもって固めている以上、守り
通すのが武士の道でござる。城を受取るべしとの殿下の下命を受けてまいられたのなら知らず、それなくし
て引渡しは思いもよらず」
と返答した。
岩屋城碑

これで決裂となり、7月14日から激しい合戦が始まった。
紹運はよく防いで、寄り手に日々多大な損害を与えたが、何せ大軍で弱らない。
27日、ついに城中全滅し、城は落ちた。
士分の者が6百人もあったというから、総勢では3、4千人もあったでしょう。紹運は思うさまに敵をなやま
して撃退し、味方の死傷者を見舞って、死者には礼を言って合掌し、傷者には自ら気付薬を口に含ませ
た後、
『屍(かばね)をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき』
と、辞世の歌を扉に書き付けて、矢倉に登って切腹した。
紹運の死骸の具足に一通の書があって、封皮に「島津中務殿」と書いてあった。
島津中務とは、当時の島津家の当主・義久の3番目の弟・家久です。この戦の大将として来ている。
「今度、降参をすすめ給うたのに従わなかったのは、ひとえに義によってである。諒解して貰いたい。
ついては同封の書を大友家に届けてもらいたい」
とあった。
家久は、
「たぐいまれなる有将を殺してしまったことよ。この人と友になったら、いかばかり嬉しいことであったろう
に。おしきことよ。弓矢とる身ほどうらめしいはない」
と涙を流し、秋月から臨済宗の禅僧を呼んで、葬礼を行ったという。
昨日、pigletが4歳になりました。
誕生日の準備ができていなかったので、週末にお祝いをしてあげたいと思います。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 乱世の華
1587年、豊臣秀吉は薩摩国に入り島津氏を降伏させる。
帰途太宰府で、紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西
(九州)にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華(乱世の華)である」と
その死を惜しんだと伝わる。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
島津氏の攻撃は7月から始まり、先ずは岩屋城にとりかけた。
本来の薩摩軍勢だけではない。秋月・龍造寺・城井らも加わっている。豊後を除く中部九州から北の豪族
全部です。
その勢10万余。大宰府のあたりにかけて、尺地の余地もない程であったという。
薩摩方では、使いを出し
「元来、宝満山城は筑紫氏のものであった。筑紫氏がわれらに降参した以上、われらに引き渡されるべき
に、貴殿子息を籠城させて守っておられる段、理由なきことである。早々、宝満山城はお引渡しあるべし」
と申し入れた。
紹運は
「拙者と立花宗茂は大友宗麟のとりなしをもって、関白閣下の家人となっています。宝満山・岩屋・立花の
3城は閣下のお城で、われわれは閣下に仰せによって守っています。主命をもって固めている以上、守り
通すのが武士の道でござる。城を受取るべしとの殿下の下命を受けてまいられたのなら知らず、それなくし
て引渡しは思いもよらず」
と返答した。
岩屋城碑

これで決裂となり、7月14日から激しい合戦が始まった。
紹運はよく防いで、寄り手に日々多大な損害を与えたが、何せ大軍で弱らない。
27日、ついに城中全滅し、城は落ちた。
士分の者が6百人もあったというから、総勢では3、4千人もあったでしょう。紹運は思うさまに敵をなやま
して撃退し、味方の死傷者を見舞って、死者には礼を言って合掌し、傷者には自ら気付薬を口に含ませ
た後、
『屍(かばね)をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき』
と、辞世の歌を扉に書き付けて、矢倉に登って切腹した。
紹運の死骸の具足に一通の書があって、封皮に「島津中務殿」と書いてあった。
島津中務とは、当時の島津家の当主・義久の3番目の弟・家久です。この戦の大将として来ている。
「今度、降参をすすめ給うたのに従わなかったのは、ひとえに義によってである。諒解して貰いたい。
ついては同封の書を大友家に届けてもらいたい」
とあった。
家久は、
「たぐいまれなる有将を殺してしまったことよ。この人と友になったら、いかばかり嬉しいことであったろう
に。おしきことよ。弓矢とる身ほどうらめしいはない」
と涙を流し、秋月から臨済宗の禅僧を呼んで、葬礼を行ったという。
昨日、pigletが4歳になりました。
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昨日の正解: 乱世の華
1587年、豊臣秀吉は薩摩国に入り島津氏を降伏させる。
帰途太宰府で、紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西
(九州)にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華(乱世の華)である」と
その死を惜しんだと伝わる。
≪本日の問題≫
<参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>