戦国武将には、なぜ出家したものが多い?
『戦国武将には、なぜ出家したものが多い?』
「平相国入道」といえば平清盛、「信玄入道」といえば武田信玄。
もともと「入道」は、皇族や三位以上の貴人が出家剃髪すること、またその人をいいました。
それが中世以降になって、世俗間で華々しく活動したのち出家すること(またはその人物)を指すようにな
っています。
世俗間で華々しく活躍というのは、おおむね戦争における活躍を意味しています。
実際、軍記物語には「入道」を名乗る武将が数多く登場します。
出家剃髪して「入道」を名乗った後も、彼らは武勇を誇っています。そして「入道」の呼び名は、しだいに
荒々しい武将や狡猾な戦略家のイメージと結びついていきます。
特に戦国武将には「入道」が多いですが、その理由は、それぞれの事情によって異なります。
黒田如水軒(1546-1604年)

米沢城主・伊達輝宗は、家督を長子の政宗に譲るために隠居し、そのまま出家して受心と号した。
甲斐の武田晴信が岐秀元伯を導師として出家剃髪し、信玄と号した理由は、伊達輝宗の場合と異なりま
す。
晴信は出家して「入道」になったことで大僧正の位を得ています。
僧侶の最高位たる大僧正は朝廷の参議に匹敵する地位です。
常に上洛戦を胸に描いていた晴信は、その地位を入京への大きな足がかりと見なしていたのでしょう。
つまり、武田晴信の場合は、もっぱら政治的意図によって「入道」と号したのです。
このほか、豊臣秀吉の九州征伐に敗れた島津義久に代表されるように、降伏や恭順の意を示すために頭
を丸めて入道になるというケースもかなりあります。
一方、上杉輝虎(のちの謙信)のケースは、極めて異色です。
一般的には結束が固いと信じられている上杉輝虎の家臣団は、実は輝虎への反抗と内部分裂を繰り返す
極めてやっかいな家臣だったのです。
そうした家臣団に業を煮やした輝虎は、1556年、突然に家督をなげうって出家を宣言し、領地から出奔し
てしまう。
上杉家の後継者がいなくなっては国の一大事と、家臣団がひとつにまとまって輝虎の家督放棄を思い留
まらせた。
もともと仏道への憧憬をいただいていた輝虎は、それから14年後の1570年に出家して謙信と号しています。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 利益
前田慶次郎の通称は、宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次などといわれます。
諱は、利益の他、利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞
(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会(編)>
「平相国入道」といえば平清盛、「信玄入道」といえば武田信玄。
もともと「入道」は、皇族や三位以上の貴人が出家剃髪すること、またその人をいいました。
それが中世以降になって、世俗間で華々しく活動したのち出家すること(またはその人物)を指すようにな
っています。
世俗間で華々しく活躍というのは、おおむね戦争における活躍を意味しています。
実際、軍記物語には「入道」を名乗る武将が数多く登場します。
出家剃髪して「入道」を名乗った後も、彼らは武勇を誇っています。そして「入道」の呼び名は、しだいに
荒々しい武将や狡猾な戦略家のイメージと結びついていきます。
特に戦国武将には「入道」が多いですが、その理由は、それぞれの事情によって異なります。
黒田如水軒(1546-1604年)

米沢城主・伊達輝宗は、家督を長子の政宗に譲るために隠居し、そのまま出家して受心と号した。
甲斐の武田晴信が岐秀元伯を導師として出家剃髪し、信玄と号した理由は、伊達輝宗の場合と異なりま
す。
晴信は出家して「入道」になったことで大僧正の位を得ています。
僧侶の最高位たる大僧正は朝廷の参議に匹敵する地位です。
常に上洛戦を胸に描いていた晴信は、その地位を入京への大きな足がかりと見なしていたのでしょう。
つまり、武田晴信の場合は、もっぱら政治的意図によって「入道」と号したのです。
このほか、豊臣秀吉の九州征伐に敗れた島津義久に代表されるように、降伏や恭順の意を示すために頭
を丸めて入道になるというケースもかなりあります。
一方、上杉輝虎(のちの謙信)のケースは、極めて異色です。
一般的には結束が固いと信じられている上杉輝虎の家臣団は、実は輝虎への反抗と内部分裂を繰り返す
極めてやっかいな家臣だったのです。
そうした家臣団に業を煮やした輝虎は、1556年、突然に家督をなげうって出家を宣言し、領地から出奔し
てしまう。
上杉家の後継者がいなくなっては国の一大事と、家臣団がひとつにまとまって輝虎の家督放棄を思い留
まらせた。
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前田慶次郎の通称は、宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次などといわれます。
諱は、利益の他、利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞
(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会(編)>
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前田利家 その9 「利家、尾張荒子城主に」
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
「利家、尾張荒子城主に」
信長のもとに帰参してからの前田利家の働きぶりは、めざましいものがあった。
各地に転戦する信長軍には必ず従軍し、従軍すれば必ずなにがしかの武功をあげています。
利家は前田家の4男であったから自立しなければならず、そのため武勇ひと筋にひた走り、赤母衣武者の
身分にまでなったのであるが、人間の情実も機能として評価する信長が、このように役に立つ実力者を顧
みない筈がない、いつかは身の立つようにしてやりたいと思っていたことでしょう。
尾張荒子城址(利家誕生の地)

利家の長兄で尾張荒子城主2千貫の身代を領する前田利久の後妻は、かつて織田の家中・滝川益重の
妻であったが、益重の妊娠した身で利久に嫁いで来たのです。
利久は美貌の若い後妻を溺愛するあまり、滝川益重の子であることを承知しながら、生まれた子を跡継ぎ
にして、自分は隠居の身になろうとした。
その子供がやがて前田慶次と名乗る一代の拗ね者になった経緯は別途、記事にします。
この家督相続を知った信長は、前田利久に
「家督を利家に譲るように」
と申し入れた。
前田宗家は今でこそ信長に服従しているものの、元来は織田家と同格の小豪族である。
荒子城2千貫文の身代は織田家から貰ったものではないのだから、その家督相続に関しては、信長から
干渉を受ける筋合いはないが、今や上京して天子に謁見し、美濃岐阜城に風雲の旗色を鮮明にひるがえ
す信長の申し入れであれば、命令も同然で拒むことは不可能であった。
利久は不承不承、信長の申し入れに従った。
この時の情況が伝わります。
利久の若い後妻は立腹して、城を明け渡して立ち退く際、様々に呪いの言葉を吐き、
「この城に住む者にわざわいあれ、この衝立を使う者は足なえよ、この屏風を立て巡らす者はかったいに
なれよ」
などと、城は勿論、道具・調度の類までに呪詛を並び立てたという。
すさまじい怨念です。
そして若い後妻の怨念は、前田利久の本心であったのでしょう。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 前田慶次郎
前田利久の後妻は、かつて織田の家中・滝川益重の妻であったが、益重の妊娠した身で
利久に嫁いで来ています。
その子供がやがて前田慶次郎と名乗る一代の拗ね者で有名です。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
「利家、尾張荒子城主に」
信長のもとに帰参してからの前田利家の働きぶりは、めざましいものがあった。
各地に転戦する信長軍には必ず従軍し、従軍すれば必ずなにがしかの武功をあげています。
利家は前田家の4男であったから自立しなければならず、そのため武勇ひと筋にひた走り、赤母衣武者の
身分にまでなったのであるが、人間の情実も機能として評価する信長が、このように役に立つ実力者を顧
みない筈がない、いつかは身の立つようにしてやりたいと思っていたことでしょう。
尾張荒子城址(利家誕生の地)

利家の長兄で尾張荒子城主2千貫の身代を領する前田利久の後妻は、かつて織田の家中・滝川益重の
妻であったが、益重の妊娠した身で利久に嫁いで来たのです。
利久は美貌の若い後妻を溺愛するあまり、滝川益重の子であることを承知しながら、生まれた子を跡継ぎ
にして、自分は隠居の身になろうとした。
その子供がやがて前田慶次と名乗る一代の拗ね者になった経緯は別途、記事にします。
この家督相続を知った信長は、前田利久に
「家督を利家に譲るように」
と申し入れた。
前田宗家は今でこそ信長に服従しているものの、元来は織田家と同格の小豪族である。
荒子城2千貫文の身代は織田家から貰ったものではないのだから、その家督相続に関しては、信長から
干渉を受ける筋合いはないが、今や上京して天子に謁見し、美濃岐阜城に風雲の旗色を鮮明にひるがえ
す信長の申し入れであれば、命令も同然で拒むことは不可能であった。
利久は不承不承、信長の申し入れに従った。
この時の情況が伝わります。
利久の若い後妻は立腹して、城を明け渡して立ち退く際、様々に呪いの言葉を吐き、
「この城に住む者にわざわいあれ、この衝立を使う者は足なえよ、この屏風を立て巡らす者はかったいに
なれよ」
などと、城は勿論、道具・調度の類までに呪詛を並び立てたという。
すさまじい怨念です。
そして若い後妻の怨念は、前田利久の本心であったのでしょう。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 前田慶次郎
前田利久の後妻は、かつて織田の家中・滝川益重の妻であったが、益重の妊娠した身で
利久に嫁いで来ています。
その子供がやがて前田慶次郎と名乗る一代の拗ね者で有名です。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
前田利家 その8 「利家、“おまつ”と結婚」
「前田利家、“おまつ”と結婚」
前田利家が正式に信長から勘気を赦免されたのは、1561年5月、美濃の斎藤竜興の臣家と信長が戦った
森部合戦における武功によってであった。
この時も、利家は密かに参陣すると、真っ先に敵中へ突入し首二級をあげて信長に捧げた。うち一級は豪傑
の首であったので、さしもの信長も武功を認めざるを得なくなり、
「手柄であったぞ」
と声をかけ、優しく話したという。
最初に勘気を受けてから足かけ3年目のことであった。
利家は桶狭間の武功をあわせて300貫の加増を受け、清洲城下の侍屋敷に妻・お松とようやく落ち着いて
所帯を持つことになった。
この頃に木下藤吉郎(秀吉)も、ねねと結婚して同じ侍屋敷の一隅にある長屋で、生垣ひとつ隔てた隣家に
新所帯を構えていた。
両家は夫婦ぐるみで親しく交際を重ねるようになるが、秀吉と利家、ねねとお松との生涯を通じての付き合
いはこの時から始まったのです。
1562年、前田家に嫡男・利長が生まれた。
織田家臣団に返り咲いた利家は、体力才知ともに優れた武勇をもって編成された馬廻衆一員に加えられて
います。
赤母衣衆

1569年夏頃、信長は馬廻衆の中から武功の者20人を選んで母衣衆を編成した。
母衣は背に負って矢を防ぐ武具です。
五幅の布で作り、上下に紐がついていて、上の紐は鎧の後ろの母衣に結び、普段は下部の紐を腰に結ん
で背におうが、矢が激しく飛来すると頭からかぶり、馬の頭部も一緒に覆う。
後ろには鯨髭で母衣籠を作り、母衣をその上にかけて一種の装置とした。
利家は信長の赤母衣衆9人の中の筆頭に選ばれたが、その際、
「ありがたき仰せながら、拙者は若輩者でござれば、それはご辞退申したく存じまする」
「年は若いが、武功は老いている。辞退することはない」
と信長は押し付けるように赤母衣を用いさせたという。
これは利家が31歳のことであり、当時の武士にとっては非常に名誉のことであったのでしょう。
同じ頃、利家の長年にわたる敵となった佐々成政は、黒母衣衆11人の筆頭に選ばれています。
木下藤吉郎(秀吉)は、1566年に美濃の墨俣城を一夜のうちに築造した功によって、すでに兵3千を預か
る城主になり、槍の又左が名誉ある赤母衣武者に選ばれ、その3年後には明智光秀、丹羽長秀など領袖と
並んで、布令に署名するまでになっていた。
この両者を比較して見ると、武勇抜群の利家と、政・軍略家としての秀吉と、天性の才能の違いが僅か数
年間のうちに、かなり鮮明に出てきています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 今川方に参陣
沓掛城に入った今川軍は、5月18日夜、松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、
大高城に兵糧を届けさせています。
翌19日3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦を攻撃しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
前田利家が正式に信長から勘気を赦免されたのは、1561年5月、美濃の斎藤竜興の臣家と信長が戦った
森部合戦における武功によってであった。
この時も、利家は密かに参陣すると、真っ先に敵中へ突入し首二級をあげて信長に捧げた。うち一級は豪傑
の首であったので、さしもの信長も武功を認めざるを得なくなり、
「手柄であったぞ」
と声をかけ、優しく話したという。
最初に勘気を受けてから足かけ3年目のことであった。
利家は桶狭間の武功をあわせて300貫の加増を受け、清洲城下の侍屋敷に妻・お松とようやく落ち着いて
所帯を持つことになった。
この頃に木下藤吉郎(秀吉)も、ねねと結婚して同じ侍屋敷の一隅にある長屋で、生垣ひとつ隔てた隣家に
新所帯を構えていた。
両家は夫婦ぐるみで親しく交際を重ねるようになるが、秀吉と利家、ねねとお松との生涯を通じての付き合
いはこの時から始まったのです。
1562年、前田家に嫡男・利長が生まれた。
織田家臣団に返り咲いた利家は、体力才知ともに優れた武勇をもって編成された馬廻衆一員に加えられて
います。
赤母衣衆

1569年夏頃、信長は馬廻衆の中から武功の者20人を選んで母衣衆を編成した。
母衣は背に負って矢を防ぐ武具です。
五幅の布で作り、上下に紐がついていて、上の紐は鎧の後ろの母衣に結び、普段は下部の紐を腰に結ん
で背におうが、矢が激しく飛来すると頭からかぶり、馬の頭部も一緒に覆う。
後ろには鯨髭で母衣籠を作り、母衣をその上にかけて一種の装置とした。
利家は信長の赤母衣衆9人の中の筆頭に選ばれたが、その際、
「ありがたき仰せながら、拙者は若輩者でござれば、それはご辞退申したく存じまする」
「年は若いが、武功は老いている。辞退することはない」
と信長は押し付けるように赤母衣を用いさせたという。
これは利家が31歳のことであり、当時の武士にとっては非常に名誉のことであったのでしょう。
同じ頃、利家の長年にわたる敵となった佐々成政は、黒母衣衆11人の筆頭に選ばれています。
木下藤吉郎(秀吉)は、1566年に美濃の墨俣城を一夜のうちに築造した功によって、すでに兵3千を預か
る城主になり、槍の又左が名誉ある赤母衣武者に選ばれ、その3年後には明智光秀、丹羽長秀など領袖と
並んで、布令に署名するまでになっていた。
この両者を比較して見ると、武勇抜群の利家と、政・軍略家としての秀吉と、天性の才能の違いが僅か数
年間のうちに、かなり鮮明に出てきています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 今川方に参陣
沓掛城に入った今川軍は、5月18日夜、松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、
大高城に兵糧を届けさせています。
翌19日3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦を攻撃しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
前田利家 その7 「利家、桶狭間の戦いに参陣」
「利家、桶狭間の戦いに参陣」
1560年夏の桶狭間の合戦に、牢人ながら利家は密かに隊列に加わって、敵の首3級をあげて、信長の馬前
に捧げると、
「孫四郎(利家)、首取りて候」
叫ぶように報告したが
「侍の役である。首取ったが何珍しかろう」
信長は冷たく言い放っただけであった。
桶狭間の戦い激戦の地

利家は持って来た首を水田に投げ棄てると、また敵へ向ってまっしぐらに駆け出した。
「孫四郎は薄傷を負うています。この度は討ち死にの覚悟のように見受けられます」
近習の者たちが進言したので
「いそいで引き止めよ」
という信長の命により、近習たちが走って引き止めたが、しかし信長はまだ勘気赦免の言葉を与えなかった
という。
一説には再び激戦場に駆け入って、さらに敵の首級を取って来たが、信長はやはり顧みもしなかったという。
必死の力戦奮闘であったことが推量されますが、この時、信長は内心ですでに利家を許していたのかも知れ
ません。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: まつ
前田利家・正室の名は“まつ”です。
篠原一計の子で母が利家の母の姉であるので、利家とは従兄妹関係にあたります。
女性でありながら学問や武芸に通じた女性であったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
1560年夏の桶狭間の合戦に、牢人ながら利家は密かに隊列に加わって、敵の首3級をあげて、信長の馬前
に捧げると、
「孫四郎(利家)、首取りて候」
叫ぶように報告したが
「侍の役である。首取ったが何珍しかろう」
信長は冷たく言い放っただけであった。
桶狭間の戦い激戦の地

利家は持って来た首を水田に投げ棄てると、また敵へ向ってまっしぐらに駆け出した。
「孫四郎は薄傷を負うています。この度は討ち死にの覚悟のように見受けられます」
近習の者たちが進言したので
「いそいで引き止めよ」
という信長の命により、近習たちが走って引き止めたが、しかし信長はまだ勘気赦免の言葉を与えなかった
という。
一説には再び激戦場に駆け入って、さらに敵の首級を取って来たが、信長はやはり顧みもしなかったという。
必死の力戦奮闘であったことが推量されますが、この時、信長は内心ですでに利家を許していたのかも知れ
ません。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: まつ
前田利家・正室の名は“まつ”です。
篠原一計の子で母が利家の母の姉であるので、利家とは従兄妹関係にあたります。
女性でありながら学問や武芸に通じた女性であったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
前田利家 その6 「利家、牢人に」
『前田利家、牢人に』
処罰は覚悟のうえであったが、武士として禄を離れることは、まさに悲運であった。
その浪々中の感慨について、後年、利家は次のように述べています。
金沢城

「人は悲運に沈んでみなければ、友の善悪もわからねば、自分の心も知れぬものである。おれは若いとき、
十阿弥を斬って牢人していたとき、かねて兄弟ほど仲良くしていた朋輩でも、殆ど全部見舞いにも来てくれ
なかった。
森可成・柴田勝家の2人の他は、2・3のお小姓がいろいろと心を運んでくれるだけであった。
また、ずっと後年、小田原の陣でおれが太閤様のご機嫌を損じた時、日頃おれがところに出入して、おれ
も目をかけてくれていた者どもが、多くはご前でおれが悪口ばかり言うげな。
木村常陸介などは兄弟のように懇意にしていたのに、やはりかれこれ讒言(ざんげん)したそうな。蒲生飛
騨・浅野弾正の2人は、色々とご前でとりなしてくれたそうな。
悲運に沈んでみないと人の心はわからぬ。
そういう時、色々と世話をやいてくれる者は誠に少ないが、そんな人間でなければ頼りにならんぞよ。また、
人間悲運の時には心がひがむものでのう。情けないものよ」
述懐にある蒲生飛騨は蒲生氏郷、浅野弾正は浅野長政のことです。
このような戦国牢人が主家に復帰して再び禄を得るためには、密かに合戦に参陣して懸命の働きにより、
めざましい武勲を挙げることしかない。
前田利家は槍を撫でながら、ひたすらその機会を覗うことになります。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 森部合戦
前田利家が正式に信長から勘気を赦免されたのは、1561年5月、美濃の斎藤竜興の臣家
と信長が戦った「森部合戦」における武功によるものでした。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
処罰は覚悟のうえであったが、武士として禄を離れることは、まさに悲運であった。
その浪々中の感慨について、後年、利家は次のように述べています。
金沢城

「人は悲運に沈んでみなければ、友の善悪もわからねば、自分の心も知れぬものである。おれは若いとき、
十阿弥を斬って牢人していたとき、かねて兄弟ほど仲良くしていた朋輩でも、殆ど全部見舞いにも来てくれ
なかった。
森可成・柴田勝家の2人の他は、2・3のお小姓がいろいろと心を運んでくれるだけであった。
また、ずっと後年、小田原の陣でおれが太閤様のご機嫌を損じた時、日頃おれがところに出入して、おれ
も目をかけてくれていた者どもが、多くはご前でおれが悪口ばかり言うげな。
木村常陸介などは兄弟のように懇意にしていたのに、やはりかれこれ讒言(ざんげん)したそうな。蒲生飛
騨・浅野弾正の2人は、色々とご前でとりなしてくれたそうな。
悲運に沈んでみないと人の心はわからぬ。
そういう時、色々と世話をやいてくれる者は誠に少ないが、そんな人間でなければ頼りにならんぞよ。また、
人間悲運の時には心がひがむものでのう。情けないものよ」
述懐にある蒲生飛騨は蒲生氏郷、浅野弾正は浅野長政のことです。
このような戦国牢人が主家に復帰して再び禄を得るためには、密かに合戦に参陣して懸命の働きにより、
めざましい武勲を挙げることしかない。
前田利家は槍を撫でながら、ひたすらその機会を覗うことになります。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 森部合戦
前田利家が正式に信長から勘気を赦免されたのは、1561年5月、美濃の斎藤竜興の臣家
と信長が戦った「森部合戦」における武功によるものでした。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
前田利家 その5 「利家の十阿弥成敗」
『利家の十阿弥成敗』
織田信長の同朋に十阿弥というものがいた。
同朋は江戸時代になると、お城坊主といわれるようになったもので、殿中の給仕など雑用を役目とする
極めて身分の低い者であった。
1559年のことです。
笄(こうがい)

この十阿弥が前田利家の刀の笄(こうがい)を盗んだ。小柄とともに脇差の鞘に挿してあって、耳を掻い
たり、髪の地肌を掻いたりするのに使用する道具です。
おそらく金・銀などが張ってある立派な物であったので、身分賤しい者がつい心をそそられたのでしょう。
利家は怒ってこれを斬った。
一説では、盗みが発覚すると、十阿弥はひたすら謝ったが、陰では
「人に物を盗まれるような男が、かぶき者などと片腹痛い」
と悪口をたたいた。
利家が、また怒るとペコペコと頭を下げておきながら、やはり陰では
「嫁御に鼻の下を長くしているかぶき者」
と悪口した。
利家は堪忍しかねて、城内の櫓下の道でついに十阿弥を成敗したという。
利家は自分が実直な人間なだけに、この悪口に立腹して信長が二の丸櫓に出ている時、その下の道
で十阿弥を成敗したのです。
とにかく見ているところで、利家が同朋十阿弥を斬ったのですから、今度は信長が激怒して
「おのれ拗ね者めが、主君に面当てする気か、許せぬ!手討ちにしてくれる」
と叫ぶと、太刀を掴んで立ち上がり、櫓を駆け下りようとした。側に侍していた柴田勝家と森三左衛門
とが信長の前に立ちふさがって、利家のために様々に詫び言をした。
それで信長は成敗を思い止まったものの、長の暇をくれたので利家は牢人しなければならなくなった。
この時、利家は22歳であった。
piglet一家に十姉妹の「藤原氏」が仲間入りしました。
通称“まろ”です。
右の写真をご覧ください。立派な「殿上眉」があります。
時々登場させて貰いますので、よろしくです!

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 太政大臣に任命された
清盛の実父は白河法皇であるとの説は、清盛が院近臣家の出身にもかかわらず、後に
皇族か摂関、清華家でなければ任命されない太政大臣に任命されたことから、当時の
朝廷が非公式にではあるがこの話を事実としていたともいわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
織田信長の同朋に十阿弥というものがいた。
同朋は江戸時代になると、お城坊主といわれるようになったもので、殿中の給仕など雑用を役目とする
極めて身分の低い者であった。
1559年のことです。
笄(こうがい)

この十阿弥が前田利家の刀の笄(こうがい)を盗んだ。小柄とともに脇差の鞘に挿してあって、耳を掻い
たり、髪の地肌を掻いたりするのに使用する道具です。
おそらく金・銀などが張ってある立派な物であったので、身分賤しい者がつい心をそそられたのでしょう。
利家は怒ってこれを斬った。
一説では、盗みが発覚すると、十阿弥はひたすら謝ったが、陰では
「人に物を盗まれるような男が、かぶき者などと片腹痛い」
と悪口をたたいた。
利家が、また怒るとペコペコと頭を下げておきながら、やはり陰では
「嫁御に鼻の下を長くしているかぶき者」
と悪口した。
利家は堪忍しかねて、城内の櫓下の道でついに十阿弥を成敗したという。
利家は自分が実直な人間なだけに、この悪口に立腹して信長が二の丸櫓に出ている時、その下の道
で十阿弥を成敗したのです。
とにかく見ているところで、利家が同朋十阿弥を斬ったのですから、今度は信長が激怒して
「おのれ拗ね者めが、主君に面当てする気か、許せぬ!手討ちにしてくれる」
と叫ぶと、太刀を掴んで立ち上がり、櫓を駆け下りようとした。側に侍していた柴田勝家と森三左衛門
とが信長の前に立ちふさがって、利家のために様々に詫び言をした。
それで信長は成敗を思い止まったものの、長の暇をくれたので利家は牢人しなければならなくなった。
この時、利家は22歳であった。
piglet一家に十姉妹の「藤原氏」が仲間入りしました。
通称“まろ”です。
右の写真をご覧ください。立派な「殿上眉」があります。
時々登場させて貰いますので、よろしくです!


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 太政大臣に任命された
清盛の実父は白河法皇であるとの説は、清盛が院近臣家の出身にもかかわらず、後に
皇族か摂関、清華家でなければ任命されない太政大臣に任命されたことから、当時の
朝廷が非公式にではあるがこの話を事実としていたともいわれます。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑>
清盛の継母・池禅尼とは?
『清盛の継母・池禅尼とはいかなる女性か』
清盛の生母・院女房は、1120年に病没したものと思われます。
病没した生母に代わって清盛の養育を担当したのは、父・忠盛の継室の池禅尼(藤原宗子)という女性
でした。
宗子は公家・藤原宗兼の娘で、家盛・頼盛を生んでいます。
1153年に忠盛が病没した後は出家し、六波羅の池殿に住んで周囲からは池禅尼、池殿、池の尼御前などと
呼ばれています。
池禅尼の人となりは伝わるものはありませんが、1159年の平治の乱後、源頼朝の助命嘆願を行ったという
点は良く知られています。
直垂(したたれ)

乱の後、平氏方に捕縛された頼朝は、命を絶たれる予定でしたが、そんななか、源氏の残党は、
「左兵衛佐(頼朝)殿の顔は、早世した家盛殿に生き写しじゃ!」
という真偽不明の噂を巷で吹聴したという。
この噂を伝え聞いた池禅尼が熱心に助命嘆願したことから、清盛は頼朝やその異母弟・源義経らを助命する
よう命じた。
しかし、清盛の最晩年に頼朝・義経兄弟らは、平氏打倒を掲げて挙兵します。
このような理由で、池禅尼を「愚かな継母」と断じる向きもありますが、それは当たらないと思われます。
清盛の生母が病没したことなどから、清盛は一時期、不遇な時代を経験します。
そんな時に、彼女の実家の縁をフルに活用し、清盛の出世に一役買ったのが他ならぬ池禅尼でした。
この頃の清盛は柿色の直垂(ひたたれ)、縄緒の高下駄という服装で、公家・藤原家成の邸に出入りし、牛車
の世話などを担当していたという。
服装はともかく、清盛が家成の邸へ出入りすることが出来たのは、尼禅池の父・宗兼と家成の生母とが兄妹
で、2人が従兄妹という血縁関係にあったからです。
家成は鳥羽上皇の側近中の側近で、公家のなかでも屈指の富裕を誇った実力者です。継子・清盛を出世
させるべく、従兄の家成の邸へ出入りさせたという池禅尼の判断は、炯眼であったというべきでしょう。
ともあれ、生母の実家の支援が全く期待できないなか、池禅尼の配慮こそが清盛が世に出る端緒になった
と思われます。
池禅尼の病没については伝わるものはありません。しかし、頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵し
た後も彼女の息子である頼盛を優遇し、平氏滅亡後も頼盛の一族は朝廷堂上人および幕府御家人として
存続しています。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 飛鳥時代
飛鳥時代の大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされ、
以後、7世紀中後期には断続的に元号が用いられたことが『日本書紀』には書かれ
ています。
文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元し、以降継続的に元号が用いられることに
なります。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
清盛の生母・院女房は、1120年に病没したものと思われます。
病没した生母に代わって清盛の養育を担当したのは、父・忠盛の継室の池禅尼(藤原宗子)という女性
でした。
宗子は公家・藤原宗兼の娘で、家盛・頼盛を生んでいます。
1153年に忠盛が病没した後は出家し、六波羅の池殿に住んで周囲からは池禅尼、池殿、池の尼御前などと
呼ばれています。
池禅尼の人となりは伝わるものはありませんが、1159年の平治の乱後、源頼朝の助命嘆願を行ったという
点は良く知られています。
直垂(したたれ)

乱の後、平氏方に捕縛された頼朝は、命を絶たれる予定でしたが、そんななか、源氏の残党は、
「左兵衛佐(頼朝)殿の顔は、早世した家盛殿に生き写しじゃ!」
という真偽不明の噂を巷で吹聴したという。
この噂を伝え聞いた池禅尼が熱心に助命嘆願したことから、清盛は頼朝やその異母弟・源義経らを助命する
よう命じた。
しかし、清盛の最晩年に頼朝・義経兄弟らは、平氏打倒を掲げて挙兵します。
このような理由で、池禅尼を「愚かな継母」と断じる向きもありますが、それは当たらないと思われます。
清盛の生母が病没したことなどから、清盛は一時期、不遇な時代を経験します。
そんな時に、彼女の実家の縁をフルに活用し、清盛の出世に一役買ったのが他ならぬ池禅尼でした。
この頃の清盛は柿色の直垂(ひたたれ)、縄緒の高下駄という服装で、公家・藤原家成の邸に出入りし、牛車
の世話などを担当していたという。
服装はともかく、清盛が家成の邸へ出入りすることが出来たのは、尼禅池の父・宗兼と家成の生母とが兄妹
で、2人が従兄妹という血縁関係にあったからです。
家成は鳥羽上皇の側近中の側近で、公家のなかでも屈指の富裕を誇った実力者です。継子・清盛を出世
させるべく、従兄の家成の邸へ出入りさせたという池禅尼の判断は、炯眼であったというべきでしょう。
ともあれ、生母の実家の支援が全く期待できないなか、池禅尼の配慮こそが清盛が世に出る端緒になった
と思われます。
池禅尼の病没については伝わるものはありません。しかし、頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵し
た後も彼女の息子である頼盛を優遇し、平氏滅亡後も頼盛の一族は朝廷堂上人および幕府御家人として
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昨日の正解: 飛鳥時代
飛鳥時代の大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされ、
以後、7世紀中後期には断続的に元号が用いられたことが『日本書紀』には書かれ
ています。
文武天皇5年(701年)に「大宝」と建元し、以降継続的に元号が用いられることに
なります。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>