真田幸村の蟄居地 「九度山・真田庵」
真田幸村の蟄居地 「九度山・真田庵」
関ヶ原の戦いで西軍に属して、散々に徳川秀忠を苦しめた真田昌幸・幸村(信繁)父子は、西軍が敗れた
ため女人禁制の高野山に配流の身となった。
しかし、妻を連れていたために環境が厳しい高野山から九度山に移され蟄居生活を送ったという。
真田庵(善名称院)は、蟄居生活の屋敷があったと場所と伝わりますが、屋敷は遍照寺の近くにあったと
いう説もあります。
和歌山県九度山・真田庵(訪問日:平成24年4月7日)

<画像はクリックで全て拡大します>
真田昌幸は、この九度山町にて亡くなり、その後、1741年に九度山出身の大安上人が、真田昌幸の墓
所に地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まりという。
国道24号線から九度山駅に向かって走ると、「真田庵」の標識があります。

車を駐車場に停めて、路地を20m進むと真田庵です。

門戸、瓦には六文銭

本堂と菊花の紋章
六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、八つ棟造りの重厚な三層城閣風の本堂が建ち、軒の瓦には菊花の
紋章が入っています。

真田庵の境内にある土蔵作りの真田庵宝物資料館
中には、真田家に関するもの、当時お泊りになった天皇のもの、大安上人に関するものなどが展示されて
います。

真田地主大権現
このお寺で、怒った姿の昌幸の霊がたびたび見られるようになったという。
そこで大安上人は昌幸の霊をこの地の大権現の神様にして祀ったところ、穏やかな顔になった昌幸が現れ、
そして祀ってもらったお礼にこの地を守ると約束したそうです。それがこの真田地主大権現です。
昌幸さんの400回忌碑もありました。(右)

辺境の地「九度山・真田庵」は、今回の畿内の旅で楽しみにしていたひとつでしたが、真田庵が想像以上
にこじんまりとしていたので、少しビックリしました。
この後は、「和歌山城」に向かいました。登城記は「こちら」です。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 相撲
信長は大の相撲好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたという。
相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は
褒美を与え、また織田家の家来として採用されることもあったという。
信長は土俵の原型を作ったともいいます。
≪本日の問題≫
関ヶ原の戦いで西軍に属して、散々に徳川秀忠を苦しめた真田昌幸・幸村(信繁)父子は、西軍が敗れた
ため女人禁制の高野山に配流の身となった。
しかし、妻を連れていたために環境が厳しい高野山から九度山に移され蟄居生活を送ったという。
真田庵(善名称院)は、蟄居生活の屋敷があったと場所と伝わりますが、屋敷は遍照寺の近くにあったと
いう説もあります。
和歌山県九度山・真田庵(訪問日:平成24年4月7日)

<画像はクリックで全て拡大します>
真田昌幸は、この九度山町にて亡くなり、その後、1741年に九度山出身の大安上人が、真田昌幸の墓
所に地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まりという。
国道24号線から九度山駅に向かって走ると、「真田庵」の標識があります。

車を駐車場に停めて、路地を20m進むと真田庵です。


門戸、瓦には六文銭


本堂と菊花の紋章
六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、八つ棟造りの重厚な三層城閣風の本堂が建ち、軒の瓦には菊花の
紋章が入っています。


真田庵の境内にある土蔵作りの真田庵宝物資料館
中には、真田家に関するもの、当時お泊りになった天皇のもの、大安上人に関するものなどが展示されて
います。

真田地主大権現
このお寺で、怒った姿の昌幸の霊がたびたび見られるようになったという。
そこで大安上人は昌幸の霊をこの地の大権現の神様にして祀ったところ、穏やかな顔になった昌幸が現れ、
そして祀ってもらったお礼にこの地を守ると約束したそうです。それがこの真田地主大権現です。
昌幸さんの400回忌碑もありました。(右)


辺境の地「九度山・真田庵」は、今回の畿内の旅で楽しみにしていたひとつでしたが、真田庵が想像以上
にこじんまりとしていたので、少しビックリしました。
この後は、「和歌山城」に向かいました。登城記は「こちら」です。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 相撲
信長は大の相撲好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたという。
相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は
褒美を与え、また織田家の家来として採用されることもあったという。
信長は土俵の原型を作ったともいいます。
≪本日の問題≫
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織田信長は清盛の末裔なのか
『織田信長は清盛の末裔なのか』
鎌倉時代の将軍に仕える者を御家人、江戸時代の将軍に仕える一万石以上の者を大名といいます。
1180年に源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵をするや、北条、上総、千葉、秩父、土肥、梶原、畠山、三浦、
長尾などの各氏が馳せ参じた。
これらのうち、上総、千葉、秩父、土肥、梶原の各氏は桓武平氏の中でも坂東(関東)を代表する有力な武
士であったため、他氏と共に坂東8平氏と呼ばれていた。
この桓武天皇に始まる桓武平氏には様々な系譜がありますが、その系譜を家祖などの実名を冠して○○流
などという場合があります。
例えば、上総、千葉両氏は平良文(桓武天皇の玄孫(やしゃご))の子孫であるため、良文流と呼ばれてい
ます。
頼朝のもとへ馳せ参じ、平氏討伐、鎌倉幕府の創設に貢献した桓武平氏の各氏でしたが、頼朝ら歴代将軍
や他の御家人と対立するなどし、相次いで失脚、滅亡していった。
このため、北条時政(頼朝の岳父)を中興の祖とする北条氏が鎌倉幕府執権として繁栄したのを例外として、
桓武平氏の大部分は没落しています。
その後、執権・北条氏や一族は1333年に清和源氏の足利尊氏、新田義貞らの攻撃を受けて滅亡し、1336
年には尊氏が室町幕府を開きます。
一方、北条氏以外の桓武平氏は余り活躍の機会に恵まれなかったため、江戸時代に大名となった者も多く
はありませんでした。
織田信長(1534-1582年)

桓武平氏の大名は次のとおりです。
[清盛流]出羽天童藩・織田氏、対馬厳原氏・宗氏、関氏(断絶)
[維将流]河内狭山藩・北条氏、高力氏(断絶)
[繁盛流]出羽亀田藩・岩城氏
[良将(将門)流]陸奥相馬(中村)藩・相馬氏
[良文流]美作勝山藩・三浦氏、豊前中津藩・奥平氏、佐久間氏(断絶)、喜多見氏(断絶)
[貞衡流]杉原氏(断絶)
[平氏支流]出羽山形藩・鳥居氏
以上のうち、織田氏は織田長益(有楽斎/信長の弟)、信雄(信長の次男)の子孫で、北条氏は北条早雲
の子孫です。
では、わが信長は清盛の末裔であったかというと、
「寛政重修諸家譜」では、平資盛(清盛の孫、重盛の次男)の流れとされており、旗本となった分家の織田
氏、支族の津田、藤懸、島、中川、柘植の各氏も清盛流となっています。
他にも、甲州流の江戸時代兵学者・小幡景憲を輩出した良文流の小幡氏など桓武平氏には旗本となった
家も少なくありません。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 豊臣秀次
豊臣秀吉は1591年に関白の位と京都における政庁としての聚楽第を豊臣秀次に譲り、太閤
の隠居所として伏見の地に移っています。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
鎌倉時代の将軍に仕える者を御家人、江戸時代の将軍に仕える一万石以上の者を大名といいます。
1180年に源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵をするや、北条、上総、千葉、秩父、土肥、梶原、畠山、三浦、
長尾などの各氏が馳せ参じた。
これらのうち、上総、千葉、秩父、土肥、梶原の各氏は桓武平氏の中でも坂東(関東)を代表する有力な武
士であったため、他氏と共に坂東8平氏と呼ばれていた。
この桓武天皇に始まる桓武平氏には様々な系譜がありますが、その系譜を家祖などの実名を冠して○○流
などという場合があります。
例えば、上総、千葉両氏は平良文(桓武天皇の玄孫(やしゃご))の子孫であるため、良文流と呼ばれてい
ます。
頼朝のもとへ馳せ参じ、平氏討伐、鎌倉幕府の創設に貢献した桓武平氏の各氏でしたが、頼朝ら歴代将軍
や他の御家人と対立するなどし、相次いで失脚、滅亡していった。
このため、北条時政(頼朝の岳父)を中興の祖とする北条氏が鎌倉幕府執権として繁栄したのを例外として、
桓武平氏の大部分は没落しています。
その後、執権・北条氏や一族は1333年に清和源氏の足利尊氏、新田義貞らの攻撃を受けて滅亡し、1336
年には尊氏が室町幕府を開きます。
一方、北条氏以外の桓武平氏は余り活躍の機会に恵まれなかったため、江戸時代に大名となった者も多く
はありませんでした。
織田信長(1534-1582年)

桓武平氏の大名は次のとおりです。
[清盛流]出羽天童藩・織田氏、対馬厳原氏・宗氏、関氏(断絶)
[維将流]河内狭山藩・北条氏、高力氏(断絶)
[繁盛流]出羽亀田藩・岩城氏
[良将(将門)流]陸奥相馬(中村)藩・相馬氏
[良文流]美作勝山藩・三浦氏、豊前中津藩・奥平氏、佐久間氏(断絶)、喜多見氏(断絶)
[貞衡流]杉原氏(断絶)
[平氏支流]出羽山形藩・鳥居氏
以上のうち、織田氏は織田長益(有楽斎/信長の弟)、信雄(信長の次男)の子孫で、北条氏は北条早雲
の子孫です。
では、わが信長は清盛の末裔であったかというと、
「寛政重修諸家譜」では、平資盛(清盛の孫、重盛の次男)の流れとされており、旗本となった分家の織田
氏、支族の津田、藤懸、島、中川、柘植の各氏も清盛流となっています。
他にも、甲州流の江戸時代兵学者・小幡景憲を輩出した良文流の小幡氏など桓武平氏には旗本となった
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 豊臣秀次
豊臣秀吉は1591年に関白の位と京都における政庁としての聚楽第を豊臣秀次に譲り、太閤
の隠居所として伏見の地に移っています。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
桃山の隠居城 「伏見城」
桃山の隠居城「伏見城」
伏見は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝
の地でした。
伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年8月に豊臣秀吉が隠居
後の住まいとするため指月山に建設を始めています。
このとき築かれたものを指月山伏見城、後に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡
山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けら
れます。
伏見城(模擬天守)
平成24年4月6日登城時に撮ったものです。

豊臣期の伏見城は、豪華な様式であったと伝わります。
伏見城は1596年に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊しています。
このため、木幡山に再築された伏見城で秀吉は1598年にこの伏見城内で没しています。
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康が
この城に入り政務を執っています。
関ヶ原の戦いの際には、家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて
落城し建物の大半が焼失します。
なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院など複数
の寺で天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい血痕を見ることができま
す。
しかし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かでは
ありません。
焼失した伏見城は1602年ごろ家康によって再建され、1619年に廃城とされこのとき建物や部材は二条城、
淀城、福山城などに移築されています。
伏見城から移築された「伏見櫓」が現存する福山城は、「こちら」です。
鉄筋コンクリートの伏見城
鉄筋コンクリートでありながら耐震強度がないとは・・・、誰もいない城は寂しい限りですね。

伏見城花畑に、昭和39年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には5重6階の大天守
と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が鉄筋コンクリート構造で造られています。
2003年1月、同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園したが、模擬天守は京都市民の
伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与されたが、模擬天守は耐震基準を満たして
いないことから内部非公開となっています。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 中国大返し
中国大返し(又は備中大返し)は、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長
の本能寺の変での横死を知ったのち、主君の仇・明智光秀を討つため京に向けて全軍を
取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。日本史上屈指の大強行軍として知ら
れます。
≪本日の問題≫
伏見は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝
の地でした。
伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年8月に豊臣秀吉が隠居
後の住まいとするため指月山に建設を始めています。
このとき築かれたものを指月山伏見城、後に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡
山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けら
れます。
伏見城(模擬天守)
平成24年4月6日登城時に撮ったものです。

豊臣期の伏見城は、豪華な様式であったと伝わります。
伏見城は1596年に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊しています。
このため、木幡山に再築された伏見城で秀吉は1598年にこの伏見城内で没しています。
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康が
この城に入り政務を執っています。
関ヶ原の戦いの際には、家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて
落城し建物の大半が焼失します。
なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院など複数
の寺で天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい血痕を見ることができま
す。
しかし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かでは
ありません。
焼失した伏見城は1602年ごろ家康によって再建され、1619年に廃城とされこのとき建物や部材は二条城、
淀城、福山城などに移築されています。
伏見城から移築された「伏見櫓」が現存する福山城は、「こちら」です。
鉄筋コンクリートの伏見城
鉄筋コンクリートでありながら耐震強度がないとは・・・、誰もいない城は寂しい限りですね。


伏見城花畑に、昭和39年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には5重6階の大天守
と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が鉄筋コンクリート構造で造られています。
2003年1月、同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園したが、模擬天守は京都市民の
伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与されたが、模擬天守は耐震基準を満たして
いないことから内部非公開となっています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 中国大返し
中国大返し(又は備中大返し)は、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長
の本能寺の変での横死を知ったのち、主君の仇・明智光秀を討つため京に向けて全軍を
取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。日本史上屈指の大強行軍として知ら
れます。
≪本日の問題≫
前田利家 その20 『本能寺の変』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
「本能寺の変」
信長が突然、小姓衆30人を連れて上洛したのは、1528年5月29日であった。
近く中国地方へ発向するための準備が、こんどの信長の上洛の目的であった。
上洛するや信長は宿所を本能寺に定めた。嫡男・信忠も父に先立って、2千余の馬廻衆を率いて上洛し、
二条妙覚寺に宿泊していた。
6月1日、信長は筑前博多の豪商を正客とし、公爵衆を相客に茶会を催した。茶会が終わって酒宴となっ
たが、信長はさらに本因坊算砂を相手に遅くまで碁を囲んでいた。
信忠が妙覚寺に戻ると、信長もほどなく就寝したという。
丹波の亀山を進発した明智光秀の大軍1万余りが、老坂から方向を転じ、沓掛を経て、桂川を押し渡り入
京し、本能寺をめがけて殺到したのは、6月2日の払暁であった。
光秀謀叛!と聞いて
「是非もなし」
信長は自ら弓を取って防戦したが、衆寡敵せず、本能寺に火をかけて、書院の一室で自刃した。
小姓・森蘭丸以下70人余りの家臣も信長に殉じた。
本能寺の変
右端が信長で、左より駆けつけているのが森蘭丸です。

<クリックで拡大します>
6月2日、北国戦線では柴田勝家を始め諸将が、魚津城で討取った首実検をやり、信長への報告のため
に首帳など準備しているところへ、本能寺の変報が届いた。
諸将は想像を絶する凶報にあきれ戸惑いつつも、早く上洛して弔い合戦をすることこそが肝要となった。
しかし、中国戦線の羽柴秀吉が毛利方と和睦して、備中高松城から引き揚げたようなあざやかで手際の
良い行動は取れない。
腹心の味方を討たれて、怨みを持っているであろう上杉景勝が、必ずや猛攻撃を加えて来るに違いないと
推測されたからです。
そこで佐々成政を始め与力の諸将は、上杉軍の侵入に備えるため北国戦線に止まり、柴田勝家だけが上
洛することになった。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 猿まね
上杉景勝は感情を表に出すことがほとんどなかったといわれます。
ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり、部下に指図
したりといった自分の物まねをしていたのを目にし、思わず笑みをこぼしたが、これが
生涯でただ一度家臣たちの目前で見せた笑顔であったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
「本能寺の変」
信長が突然、小姓衆30人を連れて上洛したのは、1528年5月29日であった。
近く中国地方へ発向するための準備が、こんどの信長の上洛の目的であった。
上洛するや信長は宿所を本能寺に定めた。嫡男・信忠も父に先立って、2千余の馬廻衆を率いて上洛し、
二条妙覚寺に宿泊していた。
6月1日、信長は筑前博多の豪商を正客とし、公爵衆を相客に茶会を催した。茶会が終わって酒宴となっ
たが、信長はさらに本因坊算砂を相手に遅くまで碁を囲んでいた。
信忠が妙覚寺に戻ると、信長もほどなく就寝したという。
丹波の亀山を進発した明智光秀の大軍1万余りが、老坂から方向を転じ、沓掛を経て、桂川を押し渡り入
京し、本能寺をめがけて殺到したのは、6月2日の払暁であった。
光秀謀叛!と聞いて
「是非もなし」
信長は自ら弓を取って防戦したが、衆寡敵せず、本能寺に火をかけて、書院の一室で自刃した。
小姓・森蘭丸以下70人余りの家臣も信長に殉じた。
本能寺の変
右端が信長で、左より駆けつけているのが森蘭丸です。

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6月2日、北国戦線では柴田勝家を始め諸将が、魚津城で討取った首実検をやり、信長への報告のため
に首帳など準備しているところへ、本能寺の変報が届いた。
諸将は想像を絶する凶報にあきれ戸惑いつつも、早く上洛して弔い合戦をすることこそが肝要となった。
しかし、中国戦線の羽柴秀吉が毛利方と和睦して、備中高松城から引き揚げたようなあざやかで手際の
良い行動は取れない。
腹心の味方を討たれて、怨みを持っているであろう上杉景勝が、必ずや猛攻撃を加えて来るに違いないと
推測されたからです。
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昨日の正解: 猿まね
上杉景勝は感情を表に出すことがほとんどなかったといわれます。
ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり、部下に指図
したりといった自分の物まねをしていたのを目にし、思わず笑みをこぼしたが、これが
生涯でただ一度家臣たちの目前で見せた笑顔であったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
前田利家 その19 『魚津城落城』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
「魚津城落城」
強力な援軍が去ったので、魚津城と松倉城は甚だ心細い情況になった。
そして松倉城の守兵は、ついに城を放棄脱出すると魚津城へ逃げ込んだ。
「得たりや!」
とばかりに、織田軍はひた寄せに魚津城へ押し寄せた。
魚津城の戦い(魚津市HPよりお借りしています)

その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から3ヶ月後の6月3日に落城
を悟った山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林
家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱ら上杉方の守将13人が自刃して果て、魚津城は落城し織田
軍の勝利となった。
こんな逸話が残っています。
景勝が撤退した後、上杉方は落城が近い事を悟った守将13人が自刃する際、自分の耳に穴を開けて、自分
の名前を書いた木札を全員で結び自刃したという。
落城前日の6月2日に、織田信長が明智光秀により討たれ(本能寺の変)、織田軍指揮官の柴田勝家に急報
が入ったのは落城の翌日6月4日であり、この急報があと1日早ければ、守将自刃の悲劇は起きなかった。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 諏訪四郎勝頼
信濃への領国拡大を行った信玄の庶子として生まれ、当初は諏訪氏を継いだため、諏
訪四郎勝頼、あるいは高遠城主だったため伊奈四郎勝頼ともいう。
武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、1573年には信玄の死により
家督を相続しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
「魚津城落城」
強力な援軍が去ったので、魚津城と松倉城は甚だ心細い情況になった。
そして松倉城の守兵は、ついに城を放棄脱出すると魚津城へ逃げ込んだ。
「得たりや!」
とばかりに、織田軍はひた寄せに魚津城へ押し寄せた。
魚津城の戦い(魚津市HPよりお借りしています)

その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から3ヶ月後の6月3日に落城
を悟った山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林
家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱ら上杉方の守将13人が自刃して果て、魚津城は落城し織田
軍の勝利となった。
こんな逸話が残っています。
景勝が撤退した後、上杉方は落城が近い事を悟った守将13人が自刃する際、自分の耳に穴を開けて、自分
の名前を書いた木札を全員で結び自刃したという。
落城前日の6月2日に、織田信長が明智光秀により討たれ(本能寺の変)、織田軍指揮官の柴田勝家に急報
が入ったのは落城の翌日6月4日であり、この急報があと1日早ければ、守将自刃の悲劇は起きなかった。

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昨日の正解: 諏訪四郎勝頼
信濃への領国拡大を行った信玄の庶子として生まれ、当初は諏訪氏を継いだため、諏
訪四郎勝頼、あるいは高遠城主だったため伊奈四郎勝頼ともいう。
武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、1573年には信玄の死により
家督を相続しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
前田利家 その18 『武田氏の滅亡』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
「武田氏の滅亡」
1582年春、信長は多年にわたる宿敵ともいうべき甲斐の武田家を討滅すべく大号令を発した。
関東口から北条氏政、駿河口から徳川家康、飛騨口から金森五郎八、そして伊那口からは総大将として
織田信忠が、それぞれ甲斐をめざし乱入し、ついに武田勝頼を天目山に追い詰めて自滅させた。
武田勝頼(1546-1582年)

この信長の甲斐攻めに際し、弾圧屈服されていた越中の一向門徒の衆は色めき立ったという。
「さてこそ仏罰てき面!怨敵は調伏されたるぞ。今こそ立ち上がり、織田が余類、残党ばらを追い落とし
て、家を再興しようぞ」
とばかりに、各地の小豪族たちは一向宗門徒の旧領民どもを駆り集め、再び一揆を催すと富山城へ攻め
寄せた。
この騒動を聞き知った上杉景勝が、自ら大軍を率いて進攻して来た。
上杉軍は魚津城の東方の天神山に本陣を置き、魚津城と松倉城とに気勢を添えて猛烈な威勢であった。
これに対抗して織田軍の方はいつものように柴田勝家以下が応援に参陣して、いつものようににらみ合い
の形勢となった。
やがて甲斐のおける武田家滅亡の報が伝えられ、信長によって新しく織田の関東方面軍司令官に任命さ
れ。上州厩橋(現在の前橋)に置かれた滝川一益が、三国峠を越えて越後をうかがい、同時に信州川中島
の新領主になった森長可が北国街道を押して春日山城を直撃するやも知れないという情報に接し、本領越
後の留守を衝かれては危ないと判断した上杉景勝は、急遽、軍を引きあげた。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 天目山
武田勝頼は、武田家の本領である甲斐国人・小山田信茂の居城である岩殿城を目指すも、
信茂は織田信長に投降することに方針を変換し、勝頼は進路をふさがれる。
後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は、武田氏
ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指し、途中で自害します。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
「武田氏の滅亡」
1582年春、信長は多年にわたる宿敵ともいうべき甲斐の武田家を討滅すべく大号令を発した。
関東口から北条氏政、駿河口から徳川家康、飛騨口から金森五郎八、そして伊那口からは総大将として
織田信忠が、それぞれ甲斐をめざし乱入し、ついに武田勝頼を天目山に追い詰めて自滅させた。
武田勝頼(1546-1582年)

この信長の甲斐攻めに際し、弾圧屈服されていた越中の一向門徒の衆は色めき立ったという。
「さてこそ仏罰てき面!怨敵は調伏されたるぞ。今こそ立ち上がり、織田が余類、残党ばらを追い落とし
て、家を再興しようぞ」
とばかりに、各地の小豪族たちは一向宗門徒の旧領民どもを駆り集め、再び一揆を催すと富山城へ攻め
寄せた。
この騒動を聞き知った上杉景勝が、自ら大軍を率いて進攻して来た。
上杉軍は魚津城の東方の天神山に本陣を置き、魚津城と松倉城とに気勢を添えて猛烈な威勢であった。
これに対抗して織田軍の方はいつものように柴田勝家以下が応援に参陣して、いつものようににらみ合い
の形勢となった。
やがて甲斐のおける武田家滅亡の報が伝えられ、信長によって新しく織田の関東方面軍司令官に任命さ
れ。上州厩橋(現在の前橋)に置かれた滝川一益が、三国峠を越えて越後をうかがい、同時に信州川中島
の新領主になった森長可が北国街道を押して春日山城を直撃するやも知れないという情報に接し、本領越
後の留守を衝かれては危ないと判断した上杉景勝は、急遽、軍を引きあげた。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 天目山
武田勝頼は、武田家の本領である甲斐国人・小山田信茂の居城である岩殿城を目指すも、
信茂は織田信長に投降することに方針を変換し、勝頼は進路をふさがれる。
後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は、武田氏
ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指し、途中で自害します。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
前田利家 その17 『越中は戦いの場』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
「越中は戦いの場」
畿内訪問の記事が続いていましたので、利家くんが久しぶりになってしまいました。
お付き合いください。
1581年春、信長は京都で大馬揃えを催します。
馬揃えは、軍馬を集めてその優劣を検分し、その調練と演習を検閲して士気を鼓舞いする、観兵のような
ものです。
この大馬揃えには正親町天皇ご台臨のもとに行われ、天下人としての信長の威勢を誇示する大観兵式で
あった。
柴田勝家(1522-1583年)

前田利家もこの時は越前衆として、柴田勝家たちとともにこれに参加したという。
その隙を狙って、越中の土豪や地侍たちが越後へ、今こそ失地回復の好機なり!
と急報した。
上杉景勝はさっそく兵を繰り出して、魚津・松倉の2城を奪還した。
この時から越中一国は、上杉と織田の2大勢力に分断され、両雄が対峙する場となった。
両雄勢力の接触線であり、境界線であるから、当然、紛争が繰り返されが、合戦となれば、いかに猛将
と称される佐々成政であっても、謙信このかた武勇をもって聞こえる上杉勢に、単独では対抗不可能で
ある。
合戦のたびに織田の北陸方面軍司令官である柴田勝家を始めとして、その子の大名たちもしばしば越
中へ出陣して、対上杉戦に参加しなければならなかった。
前田利家も能登から出馬しては、武功を立てたという。

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≪昨日の解答≫
「本能寺の変」の真相は闇のなかですから、意見が分かれて当然ですよね。
一番説と支持されたのは「理想相違説」でした。
信長は、伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下統一を目指し急進的な改革を進
めようとした。
一方、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとしたといい
ます。
光秀は、信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切った。しかし、光秀も自らの
手でその理想を実現することは叶わなかった。
ところが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続いた。結果
論ですが、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたという説です。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
「越中は戦いの場」
畿内訪問の記事が続いていましたので、利家くんが久しぶりになってしまいました。
お付き合いください。
1581年春、信長は京都で大馬揃えを催します。
馬揃えは、軍馬を集めてその優劣を検分し、その調練と演習を検閲して士気を鼓舞いする、観兵のような
ものです。
この大馬揃えには正親町天皇ご台臨のもとに行われ、天下人としての信長の威勢を誇示する大観兵式で
あった。
柴田勝家(1522-1583年)

前田利家もこの時は越前衆として、柴田勝家たちとともにこれに参加したという。
その隙を狙って、越中の土豪や地侍たちが越後へ、今こそ失地回復の好機なり!
と急報した。
上杉景勝はさっそく兵を繰り出して、魚津・松倉の2城を奪還した。
この時から越中一国は、上杉と織田の2大勢力に分断され、両雄が対峙する場となった。
両雄勢力の接触線であり、境界線であるから、当然、紛争が繰り返されが、合戦となれば、いかに猛将
と称される佐々成政であっても、謙信このかた武勇をもって聞こえる上杉勢に、単独では対抗不可能で
ある。
合戦のたびに織田の北陸方面軍司令官である柴田勝家を始めとして、その子の大名たちもしばしば越
中へ出陣して、対上杉戦に参加しなければならなかった。
前田利家も能登から出馬しては、武功を立てたという。

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≪昨日の解答≫
「本能寺の変」の真相は闇のなかですから、意見が分かれて当然ですよね。
一番説と支持されたのは「理想相違説」でした。
信長は、伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下統一を目指し急進的な改革を進
めようとした。
一方、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとしたといい
ます。
光秀は、信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切った。しかし、光秀も自らの
手でその理想を実現することは叶わなかった。
ところが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続いた。結果
論ですが、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたという説です。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>