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前田利家 その35 『上杉家に仕えても、かぶき者の慶次郎』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【上杉家に仕えても、かぶき者の慶次郎】

慶次郎は数年間、諸国を流浪してから上杉景勝のもとを訪ねた。

当時、上杉家は越後55万石から会津120万石に移封されたので、家中を増員しているところであった。

景勝は慶次郎を召し抱えようとした。慶次郎は前田利家への遠慮から

「われはいま進趨(しんすう)となる。これより後は同胞を著けて景勝を見(みまえ)ん」

と称し、剃髪すると穀蔵院咄然斎(こくぞういんひょっとさい)と号して景勝に仕え、知行5千石を与えら

れた。

会津若松城 (登城記は、「こちら」です。)
ai.会津若松城(朱瓦) 002

この時の逸話が残っています。

上杉景勝に仕えた際初目見えに泥の付いた三本の大根を持参し、

「この大根のように見かけはむさ苦しいが、噛めば噛むほど滋味の出る拙者でござる」

と言ったという。

また、上杉家においても、かぶき者・咄然斎は奇行を重ね、数々のエピソードを残しています。

1600年夏、上杉景勝が会津で挙兵して、関ヶ原合戦のきっかけになったことはご存知のとおりですが、

その時、咄然斎は白練絹四半に「大布遍牟者」の5文字を書いて着物すなわち背旗とした。

譜代の家臣たちが怒って

「上杉家は代々武勇である。新参者のくせに(だいぶへんむしゃ)など差物にするとは、おこがましい」

と責めたら、咄然斎は笑いながら

「おぬしたちは濁点の打ち方を知らんのか。少しは長らく浪々していたので、身辺いつも貧しいゆえ(だい

ふべんもの)と自称したまでのこと」

と、あっさり追及をかわしたので、みな黙ってしまったという。

また、咄然斎は景勝に仕えた当初から朱柄の槍を用いた。

ところが上杉家では、朱柄の槍は武勲の高い者だけに許される絶倫の名誉とされていたから、家中の者

が咎めると

「これは父祖伝来の槍だ」

と言って、咄然斎はいっこうに朱の柄を改めようとしなかった。

水野藤兵衛、宇佐美弥五左衛門ら名の聞こえた武士たちが

「われらは朱柄を用いたいと請願しても許されないものを、あの者だけはやりたいように使っているのは面

白くない。きゃつ朱柄を禁止するか、さもなくば我らも一同にも、朱柄の槍をお許しくだされい」

と申し立てた。

景勝の老臣・直江兼続が咄然斎を呼び寄せて、いろいろ論告したがかぶき者はどうしても朱柄の槍を変

えようとしなかったので、ついに上杉家では慣例を廃止して、家中すべてに朱柄の槍の使用を許すことに

なったという。

pig 20120523 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 尾山御坊
金沢城が造られた地は、加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(または御山御坊)」であった。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもあった。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

前田利家 その34 『慶次郎 “松風” を奪取』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【慶次郎 “松風” を奪取】

金沢における利家は多忙であった。

何しろ朝鮮という未知の異国への出陣である。周到綿密な計画を練って陣列、配置、人員、諸将などを

定めなければならない。

12月のある日、慶次郎が前触れもなく利家を訪ねて

「茶を奉りとうございまする」

と言った。

「おぬしが茶の湯か」

「屋敷にいささか趣向を凝らした茶室をこしらえましたゆえ」

その茶室びらきに、客として招待したいということである。

慶次郎&松風
ma.前田慶次郎&松風

そして当日の午前10時ごろ、利家は自慢の“松風”と名付けた愛馬を、慶次郎の屋敷に乗りつけた。

「まずは風呂を召しなされ」

慶次郎は亭主として神妙に客の利家を風呂場へ導いた。

茶の湯の正式なフルコースは風呂のもてなしから始まるとされている。

新築の風呂場には湯気が立ち込めていた。

利家が衣服を脱ぐと、慶次郎はここでも亭主らしく神妙に、風呂桶の湯をかき混ぜたり、小桶の熱い湯を

注ぎ足したりしていたが、やがて

「いざ、いざ―」

“どうぞ!”というように利家を振り向いた。

利家は台上から風呂桶の縁をまたいで、身を沈めたとたん

「あっ!」

小さく叫んでから

「ふーむ」

今度は短くうなった。

熱いお湯は上ずみだけで、下は冷たい水だったのです。

慶次郎は風呂桶の脇に控えていて、息を詰めるようにしている利家の顔をじっと眺めていたが、

「年寄りの冷や水、年寄りの冷や水」

いきなり大声で囃し立てると、身をひるがえして、風呂場から姿を消した。

「おのれこやつ!また、いたずらを!」

利家は風呂桶から立ち上がり、寒さを忘れて怒鳴ったが、そのころ慶次郎は玄関を出ると、門内に繋い

であった利家の愛馬“松風”にまたがり、傍にいる供の者たちへ

「頂戴つかまつる」

言い残して、たちまち門外へ駆け去ると、人馬もろとも行方をくらましてしまった。

慶次郎は既に長い間、前田家退散を覚悟していたようです。

金沢に帰国してからは、折々

「万戸候(ばんとこう)の封といえども、心に叶わざれば浪人に同じ」

などと独り言としては嘆息していたという。

そして退散するに際し、かぶき者らしく一計を立て、利家を水風呂に漬け、朝鮮出兵という秀吉の誇大

妄想的野望に、利家が同意していることを“年寄りの冷や水!”とからかって出奔したのです。

利家は水風呂から出ると

「追え追え!あの者を逃がすな!」

と激怒して叫んだが

「いや、追わずともよい」

すぐに言い直して、自らを笑って制した。

茶室の床の間には茶掛けの代わりに

「よしやただ、ことしはかくすもすぎぬべし、またこん春はゆくへ知らずや」

という落首が残されていた。

“今年はこうして過ごせたが、来年はどうなることやら”と疑問を投げかけているようです。

sa-ko 20120522 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 朝日姫
朝日姫は尾張国の農夫のもとに嫁ぐが、秀吉の出世とともに夫が武士に取り立てられたという。1586年、兄秀吉が家康を懐柔するために強制的に夫と離縁させられ、家康の継室として嫁がされています。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

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前田利家 その33 『秀吉の大明征伐』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【秀吉の大明征伐】

1590年11月、秀吉は聚楽第において朝鮮の使者を引見した。

秀吉は大陸経略を、すでに九州征伐の頃から抱いていたようで、朝鮮王を道案内に立てて明国を征伐し

ようというのです。

“大明征伐!”

と海の彼方へ眼をすえている秀吉を傍で見ていると、それが不可解な誇大妄想的野望としか思えなかっ

たという。

若き日の小身だったころから、秀吉には一種の“はったり”癖があった。

小身者の“はったり”は笑って見過ごせる。いや、秀吉の場合は、“はったり”を貫き通して天下人になった

のだから、利家は尊敬していたのでしょう。

しかし、天下人の“はったり”は困る。迷惑は大名から下々の者まで及ぶことになるから。

“よくも悪くもこの男と一緒!”

という秀吉との運命一体感とも呼べそうな、武将としての信条があったのかも知れません。

秀吉がどうしても朝鮮へ出兵するならば、やはり自分が先陣を勤めて働いてやろうという、若き日の“槍の

又左”の気概がいまなお脈打っていたのでしょう。


豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉 001


利家は出陣のため、金沢へ帰国することになった。

その間も、秀吉公認のかぶき者は、いよいよ奇矯な行動を重ねていた。

町衆と一緒になって河原で風流踊りに惚けて噂になったり、諸国武者修行中の兵法者をからかって、挑戦

され勝負になって2時間ほども立ちまわりをやってのけ、ついには相手を打ち倒したものの、自分も手傷を

負い、これまた評判になったという。

利家はその慶次郎を、こんどの帰国に同伴することにした。

“やはり、こやつは手元に置くより仕方あるまい!”

という気持ちが強かったのです。

「暫く金沢で暮らしてみるか」

と、利家は誘う言い方をした。

謹厳実直な律儀者が揃っている地味な環境にいれば、多少は素行が収まるかも知れない。そのう朝鮮

出兵なったら、軍中に加えようという考えであった。

慶次郎は特に異存は唱えず、素直に利家に従って帰国した。


piglet一家の新居
引越しが終わり、piglet一家の新居の配置が決まりました。
2Fは身の軽い“うめ”と若い“さくら”が候補になりましたが、“さくら”はスロープでケージに
戻ることができませんでしたので、“とーちゃんのpiglet”に決まりました。
1Fは、老女・sa-ko嬢(7月で5歳になります)と臆病の“さくら”で決定です。
20120521 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 織田信長
やはり圧倒的に織田信長が多いですね。
信長の若い頃の異様な風体には豹皮の半袴や、猿回しのような縄の帯などに加えて、萌黄の平打紐で高々と巻きたてた茶筅髷が数えられています。
このような姿をする若者達は自らを「傾き者」と称して、衣装や振る舞いの奇抜さを競っていました。
派手な髪型もその一つでありましたが、江戸幕府が開かれて世の中が安定期を迎えるにつれ「傾き者」たちも、彼らの奇抜な衣装や髪型も廃れます。

≪今日の問題≫


                                    <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

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『忍者は普段、どんな格好を』

『忍者は普段、どんな格好を』

忍者というと、伊賀者・甲賀者といった言葉に加え、お決まりの忍びの装束を連想しますが、彼らは日常

どんな格好をしていたのでしょう。

結論は、「ふだんは一般人と全く変わらない生活」を送っていたということですが、目立たないが最重要で

あったそうです。

忍者は諸国を渡り歩いて情報をかき集めるのが仕事ですから、普通の町人の格好をしていたのでは不向

きであったでしょう。


そこで忍者は「七方出」という変装術を身に付けていた。すなわち、諸国を転々としていても不自然ではな

い職業の人間に化けるのですが、それらは僧、虚無僧、山伏、商人、曲芸師、能役者、そして普段どおり

の町人や農民のままの素の姿でした。

そして、得た情報を仲間と交換する際には「忍びいろは」という独自に作り出した漢字を使って文章を書

いたり、五色米という、赤・青・黄・黒・紫と塗り分けた米の組み合わせや配列で意味を表したり、あるい

は単純に狼煙をあげて合図を送るなど、様々な工夫がされていた。



ちなみに、狼煙とは狼の糞に火薬を混ぜてつくっていたことから、狼の字が当てられています。

狼の糞を使うと、煙が高く上がったらしいです。

忍者は体が資本の仕事だけに、食べ物には気を使っていたようです。

いざという時には、指だけで天井にへばりつかなければならないこともあり、体重は約60kgに制限されてい

たが、体は鍛えなければならないので、基本的に低カロリー、高タンパク質の物を選んで食べていた。

例えば、湯葉や豆腐など大豆食品を多くとり、おにぎりも食後のインシュリン分泌の少ない玄米だった

そうです。


これでは栄養が偏ってしまうので、体力をつけるための食べ物として、その代表としてゴマや松の実だっ

たそうです。特に松の実を食べると五感が冴えると信じられており、忍者たちは好んで食べていたらしい。

成人病予防には、忍者修行がいいのかも知れませんね。やって見ようかなぁ~。



引越しのため環境が整っていませんので、画像の掲示、皆様のブログへの訪問ができません。
環境を整え、ご訪問させて戴きますので、よろしくお願い致します。

戦国クイズは、お休みさせて戴きます。


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奇妙な髪型が流行った理由とは?

『戦国時代に奇妙な髪型が流行った理由とは?』

戦国時代の武士の間で流行していたのは、「月代(さかやき)」と呼ばれる前頭部を円形に剃り上げた

あげたなんとも不思議な髪型であった。

おしゃれとも言いがたいこのような髪形がなぜ流行したのでしょうか。

実はこの髪型は非常に実用的な理由から生まれたものです。

当時の武士の仕事着といえば鎧兜。合戦ではこれを身に付け、力いっぱい動かなければならない。

そうすると暑くてどうしても頭がのぼせてしまうので、このような髪型が重宝されたのです。

戦いに行かない平時には、長く伸ばした後ろ髪を天頂で集め、根元からひもを巻きつけて立たせる「髷

(まげ)」のスタイルをとっていた。

茶筅髷
ch.茶筅髷

前頭部の髪がないことから髷はどうしても後ろへ傾いてしまうので、強度を出すため髷を太くしたものを

「茶筅髪」という。

「月代」は、後に剃りあげた部分が広がった「大月代」へと変化していった。

武士のシンボルである月代は、きれいに剃りあげられていなければならなかったし、髷からは後れ毛が

ひと筋たりとも出ていてはいけなかった。

反対に、敗戦後に国を失い浪人となった武士は、それらの手入れを止めて髪をのばし「総髪」となった。

その他に軟派者や風流人の間で、遊郭に通う際に粋とされたのは「立髪」というオールバックに似た、

髪を後ろになでつけた髪型であった。


ところで、戦国時代に養毛剤やカツラはあったのだろうか。

答えは以外にも、それらは女性のあいだで使われていました。

先ずは、養毛剤ですが、

平安時代の流れで、この時代の女性の髪は黒くて艶があり健康的なものが美しいとされていた。

そこで女性たちは美しい髪を保つために、色々な裏技を使っていました。

①“ふのり”と“うどん粉”を入れた湯で髪を洗い、“ごま油”を煎じたものを髪に塗ると養毛に良い。

②“黒豆”を煮詰めて塗れば、数日で髪が黒く長くなる。

③マメ科の“エンジュの実”か、“黒ごま”を毎日食べると、一生白髪が生えない。

④白髪をすべて抜き、“ごま油”と“生姜”の皮を着けておけば、数日で黒髪が生える。

これらは古くから伝えられる裏ワザですが、効果があるのかは疑問ですが、一度、試してみては如何で

しょうか。

次に、カツラについてですが、

この頃になると、平安時代には長くそのまま垂らしていた「垂髪」を後ろで結んで短く切るようになって

います。

武士と同じく、実用的な髪型になった訳です。

しかし、平安時代からの長い髪への愛着でしょうか、「かもじ」という“つけ毛”を着け、長い髪に見せて

いたのです。

戦乱の時代、実用性が求められても“髪は女の命”といったもので、女性は髪でのおしゃれを忘れなかっ

たようです。

pig 20120519 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 足利学校
曲直瀬道三は、1528年に関東へ下って足利学校で学んでいます。
ここで医学に興味を抱いたと言われ、名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学を修める。
1546年ふたたび京都へ上ると、還俗して医業に専念し、将軍足利義輝を診察し、その後京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院と称する医学校を創建しています。

≪本日の問題≫


                            <参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>

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『唐辛子は冷え症の予防になったの?』

『唐辛子は冷え症の予防になったの?』

古来、日本の医療は仏教の影響が色濃く、仏教とともに伝わって来た薬の知識や呪いの類で病気の治療

に当たっていた。

これは室町・戦国時代になってもあまり変化はなく、病気の治療は漢方や加持祈祷が主流でした。

他にも民間伝承のようなやり方ですが、いくつかの治療例が「雑兵物語」に記されています。


・冷え、暑気あたりを避けるには、“夏も冬も朝一粒ずつ胡椒をかじればよい”

・手足の冷え性対策には、“唐辛子を潰して尻から胡椒をかじれば良い。”

・息切れには、“梅干を取出して見てみろ”


などと書いてあり、梅干は食べるのではなく、見るものだったのです。

また、敵地の井戸は汚物を流し込んだりしたものですが、川の水を飲んだほうが安全であり、それでも水

あたりの可能性があるから、その時は、“杏の実”を絹布に包んで鍋桶に汲んだ水に入れ、そのうえで水

を飲めば当たらないという。

曲直瀬道三(1507-1598年)
ma.曲直瀬道三

これらの治療法は、現在の医療知識から見ると全く根拠がなかったり、あるいはかえって悪化させるので

はないかと思われるものもあるが、だからと言って一概に否定も出来ないのでしょう。

この時代は、それまでの混沌とした状況の中に、新しい医学の知識がもたらされた時代でもあった。

1553年には、ポルトガルの宣教師であり外科医でもあったルイ・アルメイダが来日し、豊後の領主・大友

宗麟の庇護を受けて日本では初めての洋式病院を開いています。

漢方と加持祈祷しか知らない当時の人々にとって西洋の科学的な治療は正しく驚異だったでしょう。

当時の代表的な医学者に曲直瀬道三という人物がいますが、道三は李朱医学を修め京都に帰って医療

に専念し、「啓通院」という医学校を開いて医学の発展に努めています。

西洋的な医学が本格的に入って来るにはまだ待たなければなりませんが、この時代、少しずつではあり

ますが、医学は整備されつつありました。


ルイ・アルメイダの西洋医術については、大分の「まーりたんさん」が「こちら」で詳しく記事にされています。

sakura 20120518 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上杉景勝
慶次郎が語るには「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」と言って上杉景勝に仕官しています。

≪本日の問題≫


                              <参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>

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前田利家 その32 『天下御免のかぶき者』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

「天下御免のかぶき者」

かねてより前田慶次郎の奇骨ぶりを聞いていた秀吉の召しにより、9月9日の重陽の節句に、慶次郎が聚楽

第へ伺候することになった。

当日の慶次郎は大鎌髭で、虎の皮の肩衣、袴も風変わりな物を着用していた。

次の間に控えているとき、浅野長政や猪子内匠たちがその格好を見て

「これは如何か。鎌髭でのお目見得は許されぬこと」

と注意した。

「されば」

慶次郎は鎌髭に手をやって、すっと引きずり外した。

青々と剃りたての面が現れた。つけ髭だったのです。

前田慶次郎・400回忌ポスター
*昨年が米沢で没してから400年でした。
ma.前田慶次郎(ポスター)

そして、いよいよ秀吉のご前へ出ると、額を畳にこすりつけるようにして平伏した。珍妙な動作に、居並ぶ大名

たちの間から、忍び笑いが漏れた。

つまり慶次郎は、秀吉ごときにまともに拝礼できるかという一種の抵抗精神を、そんな形に示したのでしょう。

誠に無礼千万であるが、しかし壮士の胸底には、そういう権威や権力者に対する謀反気とか反抗心とかいう

ものが、間々に潜んでいるものです。

利家は慶次郎の本性を知り抜いているから、それが理解できる。

秀吉も笑ったが、しかし、すかさず

「傾く髷とは無礼であろう!」

と頭ごなしに大音声を浴びせた。

たいていの者なら恐怖のあまり縮みあがるところであるが、慶次郎は恐れもせずに

「曲がっておればこそ、まげと申しまする」

あざやかに即答した。

秀吉の威嚇にみごと肩透かしを食わしたのです。

「さても、かぶいた男よな」

秀吉は言って、大盃に酒を取らせてから

「ひとさし舞うてみよ」

と舞いを所望した。

「されば」

慶次郎はおもむろに立ち上がると、自ら謡い、舞い始めた。

「赤いちょっかい革袴、鶏のとさか立烏帽子、お猿の尻べたまっかいきん―」

そして舞いながら、ときどき腰をかがめた。

すると袴の後ろが割れるようになっていて、割れ目から赤い布が覗いた。

猿面冠者・秀吉を風刺していることは、誰の目にも明らかであった。

しかし、差す手引く手、足の踏み込身のこなし方が、いかにも滑稽な所作になっていたので、諸大名は一人

でに大爆笑の渦に巻き込まれてしまった。

赤い尻は上座の秀吉からは見えなかったので、秀吉も一緒になって慶次郎の道化た舞いに笑い講じていた。

舞が終わると、秀吉は再び大盃に酒を取らせてから

「向後、心のままにかぶいて過ごせよ」

と言葉を与えたという。

とうとう、かぶきの天下ご免となった訳です。


sa-ko 20120517 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 葛西大崎一揆
秀吉が奥州支配の拠点として新たに大名とした木村吉清は支配体制の強化を進めるが、豊臣軍主力が奥州から引き上げると、改易された葛西氏・大崎氏の旧臣が中心となった葛西大崎一揆が発生しています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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