前田利家 その39 『氏郷と政宗の和睦』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
【氏郷と政宗の和睦】
蒲生氏郷と伊達政宗の粉糾対立の主要問題は、いわば武将としての意地、大名の面目といったような
ものであるから、これを調停するのも、気合であり達引でなければならない。
前田利家は京都の前田屋敷において茶会を催し、そこを調停の場とすることにした。
亭主は利家、相客が浅野長政、前田徳善院、細川忠興、金森法印ら歴々という茶席であった。
当日、蒲生氏郷と伊達政宗は、いずれも肩衣すなわち当時における礼服を着用して出席したが、互いに
相手を意識しているから精一杯に肩肱張ってぴりぴりしている。
伊達政宗(クラチー作)

伊達政宗は、一尺七、八寸もある大脇差を腰に帯びていたので、茶席の雰囲気もさっと緊張感に塗りこ
められていまったという。
亭主の利家は微塵も心を動かさず、静かに眼を向けて
「伊達殿には伊達なるおいでたち」
さらり言ってのけた。政宗もさるもので、すかさず
「若者でござれば」
と応じた。
その問答に蒲生氏郷が硬い表情をゆるめたので、たちまち茶席は和んだという。
若いころは「槍の又左」などと騒がれて、かぶいていた利家も老熟したとでもいうのか、年輪とともに器量
を加え、このころは豊臣政権の重鎮として、もはや押すに押されぬ貫禄を備えていたようです。
両者の間に和気が生成したという報告に秀吉は喜んで、感謝して言った
「祝着々々! あの者たちは、こたびの戦陣に兵馬の限り戦って貰わねばならぬでな」
どうやらこの辺が、秀吉の本音らしかった。
既に朝鮮出兵のことしか念頭にない秀吉は、蒲生氏郷と伊達政宗を異国の戦線で存分に働かせるため、
ぜひとも和睦をさせておきたかったのでしょう。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: レオン
蒲生氏郷は千利休の弟子であった茶人仲間の高山右近の説得を受けキリシタンとなり、レオンという洗礼名を持っていました。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
【氏郷と政宗の和睦】
蒲生氏郷と伊達政宗の粉糾対立の主要問題は、いわば武将としての意地、大名の面目といったような
ものであるから、これを調停するのも、気合であり達引でなければならない。
前田利家は京都の前田屋敷において茶会を催し、そこを調停の場とすることにした。
亭主は利家、相客が浅野長政、前田徳善院、細川忠興、金森法印ら歴々という茶席であった。
当日、蒲生氏郷と伊達政宗は、いずれも肩衣すなわち当時における礼服を着用して出席したが、互いに
相手を意識しているから精一杯に肩肱張ってぴりぴりしている。
伊達政宗(クラチー作)

伊達政宗は、一尺七、八寸もある大脇差を腰に帯びていたので、茶席の雰囲気もさっと緊張感に塗りこ
められていまったという。
亭主の利家は微塵も心を動かさず、静かに眼を向けて
「伊達殿には伊達なるおいでたち」
さらり言ってのけた。政宗もさるもので、すかさず
「若者でござれば」
と応じた。
その問答に蒲生氏郷が硬い表情をゆるめたので、たちまち茶席は和んだという。
若いころは「槍の又左」などと騒がれて、かぶいていた利家も老熟したとでもいうのか、年輪とともに器量
を加え、このころは豊臣政権の重鎮として、もはや押すに押されぬ貫禄を備えていたようです。
両者の間に和気が生成したという報告に秀吉は喜んで、感謝して言った
「祝着々々! あの者たちは、こたびの戦陣に兵馬の限り戦って貰わねばならぬでな」
どうやらこの辺が、秀吉の本音らしかった。
既に朝鮮出兵のことしか念頭にない秀吉は、蒲生氏郷と伊達政宗を異国の戦線で存分に働かせるため、
ぜひとも和睦をさせておきたかったのでしょう。

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一昨日の正解: レオン
蒲生氏郷は千利休の弟子であった茶人仲間の高山右近の説得を受けキリシタンとなり、レオンという洗礼名を持っていました。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
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前田利家 その38 『氏郷と政宗の仲の取り持ち』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
【氏郷と政宗の仲の取り持ち】
木村父子からの急報に接して会津の蒲生氏郷は、さっそく鎮圧に出動した。
伊達政宗にも出動要請が届いたが、そのころ氏郷は政宗に疑惑を感じていたようです。
実際、氏郷は一揆鎮圧に出動して、伊達領内では蒲生軍に宿を貸さない。野営したくてもむしろ一枚も
買えない。炊事の鍋釜も借りられず、薪も分けてもらいない。
氏郷は、政宗の対応態度に益々疑惑を持った。
生来、上方育ちの者が多い蒲生軍の将兵は、折からの大雪に見舞われて、作戦行動はひどい難儀を極
めた。
蒲生氏郷(1556-1595年)

政宗もようやく重い腰をあげて出動したものの、急に持病が悪化したとか、不都合な事態が生じるなどと
言い立てて、進撃をためらってばかりいる。
これでは政宗はやる気があるのかどうか怪しいものだと、益々疑惑を深くしているところへ、政宗の家臣
・須田伯耆が、密かに氏郷の老臣・蒲生源左兵衛の陣所に訪れて
「この一揆は政宗の煽動によるものであります。のみならず、政宗は氏郷殿を暗殺しようと企んでいます」
と密告した。
一揆が鎮圧された後、氏郷と政宗は秀吉の前で理非を対決することになり、蒲生氏郷と伊達政宗は極め
て仲が悪かった。
1591年夏ごろ、前田利家は秀吉から
「蒲生と伊達の仲を取り持って貰いたい」
という内命を受けた。
利家の嫡子・前田利長と蒲生氏郷は相婿、すなわち利長の夫人と氏郷の夫人はどちらも織田信長の娘と
いう縁故があったのです。
また、伊達政宗は小田原合戦の前後から、しきりに利家に接近している。奥羽の風雲児は、中央政権に
おいて誰が有力者なのか、秀吉に最も近い者は誰なのかを、独眼流と称されるその片眼でじっと眺めて
いたようです。
そして政宗の判断が正しいかったから、利家の口添えにより、秀吉から予想外に寛大な処遇を受けてい
ます。
秀吉は、かかる情実を承知していたので、蒲生氏郷と伊達政宗の仲の取り持ちを利家に依頼したのでし
ょう。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 花押の針の穴
政宗に対する査問が行われると、政宗は一揆を煽動した証拠とされる密書は偽造されたものであり、本物の自分の書状は花押の鶺鴒の目の部分に針で穴を開けていると主張し、秀吉はこれを認めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
【氏郷と政宗の仲の取り持ち】
木村父子からの急報に接して会津の蒲生氏郷は、さっそく鎮圧に出動した。
伊達政宗にも出動要請が届いたが、そのころ氏郷は政宗に疑惑を感じていたようです。
実際、氏郷は一揆鎮圧に出動して、伊達領内では蒲生軍に宿を貸さない。野営したくてもむしろ一枚も
買えない。炊事の鍋釜も借りられず、薪も分けてもらいない。
氏郷は、政宗の対応態度に益々疑惑を持った。
生来、上方育ちの者が多い蒲生軍の将兵は、折からの大雪に見舞われて、作戦行動はひどい難儀を極
めた。
蒲生氏郷(1556-1595年)

政宗もようやく重い腰をあげて出動したものの、急に持病が悪化したとか、不都合な事態が生じるなどと
言い立てて、進撃をためらってばかりいる。
これでは政宗はやる気があるのかどうか怪しいものだと、益々疑惑を深くしているところへ、政宗の家臣
・須田伯耆が、密かに氏郷の老臣・蒲生源左兵衛の陣所に訪れて
「この一揆は政宗の煽動によるものであります。のみならず、政宗は氏郷殿を暗殺しようと企んでいます」
と密告した。
一揆が鎮圧された後、氏郷と政宗は秀吉の前で理非を対決することになり、蒲生氏郷と伊達政宗は極め
て仲が悪かった。
1591年夏ごろ、前田利家は秀吉から
「蒲生と伊達の仲を取り持って貰いたい」
という内命を受けた。
利家の嫡子・前田利長と蒲生氏郷は相婿、すなわち利長の夫人と氏郷の夫人はどちらも織田信長の娘と
いう縁故があったのです。
また、伊達政宗は小田原合戦の前後から、しきりに利家に接近している。奥羽の風雲児は、中央政権に
おいて誰が有力者なのか、秀吉に最も近い者は誰なのかを、独眼流と称されるその片眼でじっと眺めて
いたようです。
そして政宗の判断が正しいかったから、利家の口添えにより、秀吉から予想外に寛大な処遇を受けてい
ます。
秀吉は、かかる情実を承知していたので、蒲生氏郷と伊達政宗の仲の取り持ちを利家に依頼したのでし
ょう。

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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 花押の針の穴
政宗に対する査問が行われると、政宗は一揆を煽動した証拠とされる密書は偽造されたものであり、本物の自分の書状は花押の鶺鴒の目の部分に針で穴を開けていると主張し、秀吉はこれを認めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
前田利家 その37 『葛西大崎の一揆』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
【葛西大崎の一揆】
咄然斎(ひょっとさい)が活躍した会津は、古来、奥羽の関門にあたる要所であって、会津を占める者が奥羽
の天地を制すとまで言われたところです。
1590年、秀吉は伊達政宗から取り上げた会津4郡と南仙道5郡、併せて42万石を蒲生氏郷に与え、また
小田原に伺候しなかった諸豪族の領地を没収すると、これを木村吉清とその子・清久に与えた。
蒲生氏郷は伊勢松阪12万石から42万石、木村吉清は5千石の小禄から葛西大崎30万石を領する大名に、
それぞれ出世したのです。
伊達政宗(1567-1636年)

ところが間もなく奥羽一揆が起こった。
原因の一つは、検地についての不平不満です。
ふたつ目は、葛西大崎の新領主となった木村吉清・清久父子の悪政失策です。
5千石の小禄から一躍30万石の大名になった木村父子は、急いで家中を増員しなければならなかったので、
50石、60石といった小身の侍たちを何百石、何千石という重臣にし、また諸国からあぶれた浪人たちを多数
新参の家臣に召し抱えた。
しかし、にわか重臣や新米侍たちは、持ちつけない権力に心おごり、領内の住民、それは農民ばかりでなく
、秀吉によって取り潰された旧豪族やその家臣たちまで、沙汰の限りの暴威をふるったという。
反乱は、まず出羽国で検地を不満とする百姓一揆の形で始まったが、たちまち木村父子の領地である葛西
大崎へ飛び火した。
この地方では旧豪族やその家臣たちが中心となっての反乱であったから、いわば烏合の衆に過ぎない木村
父子の軍勢では防ぎきれなく、佐沼城に追い詰められてしまった。

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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: グーで殴った
会津においての酒宴で傲慢な林泉寺の和尚を殴りつけてやりたい、と愚痴を洩らす者がいた。
これを聞いた慶次郎は、早速、林泉寺を訪ね、碁盤を見つけると和尚に一局勝負を申し入れた。慶次郎は、勝った方が負けた相手の頭を軽く叩く事を提案。
一局目に和尚が勝つと、デコピンで慶次郎の頭をそっと叩く。
二局目は慶次郎が勝つが、和尚を殴ることに躊躇いを見せる。和尚が気になさらずにと言うと、それでは、と鉄拳を固めて和尚の眉間に振り下ろし、鼻血を出して倒れる和尚を後目に、慶次郎は寺を離れたという。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
【葛西大崎の一揆】
咄然斎(ひょっとさい)が活躍した会津は、古来、奥羽の関門にあたる要所であって、会津を占める者が奥羽
の天地を制すとまで言われたところです。
1590年、秀吉は伊達政宗から取り上げた会津4郡と南仙道5郡、併せて42万石を蒲生氏郷に与え、また
小田原に伺候しなかった諸豪族の領地を没収すると、これを木村吉清とその子・清久に与えた。
蒲生氏郷は伊勢松阪12万石から42万石、木村吉清は5千石の小禄から葛西大崎30万石を領する大名に、
それぞれ出世したのです。
伊達政宗(1567-1636年)

ところが間もなく奥羽一揆が起こった。
原因の一つは、検地についての不平不満です。
ふたつ目は、葛西大崎の新領主となった木村吉清・清久父子の悪政失策です。
5千石の小禄から一躍30万石の大名になった木村父子は、急いで家中を増員しなければならなかったので、
50石、60石といった小身の侍たちを何百石、何千石という重臣にし、また諸国からあぶれた浪人たちを多数
新参の家臣に召し抱えた。
しかし、にわか重臣や新米侍たちは、持ちつけない権力に心おごり、領内の住民、それは農民ばかりでなく
、秀吉によって取り潰された旧豪族やその家臣たちまで、沙汰の限りの暴威をふるったという。
反乱は、まず出羽国で検地を不満とする百姓一揆の形で始まったが、たちまち木村父子の領地である葛西
大崎へ飛び火した。
この地方では旧豪族やその家臣たちが中心となっての反乱であったから、いわば烏合の衆に過ぎない木村
父子の軍勢では防ぎきれなく、佐沼城に追い詰められてしまった。

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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: グーで殴った
会津においての酒宴で傲慢な林泉寺の和尚を殴りつけてやりたい、と愚痴を洩らす者がいた。
これを聞いた慶次郎は、早速、林泉寺を訪ね、碁盤を見つけると和尚に一局勝負を申し入れた。慶次郎は、勝った方が負けた相手の頭を軽く叩く事を提案。
一局目に和尚が勝つと、デコピンで慶次郎の頭をそっと叩く。
二局目は慶次郎が勝つが、和尚を殴ることに躊躇いを見せる。和尚が気になさらずにと言うと、それでは、と鉄拳を固めて和尚の眉間に振り下ろし、鼻血を出して倒れる和尚を後目に、慶次郎は寺を離れたという。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
前田利家 その36 『慶次郎、関ヶ原合戦後も上杉家に』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
【慶次郎、関ヶ原合戦後も上杉家に】
会津に呼応して石田三成が挙兵する形勢になったため、上杉景勝は徳川方に属する伊達政宗、最上義光
らと合戦しなければならなくなった。
咄然斎は名馬“松風”に打ち跨り、「大布遍牟者」の差物をなびかせながら、朱柄の槍をふるって、この合戦
いわゆる最上の陣に力戦奮闘、赫々たる武勲をあげています。
前田慶次郎供養塔(米沢市堂森善光寺)

関ヶ原合戦の後、上杉家は会津から米沢30万石へ減封移転を命じられ、今度は家中削減です。
多くの武士が主家を離れ、また高名の者は諸大名から引き抜かれたりもしています。
前田慶次郎の場合は、その武名のゆえに、諸大名から7千石、8千石の高禄を持ってしきりに招かれたが、
わが主君は景勝おいてほかになしと、咄然斎はあくまで上杉家に止まり、景勝の子・定勝まで仕えたが、
やがて一代の快男子は穀蔵院咄然斎((こくぞういんひょっとさい))として生涯“かぶいた”末、ついに米沢
の地で没したという。
米沢の資料では、1612年6月4日に堂森で没したとされますが、慶次郎の生没は正確には判っていない
ようです。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 熱田神社
1560年5月19日、信長は『敦盛』を舞った後、昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ出陣し、熱田神宮に参拝しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
【慶次郎、関ヶ原合戦後も上杉家に】
会津に呼応して石田三成が挙兵する形勢になったため、上杉景勝は徳川方に属する伊達政宗、最上義光
らと合戦しなければならなくなった。
咄然斎は名馬“松風”に打ち跨り、「大布遍牟者」の差物をなびかせながら、朱柄の槍をふるって、この合戦
いわゆる最上の陣に力戦奮闘、赫々たる武勲をあげています。
前田慶次郎供養塔(米沢市堂森善光寺)

関ヶ原合戦の後、上杉家は会津から米沢30万石へ減封移転を命じられ、今度は家中削減です。
多くの武士が主家を離れ、また高名の者は諸大名から引き抜かれたりもしています。
前田慶次郎の場合は、その武名のゆえに、諸大名から7千石、8千石の高禄を持ってしきりに招かれたが、
わが主君は景勝おいてほかになしと、咄然斎はあくまで上杉家に止まり、景勝の子・定勝まで仕えたが、
やがて一代の快男子は穀蔵院咄然斎((こくぞういんひょっとさい))として生涯“かぶいた”末、ついに米沢
の地で没したという。
米沢の資料では、1612年6月4日に堂森で没したとされますが、慶次郎の生没は正確には判っていない
ようです。

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一昨日の正解: 熱田神社
1560年5月19日、信長は『敦盛』を舞った後、昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ出陣し、熱田神宮に参拝しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
身の毛もよだつ謀叛者への残虐処罰
『身の毛もよだつ謀叛者への残虐処罰』
現代の法律と異なり、戦国時代の法制は極めて武断的なもので、刑罰も残虐なものが多かった。
しかも、どの程度の刑罰にするか明文化されておらず、決定者の恣意に任せられているため、支配者の
地位を脅かす謀叛者に対する刑罰は、厳しさを極めていた。
なかでも、激烈な性格が知られる信長の謀叛者に対する刑罰は激しいものがあった。
謀叛者本人は勿論のこと、人質、近親者、関係者すべて惨殺されている。
織田信長(1534-1582年)

いくつか、具体的な例を拾ってみましょう。
① 比叡山を焼き討ちしたり、門徒一揆を弾圧した信長は、鉄砲の名人といわれた杉谷善住坊という男に
狙撃された。
善住坊の撃った玉は2発とも信長をかすめ暗殺は未遂に終わるが、怒り狂った信長は執拗に捜査させ、
捕らえます。
信長は善住坊を上半身だけ出して土に埋め、竹でできた鋸で首を引かせた。善住坊は7日目に死んだ
という。
② 信長の命令で石山本願寺を攻撃していた松永久秀がひそかに撤兵し、逆に信長に反旗を翻した。久秀
は信長に男子2人を人質に出していたが、信長は人質の子供の処刑を命じた。
③ 伊丹城主・荒木村重が大坂の本願寺や中国の毛利に通じていたことが発覚、信長は激怒して伊丹城を
攻撃。しかし、村重は城を脱出していたので、信長は村中の婦女子97人を磔に、家臣400人を火あぶり
に、そして一族の30人も京都で車裂きの刑に。
④ 浅井長政と朝倉義景を滅ぼし、その2人と長政の父・久政の首を京都で引き回し、獄門にさらし、久政
の妻を捕らえて10日をかけて10本の指を切って惨殺。さらに10歳の長男・万福丸を捕まえて串刺しに。
信長さんばかりになっていますので、他も少し並べてみます。
⑤ 長篠の合戦の直前、大賀弥四郎という徳川家康の家来が、武田勝頼に通じて岡崎城の奪取を企てたが
未遂に。
弥四郎は首板をはめられ、10本の指を切られ、地面に埋められ通行人に鋸で引かれ一日で死んだ。
この他にも、逆さ磔、牛を使う牛裂きなどの残虐な刑罰が行なわれていたが、これは江戸幕府によって処刑
が明文化されるまで続いていました。

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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 備後国
福山城は、備後国(びんごのくに)にあって、領域は現在の広島県の概ね東半分にあたります。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
現代の法律と異なり、戦国時代の法制は極めて武断的なもので、刑罰も残虐なものが多かった。
しかも、どの程度の刑罰にするか明文化されておらず、決定者の恣意に任せられているため、支配者の
地位を脅かす謀叛者に対する刑罰は、厳しさを極めていた。
なかでも、激烈な性格が知られる信長の謀叛者に対する刑罰は激しいものがあった。
謀叛者本人は勿論のこと、人質、近親者、関係者すべて惨殺されている。
織田信長(1534-1582年)

いくつか、具体的な例を拾ってみましょう。
① 比叡山を焼き討ちしたり、門徒一揆を弾圧した信長は、鉄砲の名人といわれた杉谷善住坊という男に
狙撃された。
善住坊の撃った玉は2発とも信長をかすめ暗殺は未遂に終わるが、怒り狂った信長は執拗に捜査させ、
捕らえます。
信長は善住坊を上半身だけ出して土に埋め、竹でできた鋸で首を引かせた。善住坊は7日目に死んだ
という。
② 信長の命令で石山本願寺を攻撃していた松永久秀がひそかに撤兵し、逆に信長に反旗を翻した。久秀
は信長に男子2人を人質に出していたが、信長は人質の子供の処刑を命じた。
③ 伊丹城主・荒木村重が大坂の本願寺や中国の毛利に通じていたことが発覚、信長は激怒して伊丹城を
攻撃。しかし、村重は城を脱出していたので、信長は村中の婦女子97人を磔に、家臣400人を火あぶり
に、そして一族の30人も京都で車裂きの刑に。
④ 浅井長政と朝倉義景を滅ぼし、その2人と長政の父・久政の首を京都で引き回し、獄門にさらし、久政
の妻を捕らえて10日をかけて10本の指を切って惨殺。さらに10歳の長男・万福丸を捕まえて串刺しに。
信長さんばかりになっていますので、他も少し並べてみます。
⑤ 長篠の合戦の直前、大賀弥四郎という徳川家康の家来が、武田勝頼に通じて岡崎城の奪取を企てたが
未遂に。
弥四郎は首板をはめられ、10本の指を切られ、地面に埋められ通行人に鋸で引かれ一日で死んだ。
この他にも、逆さ磔、牛を使う牛裂きなどの残虐な刑罰が行なわれていたが、これは江戸幕府によって処刑
が明文化されるまで続いていました。

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一昨日の正解: 備後国
福山城は、備後国(びんごのくに)にあって、領域は現在の広島県の概ね東半分にあたります。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
武将が入っていたお風呂とは?
『武将が入っていたお風呂とは?』
かつての日本では、風呂と湯とは別物でした。
風呂というのは「蒸し風呂」であって、いまでいうとサウナ形式の蒸気を浴びるもので、「湯」とはお湯に体
を浸すものでした。
これが次第に混同されて、風呂屋も湯屋も一緒になってしまったのが江戸時代でした。
風呂のはじまりは瀬戸内海の各地に残る石風呂、あるいは内陸部に残る釜風呂の跡から類推することが
出来るそうです。
先ず穴の中で火を炊き、床石や側面を熱しそこへ海藻や生木、塩水に浸したむしろなどを敷き詰め、蒸気
を発散させたのです。
塩分や海藻、植物の成分が含まれ、治療効果をもたらしたといいます。
福山城湯殿 (福山城登城記は、「こちら」です。)

それと同じような蒸し風呂を一般化したのは寺院でした。
衆生済度のため、人々の健康のため、一種の慈善事業として寺院には大湯屋という浴堂が建てられます。
鎌倉時代、源頼朝は鎌倉山内の浴堂で1日千人、延べ1万人の百日施浴を行っています。このように鎌倉
時代は寺院が人々を入浴させて、仏の教えを説く施浴風呂、施浴湯の風習が全国的に広まっていきます。
風呂や湯は、やはり特別の娯楽だったり、休養だったりで、武士の日常で体を洗い清めるのは主に行水に
頼っていたそうです。
戦国武将の間では「風呂会釈」とか、「ふるまい湯」といって客人や家臣を風呂でもてなす習慣があった。
これは大釜で盛んに湯を沸かしその湯気をスノコの下に導いて、密封した部屋に熱い蒸気を満たすのです。
武将たちは持参した褌(ふんどし)や湯帷子(ゆかたびら)をまとい、体を蒸して、脂をとかし、垢をすり落と
した。まさに今のサウナですね。
この湯帷子が、後の浴衣になったそうです。

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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 2代目 服部半蔵正成
徳川家康に仕えた、伊賀同心の支配役。いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは、2代目 服部半蔵正成です。
しかし、彼はあくまで伊賀同心は配下の一部門であり、自身は甲冑を着て足軽を率いた武士でした。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
かつての日本では、風呂と湯とは別物でした。
風呂というのは「蒸し風呂」であって、いまでいうとサウナ形式の蒸気を浴びるもので、「湯」とはお湯に体
を浸すものでした。
これが次第に混同されて、風呂屋も湯屋も一緒になってしまったのが江戸時代でした。
風呂のはじまりは瀬戸内海の各地に残る石風呂、あるいは内陸部に残る釜風呂の跡から類推することが
出来るそうです。
先ず穴の中で火を炊き、床石や側面を熱しそこへ海藻や生木、塩水に浸したむしろなどを敷き詰め、蒸気
を発散させたのです。
塩分や海藻、植物の成分が含まれ、治療効果をもたらしたといいます。
福山城湯殿 (福山城登城記は、「こちら」です。)

それと同じような蒸し風呂を一般化したのは寺院でした。
衆生済度のため、人々の健康のため、一種の慈善事業として寺院には大湯屋という浴堂が建てられます。
鎌倉時代、源頼朝は鎌倉山内の浴堂で1日千人、延べ1万人の百日施浴を行っています。このように鎌倉
時代は寺院が人々を入浴させて、仏の教えを説く施浴風呂、施浴湯の風習が全国的に広まっていきます。
風呂や湯は、やはり特別の娯楽だったり、休養だったりで、武士の日常で体を洗い清めるのは主に行水に
頼っていたそうです。
戦国武将の間では「風呂会釈」とか、「ふるまい湯」といって客人や家臣を風呂でもてなす習慣があった。
これは大釜で盛んに湯を沸かしその湯気をスノコの下に導いて、密封した部屋に熱い蒸気を満たすのです。
武将たちは持参した褌(ふんどし)や湯帷子(ゆかたびら)をまとい、体を蒸して、脂をとかし、垢をすり落と
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 2代目 服部半蔵正成
徳川家康に仕えた、伊賀同心の支配役。いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは、2代目 服部半蔵正成です。
しかし、彼はあくまで伊賀同心は配下の一部門であり、自身は甲冑を着て足軽を率いた武士でした。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
江戸・平河町散策
江戸・平河町散策
昨日は平河町に仕事で行きましたので、近くを散策して帰りました。
「平河天満宮」
平河天満宮は、江戸平河城主・太田道灌公が城内の北梅林坂上に1478年に江戸の守護神として創祀した
のが始まりとされます。
1607年、2代将軍・徳川秀忠により貝塚(現在の地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平川町に名づ
けたという。
徳川幕府を始め、紀州、尾張両徳川家及び井伊家の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は単独で将軍に拝謁
できる格式の待遇を受けていたそうです。 (現地案内板より)
ビルに埋もれた平河天満宮

<画像は全てクリックで拡大します>
珍しい狛牛さんが鎮座していました。

狛牛さんは「なで牛」とかで、鳥居に近い古い狛牛は原型を留めていないです。

「江戸城・半蔵門」
江戸城の西端(大手門の正反対)に位置し、まっすぐ甲州街道に通じています。
半蔵門の名称の由来は、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来
し、服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現
在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたそうです。
半蔵門(右は古写真です。)

半蔵門の右手の桜田壕

千鳥ヶ淵側からの半蔵門

千鳥ヶ淵壕

千鳥ヶ淵公園・裸の青年たち
この青年たちは、ポリスボックスの裏手に裸で立っていますので、逮捕されるかも知れません!

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 神指城
鶴ヶ城が手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城(神指城)の建築を命じています。
≪本日の問題≫
昨日は平河町に仕事で行きましたので、近くを散策して帰りました。
「平河天満宮」
平河天満宮は、江戸平河城主・太田道灌公が城内の北梅林坂上に1478年に江戸の守護神として創祀した
のが始まりとされます。
1607年、2代将軍・徳川秀忠により貝塚(現在の地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平川町に名づ
けたという。
徳川幕府を始め、紀州、尾張両徳川家及び井伊家の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は単独で将軍に拝謁
できる格式の待遇を受けていたそうです。 (現地案内板より)
ビルに埋もれた平河天満宮

<画像は全てクリックで拡大します>
珍しい狛牛さんが鎮座していました。

狛牛さんは「なで牛」とかで、鳥居に近い古い狛牛は原型を留めていないです。


「江戸城・半蔵門」
江戸城の西端(大手門の正反対)に位置し、まっすぐ甲州街道に通じています。
半蔵門の名称の由来は、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来
し、服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現
在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたそうです。
半蔵門(右は古写真です。)


半蔵門の右手の桜田壕


千鳥ヶ淵側からの半蔵門

千鳥ヶ淵壕

千鳥ヶ淵公園・裸の青年たち
この青年たちは、ポリスボックスの裏手に裸で立っていますので、逮捕されるかも知れません!

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≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 神指城
鶴ヶ城が手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城(神指城)の建築を命じています。
≪本日の問題≫