九州・関ヶ原の戦いの舞台 『杵築城』
九州・関ヶ原の戦いの舞台 『杵築城』
杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山の上に築かれています。
台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害になっています。
戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれていた。
現在、城跡は公園として整備され、山上の天守台跡に博物館と展望台を兼ねた模擬天守が建てられてい
ます。
駐車場から本丸への石段
雰囲気があっていいですね~

杵築城
天守は鉄筋コンクリートの模擬天守ですが、こじんまりとしていて好感が持てる天守です。

守江湾の眺望が素晴らしいです。

【黒田官兵衛の関ヶ原の戦い】
関ヶ原の戦いでは、中津に帰国していた官兵衛も、東軍として行動し、中津城の金蔵を開いて領内の百姓
などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9千人ほどの速成軍を作り上げた。
9月9日、再興を目指して西軍に与した、大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細
川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃します。
黒田官兵衛(1546-1604年)

杵築城代・松井康之は、官兵衛に援軍を要請、官兵衛はこれに応じ1万人の兵を率いて出陣。
道中の諸城を攻略した後、9月13日石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突(石垣原の戦い)し、黒田
軍は大友軍に勝利しています。
この後、官兵衛は九州全土を平定して、天下を家康と競う野心があったとされていますが、真相は不明です。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
前回の正解: 松の丸
醍醐の花見の宴の席で、正室である北政所の次に杯を受けるのを「淀殿」と「松の丸殿」が争い、前田利家の室・まつがその場をうまく取りおさめたという話が伝わっています。
≪本日の問題≫
杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山の上に築かれています。
台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害になっています。
戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれていた。
現在、城跡は公園として整備され、山上の天守台跡に博物館と展望台を兼ねた模擬天守が建てられてい
ます。
駐車場から本丸への石段
雰囲気があっていいですね~


杵築城
天守は鉄筋コンクリートの模擬天守ですが、こじんまりとしていて好感が持てる天守です。


守江湾の眺望が素晴らしいです。

【黒田官兵衛の関ヶ原の戦い】
関ヶ原の戦いでは、中津に帰国していた官兵衛も、東軍として行動し、中津城の金蔵を開いて領内の百姓
などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9千人ほどの速成軍を作り上げた。
9月9日、再興を目指して西軍に与した、大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細
川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃します。
黒田官兵衛(1546-1604年)

杵築城代・松井康之は、官兵衛に援軍を要請、官兵衛はこれに応じ1万人の兵を率いて出陣。
道中の諸城を攻略した後、9月13日石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突(石垣原の戦い)し、黒田
軍は大友軍に勝利しています。
この後、官兵衛は九州全土を平定して、天下を家康と競う野心があったとされていますが、真相は不明です。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
前回の正解: 松の丸
醍醐の花見の宴の席で、正室である北政所の次に杯を受けるのを「淀殿」と「松の丸殿」が争い、前田利家の室・まつがその場をうまく取りおさめたという話が伝わっています。
≪本日の問題≫
前田利家 その54 『醍醐の花見』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
【醍醐の花見】
秀吉は外征で苦戦する朝鮮戦線には、もはや興味はないようであった。
秀吉は、3回も下見に出かけるなどして、用意周到に3月15日に醍醐で大観桜会を主催して成功させます。
それは北野の大茶の湯にも匹敵する豪遊であった。
秀吉は当日、秀頼を始め側近衆、諸大名を従えて、ひと足先に三方院にはいっているところへ、きらびやか
な女人たちの輿の列が繰り込んで来た。

記録によると、その輿の次第は次のとおりです。
1番 政所様(秀吉の正室ねね)
2番 西の丸様(淀殿の別称、側室茶々)
3番 松の丸様(側室京極氏)
4番 三の丸様(側室蒲生氏)
5番 加賀様(側室前田氏、利家の3女・麻阿)
6番 大納言殿御内(利家の正室まつ)
これに、それぞれ老女、侍女、女中衆が付き添っていた。
秀吉さんに呼ばれて、24年4月7日に「醍醐の花見」に行ってきました。

上の醍醐から下の醍醐へかけての広大な観桜会の会場は、たちまち華麗な雰囲気に包まれた。
これは秀吉の演出であったが、はからずも秀吉の女人に対する心優しい気配りを覗かせているところであ
った。女人たちを慰めるための花見のようであった。
側室・麻阿の生母で、利家の正室・“まつ”を輿に乗せて女人たちの行列の中に加えたことなども、秀吉の
心遣いが感じられます。
利家が秀吉にとって相談相手であるように、“まつ”も北政所・“ねね”にとっての腹心の相談相手であった
ことが伺われます。
秀吉は秀頼と北政所と多くの側室たちを連れて、満開の桜の下をゆっくり廻ったという。
“太閤はこの花見で、今年最後の春を飾ろうとしているのではないか!?”
同時に、秀吉が死期を考えているのではあるまいかという寂しい気持ちで、利家は見ていたのではないで
しょうか。
禁断の三角関係
妻、Sa-ko嬢は膨れて怒っています!

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
前回の正解: 宇土
小西行長は、1587年秀吉の九州征伐、翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後の南半国宇土、益城、八代の20万石あまりを与えられ、宇土城を築城し本拠としていた。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
【醍醐の花見】
秀吉は外征で苦戦する朝鮮戦線には、もはや興味はないようであった。
秀吉は、3回も下見に出かけるなどして、用意周到に3月15日に醍醐で大観桜会を主催して成功させます。
それは北野の大茶の湯にも匹敵する豪遊であった。
秀吉は当日、秀頼を始め側近衆、諸大名を従えて、ひと足先に三方院にはいっているところへ、きらびやか
な女人たちの輿の列が繰り込んで来た。

記録によると、その輿の次第は次のとおりです。
1番 政所様(秀吉の正室ねね)
2番 西の丸様(淀殿の別称、側室茶々)
3番 松の丸様(側室京極氏)
4番 三の丸様(側室蒲生氏)
5番 加賀様(側室前田氏、利家の3女・麻阿)
6番 大納言殿御内(利家の正室まつ)
これに、それぞれ老女、侍女、女中衆が付き添っていた。
秀吉さんに呼ばれて、24年4月7日に「醍醐の花見」に行ってきました。

上の醍醐から下の醍醐へかけての広大な観桜会の会場は、たちまち華麗な雰囲気に包まれた。
これは秀吉の演出であったが、はからずも秀吉の女人に対する心優しい気配りを覗かせているところであ
った。女人たちを慰めるための花見のようであった。
側室・麻阿の生母で、利家の正室・“まつ”を輿に乗せて女人たちの行列の中に加えたことなども、秀吉の
心遣いが感じられます。
利家が秀吉にとって相談相手であるように、“まつ”も北政所・“ねね”にとっての腹心の相談相手であった
ことが伺われます。
秀吉は秀頼と北政所と多くの側室たちを連れて、満開の桜の下をゆっくり廻ったという。
“太閤はこの花見で、今年最後の春を飾ろうとしているのではないか!?”
同時に、秀吉が死期を考えているのではあるまいかという寂しい気持ちで、利家は見ていたのではないで
しょうか。
禁断の三角関係
妻、Sa-ko嬢は膨れて怒っています!

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≪前回の解答≫
前回の正解: 宇土
小西行長は、1587年秀吉の九州征伐、翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後の南半国宇土、益城、八代の20万石あまりを与えられ、宇土城を築城し本拠としていた。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
前田利家 その53 『利長、還暦』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
【利長、還暦】
1598年の元旦を利家は伏見の前田邸において迎えた。
60歳、いわゆる還暦です。
戦国兵乱の激動時代のこと、
“よくぞ生きたものよ!”
というのが利家自身の実感であった。
今は身辺になんの不安も不足もなく、まずは恵まれた環境のめでたい春であった。いつ嫡男・利長に家督
を譲ってもいいところである。
しかし利家は、老骨に鞭打ってしなければならないことあった。
太閤の老いと衰えを切実に感じれば感じるほど、その分だけ太閤の側にいる自分は老いてはならないと、
利家は思っていた。使命感に似た自覚です。
そんな正月のある日、秀吉は利家の顔を見ると、
「春に醍醐で花見の宴を張るが、大納言も来るか」
と言った。
秀吉はかねてから醍醐の三宝院の景趣を愛好し、しばしば訪れて境内や道路を整備し、河内・大和・近江・
山城の4ヶ国から桜の木を移植させたりしていた。
「お供します」
利家は言った。
秀吉の派手好み、豪遊趣味は、1587年の北野天満宮で催しされた大茶会でもわかるとおり、自他とも認
めるところであった。
いまや外征の大難事を遂行しながら、いっぽう国内でも方広寺の建造や大仏殿の建立、京都の新邸築造
と大土木を続行しつつ、さらに秀吉がいかなる花見を計画しているのか、その「狂」の一面を、利家はとこ
とん見極めたかった。
自分がまだ理解していない老権力者の深淵を除いてみたいという気持ちであった。
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【利長、還暦】
1598年の元旦を利家は伏見の前田邸において迎えた。
60歳、いわゆる還暦です。
戦国兵乱の激動時代のこと、
“よくぞ生きたものよ!”
というのが利家自身の実感であった。
今は身辺になんの不安も不足もなく、まずは恵まれた環境のめでたい春であった。いつ嫡男・利長に家督
を譲ってもいいところである。
しかし利家は、老骨に鞭打ってしなければならないことあった。
太閤の老いと衰えを切実に感じれば感じるほど、その分だけ太閤の側にいる自分は老いてはならないと、
利家は思っていた。使命感に似た自覚です。
そんな正月のある日、秀吉は利家の顔を見ると、
「春に醍醐で花見の宴を張るが、大納言も来るか」
と言った。
秀吉はかねてから醍醐の三宝院の景趣を愛好し、しばしば訪れて境内や道路を整備し、河内・大和・近江・
山城の4ヶ国から桜の木を移植させたりしていた。
「お供します」
利家は言った。
秀吉の派手好み、豪遊趣味は、1587年の北野天満宮で催しされた大茶会でもわかるとおり、自他とも認
めるところであった。
いまや外征の大難事を遂行しながら、いっぽう国内でも方広寺の建造や大仏殿の建立、京都の新邸築造
と大土木を続行しつつ、さらに秀吉がいかなる花見を計画しているのか、その「狂」の一面を、利家はとこ
とん見極めたかった。
自分がまだ理解していない老権力者の深淵を除いてみたいという気持ちであった。
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前田利家 その52 『慶長の役』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
【慶長の役】
外征中の中で、ただ一人だけ忠実に、剛直に、朝鮮戦線において秀吉の意図の実現に努力していた加藤
清正が、“現地に留めておいては、ためにならぬ和平の妨害者”
という嫌疑をかけられて、本国召還の命により帰国した。
秀吉はこの嫌疑を審査して真相を究明しようともせず、清正に謹慎を命ずると、面会することすら許さなか
った。
“太閤はもはやお天下様ではなくなられた”
利家はその感を益々深くした。
天下を治めるからこそ天下人であり、お天下様である。今の太閤は、ひたすら“お拾”を溺愛するだけで、
天下のことは二の次、三の次にすぎない状態であった。
熊本城の清正公

国政を顧みようとしない老権力者に天罰が下されたかのように、7月3日に京畿地方に激しい地震が発生
した。
その大混乱の最中、誠実な忠臣にして剛直の猛将でもある加藤清正が、真っ先に伏見城に駆けつけたこ
とにより、秀吉からかねての罰が赦免されています。
小西行長らによる明国との和平工作によって、大坂城で冊封使を引見した秀吉は、使節が持参した明国
王子の勅を音読みさせた。
「なんじを封じて、日本国王となす・・・」
その文言を聞くや、秀吉は激怒して冊封すなわち国書を床に投げつけ、使節を追い返してしまった。
再び出兵の命が発せられた。いわゆる「慶長の役」で、こんども加藤清正、小西行長が先鋒です。
1597年1月13日、加藤清正の朝鮮上陸をもって、再出兵の軍事行動は始まり2月になると宇喜多秀家、
毛利秀元を大将とする諸将の部署が定められ14万におよぶ大軍が渡海した。
秀吉自身は、今回は名護屋城の大本営への出馬もせず、大坂城と伏見城の間を往復しながら、外征軍
へ命令を発していた。
情勢は秀吉が渡海して作戦指導をしない限り、戦線も膠着状態で、占領地域だけを確保するだけで精一
杯というところであった。
それでも秀吉は外征の武将たちへ、しきりに朱印状を与えて
「来年こそは渡海して、大明国まで一気に征伐してみせるから安心せよ」
などと激励を送るばかりであった。
“太閤が一石米を買いかねて、きょうも五斗買い(御渡海)あすも五斗買い”
巷に、そんな落首さえ行われるくらいであった。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 両方から
前田利家は武勲の者であり秀吉に信頼されているため、傍輩衆の、蒲生氏郷、宇喜多秀家、浅野長政、毛利秀頼らから慕われていた。
また、加藤清正・福島正則らに代表される武断派と呼ばれる者達からも尊われていた利家は、秀吉死後の石田三成や小西行長らの文治派と武断派との争いの仲裁役として働いた。
なかでも清正は若き頃より武勇に優れていた利家を尊敬していたと言われます。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
【慶長の役】
外征中の中で、ただ一人だけ忠実に、剛直に、朝鮮戦線において秀吉の意図の実現に努力していた加藤
清正が、“現地に留めておいては、ためにならぬ和平の妨害者”
という嫌疑をかけられて、本国召還の命により帰国した。
秀吉はこの嫌疑を審査して真相を究明しようともせず、清正に謹慎を命ずると、面会することすら許さなか
った。
“太閤はもはやお天下様ではなくなられた”
利家はその感を益々深くした。
天下を治めるからこそ天下人であり、お天下様である。今の太閤は、ひたすら“お拾”を溺愛するだけで、
天下のことは二の次、三の次にすぎない状態であった。
熊本城の清正公

国政を顧みようとしない老権力者に天罰が下されたかのように、7月3日に京畿地方に激しい地震が発生
した。
その大混乱の最中、誠実な忠臣にして剛直の猛将でもある加藤清正が、真っ先に伏見城に駆けつけたこ
とにより、秀吉からかねての罰が赦免されています。
小西行長らによる明国との和平工作によって、大坂城で冊封使を引見した秀吉は、使節が持参した明国
王子の勅を音読みさせた。
「なんじを封じて、日本国王となす・・・」
その文言を聞くや、秀吉は激怒して冊封すなわち国書を床に投げつけ、使節を追い返してしまった。
再び出兵の命が発せられた。いわゆる「慶長の役」で、こんども加藤清正、小西行長が先鋒です。
1597年1月13日、加藤清正の朝鮮上陸をもって、再出兵の軍事行動は始まり2月になると宇喜多秀家、
毛利秀元を大将とする諸将の部署が定められ14万におよぶ大軍が渡海した。
秀吉自身は、今回は名護屋城の大本営への出馬もせず、大坂城と伏見城の間を往復しながら、外征軍
へ命令を発していた。
情勢は秀吉が渡海して作戦指導をしない限り、戦線も膠着状態で、占領地域だけを確保するだけで精一
杯というところであった。
それでも秀吉は外征の武将たちへ、しきりに朱印状を与えて
「来年こそは渡海して、大明国まで一気に征伐してみせるから安心せよ」
などと激励を送るばかりであった。
“太閤が一石米を買いかねて、きょうも五斗買い(御渡海)あすも五斗買い”
巷に、そんな落首さえ行われるくらいであった。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 両方から
前田利家は武勲の者であり秀吉に信頼されているため、傍輩衆の、蒲生氏郷、宇喜多秀家、浅野長政、毛利秀頼らから慕われていた。
また、加藤清正・福島正則らに代表される武断派と呼ばれる者達からも尊われていた利家は、秀吉死後の石田三成や小西行長らの文治派と武断派との争いの仲裁役として働いた。
なかでも清正は若き頃より武勇に優れていた利家を尊敬していたと言われます。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
前田利家 その51 『利家、大納言に』
『加賀百万石の礎を築いた前田利家』
【利家、大納言に】
秀次事件があった翌年の正月賀宴のとき、利家は中納言として、上杉景勝とともに座敷下に座っている
のを見て、秀吉は驚いた。
「おんみ、どうしてそのような席にいるのか?」
「定めですから」
利家は笑って答えた。
別に官位などにこだわっていない。そういう人柄なのである。
兼六園の利家像

事情を知った秀吉はあわてて、4月に利家を大納言に昇位させた。このとき家康を内大臣に進めています。
秀吉が家康と利家の官位を常に雁行して昇進させたのは、臣下に招聘した家康に対してはどうしても官位
を進めて優遇しなければならなかったが、家康一人だけ進めては、その衆望が過大になりすぎる恐れがあ
るということから、利家の官位も進めたという説もあるが、老後に“お拾”をもうけてからは、“お拾”の将来
のためにも一層その必要があったという。
この点においては、利家は頼りになる人物であった。篤実で、義理堅くて、悪いことは絶対にできる人間
ではない。人望もあり、人徳もある。実力もある。
おそらく、秀吉は利家一人に“お拾”を託すことができれば、どんなに安心であろうかと思ったに違いない。
しかし、家康を無視する訳にいかない。
官位にしても、一歩ないし半歩、必ず家康を立てているが、秀吉の気持ちでは両者同格であったのでしょう。
同格というより、むしろ秀吉は利長を信頼し、情味をかけていた。
例えば、同席して雑談をしている時でも、必ず先に「大納言」と利家へ呼びかけから、「内府」と家康へ声を
かけた。
利家の方もこれについて、
「一国をくださるよりありがたい」
と常に感謝していたとういう。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 竹中半兵衛
これは皆さんよくご存知ですよね。
豊臣秀吉の軍師といえば、竹中半兵衛と黒田官兵衛。
この稀代の二大軍師は「二兵衛」と呼ばれ、秀吉の天下統一に尽力しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
【利家、大納言に】
秀次事件があった翌年の正月賀宴のとき、利家は中納言として、上杉景勝とともに座敷下に座っている
のを見て、秀吉は驚いた。
「おんみ、どうしてそのような席にいるのか?」
「定めですから」
利家は笑って答えた。
別に官位などにこだわっていない。そういう人柄なのである。
兼六園の利家像

事情を知った秀吉はあわてて、4月に利家を大納言に昇位させた。このとき家康を内大臣に進めています。
秀吉が家康と利家の官位を常に雁行して昇進させたのは、臣下に招聘した家康に対してはどうしても官位
を進めて優遇しなければならなかったが、家康一人だけ進めては、その衆望が過大になりすぎる恐れがあ
るということから、利家の官位も進めたという説もあるが、老後に“お拾”をもうけてからは、“お拾”の将来
のためにも一層その必要があったという。
この点においては、利家は頼りになる人物であった。篤実で、義理堅くて、悪いことは絶対にできる人間
ではない。人望もあり、人徳もある。実力もある。
おそらく、秀吉は利家一人に“お拾”を託すことができれば、どんなに安心であろうかと思ったに違いない。
しかし、家康を無視する訳にいかない。
官位にしても、一歩ないし半歩、必ず家康を立てているが、秀吉の気持ちでは両者同格であったのでしょう。
同格というより、むしろ秀吉は利長を信頼し、情味をかけていた。
例えば、同席して雑談をしている時でも、必ず先に「大納言」と利家へ呼びかけから、「内府」と家康へ声を
かけた。
利家の方もこれについて、
「一国をくださるよりありがたい」
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 竹中半兵衛
これは皆さんよくご存知ですよね。
豊臣秀吉の軍師といえば、竹中半兵衛と黒田官兵衛。
この稀代の二大軍師は「二兵衛」と呼ばれ、秀吉の天下統一に尽力しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:前田利家(井口朝生暑)>
黒田官兵衛と長政親子が造営した大城郭 「福岡城」
『日本百名城85 福岡城』
「天守台をはじめ本丸・二の丸に壮大な石垣群が残る」
関ヶ原の戦いの戦功により、黒田官兵衛(孝高・如水)・長政親子に筑前が与えられた。
古代の迎賓館・鴻臚館(こうろかん)がおかれていた場所に1601年、福岡城築城の工事を初め、ここが明治
に至るまでの黒田氏の居城となります。
豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛と猛将黒田長政父子が、城の縄張りには特に心血を注いだ梯郭式平山
城で本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸が配され、47の櫓を配し縄張りの範囲は8万坪もあり、
九州一の巨城でした。
福岡城古図

<画像はクリックで全て拡大します。>
幅50mを越える内堀で本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸などを囲み、中枢部は総石垣造りであった。
黒田官兵衛は築城の名手で、中津城や福岡城の他、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城など
に縄張りや助言を行っています。
福岡城CG再現

この福岡城には大天守、中天守、小天守が連なる巨大な天守台が築かれたが、天守が建てられたという事
実はいまだに確認されていません。
従来の通説では、1646年に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれてい
ないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされています。
近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた1620年
3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と天守の存在を窺わせる記述が
発見されたことによって、天守があった可能性が示されています。
天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、
天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっています。
福岡城は今回の登城が初めてで、わくわくしながらの登城でしたので今でも鮮明に当日のことが回顧でき
ます。鴻臚館で百名城スタンプをゲットしてから、扇坂御門跡からの入城になりました。
扇坂御門跡

二の丸
二の丸は梅木園になっていました。松山城はみかん園になっていましたが、なぜなのでしょうか。

表御門跡
この石段を昇ると本丸です。

本丸
本丸御殿跡と本丸の井戸

御祈念櫓
ここは本丸の北東隅、つまりウシトラの方角ですから、鬼門封じ込めを行う御祈念櫓だそうです。
現在に祈念櫓は古写真と合わないので、大正寺(北九州市)移築されていた際に改築されているこのことです。

巨大な天守台

大天守への入口「鉄御門跡」
大天守台の北に位置し、本丸から天守曲輪への入口です。大正4年に崩れたため修復されています。

埋門跡と天守への入口

天守地階

天守台から見る鉄御門跡と本丸

南二の丸・西隅櫓

南二の丸・北隅櫓

「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守の想像図面を製作し、
本格的木造建築による再建にむけて運動を展開し、将来的に、天守をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や
大濠公園の一体的な整備を構想してそうです。
しかし、福岡市側は歴史資料が不足しているため天守の復元は困難との見解を福岡市議会にて示していま
す。
城郭ファンとしては、史跡を台無しにする観光目的の模擬天守の建設だけ止めて戴きたいですが、皆様は
如何ですか。
日本百名城92登城目 (登城日:平成24年6月3日)


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 官人で武装した人
武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。
≪本日の問題≫
「天守台をはじめ本丸・二の丸に壮大な石垣群が残る」
関ヶ原の戦いの戦功により、黒田官兵衛(孝高・如水)・長政親子に筑前が与えられた。
古代の迎賓館・鴻臚館(こうろかん)がおかれていた場所に1601年、福岡城築城の工事を初め、ここが明治
に至るまでの黒田氏の居城となります。
豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛と猛将黒田長政父子が、城の縄張りには特に心血を注いだ梯郭式平山
城で本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸が配され、47の櫓を配し縄張りの範囲は8万坪もあり、
九州一の巨城でした。
福岡城古図

<画像はクリックで全て拡大します。>
幅50mを越える内堀で本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸などを囲み、中枢部は総石垣造りであった。
黒田官兵衛は築城の名手で、中津城や福岡城の他、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城など
に縄張りや助言を行っています。
福岡城CG再現

この福岡城には大天守、中天守、小天守が連なる巨大な天守台が築かれたが、天守が建てられたという事
実はいまだに確認されていません。
従来の通説では、1646年に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれてい
ないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされています。
近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた1620年
3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と天守の存在を窺わせる記述が
発見されたことによって、天守があった可能性が示されています。
天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、
天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっています。
福岡城は今回の登城が初めてで、わくわくしながらの登城でしたので今でも鮮明に当日のことが回顧でき
ます。鴻臚館で百名城スタンプをゲットしてから、扇坂御門跡からの入城になりました。
扇坂御門跡

二の丸
二の丸は梅木園になっていました。松山城はみかん園になっていましたが、なぜなのでしょうか。

表御門跡
この石段を昇ると本丸です。

本丸
本丸御殿跡と本丸の井戸


御祈念櫓
ここは本丸の北東隅、つまりウシトラの方角ですから、鬼門封じ込めを行う御祈念櫓だそうです。
現在に祈念櫓は古写真と合わないので、大正寺(北九州市)移築されていた際に改築されているこのことです。

巨大な天守台

大天守への入口「鉄御門跡」
大天守台の北に位置し、本丸から天守曲輪への入口です。大正4年に崩れたため修復されています。

埋門跡と天守への入口


天守地階


天守台から見る鉄御門跡と本丸

南二の丸・西隅櫓

南二の丸・北隅櫓


「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守の想像図面を製作し、
本格的木造建築による再建にむけて運動を展開し、将来的に、天守をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や
大濠公園の一体的な整備を構想してそうです。
しかし、福岡市側は歴史資料が不足しているため天守の復元は困難との見解を福岡市議会にて示していま
す。
城郭ファンとしては、史跡を台無しにする観光目的の模擬天守の建設だけ止めて戴きたいですが、皆様は
如何ですか。
日本百名城92登城目 (登城日:平成24年6月3日)


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 官人で武装した人
武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。
≪本日の問題≫
孤立した清盛の窮地を救ったのは誰か
『孤立した清盛の窮地を救ったのは誰か』
生涯を通してあまり軍事的、政治的な面で孤立しなかった清盛ですが、1147年の祇園乱闘事件、1159年
の平治の乱、1179年のクーデター、その翌年の源頼朝の挙兵などの際には、窮地に追い込まれています。
なかでも、平治の乱の勃発時には紀伊熊野参詣の最中であったため、清盛は生命の危険すら感じたようで
す。
紀伊・熊野大社

何しろ、当時の清盛の傍には、清盛の子・重盛、宗盛や僅かな家臣がいるだけの状況でした。
このうち重盛は22歳でしたが、3男・宗盛は13歳の少年でした。
この時の遠出は熊野参詣が主目的であったため、清盛一行は甲冑の類も一切携行していなかったそうです。
しかも京都からもたらされた情報によると、平治の乱を起した藤原信頼、源義朝は既に御所占拠して後白河
上皇や二条天皇を幽閉し、清盛と親しかった藤原信西を血祭りにあげたというのです。
強気の清盛ですが
「一旦、鎮西(九州)へ亡命し、再挙を図るべきであろうか…」
などと口にしたという。
絶体絶命の窮地に陥っていた清盛に、地元の武士・湯浅宗重らが救いの手を差し伸べます。この時、宗重
らは清盛に対して、兵力の提供、甲冑の貸与などという支援を申し出ています。
これで清盛は迷いを棄て、信頼や義朝を討つべく本拠・六波羅へ帰還することを決意します。
この段階で清盛は、信頼に偽りの名簿(誓約書)を提出して油断させます。この作戦は公家・三条公教の
助言に従ったものとも言われ、信頼や義朝が京都を制圧した段階でも、密かに清盛に通じるものが他にも
いたようです。
さらに清盛は御所の官吏などと密かに連絡を取り、二条天皇を女装させ幽閉先から救出することに成功し、
後白河上皇は自ら仁和寺へ脱出しています。
同じ頃、清盛は摂津源氏の源頼政などと密かに連絡をとり、頼政を平氏方に引き込むことにも成功します。
このように、「平治の乱」の勃発後に宗重や頼政などといった人々の支援や来援を得たことで、清盛は生涯
最大の窮地を脱出しています。
昨日は久しぶりに天気が良かったので、近くで開催されている「菖蒲まつり」に行ってきました。
花菖蒲は、やや満開過ぎになっていました。

土手には、ラベンダーの香りが流れていました。

おまつり会場には、地元野菜の即売が行われていましたので、うさーずへのお土産をゲット!
余分に葉っぱだけを頂いて帰りました。^^


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 天領地
1601年より、天草郡は唐津藩領となっていたが、島原の乱の責を咎められ天草郡を没収された。その後、天草は明治に至るまで天領地になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>
生涯を通してあまり軍事的、政治的な面で孤立しなかった清盛ですが、1147年の祇園乱闘事件、1159年
の平治の乱、1179年のクーデター、その翌年の源頼朝の挙兵などの際には、窮地に追い込まれています。
なかでも、平治の乱の勃発時には紀伊熊野参詣の最中であったため、清盛は生命の危険すら感じたようで
す。
紀伊・熊野大社

何しろ、当時の清盛の傍には、清盛の子・重盛、宗盛や僅かな家臣がいるだけの状況でした。
このうち重盛は22歳でしたが、3男・宗盛は13歳の少年でした。
この時の遠出は熊野参詣が主目的であったため、清盛一行は甲冑の類も一切携行していなかったそうです。
しかも京都からもたらされた情報によると、平治の乱を起した藤原信頼、源義朝は既に御所占拠して後白河
上皇や二条天皇を幽閉し、清盛と親しかった藤原信西を血祭りにあげたというのです。
強気の清盛ですが
「一旦、鎮西(九州)へ亡命し、再挙を図るべきであろうか…」
などと口にしたという。
絶体絶命の窮地に陥っていた清盛に、地元の武士・湯浅宗重らが救いの手を差し伸べます。この時、宗重
らは清盛に対して、兵力の提供、甲冑の貸与などという支援を申し出ています。
これで清盛は迷いを棄て、信頼や義朝を討つべく本拠・六波羅へ帰還することを決意します。
この段階で清盛は、信頼に偽りの名簿(誓約書)を提出して油断させます。この作戦は公家・三条公教の
助言に従ったものとも言われ、信頼や義朝が京都を制圧した段階でも、密かに清盛に通じるものが他にも
いたようです。
さらに清盛は御所の官吏などと密かに連絡を取り、二条天皇を女装させ幽閉先から救出することに成功し、
後白河上皇は自ら仁和寺へ脱出しています。
同じ頃、清盛は摂津源氏の源頼政などと密かに連絡をとり、頼政を平氏方に引き込むことにも成功します。
このように、「平治の乱」の勃発後に宗重や頼政などといった人々の支援や来援を得たことで、清盛は生涯
最大の窮地を脱出しています。
昨日は久しぶりに天気が良かったので、近くで開催されている「菖蒲まつり」に行ってきました。
花菖蒲は、やや満開過ぎになっていました。


土手には、ラベンダーの香りが流れていました。


おまつり会場には、地元野菜の即売が行われていましたので、うさーずへのお土産をゲット!
余分に葉っぱだけを頂いて帰りました。^^


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昨日の正解: 天領地
1601年より、天草郡は唐津藩領となっていたが、島原の乱の責を咎められ天草郡を没収された。その後、天草は明治に至るまで天領地になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:平清盛をめぐる101の謎(川口素生暑)>