前田慶次郎 その1 「慶次郎のプロフィール」

戦国風流武士「前田慶次郎」その1

『慶次郎のプロフィール』

現在では一般に前田慶次/慶次郎の名で知られる「前田利益」は、諱は利益の他、利太(としたか)あるいは

利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっています。


彼の情報として現在流布している前田慶次郎の人物像は、「上杉将士書上」に記載された略伝の記述や明

治~昭和にまとめられた「加賀藩史料」や「前田慶次道中日記」などがあります。

現代の私たちにインパクトがあるのは、小説「一夢庵風流記」、それを原作とした原哲夫氏の漫画『花の慶次』

ではないでしょうか。


【慶次郎のプロフィール】

生誕:1533年?

死没:1605年?

主君:前田利久→前田利家→上杉景勝

養父:前田利久

妻:前田安勝の娘

子:一男三女(五女とも)

墓所:米沢市堂森善光寺


前田慶次郎
ma.前田慶次郎(利益)

豊臣秀吉は大掛かりな城攻めをする人であった。

織田信長の一武将であった頃の鳥取城攻めも備中高松城も、ともにその大掛かりな点において日本戦史

上に残るものですが、関白になってからの小田原城攻めにいたっては、その規模の雄大豪壮なこと、言語

に絶するものです。

この小田原攻めの前田利家の陣に、前田慶次郎は参戦しています。

この青年は利家の兄・利久の子で慶次郎利太といった。この若さで幾度か武功を重ねているばかりでなく、

文学のたしなみが深く、書道、茶の湯、香道等の技芸にも通じ、普通ならば文武兼備の模範的武士といわ

れるべきであったが、途方もない気まま者で、世を屁とも思わないようなことばかりするので、前田家では

もてあましていた。


世を屁とも思わない慶次郎はあばれてくれます!


sakura 20120730 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:水攻め
三成は、本陣を忍城が一望できる近くの丸墓山古墳に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設しています。
しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となり、城側は大いに面目を施すことになった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となっています。

≪本日の問題≫


                           <参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎)>
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田んぼArt 「のぼうの城」

田んぼArt「のぼうの城」

埼玉・行田の「古代蓮の里」に「田んぼアート・のぼうの城」がありますが、7月15日に来たときはエレベ

ータが1時間待ちでしたので、再訪しました。

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『のぼうの城』とは、和田竜さんの歴史小説を原作とし、今年の秋に公開予定の映画です。

「のうぼうの城」については、「こちら」の記事で、詳しく書いていますので、ぜひ、ご参照ください。

20120729 002

天下統一目前の豊臣秀吉は、小田原征伐で関東最大の勢力北条氏の小田原城を落城させんとし、一方

の後北条氏は、豊臣側に抵抗するべく、関東各地の支城の城主に篭城に参加するよう通達。支城の一つ

であった忍城主の氏長は、北条氏に従うように見せかけ、裏で豊臣側への降伏を内通し、篭城作戦に参加

していた。

20120729 003 20120729 004

「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」秀吉にそう命じられ、石田三成は成田氏が降伏しているとは露知ら

ず、戦を仕掛けんとする。城はすぐに落ちるはずだった。

だが、軍使長束正家の傲慢な振る舞いに怒った総大将・長親は「戦」を選択。当主氏長より降伏を知ら

されていた重臣たちは初め混乱するが覚悟を決め、かくて忍城戦は幕を開けます。

三成率いる二万超の軍勢に、農民らを含めても2千強の成田勢。総大将たる長親は、将に求められる

智も仁も勇も持たない、その名の通りでくのぼうのような男。

だがこの男にはただ一つの才能、異常なほどの民からの「人気」があった。


この映画は歴史ファンでなくても楽しめそうです。11月に公開予定ですので時間があられたら、ぜひ

映画館まで足を運ばれてください。


こちらは「古代蓮」の全景です。
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後ろに“ぼやけている”のが、今回上ったタワーです。(50mあるとか)
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まだ、暫くは見れそうな古代蓮
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“sakura”がサッカーの練習を続けていますので、ボールとユニホームをプレゼントです。
sakura 20120729 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:一の谷形兜
黒田長政は福島正則より贈られた「一の谷形兜」を関ヶ原の戦い、大坂の陣にも着用し、黒田家に代々伝えたという。
記事の本文にありました「当世具足」の兜が、長政公の兜です。

≪本日の問題≫

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鎧や兜には流行があったの?

「ごひいきの戦国武将」に、たくさんの投票を頂きまして、ありがとうございました。

投票結果は

石田三成:20票

徳川家光:9票

前田慶次郎:22票

加藤清正:11票

直江兼続:8票

でしたので、次回の戦国武将は「前田慶次郎」を取り上げてみたいと思います。

次点とはいえ、石田三成にもたくさんの投票を頂いておりますので、「三成の関ヶ原」でいずれは題材に

してみたいと思います。

たくさんの投票をありがとうございました。


『鎧や兜には流行があったの?』

日本独自の甲冑が成立したのは、源氏と平氏が覇権を競った平安後期の10世紀頃といわれます。

当時の武士の戦い方は、馬に乗って弓矢を射掛けあうものだった。今、伝えられる流鏑馬スタイルの戦法

がそれです。

そういった騎馬戦に適した、この時代の鎧を大鎧と呼びます。この大鎧は、兜も形を造るのに、鉄の板を鋲

で打ちとめ、その鋲の頭を星と呼んだところから名付けられた星兜という形式です。

この大鎧スタイルは、武家の武装として最も古典的なものとされ、後世の儀式用の甲冑としてひとつの典

型となっていた。

大鎧
oo.大鎧

この後、南北朝時代に鋲の頭を平にした筋兜が登場し、室町時代に全盛を迎えます。

応仁の乱ころ、徒歩で刀や槍を持って集団で戦う足軽が表舞台に登場し、戦い方が、騎馬戦から、集団

で刀、槍、薙刀を持ち、徒歩で戦う打物戦が盛んになっています。

それに伴って、大鎧も変化し、より軽快で自由な動きができる胴丸や腹巻が武将の間で用いられますが、

この胴丸、腹巻は、かつては馬に乗らず徒歩で戦った下級武士の鎧だったのです。

当世具足
to.当世具足(長政公)

また、鉄砲の伝来とその急速な普及は、それまでの甲冑をたちまち変化させ、頭や体から手足まで全体

を隙間なく被って保護する「当世具足」を生み出します。

当世具足は、鉄の金錆色のままだったり、革で包んだり、漆を塗るなど、それまでの華麗な色彩を誇った

甲冑に比べて、はるかに地味になっています。

そのため金銀の箔押し、蒔絵、象牙、打ち出し文様などで飾られるようになる。兜も鉄板を打ち出して形を

つくった形兜では、桃形、椎形、貝形といった代表的な形にはじまり、その種類は数えきれないほどあった

という。

武将たちは、実戦に適応しながら、戦場で自らの存在を誇示するため、様々な意匠の兜を考案します。

そのデザインは動物、植物をはじめ、森羅万象にまでおよび外国風のものまであった。

その兜に加え、さらに立場と呼ばれる飾りが付けられた。

石田三成兜(角が大きくて勇ましいです。)
is.石田三成兜

一般的には大将クラスには龍頭に鍬形など将兵の身分や好みによって、太陽や月。猛獣の角などをかた

どった立物をつけ、敵を威嚇し、自分らを誇示し、勇気をふるい立たせたのです。

sakura 20120728 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:松風
慶次郎が「丁度良い湯加減です」と言い、利家がそれを聞き湯船に入ると氷のような冷水であったという。この騒ぎの間に、慶次郎は利家の愛馬・松風へ乗って国を去ったという。

≪本日の問題≫


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な で し こ  「 sa ku ra 」

次の戦国武将は誰を取り上げるか選定中です。

みなさんのご希望により、決めたいと思いますので下のアンケートより投票いただければ幸いです。

今週の土曜日で締め切りたいと思いますので、よろしくお願いします。




な で し こ 「 sa ku ra 」

オリンピックのサッカーが始まったら、急にsakuraがサッカーを始めました!

テレビを見ていたのでしょうか。

ビーチボールは2週間ほど前から買ってあったのですが、誰もさわってもくれませんでした・・・。

sa-ko嬢は、「な~に しているの?」と見つめています。
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障害物「ゴン太」を軽くクリア
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パスの相手を探していますが、pigletもsa-ko嬢もumeも、まったく興味ありません。
sakura 20120727 003

ドリブルは川澄さん以上です!
sakura 20120727 004

ゴール前はしぶとく守ります。
sakura 20120727 005

ひとりサッカーですから、ゴールキーパーもやります。
sakura 20120727 006

練習を積んでYouTubeにレビューしますねぇ~

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:芳春院
1599年に利家が病により没すると、妻・“まつ”は出家し、芳春院と号しています。

≪本日の問題≫

前田利家 その64 『前田利家の評価』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【前田利家の評価】

作家・海音寺潮五郎氏は、「槍の又佐」を次のとおり評価しています。

「利家は幸運な武将であったと言えるのであろう。

若いとき、彼は武勇の武将として名が挙がったが、武将としての働きは末森城の後巻き以外には見るべき

ものがない。

金沢城
ka.20100404 金沢城 001-1

大きな戦を指揮したこともなければ、その力量もなかったと思う。

彼は智謀の人ではなかったからある。

しかしながら、よき友・秀吉を持ったために、そしてまた秀吉の政治的機略が必要としたために、彼は大大名

となり得、大納言となり得たと僕は見る。

けれども、彼は世に稀な篤実さ、信義心がなかったら、秀吉といえども、彼をあれほどまで重用しなかったで

あろう。彼の幸運は、その篤実さと信義心を持って得たものであろう」


う~ん、同感ですね。

長い間、前田利家にお付き合い頂きありがとうございました。

金沢城には幾度も登城しましたが、また行きたくなってしまいました。

9月初旬に金沢に行きたいと思っています。



『戦国武将の人気投票状況』(中間報告)

たくさんの方に投票して頂きまして、ありがとうございます。

27日0時現在の投票状況です。

◇ 石田三成:16票

◇ 加藤清正:10票

◇ 徳川家光:8票

◇ 前田慶次郎:13票

◇ 直江兼続:7票

sakura 20120726 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:宇喜多秀家
豪姫は15歳で秀吉の猶子であった岡山城主宇喜多秀家の妻として嫁ぎ、2男2女を産んでいます。
秀家が関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍方に属していたため、戦後に宇喜多氏は息子2人と共に1606年に八丈島に流罪とされる。豪姫は他家へ嫁ぐことなく金沢西町に移り住み、賂を秀家に送り続け余生を送っています。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

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前田利家 その63 『利家の終焉』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【利家の終焉】

利家の終焉については、以下のような記録が残っています。

正室・まつがその枕元に来て

「おまえ様は若いころから千軍万馬の間を駆け巡り、自ら槍、刀を振るってあまたの人々を殺生しおいで

なるゆえ、これをお召しになって、あの世とやらへお旅立ち願いとう存じます」

と泣く泣く訴えたところ

「わしは乱世に武士として生まれ合わせたため、合戦にも出馬せねばならず、人を殺しもせねばならなか

ったが、不義不道に理由のない殺生をした覚えはない。なんの罪があって地獄に堕ちることがあろうか。

もし、間違って地獄に堕ち、鬼どもが呵責しようとするならば、わしに先立ってあの世へ旅立った家臣たち

を集めて、地獄征伐をしてやろう。らちもない心配は無用。あの世のことより、わしはこの世に心残りがあ

る。秀頼様のことだ。あと5・6年もわしがこの世に居られたら、必ず秀頼様の天下になることの見極めが

ついて死んだであろうに、心残りでたまらぬ」

利家はそう言ったが、いよいよ病苦がさしせまって臨終になると、側においた新藤五国光の脇差をとって、

鞘をつけたまま胸に突き立て、2声3声うめいて絶息したという。

前田利家墓所
ma.前田利家墓所

1599年閏3月3日、午前6時ごろのことで、享年62歳であった。

遺言のとおり、遺骸は長持に納められて、大坂より金沢へ送られ、葬儀は4月8日、金沢の宝円寺におい

て行われ、野田山の墓所に埋められた。

pig 20120725 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:利家が自ら財務を担当していた
前田家の決済はすべて利家自身が行い、愛用の算盤が家宝として残っています。
利家は人斬りによる2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。利家のこのような性格から前田家の財政は健全であり続けることができたという。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

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前田利家 その62 『利家の遺言』

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

【利家の遺言】

今日の記事は長文になりますが、利家の遺言状に彼の全てが出ていると思いますので、お付き合いください。


3月の中旬になって一時的に小康を回復した利家は、有名な遺言状を正室“まつ”に口述記させています。

思慮深く堅実な心がけの戦国武将であったことを示す周到な遺言状ですので全文を記してみます。

前田利家(1538-1599年)
ma.前田利家 001

一、自分の病気はいよいよ回復がおぼつかない。近々死ぬかも知れない。死んだら長持に入れて金沢へ

  送り野田山に墓を造って葬って欲しい。死骸といっしょに女や子供は加賀へ連れていくように。


一、2男の孫四郎利政を金沢へ帰らせ金沢城の留守役にせよ。利長、利政兄弟の下に兵力は1万6千ほど

  有るだろうから、そのうち8千は大坂に詰めさせ、後の8千は金沢に居る兵力は利政の命令で動くように

  せよ。自然のなりゆきで大坂にいざこざが生じ秀頼様へ謀叛する者がでたら、利政は国もとの8千の兵

  を連れて上洛し、一手になって働くように。金沢の留守は藤原出羽一孝と利長の腹心の者一人を添え

  るように、出羽は子供のときから召す仕え心はよくわかっている。頑固なところもあるが律儀者だから城

  を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦ではまだ若年ながらよく働いてくれたので、自分の弟

  ・良之の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にした

  ので青山佐渡吉次を聟にしたらよかろうと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。


一、利長に子もないことであり、兄弟といっても孫四郎ばかりであるから、義理の悪いことはしないと思うが、

  念のため孫四郎には大納言つまり自分同様に父とも兄とも思うように誓詞を書かせてあるからご覧にい

  れる。今後子供とも弟とも思って万事行儀の良くなるように意見するがよい。


一、自分の隠居料として貰っている加賀石川・河北および越中氷見郡の知行は利長へ差し上げる。能州

  口郡の1万5千石は利政へつかわしたがよかろう。


一、判金千枚、脇差3振、刀5腰に札を付けておいたから利政につかわしてくれ。そのほかは一々書面に

  書いてあるから残らず利長へ譲る。


一、金沢にある金銀諸道具はみな帳面に書いてあるから利長に譲るが、死んでから3年間は加州に帰っ

  てはならない。そのうち家康との対立も解決するであろう。


一、利長、利政の兄弟に申し付ける。第一は合戦の場合は敵の畔でもいいから踏み込んで戦え。他国か

  らの押し込みは草の根の陰たりとも許してはならない。信長公は少人数でも敵地へ踏み込んで勝利

  をえられた。


一、奉公人は20年ほど召し抱えた者は、その家の作法をよく心得ているから本座者すなわち譜代の家臣

  として扱ってもよい。利長の兵士が佐々内蔵助成政と戦ったとき、または関東松枝八王子の合戦で仲

  裁に入ったり、または攻めたてた時分も、新参でも過分の知行をやって呼び寄せて家臣としたが、本座

  者には劣っている。我が家ばかりでなく信長公や尾張一円を手に入れた折り以来本座者は新参に越さ

  れたことがない。万事本座を大切にせよ。人間は生まれつき出来、不出来はあるものだが、もうその方

  ・利長は加賀・能登・越中3ヵ国の主であるから万事によく気を配るべきだ。近習にえこひいきのしない

  者4・5人に誓紙をした上で召し抱えさせ、外様でも家系のよい者を探して召し抱えることは良いことだ。

  その上新参は家の威勢のよいときは奉公するものだが少し傾くと自分の都合のよい方へかたよる者だ。

  本座者は平常ぶつぶつ言っていてもいざというときは御家を大事に思い逃げるようなことはない。

  この儀は申すに及ばないことだが申し聞かせておく。信長公死なれたとき、安土から家内を連れて逃げ

  た道々でも本座新参の区別が良くわかったろう。その時の心持を忘れてはならない。


一、武道ばかりを本とするのはいけない。文武二道の侍は少ないが分別のよいものだ。見たり聞いたりして

  探せ、新参にても情をかけて召し抱えさせた方がよい。余も一代本座に処置し。合戦のときは先手にさせ

  てもついに落ち度がなかった。第一諸侍の生活ができるよういたわって使ったら良い。


一.長九郎佐衛門連流竜と高山南坊すなわち切支丹大名で高槻城主であったが秀吉の忌諱にふれ茶人と

  して利家の客分になっている高山右近は、他家に目をくれず余一人を守り律儀人であるから隠居しても

  少しずつ茶代を遣わし情をかけてやってよい。片山伊賀は身上よりもぜいたくする者であるから成り行き

  では謀叛することもあろう。旨いことを言っても油断してはいけない。徳山五兵衛は目をくれて余にそむき

  知人になっていると聞いている。しかし余が存命中は叛くこともあるまいが死んだら必ず叛くから左様に

  処置しておくといい。山崎長門は善い者で成政との戦いでも鳥越峠をよく攻めた。

  しかし、片意地な武者だから侍30・40の頭は務まるが一軍の将には向かない。


一、村上豊後と奥村伊予は子供に家を渡し楽をさせてある。しかし、余が死んでも一層情をかけられ髪もそ

  らされるようなことはせず、祝い事などのときはこの両人家の老臣として取り扱うようにしたらよい。

  その上大事な合戦すなわち大坂出陣のようなことがあったときには兵士千人ほどあて預けておき身辺を

  守らせよ。伊予はひところ、というのは荒子城明け渡しのとき余と仲たがいし浪人であったが敵首を取っ

  て帰参した者だ。

  その上内蔵介との取り合い、つまり末森合戦のとき末森城を預けたが良く持ちこたえて忠節をつくした。

  関東陣でも先陣として落ち度なく戦った。豊後は江州金ガ森で佐久間玄蕃(盛政)と一緒に居合わせて

  一番乗りをやり、その上よき首を取り信長公のお目にかけた。大坂大森口合戦のときも余の傍に居てか

  なりの手柄を立てた。

  長篠合戦のときは余の眼前で太刀打ちをし、名のある者の首をとりおった。このことは常々その方へも

  話した。越中佐々内蔵助と合戦のとき、末森後巻の先手をさせ、また越中蓮焼きのときも度々先陣をい

  たし忠節をつくした。別にしてこの者に情をかけられるのは最ものことだ。岡田長右衛門は算用の上手

  な者で身分不相応とは思うが、なじみ深い者だから隠居料として2千石をやっている。ただし貴殿の考え

  でいかようにも取り扱ってよかろう。

  次に青山佐渡に魚津城を預けてあるが、この者は律儀者だから情をかけられてよいと思う。新谷信濃へ

  中川宗半娘つかわすかどうかと娘しょう姫が言っているが、貴殿の考えひとつだ。


右の条々心つきたることであるが口上には後先忘れたこともあるから、書きつけにした。

余が死んだら心持ちをしっかり持ってくれ。

以上。

慶長4年3月21日

  筑前利家

羽柴肥前守殿


羽柴肥前守とはもちろん前田利長のことです。

平生から用心深く緻密で実際に即応した利家の心構えが、そのまま読み取れることができます。

sa-ko 20120724 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解:忍藩
「武蔵三藩」と呼ばれるのは、川越藩、忍藩、岩槻藩で江戸の防衛として重臣が配されていました。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑)>

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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