前田慶次郎 その21 「慶次郎の仲裁」
戦国風流武士「前田慶次郎」その21
「慶次郎の仲裁」
すると、少年のことばが追いかけて来た。
「ちょっとお待ちください。仇はかたきでも普通の仇ではありません。戦場で尋常の勝負をして討ち取った
ものです。戦場の勝負に後に恨みを残すことがありましょうか」
「エッ! 本当でござるか」
「卑怯ないつわりは申しません」
「それなら、また話しが違う」
くるりと向き直り、奥州武士らの前に帰って来た。
「これ、今聞いたことに文句があるか。あるなら聞こう」
相手方は答えなかった。途方にくれたような形だ。
慶次郎は気の毒になり、仲裁しようと思い立った。
「相談がある」
と呼びかけて、一歩進み出た。
「他でもない。こんなばかげた敵討というものがあってしかるべきものではない。戦場の勝負を根に持って
敵討ちなど、土台理屈に合わんじゃないか。ましてや、それに後ろ見じゃの、助太刀じゃのと、とんでもな
いことだ。拙者が仲裁に立つ。中止仲直りということになさらんか。源ノなにがし殿はいささか傷を負われ
て気の毒ではあるが、治療すれば結構なおる傷だ。武士として少しも差し支えはない。いわんや、武士の
向こう傷は誇りとなる飾りだ。がまんして貰いたい。かく申す拙者は、加賀浪人・前田慶次郎利太、加賀
にある頃は5千石取っていた者だ。仲裁人として不足はないと存ずる。私に任せていただきたいのだ」
さ~て、慶次郎の仲裁で納まるのでしょうか。
昨日は北ノ庄に行って、勝家さんに会ってきました。
このミニチュア北ノ庄城は「大河ドラマ お江」で、チョイ流しをしていましたね。

いかちい勝家さんは、いつも怒っています。

この後、福井城に行きましたが「結城秀康さん」が、泣いていました。
次は、慶次郎さんの故郷、金沢城へ
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今日は旅先のため、「戦国クイズ」は、お休みにさせていただきます。
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
「慶次郎の仲裁」
すると、少年のことばが追いかけて来た。
「ちょっとお待ちください。仇はかたきでも普通の仇ではありません。戦場で尋常の勝負をして討ち取った
ものです。戦場の勝負に後に恨みを残すことがありましょうか」
「エッ! 本当でござるか」
「卑怯ないつわりは申しません」
「それなら、また話しが違う」
くるりと向き直り、奥州武士らの前に帰って来た。
「これ、今聞いたことに文句があるか。あるなら聞こう」
相手方は答えなかった。途方にくれたような形だ。
慶次郎は気の毒になり、仲裁しようと思い立った。
「相談がある」
と呼びかけて、一歩進み出た。
「他でもない。こんなばかげた敵討というものがあってしかるべきものではない。戦場の勝負を根に持って
敵討ちなど、土台理屈に合わんじゃないか。ましてや、それに後ろ見じゃの、助太刀じゃのと、とんでもな
いことだ。拙者が仲裁に立つ。中止仲直りということになさらんか。源ノなにがし殿はいささか傷を負われ
て気の毒ではあるが、治療すれば結構なおる傷だ。武士として少しも差し支えはない。いわんや、武士の
向こう傷は誇りとなる飾りだ。がまんして貰いたい。かく申す拙者は、加賀浪人・前田慶次郎利太、加賀
にある頃は5千石取っていた者だ。仲裁人として不足はないと存ずる。私に任せていただきたいのだ」
さ~て、慶次郎の仲裁で納まるのでしょうか。
昨日は北ノ庄に行って、勝家さんに会ってきました。
このミニチュア北ノ庄城は「大河ドラマ お江」で、チョイ流しをしていましたね。

いかちい勝家さんは、いつも怒っています。

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前田慶次郎 その20 「石になった慶次郎」
戦国風流武士 「前田慶次郎」 その20
「石になった慶次郎」
斬り合いのさなか、悠長きわまることだが、やむを得まい。
「我々はもと奥州葛西家の浪人にて、ただ今は伊達の家中のものでござる。一昨年の冬、われらがまだ浪々
の身であった頃、朋輩・二本松権右衛門源実高の兄。権左衛門実義が、その少年に討たれた」
「太閤殿下の朝鮮征伐の下命により、主人・政宗の供をしてこの地に参ったところでござる。神明の加護か、
仏陀の慈悲か、朋輩・二本松権右衛門源実高が当廓において、はからずも仇を見つけ名乗りかけたので
ござるが、相手は若年ながら中々の手練、早業飛ぶがごとき曲者なれば、われら朋輩の義によって後ろ見
せんとしたるところ、おぬしの邪魔によって、権右衛門源実高は、あれ、あの通り早くも手傷・・・」
重く濁った奥州弁ではあるが、淡々と弁じ立てて、くやし涙をハラリはらりと溢す。
誠実で熱心な様子は、嘘偽りはないと思われた。

慶次郎は少年に向って叫びかけた。
「おい若衆殿、貴殿の言い分を聞こう。覚えがござるか」
「覚えがござる!」
こだまが返って来るように、少年は答えた。
ゲェーッ! と言いたいところであった。水を浴びせられたような気持ちであった。
四方八方から、このおさまりを見ている群衆の顔が一時に渦巻いて、この滑稽千万な失敗をあざ笑って
いるのではなおかとすくみ上がった。
しかたない、謝ってしまおうと思った。
「すまん。申し訳ない。拙者の早合点であった。左様な訳であるなら、拙者は引っ込む」
と、頭をさげた。
すたすたと引き返しにかかった。
群衆はどっと笑った。
いくら笑われても、この際いたし方なかった。慶次郎は石になった気持ちで、この嘲笑を受けた。
今日から、福井、石川、富山の北陸の城攻めに出かけてきます。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:沼田城
関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した。
昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」言い出し、そのまま沼田城を訪れが、信之の妻・小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから、武装した姿で対応し城門を開かず追い返したという。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
「石になった慶次郎」
斬り合いのさなか、悠長きわまることだが、やむを得まい。
「我々はもと奥州葛西家の浪人にて、ただ今は伊達の家中のものでござる。一昨年の冬、われらがまだ浪々
の身であった頃、朋輩・二本松権右衛門源実高の兄。権左衛門実義が、その少年に討たれた」
「太閤殿下の朝鮮征伐の下命により、主人・政宗の供をしてこの地に参ったところでござる。神明の加護か、
仏陀の慈悲か、朋輩・二本松権右衛門源実高が当廓において、はからずも仇を見つけ名乗りかけたので
ござるが、相手は若年ながら中々の手練、早業飛ぶがごとき曲者なれば、われら朋輩の義によって後ろ見
せんとしたるところ、おぬしの邪魔によって、権右衛門源実高は、あれ、あの通り早くも手傷・・・」
重く濁った奥州弁ではあるが、淡々と弁じ立てて、くやし涙をハラリはらりと溢す。
誠実で熱心な様子は、嘘偽りはないと思われた。

慶次郎は少年に向って叫びかけた。
「おい若衆殿、貴殿の言い分を聞こう。覚えがござるか」
「覚えがござる!」
こだまが返って来るように、少年は答えた。
ゲェーッ! と言いたいところであった。水を浴びせられたような気持ちであった。
四方八方から、このおさまりを見ている群衆の顔が一時に渦巻いて、この滑稽千万な失敗をあざ笑って
いるのではなおかとすくみ上がった。
しかたない、謝ってしまおうと思った。
「すまん。申し訳ない。拙者の早合点であった。左様な訳であるなら、拙者は引っ込む」
と、頭をさげた。
すたすたと引き返しにかかった。
群衆はどっと笑った。
いくら笑われても、この際いたし方なかった。慶次郎は石になった気持ちで、この嘲笑を受けた。
今日から、福井、石川、富山の北陸の城攻めに出かけてきます。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:沼田城
関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した。
昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」言い出し、そのまま沼田城を訪れが、信之の妻・小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから、武装した姿で対応し城門を開かず追い返したという。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
群馬に甦る 英国の古城
『英国の古城・ロックハート城』
佐久の龍岡城五稜郭を見た後は、ヨーロッパ形式城繋がりということで、群馬県吾妻郡高山村の「ロック
ハート城」に行ってきました。
ロックハート城は、1829年にイギリスで建設され、1987年から1993年にかけて日本へ移築された城館
です。
場所は、日本ロマンチック街道・国道145号線沿いに立地する約10万平方メートルの敷地内には、移築
されたロックハート城や石造りの教会などが中世ヨーロッパの街を再現しております。

この城は、1987年に俳優の津川雅彦さんが、北海道・広尾町に計画していたレジャーランド「夢の王国
サンタ愛ランド」の中核施設とすべく、私費でロックハート城を購入し、シベリア鉄道と貨物船で英国から
日本へ運んで来たそうです。
ところが、資金計画を巡って対立した町側から、レジャーランド計画の受け入れを拒否されたため、沼田市
の石屋さんが宙に浮いていたロックハート城を買い取り、高山村に建設していたテーマパーク「大理石村」
内で復元したそうです。

築城は、1993年4月6日に完了して、高さが塔部で20m、幅31.3m、奥行き22.3m、建築面積1361㎡
あります。

首都圏に近いヨーロッパの古城がある観光施設として口コミで広まり、ドラマやバラエティー番組、ミュー
ジック・ビデオなどで利用されているそうです。


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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
前回の正解:慶喜
徳川宗家はたびたび実嗣子を欠き、近親の分家や家康の子を祖とする御三家から養子を迎えて家系をつなぐことが少なくなかった。
15代将軍のうち、正室から生れたのは3代将軍家光と15代将軍慶喜の2人だけです。
≪本日の問題≫
佐久の龍岡城五稜郭を見た後は、ヨーロッパ形式城繋がりということで、群馬県吾妻郡高山村の「ロック
ハート城」に行ってきました。
ロックハート城は、1829年にイギリスで建設され、1987年から1993年にかけて日本へ移築された城館
です。
場所は、日本ロマンチック街道・国道145号線沿いに立地する約10万平方メートルの敷地内には、移築
されたロックハート城や石造りの教会などが中世ヨーロッパの街を再現しております。

この城は、1987年に俳優の津川雅彦さんが、北海道・広尾町に計画していたレジャーランド「夢の王国
サンタ愛ランド」の中核施設とすべく、私費でロックハート城を購入し、シベリア鉄道と貨物船で英国から
日本へ運んで来たそうです。
ところが、資金計画を巡って対立した町側から、レジャーランド計画の受け入れを拒否されたため、沼田市
の石屋さんが宙に浮いていたロックハート城を買い取り、高山村に建設していたテーマパーク「大理石村」
内で復元したそうです。

築城は、1993年4月6日に完了して、高さが塔部で20m、幅31.3m、奥行き22.3m、建築面積1361㎡
あります。


首都圏に近いヨーロッパの古城がある観光施設として口コミで広まり、ドラマやバラエティー番組、ミュー
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≪前回の解答≫
前回の正解:慶喜
徳川宗家はたびたび実嗣子を欠き、近親の分家や家康の子を祖とする御三家から養子を迎えて家系をつなぐことが少なくなかった。
15代将軍のうち、正室から生れたのは3代将軍家光と15代将軍慶喜の2人だけです。
≪本日の問題≫
信州の五稜郭
『龍岡城五稜郭』
龍岡城は、「みゅったさん」のブログを見るまで全くその存在を知りませんでしたので、拝見後、行って見た
いと思っていましたが、3年を経過し8月24日にやっと実現しました。
龍岡城(Wikより)
*写真の番号は、当日に撮った位置になります。


五稜郭は函館とともに日本に2つしかない五つの稜が星形に突き出た擬洋式城郭です。
函館の五稜郭に3年遅れ、1867年に藩主松平乗謨(のりかた)によって築かれています。
五稜郭は、実戦上、きわめて優れた城郭で、敵からの死角をなくすことができるという、守るに易く攻めるに
難しい構造をもっていました。
①大手門

②、③ 大手門の左右の堀

④

⑤

⑥

城内には藩主宅邸や政庁などが設けられ凹面に門を配置、大手門は枡形にするなどの工夫が見られる
一方で、資金が少なく、短期間で明治維新を向かえたこともあり、土塁も低く、堀は全面に水を満たせず砲
台も西方に一基しか設ける事が出来なかったなど実戦的な完成までは至りません。
城全体の大きさは長軸200mほどと、面積こそは五稜郭の4分の1程度でしかないし、石垣も低く、堀幅も
狭いですが、形態はまさに五稜郭そのものです。
堀は全周していなく、これは埋められたというよりも、もともと完成しなかったようです。
⑦御台所櫓

廃城後、城内のほとんどが農地転用され、御台所櫓は、農機具倉庫として使用後、地元有志によって小学校
設立の際、校舎として活用され、築城当時と反対方向に移築されています。
日本に2つしかない西洋式城郭ですから、もう少し整備をされて観光用にされたら如何でしょうか。と佐久市
に提案したい気持ちで、龍岡城を後にしました。
「気温26度で夏ゴルフ」
佐久市は、軽井沢の至近距離です。
いざ、軽井沢へと
軽井沢は、人が多いし、気温29度。 それならと左折し

鬼押ハイウェーで、さらに上昇

浅間山を見上げ、嬬恋村を見下ろし、26度の世界で一日快適に遊ぶことができました。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:小牧・長久手の戦
小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。
秀吉と家康・信雄の双方は和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子としています。
≪本日の問題≫
龍岡城は、「みゅったさん」のブログを見るまで全くその存在を知りませんでしたので、拝見後、行って見た
いと思っていましたが、3年を経過し8月24日にやっと実現しました。
龍岡城(Wikより)
*写真の番号は、当日に撮った位置になります。


五稜郭は函館とともに日本に2つしかない五つの稜が星形に突き出た擬洋式城郭です。
函館の五稜郭に3年遅れ、1867年に藩主松平乗謨(のりかた)によって築かれています。
五稜郭は、実戦上、きわめて優れた城郭で、敵からの死角をなくすことができるという、守るに易く攻めるに
難しい構造をもっていました。
①大手門

②、③ 大手門の左右の堀


④

⑤

⑥

城内には藩主宅邸や政庁などが設けられ凹面に門を配置、大手門は枡形にするなどの工夫が見られる
一方で、資金が少なく、短期間で明治維新を向かえたこともあり、土塁も低く、堀は全面に水を満たせず砲
台も西方に一基しか設ける事が出来なかったなど実戦的な完成までは至りません。
城全体の大きさは長軸200mほどと、面積こそは五稜郭の4分の1程度でしかないし、石垣も低く、堀幅も
狭いですが、形態はまさに五稜郭そのものです。
堀は全周していなく、これは埋められたというよりも、もともと完成しなかったようです。
⑦御台所櫓

廃城後、城内のほとんどが農地転用され、御台所櫓は、農機具倉庫として使用後、地元有志によって小学校
設立の際、校舎として活用され、築城当時と反対方向に移築されています。
日本に2つしかない西洋式城郭ですから、もう少し整備をされて観光用にされたら如何でしょうか。と佐久市
に提案したい気持ちで、龍岡城を後にしました。
「気温26度で夏ゴルフ」
佐久市は、軽井沢の至近距離です。
いざ、軽井沢へと
軽井沢は、人が多いし、気温29度。 それならと左折し

鬼押ハイウェーで、さらに上昇

浅間山を見上げ、嬬恋村を見下ろし、26度の世界で一日快適に遊ぶことができました。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解:小牧・長久手の戦
小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。
秀吉と家康・信雄の双方は和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子としています。
≪本日の問題≫
武者としての心得とは?
『武者としての心得とはいったいどんなもの?』
武者としての心得、つまり合戦に当たって槍一筋を携え馬にも乗らず、従者も連れず、体ひとつで突撃に
あたって功名を競う武者たちの心得こそ、戦国時代を生きた無数の男達の姿を彷彿させるものでしょう。
彼ら下級の武者は、端武者、葉武者、羽武者とも呼ばれ、雑兵ではあるが先手の足軽衆よりは格上とさ
れた者でした。
彼らは、まず何よりも身命を軽んじることを第一とし、次に命令を破ってはならない、と説かれている。
これは、いまだ戦機が熟さぬのに血気にはやって、自分の功名を求めて勝手に暴走することを戒めたも
のです。こういう抜け駆けは、しばしば全軍を危険に陥れたり、合戦の駆け引きを狂わせてしまう。
しかし、ひとたび突撃の下知がくだれば、真っ先駆けて一番槍、一番首、陣取り組み打ち分捕りに獅子
奮迅の働きをなし、命を惜しまず戦い続けるのが、端武者の本分とされた。
もうひとつは、一軍の将、あるいは武将、大名としての心得です。
こいった心得は、武将の父から子へ家長から一族、家臣へ残された数多くの教訓状、家訓、遺訓となって
残されています。
徳川家康(1543-1616年)

戦いを起すのはよくよくのことであり、自分自身や自らの一族、多くの家臣や家臣の一族、領国の民百姓、
さらに敵国の中まで責任を負うのだから、そうみだりに兵は動かせない筈です。それを忘れ、版図拡大に
熱中し、かえって自分の身や国を滅ぼした例は数かぎりない。
こういう将たる人物の器を備えていたのは、長い日本の歴史でもそんなに多くはない。主だったところでは、
源頼朝、足利尊氏、武田信玄、徳川家康などでしょう。
こういった将器を持った武将の下では、たとえ逆賊の汚名を着ても部下は生死を共にし、身代わりとなって
討ち死にするものです。
まず、武将たる者の心得として、第一に挙げられるものは、それぞれの人物を見る目を養い、家柄ではな
く、本人の実力や器量、得手不得手によって、適材を適所に配置すること。そして賞罰を正確、公正にし、
ときとしては慈悲をかけることも必要です。
また領民の暮らしや国内の状態にも絶えず配慮し、有能正直な家臣に領国内を巡視させ、人々の不満や
訴えを聞く。
また、武将が自ら身をやつして直接領国内を歩き回り、役人の不正があれば正しく刑罰に処すなど、下意
上達を心がける。
また合戦に当たっては、敵の強さや弱点、敵の行動パターン、峠や大きな河といった地理上の特徴、経済
の様子など、さまざまな情報を味方に徹底させておく。
こうしておけば、往々にして不足の事態が起きる実際の作戦にあたっても、個々の軍勢が状況に応じて柔
軟に対応することができます。
勝敗では六分か七分の勝で十分とし、八分の勝ちは危うく九分、十分の大勝利は、かえって味方が大敗を
喫する下地である。という。
このように勝ち過ぎないように心がけるのは、将来良い結果を招かないことを、器の大きい武将は体験から
知っていたのです。
長野・龍岡城に行ってきました。別途、記事にしたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:本多忠刻
千姫は、1616年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚しています。
翌年には、本多家が播磨姫路に移封になり、姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになっています。
1618年には長女・勝姫、1619年には長男・幸千代が生まれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
武者としての心得、つまり合戦に当たって槍一筋を携え馬にも乗らず、従者も連れず、体ひとつで突撃に
あたって功名を競う武者たちの心得こそ、戦国時代を生きた無数の男達の姿を彷彿させるものでしょう。
彼ら下級の武者は、端武者、葉武者、羽武者とも呼ばれ、雑兵ではあるが先手の足軽衆よりは格上とさ
れた者でした。
彼らは、まず何よりも身命を軽んじることを第一とし、次に命令を破ってはならない、と説かれている。
これは、いまだ戦機が熟さぬのに血気にはやって、自分の功名を求めて勝手に暴走することを戒めたも
のです。こういう抜け駆けは、しばしば全軍を危険に陥れたり、合戦の駆け引きを狂わせてしまう。
しかし、ひとたび突撃の下知がくだれば、真っ先駆けて一番槍、一番首、陣取り組み打ち分捕りに獅子
奮迅の働きをなし、命を惜しまず戦い続けるのが、端武者の本分とされた。
もうひとつは、一軍の将、あるいは武将、大名としての心得です。
こいった心得は、武将の父から子へ家長から一族、家臣へ残された数多くの教訓状、家訓、遺訓となって
残されています。
徳川家康(1543-1616年)

戦いを起すのはよくよくのことであり、自分自身や自らの一族、多くの家臣や家臣の一族、領国の民百姓、
さらに敵国の中まで責任を負うのだから、そうみだりに兵は動かせない筈です。それを忘れ、版図拡大に
熱中し、かえって自分の身や国を滅ぼした例は数かぎりない。
こういう将たる人物の器を備えていたのは、長い日本の歴史でもそんなに多くはない。主だったところでは、
源頼朝、足利尊氏、武田信玄、徳川家康などでしょう。
こういった将器を持った武将の下では、たとえ逆賊の汚名を着ても部下は生死を共にし、身代わりとなって
討ち死にするものです。
まず、武将たる者の心得として、第一に挙げられるものは、それぞれの人物を見る目を養い、家柄ではな
く、本人の実力や器量、得手不得手によって、適材を適所に配置すること。そして賞罰を正確、公正にし、
ときとしては慈悲をかけることも必要です。
また領民の暮らしや国内の状態にも絶えず配慮し、有能正直な家臣に領国内を巡視させ、人々の不満や
訴えを聞く。
また、武将が自ら身をやつして直接領国内を歩き回り、役人の不正があれば正しく刑罰に処すなど、下意
上達を心がける。
また合戦に当たっては、敵の強さや弱点、敵の行動パターン、峠や大きな河といった地理上の特徴、経済
の様子など、さまざまな情報を味方に徹底させておく。
こうしておけば、往々にして不足の事態が起きる実際の作戦にあたっても、個々の軍勢が状況に応じて柔
軟に対応することができます。
勝敗では六分か七分の勝で十分とし、八分の勝ちは危うく九分、十分の大勝利は、かえって味方が大敗を
喫する下地である。という。
このように勝ち過ぎないように心がけるのは、将来良い結果を招かないことを、器の大きい武将は体験から
知っていたのです。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:本多忠刻
千姫は、1616年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚しています。
翌年には、本多家が播磨姫路に移封になり、姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになっています。
1618年には長女・勝姫、1619年には長男・幸千代が生まれています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
戦国時代 その時、妻は?
『夫が戦闘中、武士の妻は何をしていた?』
戦国時代の妻というと“自分の意思にそぐわない政略結婚をさせられた不幸な存在”と一般的には考えら
れます。
確かに戦国時代のこと、ライバルの妹や娘を妻に迎えるのは、人質として最適であったのでしょう。
斎藤道三の娘で信長の妻となった濃姫や、浅井長政の妻となり、その後柴田勝家に嫁入りした信長の妹
のお市の方、豊臣秀頼のもとへ嫁いだ家康の孫娘・千姫など数多い。
政治の道具代わりに使われていたことから考えても、戦国時代の女性はさぞ地位が低かったと思いがち
ですが、決してそうではなかったようです。
妻の権利は色々と保障されていて、大名の妻たちが後家になった場合などは、子供への財産分与が確
定した際に、後家にも一定の財産が配分された。また、まだ小さな子供が跡を継いだ場合には、後家は
“大方どの”と呼ばれ重要な後見人となっていました。
千姫(1597-1666年)

では、日常の生活はというと
武家の妻に求められたことは“内を治める”こと、つまり家内の管理だった。
それは食事の準備、被服の生産など、家族だけでなく家臣の生活にも気を配ることであったが、さらに
大切なのは子供の教育だった。
毛利元就を例にとると、
元就は、まだ子供たちが幼いころに妻・妙玖を失ったが、隆元、元春、隆景の3人の子供たちにあてた
教訓状には、自分ではなく妙玖の言葉として「3人の男子の間に仲たがいがあってはならない。毛利の
苗字がすたらないように心がけるべきだ」と繰返し述べられている。
この教訓状が書かれたのは、妙玖の死後12年も経ってからですが、よほど妙玖の言葉には影響力が
あったのでしょう。この例からもわかるように、当時の教育にとって母親の果たす役割は非常に大きかっ
たのです。
夫が戦いなどで不在の場合には、財産の分配や将来に渡る家の継承など、本来は夫のもつ家父長権
に属するようなことも、その代行として妻が行っていたようです。
そもそも戦国時代は、いつ夫が戦で亡くなるかも判らない世です。このような背景であったからこそ、政
略結婚などとは相反するような、夫と妻の平等な権利を持つ必要があったのでしょう。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:聚楽第
聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年2月に着工され、翌1587年9月に完成しています。
九州征伐を終えた秀吉が、大坂より移りここで政務をみた。1588年5月9日には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応しています。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
戦国時代の妻というと“自分の意思にそぐわない政略結婚をさせられた不幸な存在”と一般的には考えら
れます。
確かに戦国時代のこと、ライバルの妹や娘を妻に迎えるのは、人質として最適であったのでしょう。
斎藤道三の娘で信長の妻となった濃姫や、浅井長政の妻となり、その後柴田勝家に嫁入りした信長の妹
のお市の方、豊臣秀頼のもとへ嫁いだ家康の孫娘・千姫など数多い。
政治の道具代わりに使われていたことから考えても、戦国時代の女性はさぞ地位が低かったと思いがち
ですが、決してそうではなかったようです。
妻の権利は色々と保障されていて、大名の妻たちが後家になった場合などは、子供への財産分与が確
定した際に、後家にも一定の財産が配分された。また、まだ小さな子供が跡を継いだ場合には、後家は
“大方どの”と呼ばれ重要な後見人となっていました。
千姫(1597-1666年)

では、日常の生活はというと
武家の妻に求められたことは“内を治める”こと、つまり家内の管理だった。
それは食事の準備、被服の生産など、家族だけでなく家臣の生活にも気を配ることであったが、さらに
大切なのは子供の教育だった。
毛利元就を例にとると、
元就は、まだ子供たちが幼いころに妻・妙玖を失ったが、隆元、元春、隆景の3人の子供たちにあてた
教訓状には、自分ではなく妙玖の言葉として「3人の男子の間に仲たがいがあってはならない。毛利の
苗字がすたらないように心がけるべきだ」と繰返し述べられている。
この教訓状が書かれたのは、妙玖の死後12年も経ってからですが、よほど妙玖の言葉には影響力が
あったのでしょう。この例からもわかるように、当時の教育にとって母親の果たす役割は非常に大きかっ
たのです。
夫が戦いなどで不在の場合には、財産の分配や将来に渡る家の継承など、本来は夫のもつ家父長権
に属するようなことも、その代行として妻が行っていたようです。
そもそも戦国時代は、いつ夫が戦で亡くなるかも判らない世です。このような背景であったからこそ、政
略結婚などとは相反するような、夫と妻の平等な権利を持つ必要があったのでしょう。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:聚楽第
聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年2月に着工され、翌1587年9月に完成しています。
九州征伐を終えた秀吉が、大坂より移りここで政務をみた。1588年5月9日には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応しています。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>
前田慶次郎 その19 「慶次郎の勘違い」
戦国風流武士 「前田慶次郎」 その19
「慶次郎の勘違い」
慶次郎の剣術は師伝による組織だったものではない。千軍万馬を往来している間に自然に身についたもの
であった。
「そら! 行くぞ!」
と叫んだ時には、まっしぐらに敵中に駆け込んでいた。
相手方は、騒ぎ、うろたえながら抜刀し、口々に騒ぎわめいた。
“ちごう、ちごう、思い違いするな!”と言っているようであった。
それを慶次郎はこちらの勇気をたわませる計略と思って、一層の怒りに燃え立った。
「見損うな、田舎者ども! その手にのるか!」
と怒鳴りつけ、少年に
「そこの若衆殿、このがらくたどもは拙者が全部引き受けた。心おきなく戦って、早々に本懐をとげられい!」
と呼びかけつつ、一層の激しさで斬り立てていった。
「心得ました!」
少年は叫び返す。
ゆる~い慶次郎

一方、多勢の方は、阿修羅のように荒れに荒れて斬り込む慶次郎の鋭い刀法をあしらいかねて追いつめら
れた武士どもは、必死の声をふりしぼり叫んだ。
「思い違いさっしゃるな! これ、違うつうに! かたきは、かたきは 向こうなんじゃつうに! 少、少、
少年の方が、仇なのじゃ!」
「なにを、たわごと!」
耳にもかけず、慶次郎は荒れくるっていたが、ふと心にからむものがあった。
“おかしなことを聞いたぞ、たしか少年の方が仇と言ったようであったな”と思った。
信ずる気は毛頭なかった。どこまで卑怯なやつらだと腹が立った。
しかし、相手が最初から“誤解するな”とか“違うのだ”とか、言い続けてきたことも思い出された。
“こりゃア、聞き流しに出来ん。万一にもそうだとすれば、とんでもない間違いだぞ。おれは滑稽千万なこと
をしていることになる。一応、確かめてみる必要がある”
心が決まると、ためらいはない慶次郎だ。さっと飛び退いて問いかけた。
「おい、今言っていることをもう一度言ってみてくれい!」
「仇は向こうじゃつうのじゃ。少年のほうじゃと申しますだ」
「そこのところをもう少し詳しく聞きたい」

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≪昨日の解答≫
昨日の正解:前田利家
織田信長と森蘭丸の関係は著名(男色の関係にあったかどうかは疑問視する意見もある)ですが、信長の場合、確実とされるのは資料に男色の関係にあったと記述のある前田利家だけだそうです。(資料:加賀藩の資料『亜相公御夜話』)
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
「慶次郎の勘違い」
慶次郎の剣術は師伝による組織だったものではない。千軍万馬を往来している間に自然に身についたもの
であった。
「そら! 行くぞ!」
と叫んだ時には、まっしぐらに敵中に駆け込んでいた。
相手方は、騒ぎ、うろたえながら抜刀し、口々に騒ぎわめいた。
“ちごう、ちごう、思い違いするな!”と言っているようであった。
それを慶次郎はこちらの勇気をたわませる計略と思って、一層の怒りに燃え立った。
「見損うな、田舎者ども! その手にのるか!」
と怒鳴りつけ、少年に
「そこの若衆殿、このがらくたどもは拙者が全部引き受けた。心おきなく戦って、早々に本懐をとげられい!」
と呼びかけつつ、一層の激しさで斬り立てていった。
「心得ました!」
少年は叫び返す。
ゆる~い慶次郎

一方、多勢の方は、阿修羅のように荒れに荒れて斬り込む慶次郎の鋭い刀法をあしらいかねて追いつめら
れた武士どもは、必死の声をふりしぼり叫んだ。
「思い違いさっしゃるな! これ、違うつうに! かたきは、かたきは 向こうなんじゃつうに! 少、少、
少年の方が、仇なのじゃ!」
「なにを、たわごと!」
耳にもかけず、慶次郎は荒れくるっていたが、ふと心にからむものがあった。
“おかしなことを聞いたぞ、たしか少年の方が仇と言ったようであったな”と思った。
信ずる気は毛頭なかった。どこまで卑怯なやつらだと腹が立った。
しかし、相手が最初から“誤解するな”とか“違うのだ”とか、言い続けてきたことも思い出された。
“こりゃア、聞き流しに出来ん。万一にもそうだとすれば、とんでもない間違いだぞ。おれは滑稽千万なこと
をしていることになる。一応、確かめてみる必要がある”
心が決まると、ためらいはない慶次郎だ。さっと飛び退いて問いかけた。
「おい、今言っていることをもう一度言ってみてくれい!」
「仇は向こうじゃつうのじゃ。少年のほうじゃと申しますだ」
「そこのところをもう少し詳しく聞きたい」

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≪昨日の解答≫
昨日の正解:前田利家
織田信長と森蘭丸の関係は著名(男色の関係にあったかどうかは疑問視する意見もある)ですが、信長の場合、確実とされるのは資料に男色の関係にあったと記述のある前田利家だけだそうです。(資料:加賀藩の資料『亜相公御夜話』)
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>