越中の要衝 「富山城」
『 さらさら越えの佐々成政の居城・富山城 』
富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中の要衝であり、富山城は16世紀中ごろ越中東部への進出を
図る神保長職により築かれたとされますが、さらに古いという説もあります。
当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行し、その南岸に富山城を築き、神通川の流れを城の防御に
利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」とも呼ばれていました。

1582年3月、神保氏は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主とな
ったのが佐々成政です。
富山城に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行ったが、本能寺の変の後、豊臣秀吉から離れた
佐々成政は、1585年8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却さ
れます。
この時、成政は真冬の北アルプス越えを断行し、浜松の家康に助けを求めています。(さらさら越え)
この後、前田家に越中一国が与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、
1609年に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣が城代として入
っています。
築城の当初の計画では、天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で幕府の修築許可を
得ていたが、その後の江戸時代の古図にはいずれも天守の記載がなく、また発掘調査の結果からも本丸
南東隅に天守土台となる土居の拡張工事は認められるものの石垣工事の痕跡はないため、天守は築かれ
なかったそうです。
青空に映える模擬天守 (登城日:平成24年9月1日)

現在、城内にある模擬天守は、昭和29年に戦災復興事業の完了を機に開催された、富山産業大博覧会の
記念建築物として建設されています。
また、本来の富山城の石垣は、主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成
と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっています。
この城跡は「富山城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっていますので、歴史的遺産という見方を
しないのであれば、十分な価値があるのだろうと感じながら巡っていました。
千葉城の場合も言われていますが、子供たちにはチャントと説明することが大事なのでしょね。




昨夜、浅草寺とスカイツリーのコラボ撮影に行ってきました。
明日、記事にしたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:優れた武者
武辺者とは優れた武者を指す言葉ですから、大をつければ自分がこの軍の中で一番優れていると言っているようなものです。
≪本日の問題≫
富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中の要衝であり、富山城は16世紀中ごろ越中東部への進出を
図る神保長職により築かれたとされますが、さらに古いという説もあります。
当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行し、その南岸に富山城を築き、神通川の流れを城の防御に
利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」とも呼ばれていました。

1582年3月、神保氏は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主とな
ったのが佐々成政です。
富山城に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行ったが、本能寺の変の後、豊臣秀吉から離れた
佐々成政は、1585年8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却さ
れます。
この時、成政は真冬の北アルプス越えを断行し、浜松の家康に助けを求めています。(さらさら越え)
この後、前田家に越中一国が与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、
1609年に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣が城代として入
っています。
築城の当初の計画では、天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で幕府の修築許可を
得ていたが、その後の江戸時代の古図にはいずれも天守の記載がなく、また発掘調査の結果からも本丸
南東隅に天守土台となる土居の拡張工事は認められるものの石垣工事の痕跡はないため、天守は築かれ
なかったそうです。
青空に映える模擬天守 (登城日:平成24年9月1日)


現在、城内にある模擬天守は、昭和29年に戦災復興事業の完了を機に開催された、富山産業大博覧会の
記念建築物として建設されています。
また、本来の富山城の石垣は、主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成
と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっています。
この城跡は「富山城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっていますので、歴史的遺産という見方を
しないのであれば、十分な価値があるのだろうと感じながら巡っていました。
千葉城の場合も言われていますが、子供たちにはチャントと説明することが大事なのでしょね。







昨夜、浅草寺とスカイツリーのコラボ撮影に行ってきました。
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昨日の正解:優れた武者
武辺者とは優れた武者を指す言葉ですから、大をつければ自分がこの軍の中で一番優れていると言っているようなものです。
≪本日の問題≫
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前田慶次郎 その40 「自由自在な舌頭」
戦国風流武士 「前田慶次郎」 その40
『慶次郎の自由自在な舌頭』」
相手方は一層腹を立てたが、腹は立っても、挨拶された以上、答礼はしなければならない。
「ご同慶でござる」
とぶっきらぼうに言っておいて、
「これは別の話しじゃ。貴殿は当家上杉家をいかなるお家と心得ておられるのだ」
「はて、こと新しきお尋ねでござるな。本姓は長尾、当時景虎と仰せられていた不識庵公が関東官領上杉憲
政公より御苗字と官領職を譲り受けられて上杉となられた。不識庵公は男猛絶倫、軍神毘沙門天の御再来
として、諸人の讃仰浅からず、御家中にその御手塩にかけられた勇士猛卒雲の如く、天下御当家を仰いで
武士の花の本と申していまする。ならびなき武道名誉のお家柄でござるて」
長々と講釈口調だ。

相手はいらだった。
「ええい!それほど知りながら、貴殿のその“さしもの”の文字はなんだ!」
と、怒鳴り立てると、口々に叫ぶ。
「大武辺者とは、舌長な!」
「人もなげる“さしもの”!」
「早速引き込められよ!」
「ぐずぐず申されなば、踏み折って捨てますぞ」
「貴殿ひとりに、特に大武辺者などと書いた“さしもの”をさせては、我々は武辺者でないかの如く見えて、
誠に快くないのだ!」
慶次郎はニコリと笑った。
「大ちがい、大ちがい。それはとんでもない違いだ。拙者は長らくの浪人暮らしで誠に貧窮だ。また、妻も
いなく孤独の身の上。かれこれ不便この上もない。それで、かく“さしもの”に書いた次第」
「大不便者じゃと?」
あっけにとられると、慶次郎はすまして頷く。
「ああ、大不便者」
またやられた、勇士らはげんなりとしたが、しゃくにさわってならない。
「紛らわしい書きようはやめさっしゃい。間違いなく読めるよう、“へ”の字に濁りを打たっしゃい」
と言うと、慶次郎は、また笑って
「これこれ、そのような故実をわきまえんことを言ってはならん。すべて仮名文字はそのまま記し、読む人が
意味をくんで、濁るべきは濁って読むことに、古来書道ではなっている。それについて、面白い話がある。
さる無学の町人が堂上家に参ったところ、和歌一首したためた短冊を賜った。その下の句に“霞ぞ野べの
にほひなりけり”とあったところ、町人は“粕味噌の屁の臭ひなりけり”と読んだので、大笑いになったとい
う話。その町人は恥じ入るばかりで、各々方のように濁るべきには濁点を付けよなどとは申さなんだ。
名誉ある上杉家の勇士ともあろう者が、さような故実をわきまえぬことを・・・」
自由自在な舌頭にかけられて、勇士らは一人去り、二人去り、ついにひとりもいなくなったという。
慶次郎さん嫌われ者のようですが、友人はいたのでしょうか?

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≪昨日の解答≫
昨日の正解:197cm
漫画『花の慶次』で「身の丈197cmの大柄の武士」として描かれてから、体格の良い大男として描かれる事の多い慶次郎ですが、実際には身長に関する記述は存在していません。
慶次郎所有のものと思われる現存の甲冑も、他の武将の甲冑と比べて特別大きさは変わらないそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
『慶次郎の自由自在な舌頭』」
相手方は一層腹を立てたが、腹は立っても、挨拶された以上、答礼はしなければならない。
「ご同慶でござる」
とぶっきらぼうに言っておいて、
「これは別の話しじゃ。貴殿は当家上杉家をいかなるお家と心得ておられるのだ」
「はて、こと新しきお尋ねでござるな。本姓は長尾、当時景虎と仰せられていた不識庵公が関東官領上杉憲
政公より御苗字と官領職を譲り受けられて上杉となられた。不識庵公は男猛絶倫、軍神毘沙門天の御再来
として、諸人の讃仰浅からず、御家中にその御手塩にかけられた勇士猛卒雲の如く、天下御当家を仰いで
武士の花の本と申していまする。ならびなき武道名誉のお家柄でござるて」
長々と講釈口調だ。

相手はいらだった。
「ええい!それほど知りながら、貴殿のその“さしもの”の文字はなんだ!」
と、怒鳴り立てると、口々に叫ぶ。
「大武辺者とは、舌長な!」
「人もなげる“さしもの”!」
「早速引き込められよ!」
「ぐずぐず申されなば、踏み折って捨てますぞ」
「貴殿ひとりに、特に大武辺者などと書いた“さしもの”をさせては、我々は武辺者でないかの如く見えて、
誠に快くないのだ!」
慶次郎はニコリと笑った。
「大ちがい、大ちがい。それはとんでもない違いだ。拙者は長らくの浪人暮らしで誠に貧窮だ。また、妻も
いなく孤独の身の上。かれこれ不便この上もない。それで、かく“さしもの”に書いた次第」
「大不便者じゃと?」
あっけにとられると、慶次郎はすまして頷く。
「ああ、大不便者」
またやられた、勇士らはげんなりとしたが、しゃくにさわってならない。
「紛らわしい書きようはやめさっしゃい。間違いなく読めるよう、“へ”の字に濁りを打たっしゃい」
と言うと、慶次郎は、また笑って
「これこれ、そのような故実をわきまえんことを言ってはならん。すべて仮名文字はそのまま記し、読む人が
意味をくんで、濁るべきは濁って読むことに、古来書道ではなっている。それについて、面白い話がある。
さる無学の町人が堂上家に参ったところ、和歌一首したためた短冊を賜った。その下の句に“霞ぞ野べの
にほひなりけり”とあったところ、町人は“粕味噌の屁の臭ひなりけり”と読んだので、大笑いになったとい
う話。その町人は恥じ入るばかりで、各々方のように濁るべきには濁点を付けよなどとは申さなんだ。
名誉ある上杉家の勇士ともあろう者が、さような故実をわきまえぬことを・・・」
自由自在な舌頭にかけられて、勇士らは一人去り、二人去り、ついにひとりもいなくなったという。
慶次郎さん嫌われ者のようですが、友人はいたのでしょうか?

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≪昨日の解答≫
昨日の正解:197cm
漫画『花の慶次』で「身の丈197cmの大柄の武士」として描かれてから、体格の良い大男として描かれる事の多い慶次郎ですが、実際には身長に関する記述は存在していません。
慶次郎所有のものと思われる現存の甲冑も、他の武将の甲冑と比べて特別大きさは変わらないそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
前田慶次郎 その39 「大ふへんもの」
戦国風流武士 「前田慶次郎」 その39
『大ふへんもの』
慶次郎は、革籠ケ原への出陣に直江兼続の組に編入されたが、その出で立ちが見ものであった。
黒の具足に猿の皮で作った投頭巾をかぶり、背に金で引両筋を縫いつけ、猩々緋の広袖の陣羽織を着、金
のひょうたんを止めてつけた金の数珠を、右の肩から左の腰にかけ流し、皆朱の槍を携え、背に白しない四
半のさしものを差し、自慢の駿馬・松風にまたがるという異装であったが、その松風がまた普通ではない。
たてがみは野髪のままにして、ひたいに銀の山伏ときんをかぶらせ、朝鮮しりがいをかけていた。
馬は墨のごとき黒馬であったが、これには梨地の鞍をおき、鞍壺に鉄砲2挺をつけ、さんずに緞子の袋に糧
米干味噌を入れて“おむすび”をつけていた。
直江の組には、新たに召しかかえられた高名な浪人武者や、上杉家の譜代の臣でもクセのある荒っぽい者
を集めているが、その連中の一人が、ふと慶次郎の“さしもの”に目を付けて顔色を変えた。

「おい。ちょっと見い。前田の“さしもの”だ。何と書いてあるか俺の目には、“大ふへんもの”と書いてあるよう
に見えるが」
「なにっ?」
言われた男は、慶次郎の白四半の“さしもの”を凝視した。
“四半”とは、横66cm、縦99cmの旗、“しない”というのは旗竿のことです。
縦に一行で筆太に確かに「大ふへんもの」と書かれている。
「けしからん!」
「人もなげなるふるまい」
「不識庵謙信公以来、天下の人に武士の花の本(もと)と言われている当家家中において、“大武辺者”とは
何たる“さしもの”。黙ってはおれんぞ!」
「そうとも、踏み折って捨ててくれべい!」
一同顔色を変え、馬をあおって、慶次郎のところに駆けつけ取り巻いた。
「前田殿!」
と一人がいう。
「やあ、これはお揃いで。本日は天気も快晴、そよそよと吹く風もあって暑からず、誠によき出陣日和で、ご
同慶に存ずる」
慶次郎には、この連中がなぜこんなに血相を変えて来たのかよく分っている。愛嬌よく笑って迎えた。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:黒田孝高
黒田長政の父は、豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)です。黒田父子は、九州征伐の功績で中津の大名となり、文禄・慶長の役などでも活躍しています。
特に関ヶ原の戦いで大きな武功を挙げたことから、筑前名島に52万3,000石を与えられ、福岡藩初代藩主になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
『大ふへんもの』
慶次郎は、革籠ケ原への出陣に直江兼続の組に編入されたが、その出で立ちが見ものであった。
黒の具足に猿の皮で作った投頭巾をかぶり、背に金で引両筋を縫いつけ、猩々緋の広袖の陣羽織を着、金
のひょうたんを止めてつけた金の数珠を、右の肩から左の腰にかけ流し、皆朱の槍を携え、背に白しない四
半のさしものを差し、自慢の駿馬・松風にまたがるという異装であったが、その松風がまた普通ではない。
たてがみは野髪のままにして、ひたいに銀の山伏ときんをかぶらせ、朝鮮しりがいをかけていた。
馬は墨のごとき黒馬であったが、これには梨地の鞍をおき、鞍壺に鉄砲2挺をつけ、さんずに緞子の袋に糧
米干味噌を入れて“おむすび”をつけていた。
直江の組には、新たに召しかかえられた高名な浪人武者や、上杉家の譜代の臣でもクセのある荒っぽい者
を集めているが、その連中の一人が、ふと慶次郎の“さしもの”に目を付けて顔色を変えた。

「おい。ちょっと見い。前田の“さしもの”だ。何と書いてあるか俺の目には、“大ふへんもの”と書いてあるよう
に見えるが」
「なにっ?」
言われた男は、慶次郎の白四半の“さしもの”を凝視した。
“四半”とは、横66cm、縦99cmの旗、“しない”というのは旗竿のことです。
縦に一行で筆太に確かに「大ふへんもの」と書かれている。
「けしからん!」
「人もなげなるふるまい」
「不識庵謙信公以来、天下の人に武士の花の本(もと)と言われている当家家中において、“大武辺者”とは
何たる“さしもの”。黙ってはおれんぞ!」
「そうとも、踏み折って捨ててくれべい!」
一同顔色を変え、馬をあおって、慶次郎のところに駆けつけ取り巻いた。
「前田殿!」
と一人がいう。
「やあ、これはお揃いで。本日は天気も快晴、そよそよと吹く風もあって暑からず、誠によき出陣日和で、ご
同慶に存ずる」
慶次郎には、この連中がなぜこんなに血相を変えて来たのかよく分っている。愛嬌よく笑って迎えた。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:黒田孝高
黒田長政の父は、豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)です。黒田父子は、九州征伐の功績で中津の大名となり、文禄・慶長の役などでも活躍しています。
特に関ヶ原の戦いで大きな武功を挙げたことから、筑前名島に52万3,000石を与えられ、福岡藩初代藩主になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
前田慶次郎 その38 「慶次郎、穀蔵院飄戸斎に」
戦国風流武士 「前田慶次郎」 その38
『慶次郎、穀蔵院飄戸斎に』
家康は江戸に止まること20日、大坂で催促した諸大名の軍は陸続きに関東に入ってきた。
浅野幸長、福島正則、黒田長政、蜂須賀豊雄、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎などの大名およ
そ100人、兵数として5万5千余りであった。
家康も21日、兵8千を率いて江戸を出発、24日下野(栃木県)の小山に着いたが、この日、石田三成が西国
諸大名を糾合して兵を挙げた報告が届いた。
一方、会津では、家康が東に向ったとの情報が入ると、決戦準備にかかった。
家康は希世の戦争上手です。
「けーじろー」(堂森善光寺HPよりお借りしています)

故太閤の雄才大略を以ってしても、実戦では家康に勝つことができなかった。2人が戦ったのは小牧長久手
の合戦ですが、始終家康方に先手を取られて秀吉方は振るわなかったのです。
だからと言って、上杉方は怖気付いていない。軍神毘沙門天の権化といわれ、自身もそう信じていた形跡の
ある謙信に鍛錬された猛士勇士が沢山いるのです。
しかも万全を期して、緻密な策を立てていた。
関東から会津に入るには、野州路をとって白河に入るのが順路だが、上杉家はこの白河南方一里半の地点
にある革籠ケ原を戦場として選んだ。
付近の村落全部を撤去させ、樹木を払い、山を切り崩して大地の凹凸をならし、三里四方を畳のように平坦
にした。
河水をせき止めて、満々たる大河を造り、底に大酒樽2千余りを沈めた陥穽も造った。付近の山々には兵も
伏した。
家康がどうあがいても、革籠ケ原に足を踏み入れたが最後、せん滅は免れない。恐ろしい戦略であった。
これらの準備をして待っているところに、家康が江戸を立ったとの情報が入ったので、上杉勢は会津を出発
したが、その出陣の勢ぞろいの時であった。
慶次郎です。
慶次郎は、林泉寺の和尚を懲らしめるために、自らも髪を剃ったが、そのまま再び髪をたくわえていなかっ
た。
「ちょうどいいわ。このまま入道することにするわい」
穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとさい)と号した。
「人の世のことは、一寸先はわからん。ひょっとすればひょっとする。さればひょっと斎というわけ」
と説明した。
慶次郎さん、奥が深いですね!

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≪昨日の解答≫
昨日の正解:下野小山
家康は7月21日には江戸城を立ち、7月24日に下野小山に到着。
ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを知る。
家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を催した。いわゆる「小山評定」です。
家康にとって最大の問題は、豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。
家康の命を受けた黒田長政は福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得したという。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
『慶次郎、穀蔵院飄戸斎に』
家康は江戸に止まること20日、大坂で催促した諸大名の軍は陸続きに関東に入ってきた。
浅野幸長、福島正則、黒田長政、蜂須賀豊雄、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎などの大名およ
そ100人、兵数として5万5千余りであった。
家康も21日、兵8千を率いて江戸を出発、24日下野(栃木県)の小山に着いたが、この日、石田三成が西国
諸大名を糾合して兵を挙げた報告が届いた。
一方、会津では、家康が東に向ったとの情報が入ると、決戦準備にかかった。
家康は希世の戦争上手です。
「けーじろー」(堂森善光寺HPよりお借りしています)

故太閤の雄才大略を以ってしても、実戦では家康に勝つことができなかった。2人が戦ったのは小牧長久手
の合戦ですが、始終家康方に先手を取られて秀吉方は振るわなかったのです。
だからと言って、上杉方は怖気付いていない。軍神毘沙門天の権化といわれ、自身もそう信じていた形跡の
ある謙信に鍛錬された猛士勇士が沢山いるのです。
しかも万全を期して、緻密な策を立てていた。
関東から会津に入るには、野州路をとって白河に入るのが順路だが、上杉家はこの白河南方一里半の地点
にある革籠ケ原を戦場として選んだ。
付近の村落全部を撤去させ、樹木を払い、山を切り崩して大地の凹凸をならし、三里四方を畳のように平坦
にした。
河水をせき止めて、満々たる大河を造り、底に大酒樽2千余りを沈めた陥穽も造った。付近の山々には兵も
伏した。
家康がどうあがいても、革籠ケ原に足を踏み入れたが最後、せん滅は免れない。恐ろしい戦略であった。
これらの準備をして待っているところに、家康が江戸を立ったとの情報が入ったので、上杉勢は会津を出発
したが、その出陣の勢ぞろいの時であった。
慶次郎です。
慶次郎は、林泉寺の和尚を懲らしめるために、自らも髪を剃ったが、そのまま再び髪をたくわえていなかっ
た。
「ちょうどいいわ。このまま入道することにするわい」
穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとさい)と号した。
「人の世のことは、一寸先はわからん。ひょっとすればひょっとする。さればひょっと斎というわけ」
と説明した。
慶次郎さん、奥が深いですね!

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昨日の正解:下野小山
家康は7月21日には江戸城を立ち、7月24日に下野小山に到着。
ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを知る。
家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を催した。いわゆる「小山評定」です。
家康にとって最大の問題は、豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。
家康の命を受けた黒田長政は福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得したという。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
前田慶次郎 その37 「直江状」
戦国風流武士 「 前田慶次郎 」 その37
「 直江状 」
会津不穏の報は、まず越後領主の堀家から大坂に届いた。
当時、大坂では徳川家康が大坂城の西の丸にいて、一切の政務を行っていたのです。
続いて、上杉家の重臣・藤田信吉が会津を脱出して大坂にはせ参じ、景勝に謀叛の企てありと家康に密告
した。
直江兼続(1560-1619年)

家康は直江兼続と親しい豊光寺の住職に命じて、兼続に手紙を出させた。
世間の噂を告げ、江戸内府も案じておられるから、異心なきにおいては早速に上杉景勝を説いて上洛させる
ようにという文面であった。
はじめから戦さする気でいるのです。
兼続は皮肉な微笑を洩らしながら、返書をしたためた。
家康の法規違反と矛盾撞着を指摘し、上洛はいたしまじく、内府がもし怒って討伐の兵をお向けあ
るなら、好むところではないが、武門の意気地としてお相手つかまろうという文面。(直江状)
諸大名が皆、家康のことを恐れ、その機嫌を損なわないように努めていた時代に、これほどの手紙を書い
たのであるから、気宇がいかにたくましかったか判ります。
喜怒哀楽を表さない家康も、この手紙には激怒したという。
「わしはこの年になるまで、こんな無礼な手紙は貰ったことがない」
と言ったという。
そこで上杉征伐ということになります。
直ちに諸大名にふれをまわして出陣を命じ、自身も6月16日に大坂を出発した。
家康は自分が足をあげて東にすれば、必ず西にもことが起こることを知っていた。
家康にとっては東西挟撃の危難に会う訳であったが、もしこれを旨く処理すれば、この大危難はかえって
アンチ徳川勢力を一挙に打ち砕き、天下取りの機会をもたらすことになる訳であった。
家康は西を顧みながら、7月2日に江戸に入った。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解:弓矢防具
母衣といい、馬を駆けると風をはらんで膨らみ、背後に長く引いて背面からの流れ矢を防ぐ役割を果たすので、馬を駆り弓を主武器とする、当時の武士の戦闘法に大鎧とともに適していた弓矢防具です。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
「 直江状 」
会津不穏の報は、まず越後領主の堀家から大坂に届いた。
当時、大坂では徳川家康が大坂城の西の丸にいて、一切の政務を行っていたのです。
続いて、上杉家の重臣・藤田信吉が会津を脱出して大坂にはせ参じ、景勝に謀叛の企てありと家康に密告
した。
直江兼続(1560-1619年)

家康は直江兼続と親しい豊光寺の住職に命じて、兼続に手紙を出させた。
世間の噂を告げ、江戸内府も案じておられるから、異心なきにおいては早速に上杉景勝を説いて上洛させる
ようにという文面であった。
はじめから戦さする気でいるのです。
兼続は皮肉な微笑を洩らしながら、返書をしたためた。
家康の法規違反と矛盾撞着を指摘し、上洛はいたしまじく、内府がもし怒って討伐の兵をお向けあ
るなら、好むところではないが、武門の意気地としてお相手つかまろうという文面。(直江状)
諸大名が皆、家康のことを恐れ、その機嫌を損なわないように努めていた時代に、これほどの手紙を書い
たのであるから、気宇がいかにたくましかったか判ります。
喜怒哀楽を表さない家康も、この手紙には激怒したという。
「わしはこの年になるまで、こんな無礼な手紙は貰ったことがない」
と言ったという。
そこで上杉征伐ということになります。
直ちに諸大名にふれをまわして出陣を命じ、自身も6月16日に大坂を出発した。
家康は自分が足をあげて東にすれば、必ず西にもことが起こることを知っていた。
家康にとっては東西挟撃の危難に会う訳であったが、もしこれを旨く処理すれば、この大危難はかえって
アンチ徳川勢力を一挙に打ち砕き、天下取りの機会をもたらすことになる訳であった。
家康は西を顧みながら、7月2日に江戸に入った。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:弓矢防具
母衣といい、馬を駆けると風をはらんで膨らみ、背後に長く引いて背面からの流れ矢を防ぐ役割を果たすので、馬を駆り弓を主武器とする、当時の武士の戦闘法に大鎧とともに適していた弓矢防具です。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国風流武士 前田慶次郎(海音寺潮五郎暑)>
前田利家公と妻・まつを祀る 「尾山神社」
『 金沢百万石初代藩主・前田利家と“まつ”を祀る尾山神社 』
初代藩主の前田利家公と正室の“まつ”の2人を祀った神社です。
金沢城に隣接した所にある神社で、利家の愛用の鎧兜「鯰尾兜」の銅像や、刀、鎧が展示されています。
正面にある「神門」です。オランダ人技師ホルトマンの設計を担当した5色の鮮やかなギヤマン(カット
ガラス)が、何とも異国情緒ある珍しいモノで、最初に出迎えてくれます。
外見は和漢洋の3様式折衷と見えるも、初層の3連アーチの骨組は完全な木造の日本様式というから驚きで
す。

またその天辺には、日本で最初の避雷針を建立時に備えています。

1599年に加賀藩藩祖前田利家を祭り創建された卯辰八幡宮を、明治6年に卯辰山から現在地に移し、尾山
神社になっています。

青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手で「槍の又左」の異名をもっていた利家公。

境内には、利家公愛用の「烏帽子兜」像もあります。

利家公像の隣の愛妻“まつ”(芳春院)の石碑
“まつ”女性でありながら学問や武芸に通じた女性であったそうです。

この後、金沢の友人と食事に出かけ、帰りに夜食の「利家公弁当」をゲットし、駅前のホテルで食しました。

次回は、北陸の旅で最後に登城した「富山城」を記事にしたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:加藤清正
「武者返しの石垣」は、熊本城の特長ともいえる石垣です。
この石垣は、加藤清正が近江国から率いてきた「穴太衆」よって造られたとされ、下部はゆるやかな傾斜で、上部に向かうほど急な角度になる独特の造りになっています。
城に侵入しようとした敵の武者を返してしまうことから「武者返し」という異名をもつようになっています。

≪本日の問題≫
<参考文献:金沢市HP>
初代藩主の前田利家公と正室の“まつ”の2人を祀った神社です。
金沢城に隣接した所にある神社で、利家の愛用の鎧兜「鯰尾兜」の銅像や、刀、鎧が展示されています。
正面にある「神門」です。オランダ人技師ホルトマンの設計を担当した5色の鮮やかなギヤマン(カット
ガラス)が、何とも異国情緒ある珍しいモノで、最初に出迎えてくれます。
外見は和漢洋の3様式折衷と見えるも、初層の3連アーチの骨組は完全な木造の日本様式というから驚きで
す。


またその天辺には、日本で最初の避雷針を建立時に備えています。

1599年に加賀藩藩祖前田利家を祭り創建された卯辰八幡宮を、明治6年に卯辰山から現在地に移し、尾山
神社になっています。

青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手で「槍の又左」の異名をもっていた利家公。


境内には、利家公愛用の「烏帽子兜」像もあります。


利家公像の隣の愛妻“まつ”(芳春院)の石碑
“まつ”女性でありながら学問や武芸に通じた女性であったそうです。


この後、金沢の友人と食事に出かけ、帰りに夜食の「利家公弁当」をゲットし、駅前のホテルで食しました。


次回は、北陸の旅で最後に登城した「富山城」を記事にしたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:加藤清正
「武者返しの石垣」は、熊本城の特長ともいえる石垣です。
この石垣は、加藤清正が近江国から率いてきた「穴太衆」よって造られたとされ、下部はゆるやかな傾斜で、上部に向かうほど急な角度になる独特の造りになっています。
城に侵入しようとした敵の武者を返してしまうことから「武者返し」という異名をもつようになっています。

≪本日の問題≫
<参考文献:金沢市HP>
日本百名城 35 石垣の博物館・金沢城
『 加賀百万石金沢城の石垣めぐり 』
金沢城は、石垣の博物館とか言われますが、これまでの登城では時間がなく石垣巡りができていませんで
したので、今回は最短の城内ルートと城外周の半分を廻りました。
金沢城の石垣は、多種多様な構築方法を採用しておりますが、主な石積みの技法は次のとおりです。
【野面積み】
自然の石や粗割りしただけの石を用いて積む技法で、東の丸周辺など古い時期の石垣に見ることができます。

【打ち込みハギ】
形の整った割石を用いて積む技法で、二の丸などの郭の外周などに見ることができます。

【切り込みハギ】
割石をさらに加工した切石を用いて、隙間なく積む技法で出入口など重要な部分の石垣に見ることができます。

【金沢城石垣巡りルート図】 (登城日:平成24年8月30日)

<画像はクリックで拡大します>
① 石川門石垣
この石垣は、右側は「切り込みハギ」、左側は「打ち込みハギ」の技法になっています。同じ場所で積み方をした珍しい例で、1765年の改修時のものと考えられています。

② 内堀石垣(鶴の丸付近)
この内堀は、1631年の大火後、二の丸を守る堀として造られたといわれ、平成11年から12年にかけ、菱櫓や五十間長屋などとともに復元されています。

③ 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣
この位置から見える三の丸側が「打ち込みハギ」、裏手の二の丸側が「切り込みハギ」となっている。「打ち込みハギ」の多くは郭の外周などに、「切り込みハギ」は出入口など重要な場所によく見られます。
④ 二の丸北面石垣
この付近の石垣は、形や大きさを揃えた割石が積まれています。「打ち込みハギ」の中でも最も完成されたものと言われており、城内でも屈指の石垣と言われているそうです。

⑤ 土橋門石垣
この石垣は「切り込みハギ」の技術が用いられ、土門橋の土台となっていました。石垣に組み込まれた六角形の石(亀甲石)は、水に親しむ亀を表したもので、防火の願いが込められているそうです。

⑥ 数奇屋敷石垣
石積みの技法は、石の表面を長方形に仕上げた「切り込みハギ」で、刻印が見られる石垣は創建時のものです。刻印は石を切り出す時の作業分担を示すために付けられたと言われます。

⑦ 戌亥櫓石垣
この石垣は「打ち込みハギ」の積み方をしていますが、石の隙間に平らな石をはめ込み、「切り込みハギ」のように見せる技法が用いられています。長い年月の間に石が抜け落ちていますが、当時の技法を見ることができます。

⑧ 三十間長屋石垣
この石垣の積み方は「切り込みハギ」の技法で積まれていますが、表面の縁取りだけをきれいに揃え、内側を粗いままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられています。

⑨ 鉄門石垣
「切り込みハギ」の技法は、城の重要な部分に用いられ、本丸への入口となるここ鉄門の石垣にも、「切り込みハギ」が見られます。石の表面を多角形に加工した優れたデザインで丁寧な造りになっています。

⑩ 東の丸北面石垣
この石垣は、城内で最も古い技法が用いられており、金沢城の初期の姿を伝える数少ない貴重なものです。自然石や粗割りしただけの石を緩い勾配で積み上げた「野面積み」になっています。

『その他城外周の石垣』
【大手門の石垣】
この大手門は、高山右近の指導により造られたと言われています。

【東ノ丸東面の石垣】
この辺の石垣は、金沢城の初期の石垣ですから、利家公も前田慶次郎も見た石垣なのでしょうね。

【本丸南面の高石垣】
かなり高い石垣です。金沢城が平山城だとよくわかる場所です。

石垣巡りの後、金沢城に隣接する「利家公とまつの尾山神社」に行きましたので、後日、記事にしたいと思います。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
前回の正解:高山右近
1583年、前田利家が金沢城に入り、その直後から本格的な城づくりが始められました。キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導をを仰いだと伝えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:金沢市HP>
金沢城は、石垣の博物館とか言われますが、これまでの登城では時間がなく石垣巡りができていませんで
したので、今回は最短の城内ルートと城外周の半分を廻りました。
金沢城の石垣は、多種多様な構築方法を採用しておりますが、主な石積みの技法は次のとおりです。
【野面積み】
自然の石や粗割りしただけの石を用いて積む技法で、東の丸周辺など古い時期の石垣に見ることができます。

【打ち込みハギ】
形の整った割石を用いて積む技法で、二の丸などの郭の外周などに見ることができます。

【切り込みハギ】
割石をさらに加工した切石を用いて、隙間なく積む技法で出入口など重要な部分の石垣に見ることができます。

【金沢城石垣巡りルート図】 (登城日:平成24年8月30日)

<画像はクリックで拡大します>
① 石川門石垣
この石垣は、右側は「切り込みハギ」、左側は「打ち込みハギ」の技法になっています。同じ場所で積み方をした珍しい例で、1765年の改修時のものと考えられています。


② 内堀石垣(鶴の丸付近)
この内堀は、1631年の大火後、二の丸を守る堀として造られたといわれ、平成11年から12年にかけ、菱櫓や五十間長屋などとともに復元されています。


③ 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣
この位置から見える三の丸側が「打ち込みハギ」、裏手の二の丸側が「切り込みハギ」となっている。「打ち込みハギ」の多くは郭の外周などに、「切り込みハギ」は出入口など重要な場所によく見られます。


④ 二の丸北面石垣
この付近の石垣は、形や大きさを揃えた割石が積まれています。「打ち込みハギ」の中でも最も完成されたものと言われており、城内でも屈指の石垣と言われているそうです。

⑤ 土橋門石垣
この石垣は「切り込みハギ」の技術が用いられ、土門橋の土台となっていました。石垣に組み込まれた六角形の石(亀甲石)は、水に親しむ亀を表したもので、防火の願いが込められているそうです。

⑥ 数奇屋敷石垣
石積みの技法は、石の表面を長方形に仕上げた「切り込みハギ」で、刻印が見られる石垣は創建時のものです。刻印は石を切り出す時の作業分担を示すために付けられたと言われます。

⑦ 戌亥櫓石垣
この石垣は「打ち込みハギ」の積み方をしていますが、石の隙間に平らな石をはめ込み、「切り込みハギ」のように見せる技法が用いられています。長い年月の間に石が抜け落ちていますが、当時の技法を見ることができます。


⑧ 三十間長屋石垣
この石垣の積み方は「切り込みハギ」の技法で積まれていますが、表面の縁取りだけをきれいに揃え、内側を粗いままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられています。


⑨ 鉄門石垣
「切り込みハギ」の技法は、城の重要な部分に用いられ、本丸への入口となるここ鉄門の石垣にも、「切り込みハギ」が見られます。石の表面を多角形に加工した優れたデザインで丁寧な造りになっています。


⑩ 東の丸北面石垣
この石垣は、城内で最も古い技法が用いられており、金沢城の初期の姿を伝える数少ない貴重なものです。自然石や粗割りしただけの石を緩い勾配で積み上げた「野面積み」になっています。

『その他城外周の石垣』
【大手門の石垣】
この大手門は、高山右近の指導により造られたと言われています。


【東ノ丸東面の石垣】
この辺の石垣は、金沢城の初期の石垣ですから、利家公も前田慶次郎も見た石垣なのでしょうね。


【本丸南面の高石垣】
かなり高い石垣です。金沢城が平山城だとよくわかる場所です。


石垣巡りの後、金沢城に隣接する「利家公とまつの尾山神社」に行きましたので、後日、記事にしたいと思います。
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≪前回の解答≫
前回の正解:高山右近
1583年、前田利家が金沢城に入り、その直後から本格的な城づくりが始められました。キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導をを仰いだと伝えられています。
≪本日の問題≫
<参考文献:金沢市HP>