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三成の関ヶ原 その8 「家康の誓約違反」

『家康の誓約違反』

徳川家康が密かに伊達政宗の娘を家康の6男・松平忠輝に、また、家康の異父弟・松平康元の娘を養女

として福島正則の子・正勝に、また、小笠原秀政の娘を養女として蜂須賀家政の子・至鎮に、さらに家康

の従弟・水野忠重の娘を養女として加藤清正の子・忠広にそれぞれ嫁がせる約束を交わしたのである。

福島正則(1561-1624年)
fu.福島正則

四大老や奉行らは、このような行為が秀吉の遺命に叛くものであることを指摘し、その不心得を攻め、家

康に異心のないことの弁明を迫った。

これに対し、家康は

「そのようなことは、仲人に任せてある。以後は注意する」

と答え、伊達政宗以下4大名もまた、それぞれに弁解につとめ、または言を左右にそらせて四大老・奉行

らの詰門に承服しようとしなかった。

この場合、家康と政宗はともかく、秀吉恩顧の武将である福島正則や加藤清正までが、家康に同調して、

そのような言動に及んでいることは、“彼らの忘恩と背徳のなにものでもない。”と批判されても仕方のな

いことだと思われます。

pig 20121129 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:せいしょこさん
熊本では清正公のことを「せいしょこさん」として、現在も種々の史跡や祭りなどにも取りあげられているが、当時の肥後人の清正への崇敬も強かった。
これはほとんどの大名が単に統治しただけであったのとは対照的に、農業行政で実績を上げたことによります。

≪本日の問題≫


                   <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>
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三成の関ヶ原 その7 「武将派と奉行派の軋轢」

『武将派と奉行派の軋轢』

武将派と奉行派の反目が、対立・軋轢へとエスカレートしたのは、秀吉の死後であり、そこに朝鮮在陣

諸将の帰還を迎えてのことであった。

1598年11月から12月にかけて、朝鮮から諸将がそくぞく博多に帰還した。

石田三成は帰還の将士たちを出迎え秀吉の死を伝え、茶会を催し諸将士の辛労を慰めようとした。

加藤清正(1562-1611年)
ka.加藤清正 002

ところが三成に対して、“ふくむ”ところのあった加藤清正は

「われらごときは、在朝7年、茶なく、酒もなく、城塞の壁土を噛んで、露命をつないできた。ひえ粥くらい

ならば、当方から進上したい」

と、毒舌を吐き、その言葉を聞いた将士らも同調する者も少なくなかったという。

清正が三成に“ふくむ”ところがあったというのは、3罪(こちら)を秀吉に上申し、清正を召還させたのが

三成だと思い込み、自分の非を棚に上げて三成のことを恨み、そのことを根にもっていたからだという。

こんなことがあって、三成は帰還事務にも支障をきたし困惑しているところを救ったのが、小西行長であ

った。

行長は、朝鮮陣中を通じて清正とは仲が悪く、戦功のうえで常に対抗意識を燃やし続けてきたのです。

だから、行長は朝鮮役の先鋒を承った武将ではあったが、奉行派の大名である石田三成に加担する

ようになっていたのです。

武将派大名の背景には秀吉の正妻・北政所がおり、奉行派大名の背景には秀吉の愛妾・淀殿がいて、

両派の反目と対立をあおったとさえ言われます。

この両派の反目と対立を巧に利用し、武将派大名を味方に付けることによって自己の強化を図り、豊臣

政権の分裂を策していたのが徳川家康であった。

sa-ko 20121127 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:奥州仕置
1590年の奥州仕置では実行役として中心的役割を担い、取次役として南部信直との関係を強め、葛西大崎一揆や九戸政実の乱へ対処しています。

≪本日の問題≫


                   <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その6 「武将派と奉行派の反目」

『武将派と奉行派の反目』

秀吉の遺産分配がなされた前後あたりから、早くも五大老と五奉行のあいだに分裂の兆候があらわれ、

これは豊臣家の将来にとって憂慮すべきことになった。

毛利輝元と増田・石田・前田・長束の4奉行との結束がみられる反面、すでに浅野長政の離脱が始まって

いた。

浅野長政(1547-1611年)
as.浅野長政

その理由は、五奉行のうちで浅野長政は一人だけ、武人派の大名たちと親しくしており、秀吉の在世中の

1590年の小田原征伐の頃から石田三成以下4人の奉行と仲が悪くなり、徳川家康の後援によって石田

三成と対抗してゆくという現象が始まっていた。

これが朝鮮の役を経て、さらに激化してきたらしい。

秀吉が晩年の病床の中にあって5奉行の制度を定め、長政に三成らと協力して、その大任に当たらせよう

と考えたものも、ひとつに相互の間の融和をはかり後の禍根を未然に防ごうとするものであったらしい。

ところが、天下の形勢は、あたかも秀吉の死を待っていたかのように、人心が日増しに家康の基に集まっ

ていった。

つまり、五大老のうちでは徳川家康、5奉行のうちでは浅野長政がしだいに両制度から離脱し、独走を始

めています。これは最も危険なことであり、つまり五大老・五奉行制度分裂の兆候であったといえるので

しょう。

しかも、こうした傾向に対して、さらに拍車をかけたのが、朝鮮在陣諸将の帰還を動機としての、武将派

大名と奉行派大名との対立・反目だったのです。

sakura 20121126 001


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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解:大和国郡山城
増田長盛は、1595年に豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられています。
大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱え、郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行っています。

≪本日の問題≫


                  <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その5 「五大老と五奉行」

『五大老と五奉行』

豊臣秀吉は、天下を是が非でも愛児・秀頼に譲りたいが、前途の見通しがいかにも暗く不安だったので、

制度と法律の威力を借りて希望の実現を図ろうとした。

このような要求の基に定められたのが、五大老と五奉行の制度でした。

この五大老とは、いうまでもなく徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝の5人。

徳川家康(1543-1616年)、前田利家(1538-1599年)
to.徳川家康 ma.前田利家 001

五奉行とは、浅野長政、前田玄以、石田三成、長束正家、増田長盛の5人です。

また、秀吉の遺言の覚書をみると、5大老のうちで徳川家康と前田利家を格別とし、その地位を重く見、

何かにつけて特権を与えようとしたことが伺えます。

次に五奉行の人選と分担について、「太閤記」では次のように説明しています。

前田玄以は京都所司代として、洛中・洛外の揉めごとから神社仏閣に関するまで一人で決裁する。

長束正家は、知行方、そのほか全ての算用のことなどを裁許する。

あとの3人、つまり浅野長政、石田三成、増田長盛は、万端よろしく執り行い、諸人が痛まないように分別

すべきだ。

また、五奉行のひとり一人についても、次のように説明しています。

浅野長政は、秀吉の正妻・北政所と義兄弟の因縁があり、内外ともに常に評定の席からはなれがたい人物

である。

前田玄以は、智勇兼備の名将・織田信忠(織田信長の長男)に仕え、才能を認められた人物である。

長束正家は、はじめ織田家の重臣・丹波長秀に仕えたが、裁判がやわらかで、しかも停滞することのない

切れ者である。

また、石田三成と増田長盛は、秀吉が江州長浜の城主となった時から仕え、辛労をつくしてきた者どもで

ある。

ことに、石田三成は秀吉に対して、へつらわず、正しい諫言のできる者だし、増田長盛は、万事損益のこと

わりにあかるく、しかも、その正確も剛直である。



【鍬山神社の紅葉】

丹波の国を造った神を祭る神社。丹波を湖から肥沃な大地にした際、使われたクワを山のように積み上げた

ことからこの名がついているそうです。

神社がある亀岡市は、地塁が高いため、高雄と同時期には紅葉が始まりますので、今回は嵯峨野の予備

的におさえていた場所ですが、丁度見頃の時期でした。

その鮮やかな美しさは「矢田の紅葉」と賞賛されています。

ku.鍬山神社 001

ku.鍬山神社 002 ku.鍬山神社 003

ku.鍬山神社 004 ku.鍬山神社 005

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:中国攻め
三成の初陣は、秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍しています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷継吉と石田三成(工藤章興薯)>

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餌は自分で買いに行きます♪

『自分の餌は自分で買いに行かなくちゃ!』

昨日は、恒例のpigletの餌買いに付き合いました。

目指すは、近所のホームセンタ

自転車が停まっている時は会話をしながらですが、走り出すと危ないですから、カゴの隙間から前方を

向いています。

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店内では、ワン公のキャリーに乗って「うさぎコナー」

いつもの餌と間違わないように!
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好物のエン麦は買いましたか?
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天気が良かったので、帰りはいつもの噴水公園に
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ここは高いし、おっちゃん達が釣りしているところ行こう。
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ここに来ると、pigletは必ず釣りをしているおっちゃんの元へ
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ヘッピリ腰で覗き込んでいます
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釣れていないので、散歩でもしようか
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適当に遊んだら、自転車へ
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帰りも安全運転です。 なぜかシートベルトは長いですネ。
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紅葉の奥嵯峨野散策

いつもありがとうございます! 

気付かぬうちに、30万ヒットを超えていました。

いつも遊びに来ていただける皆さまのお陰です。

今後とも、よろしくお願いいたします。


『紅葉の奥嵯峨野散策』

紅葉が始まった奥嵯峨野を、11月16日に歩いてみました。

コースは天龍寺野宮神社竹林トロッコ嵐山駅小倉池落柿舎常寂光寺二尊院を約2時

間かけて散策しました。

嵯峨野散策 地図
<全ての画像はクリックで拡大します>

天龍寺(8時30分)
嵐山・亀山が巧みに借景にとりいれられた池泉回遊式の庭園は実に豪華です。
天龍寺 01 天龍寺 02 天龍寺 03

天龍寺 04 天龍寺 05

天龍寺 06


野宮神社
源氏物語「賢木の巻」に嵯峨野の野宮を光源氏がたづねるという一節があります。
ここはグラデーションの紅葉が美しいところです。
野宮神社 01

野宮神社 02 野宮神社 03

竹林
嵯峨野の竹林の中で最も有名なのが、野宮神社から大河内山荘へと至る道です。
平安時代から貴族の別荘や庵が開かれた土地で、かつて貴族が愛したこの場所は、1000年を経た今も変わらない、そんな普遍的な美しさを持った場所なのかもしれません。

手を繋ぎながら歩くと最高でしょうね!
竹林 01 竹林 02

           竹林 03

トロッコ嵐山駅
トロッコ嵐山駅

小倉池
小倉池 01 小倉池 02

落柿舎
江戸時代の俳人・向井去来の草庵跡である。かれは芭蕉門下(蕉門)十哲の一人であったそうです。
落柿舎 01 落柿舎 02

常寂光寺
小倉山の麓から中腹に広がり楓樹に覆われた明媚なところです。
常寂光院 01

常寂光院 02 常寂光院 03

二尊院
二尊院はその名の如く来迎(阿弥陀)如来と発遺(釈迦)如来の二尊を安置する寺院です。
新幹線の「そうだ京都、いこう(2012年盛秋)」のスポットですから、超混みコミです。
二尊院 01 二尊院 02

           二尊院 03

二尊院 04 二尊院 05

            二尊院 06

今回は嵯峨野でしたが、来秋は大原を歩きたいなぁ~、と思いつつ渡月橋を渡りました。

嵯峨野散策後は、兵庫県朝来市の竹田城に向かう途中に、亀岡市の紅葉の名所・鍬山神社に行きました

ので、次回に紹介したいと思います。


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「2012 そうだ京都、いこう。(盛秋)」の二尊院

「2012 そうだ京都、いこう。(盛秋)」の二尊院

今秋「そうだ 京都、行こう。」がおすすめするのは、嵐山・嵯峨野の古刹、二尊院。

平安の頃より貴族の別荘地として愛されてきた嵐山・嵯峨野。

参道がもみじに包まれる「紅葉の馬場」として有名ですが、訪問時(11月16日)には7部程度の紅葉でし

たが、今週末の3連休には見頃を迎えるのでしょう。

二尊院 002

二尊院は、發遣(ほつけん)釈迦と来迎弥陀の二尊像(重文)を祀ることから二尊院といわれています。

841年に慈覚大師が創立した華台寺の旧跡と伝えられ、長く荒れていたのを法然上人の高弟湛空(たんくう)

が再興したと伝わります。

伏見城の医薬門を移築したと伝わる総門。
二尊院 001
<画像はクリックで全て拡大します>

紅葉馬場
二尊院 002-1

二尊院 003 二尊院 004

二尊院 005 二尊院 007

勅使門前&勅使門内側
二尊院 013 二尊院 008

本堂境内
二尊院 009

二尊院 010 二尊院 011

二尊院 012

今週末は見頃になると思いますが、人気スポットで混雑必須ですから早朝がお勧めですね。

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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