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2012年 日本百名城巡りの総括

『2012年は、百名城を22城とその他の城21城を攻略』

今年も城巡りにお付き合い頂き、ありがとうございました。

お陰さまで、今年は4年目で新たに14城を攻略し、残すところあと8城になりました。

多くの城を廻りましたので、皆さまの近くにお伺い、または通過させて頂いたことだと思います。

今年廻りました城を、順に紹介してみたいと思います。

日本百名城 塗りつぶし同行会」もアップが終わりましたので、良かったら覗いてみてください。

申し訳ございません、長文の記事になっています。

【1月】
「百名城7 多賀城(宮城県)」(1月7日登城)*登城記事は、こちらです。
奈良時代の律令制度の行政と軍事の拠点です。
0107 多賀城

「百名城11 二本松城(福島県)」(2回目で、1月7日登城)*登城記事は、こちらです。
戊辰戦争に散った、二本松少年隊の悲話が残っています。
0107 二本松城


【2月】
「百名城81 松山城(愛媛県)」(2回目で、2月8日登城)*登城記事は、こちらです。
今回は、二の丸を中心に廻ってみました。
0208 松山城

「百名城73 広島城(広島県)」(2回目で、2月9日登城)*登城記事は、こちらです。
この城に来ると、正則くんの石垣修復を想像してしまいます。
0209 広島城

「百名城70 岡山城(岡山県)」(2回目で、2月10日登城)*登城記事は、こちらです。
八丈島に配流された、宇喜多家秀の城です。
0210 岡山城

「百名城68 備中松山城(岡山県)」(2月10日登城)*登城記事は、こちらです。
積雪を心配しながらの登城でした。現存天守はいいですね☆
0210 備中松山城

「百名城69 鬼ノ城(岡山県)」(2月10日登城)*登城記事は、こちらです。
幻の城、だそうですが、良く判りませんでした。
0210 鬼ノ城

「備中高松城(岡山県)」(2月10日登城)*登城記事は、こちらです。
秀吉の水攻めで有名です。この作戦中に、本能寺の変が起きています。
0210 備中高松城


【4月】
「百名城53 二条城(京都府)」(4月6日登城)*登城記事は、こちらです。
皆さまもそうでしょうが、何度来たか判りません。スタンプをゲットするための登城でした。
0406 二条城

「伏見城(京都府)」(4月6日登城)*登城記事は、こちらです。
秀吉の居城ですが、現在は残念ながら模擬天守です。
0406 伏見城

「淀城(京都府)」(4月6日登城)*登城記事は、こちらです。
この城は、江戸時代の城です。
0406 淀城

「淀古城(京都府)」(4月6日登城)*登城記事は、こちらです。
淀城から至近距離ですが、こちらが淀殿の産所城です。現在は石碑のみです。
0406 淀古城

「勝竜寺城(京都府)」(4月6日登城)*登城記事は、こちらです。
細川忠興とガラシャさんの城です。
0406 勝竜寺城

「大和郡山城(奈良県)」(4月7日登城)*登城記事は、こちらです。
桜まつりが行われ、駐車場まで入れませんでした。
0407 大和郡山城

「百名城61 高取城(奈良県)」(4月7日登城)*登城記事は、こちらです。
山城ですが、石垣が見事でした。
0407 高取城

「百名城55 千早城(大阪府)」(4月7日登城)*登城記事は、こちらです。
楠木正成公の城ですが、遺構が少ないため山登りは次回にしました。
0407 千早城

「百名城62 和歌山城(和歌山県)」(4月7日登城)*登城記事は、こちらです。
さすが御三家の城です。桜が満開でした♪
0407 和歌山城


【6月】
「百名城86 筑前国・大野城(福岡県)」(6月1日登城)*登城記事は、こちらです。
大宰府防衛のための古代朝鮮式山城です。
0601 大野城

「杵築城(大分県)」(6月1日登城)*登城記事は、こちらです。
大友氏と島津氏の戦いの舞台になった城です。
0601 杵築城

「百名城94 大分府内城(大分県)」(6月1日登城)*登城記事は、こちらです。
本丸に文化会館が鎮座していて、悲しくなる城です。
0601 大分府内城

「百名城95 岡城(大分県)」(6月1日登城)*登城記事は、こちらです。
石垣が見事な山城です。
0601 岡城

「臼杵城(大分県)」(6月1日登城)*登城記事は、こちらです。
大友氏の鉄壁の守りの海城です。
0601 臼杵城

「百名城96 飫肥城(宮崎県)」(6月2日登城)*登城記事は、こちらです。
伊東氏と島津氏が長年戦った境目の城。
0602 飫肥城

「島原・原城(長崎県)」(6月3日登城)*登城記事は、こちらです。
島原の乱で天草四郎が籠城し、全滅した悲哀の城。
0603 島原原城

「百名城91 島原城(長崎県)」(6月3日登城)*登城記事は、こちらです。
小藩に巨大な城です。島原の乱の一因とか。
0603 島原城

「百名城87 名護屋城(佐賀県)」(6月3日登城)*登城記事は、こちらです。
秀吉が大陸への夢を馳せた城。
0603 名護屋城

「百名城85 福岡城(福岡県)」(6月3日登城)*登城記事は、こちらです。
黒田父子の領国経営の巨大城郭。
0603 福岡城


【8月】
「世田谷城(東京都)」(8月19日登城)*登城記事は、こちらです。
屈指の高級住宅街にある、世田谷城。
0819 世田谷城

「龍岡城(長野県)」>(8月24日登城)*登城記事は、こちらです。
信州にもあった五稜郭。ただ完成を見ず、明治維新を迎えています。
0824 龍岡城

「北ノ庄城(福井県)」(8月30日登城)*登城記事は、こちらです。
柴田勝家とお市が炎下に消えた城。
0830 北ノ庄城

「福井城(福井県)」(8月30日登城)*登城記事は、こちらです。
本丸に県庁と警察本部が鎮座する城。
0830 福井城

「百名城35 金沢城(石川県)」(3回目、8月30日登城)*登城記事は、こちらです。
復元が進む、石垣の博物館と呼ばれる金沢城。
0830 金沢城


【9月】
「富山城(富山県)」(9月1日登城)*登城記事は、こちらです。
佐々成政を、豊臣秀吉が10万の兵で囲った城。
0901 富山城


【10月】
「米沢城(山形県)」(2回目、10月5日登城)*登城記事は、こちらです。
上杉景勝が会津120万石から、30万石に大減封された米沢城。
1005 米沢城

「長谷堂城(山形県)」(10月6日登城)*登城記事は、こちらです。
東北の関ヶ原の戦いの舞台、長谷堂城。
1006 長谷堂城

「百名城10 山形城(山形県)」(2回目、10月6日登城)*登城記事は、こちらです。
東北の雄、最上義光が拡張した東北の巨城。
1006 山形城


【11月】
「丹波国・亀山城(京都府)」(11月16日登城)*登城記事は、こちらです。
明智光秀の居城、天守台に上がることはできません。
1116 亀山城

「百名城56 竹田城(兵庫県)」(2回目、11月17日登城)*登城記事は、こちらです。
現在、観光地として超人気の城です。雲海ではなく冷たい雨でした。
1117 竹田城

「福知山城(京都府)」(11月17日登城)*登城記事は、こちらです。
紅葉が綺麗な城でした。
1117 福知山城

「田辺城(京都府)」(11月17日登城)*登城記事は、こちらです。
関ヶ原の戦いで、1万5千の西軍攻撃を細川忠興の父・幽斎が500人で守った城。
1117 田辺城

「若狭国・小浜城(福井県)」(11月17日登城)*登城記事は、こちらです。

浅井3姉妹・初の夫・京極高次の居城。見事な石垣が残る海城。
1117 小浜城

「百名城50 彦根城(滋賀県)」(2回目、11月18日登城)*登城記事は、こちらです。
ご存知「ひこにゃん」がいる国宝・彦根城
1118 彦根城

「佐和山城(滋賀県)」(11月18日登城)*登城記事は、こちらです。
関ヶ原の戦いの西軍の参謀・三成くんの居城。
1118 佐和山城


最後まで、お付き合いありがとうございました。

本年もたくさんの激励とコメントを頂き、本当にありがとうございました。

皆さまが、輝く新年を迎えられることをお祈り申し上げます。


戦国クイズはお休みさせて戴きます。

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本年も応援ありがとうございました。
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テーマ : 史跡・歴史的遺物
ジャンル : 学問・文化・芸術

三成の関ヶ原 その24 「家康の戦略」

『家康の戦略』

家康は、加賀討伐を企んだり、会津遠征を企てたりすることによって、誰か有力者に刺激を与え、家康に

挑戦させるチャンスを狙っていた。

その対象に選ばれたのが、結局、三成だったのです。

これがかませ犬と言われる所以なのでしょう。

石田三成(1559-1600年)
is.石田三成 潭龍寺

三成は豊臣家5奉行の一人ですが、元来、秀吉の小姓から成り上がった寵臣であり、秀吉の在世中は、

その恩寵を笠にきて、専権をふるっていた。

しかし、これを腰巾着であるとか君側の奸であるとかいうのは、反石田派武将の嫌がらせであり、徳川御

用学者の無批判的な記述なのです。

三成は、ただ知的で冷静な有能官僚であり、一本気で融通のきかないマジメ人間であった。

もちろん、諫言を敢えてする主君想いの忠臣であるが、己を知る者のためには、身命を賭しても、その敵

と戦う、という気性を持っていた。

三成のそうした性格と心の中を見抜いていた家康は、三成に反感を持つ秀吉恩顧の武将派の大名たちに、

色々と恩を売って、これを味方につけ、秀頼公には決して敵対しないからと誓って、彼らを納得させたうえ

で、三成を中心とする反徳川派の徒輩を挑発して兵を挙げさせ、これを討つことによって、反徳川派の大名

たちを一掃し天下の覇権を一手に握ろうと企んだのです。

老獪な家康は、彼自身が大坂城や伏見城にいる限りは、三成の挙兵が不可能であることも見抜いていた。

そこで、初めに前田利長を討つための加賀出兵を企んだが、利長が謝罪する結果となったため、このたくら

みが不発に終わった。

今度は会津遠征を企み、白羽の矢を立ててみた上杉景勝が、謝罪どころか反抗し挑戦してくる見込みが

立ったので、その企みが成功し、遠征を実施することになった。

家康が大坂や伏見から離れさえすれば、泳がせていた容疑者は動き出すに違いない。家康は、それを待

つために、大坂や伏見から離れ、5万8千余りの軍勢を催して、東海道を下ったのです。

20121229 sakura

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:岡崎城
家康は、戦国時代中期の1543年1月31日に、三河国岡崎で出生しています。
父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代でした。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

三成の関ヶ原 その23 「大義名分」

『大義名分』

太閤秀吉の死後、豊臣家五大老の筆頭として天下の政治に参与することとなった家康は、次第にその勢

力を扶植し、他の大老や奉行衆を圧倒していったが、このままの状態を維持しているのでは、家康は終生、

豊臣家臣であり、大坂城に君臨する豊臣家2世・秀頼には頭があがらず、常に臣従してゆくほかはない。

駿河城の家康(1543-1616年)
to.家康 駿府城

家康が主君である豊臣秀頼をさしおいて、天下の政権を握るためには武力を用いて、秀頼方と勝敗を決す

るほかに手がなかったのです。

といっても、家康がいきなり兵を挙げて大坂城を攻めたのでは、たとえその理由が何であろうと、それは主

君に対する反逆行為であって、天下の諸大名を味方につけることは不可能です。

特に豊臣恩顧の武将派の大名たちが、納得する訳がありません。

戦争というものは、昔も今も集団的殺人行為に過ぎない訳ですから、それを敢行するには、もっともらしい

名目、美しい表看板が必要なのです。

実質的な戦略戦争であっても、大義名分を振りかざし、大衆を納得させねばなりません。

信長も、秀吉も、家康も、それを良く心得ていたのです。

そうして戦争を仕掛けるほうに美しい名目が立たない場合には、正当防衛の形にもってゆく。つまり、相手

を刺激し、誘導して、戦争を仕掛けさせ、仕掛けられたからやむを得ず受けて立つ、という風にもってゆく。

これが最も巧妙な方法であって、誘導戦略という所以です。

ume 20121227 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:大和郡山城
増田長盛に1595年7月に大和国郡山城20万石の所領を与えられ、高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。
長盛は郡山城に総堀を巡らす大掛かりな普請を行っています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

三成の関ヶ原 その22 「増田長盛の寝返り」

『増田長盛の寝返り』

上方での動きの第一報が家康のもとに届けられたのは、家康が江戸を出馬する2日前の7月19日であった。

それは大坂城にいた増田長盛が、12日付けで家康の直臣・永井直勝に送った書状であった。

この書状の原本は伝わっていませんが、家康の侍医・板坂ト斎の覚書に掲載されていますので、信頼性が

高いと思われます。

石田三成の兜
is.石田三成 兜

これによると、三成が挙兵出陣について大谷吉継と相談しているといった風説を知らせるもので、5奉行の

一人の増田長盛が西軍側にあって、最も早い裏切り者であったことがわかります。

このために関ヶ原敗戦後も、命を許され高野山に登っています。しかし、大坂陣の時その子・盛次が大坂に

入城したため、切腹を命ぜられています。

家康の会津遠征については、家康の挑発作戦であったとする説が有力、または定説であると思われます。

つまり、家康は会津の上杉景勝を攻めるのが目的でなかった。会津遠征は、“上方で石田三成に兵を挙げ

させるための誘導作戦だった。”というのです。

ならば三成か、若しくは誰か反徳川派の大名が、家康に兵を挙げて挑戦してこなければ、いつまでたって

も家康は天下の政権を我がものにすることできない。

第2案を家康さんに聞いてみたいものですね。

sa-ko 20121226 003

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:下野小山
7月24日、家康は下野小山で、鳥居元忠の急使により三成らの挙兵を知っています。
この後、小山評定が行われています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その21 「家康の会津遠征」

『家康の会津遠征』

徳川家康は会津遠征を決めたのは、1600年5月のようです。

5月3日付けの下野の国伊王野城主・伊王野資信から会津の状況を知らせてきたのに答えて、伊王野口を

堅く守備することを命じ、「追いつき出馬して、討ち果たすつもりである」と述べて、会津遠征の決意

を告げている。

また、6月14日に家康は、越後の新発田城主・溝口秀勝に書状を送り、秀勝が上杉氏の支配下にある佐渡

島や出羽の庄内に出兵することを止め、堀秀治の属将として、津川口から会津に攻め入るように命じていま

す。

岡崎城の徳川家康(1543-1616年)
to.家康 岡崎城

家康は、その2日後の6月16日に、5奉行のうち増田長盛と長束正家の2人に大坂に留まり、豊臣秀頼の補

佐と警固に当たることを命じ、大坂を発し、伏見城に入った。

会津遠征に参加する家康の配下は三河譜代衆3千余人、外様大名衆は秀吉恩顧の武将派に属する大名た

ちの軍勢5万5千人であった。

6月18日に伏見を発した家康は、近江、伊勢を経て東海道を東下して7月2日に江戸城に到着し、各諸将に

指示をしています。

7月7日付けで山形城主・最上義光にあて、会津討伐のために7月21日に江戸を発することを告げ、他の諸

将と連絡して会津に討ち入ることを命じています。

また、7月10付けで、掛川城主・山内一豊に書を送り、一豊が小田原まで参陣し、そのまま会津に発する

ことを承認し、また自身の会津出馬を7月21日と報告しています。

usagi.jpg

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:三玄院 (三玄院は、こちら
三成の墓所は、1589年に石田三成、浅野幸長、森忠政等が創建した大徳寺塔頭「三玄院」にありますが、一般公開されていません。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成くんの「佐和山城」

「関ヶ原の戦いとともに消えた、佐和山城」

佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代に砦が築かれたのが始まりと伝わります。

戦国時代が後期に入ると、六角氏の勢力が衰退し、それにともなって佐和山城は新興勢力である浅井氏の

支城となった。

1571年には、織田氏家臣の丹羽長秀が入城し、北近江六郡と若狭国の支配拠点となっています。

sw.佐和山城 001

1582年6月には、の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与え

られ、秀政は翌年に入城し、これ以降は事実上、豊臣政権下の城となっています。

1585年には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。

龍潭寺駐車場
sw.佐和山城 003 sw.佐和山城 004

1590年には、五奉行の一人である石田三成が入城した。(異説あり)

三成は、当時荒廃していたという佐和山城の大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえ

たつほどの近世城郭を築き、人々に「治部少(じぶのしょう。三成のこと)に過ぎたるもの二つあり 島左近

と佐和山の城」と言わしめたという。

龍潭寺境内にある三成公の像
sw.佐和山城 005

しかし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の

正継であった。

三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。

1600年9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻

撃した。

sw.佐和山城 006 sw.佐和山城 008

城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。

城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵

が裏切り、敵を手引きしたため、9月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族

は皆、戦死あるいは自害して果てた。

sw.佐和山城 010

徳川方の兵士は「栄華を極めた三成はさぞ華美を尽くしたのだろう」と思い、我先にと城内に乱入したが、城

の壁は粗壁であり、また、何の装飾もない質素な作りであったという。

しかも、石田屋敷にあったものは豊臣秀吉から送られた感謝状のみであったと伝わります。

sw.佐和山城 002

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。三成は領地にて善政

を敷き、領民からも大変慕われていたため、直政はその威光を払拭するべく、新たに彦根城築城を計画。

この彦根城には、大津城・佐和山城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させる。

佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に破壊されたため、城址にはほとんど何も残

っていません。

佐和山城本丸跡
sw.佐和山城 016 sw.佐和山城 013

石碑だけが建てられています
sw.佐和山城 012

佐和山城の築材が利用されたという、彦根城が眼下にみえます。
sw.佐和山城 014

また、遠方には三成が関ヶ原の戦いで、敗走した伊吹山も見えます。
sw.佐和山城 015

登城途中で雨が降り出しましたので、本丸には僅か10分位しか居ませんでしたが、雨にせいでしょうか
重い空気が感じられました。
次回の登城には、大手道側から登城したいと思います。


X’masですネ。コクーン新都心のオーロライルミネーション
ir.オーロラirm


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:大谷吉継
秀吉の茶会で、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。
らい病を患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出た膿が茶に落ちてしまった。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干したそうです。
それ以降二人の間には一層深い友情が生まれたという。

≪本日の問題≫

テーマ : 史跡・歴史的遺物
ジャンル : 学問・文化・芸術

三成くんの足跡

『三成くんの足跡』

現在、「三成の関ヶ原」という題で、三成くんを記事にしていますので、11月18日に三成くんの生地・長浜と

佐和山城、そして関ヶ原と廻ってきましたので、三成くんの足跡を辿ってみたいと思います。

なお、長浜城と伏見城は以前に登城したものです。


「三成出生の地」
三成は、この地・石田村の地侍とも京極氏の被官ともいわれる石田正継の子として1560年に生まれ、幼名
を佐吉といいました。
mi.三成 001

また近くには付近には、一族と家臣の供養塔が建立されています。
mi.三成 002 mi.三成 003

「観音寺」
三成は10歳を過ぎた頃、学問修業のため坂田郡山東町(石田町との距離は数km)にある観音寺という寺に
入っていました。
mi.三成 004

1574年に豊臣秀吉が近くの長浜城主になり、近所で鷹狩をした折に観音寺へ立ち寄った際に、三成は温度
を変えて3度お茶出した「三碗の才」で出世の糸口を掴んだと言われています。
境内には三成が秀吉にお茶を入れる際利用した「水汲ノ池」が残っています。
mi.三成 005

長浜駅前には秀吉と三成の出逢いを再現した、「殿様と茶を献じる小姓」の像が建立されています。
mi.三成 006


「長浜城」 (平成22年7月18日登城 こちらです。)
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、織田信長に仕えて近江長浜城主の時(1574年頃)に、父・兄と共に秀吉に仕
官し、自身は小姓として仕えていました。
mi.三成 013 mi.三成 012


「忍城」 (記事はこちらです。)
小田原征伐では、三成くんは埼玉・忍城を水攻めにしますが、失敗しています。
忍城  001

水攻め 002 水攻め 003


「伏見城」 (平成24年4月6日登場 こちらです。)
指月山に築かれた伏見城に、1594年、秀吉が入城し、秀吉が没した1598年まで、三成はこの城で秀吉に
仕官していまいた。
mi.三成 014 mi.三成 015


「佐和山城」 
三成は、事務的な才能を買われ、25歳の時に従五位下、治部少輔に任ぜられ、豊臣政権5奉行のひとりと
して活躍し、30歳で佐和山10万石(後に19万4千石)の領主となっています。
mi.三成 007 mi.三成 008


「関ヶ原の戦い」 (前回は、こちらです。)
1600年9月15日、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元(実質上は石田三成)を総大将とする西軍の
間で一大決戦が行われ、戦いはわずか一日で実にあっけなく終わっています。
結果は家康が勝利を収め、西軍の首脳は斬首・所領没収・減封などの処分を受け、家康は江戸幕府の開設
へと進んでいきます。
mi.三成 009 mi.三成 010

三成くんは、小早川秀秋の裏切りで惨敗、京都六条河原で刑死しました。
天地人の三成くん(小栗さん)
is.石田三成 小栗006


今回、関ヶ原では西軍の陣所を廻ってきましたので、佐和山城とともに別途、記事にしたいと思います。

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:朝倉義景
明智光秀は、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であったため、義龍に明智城を攻められ一族が離散したため、その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉義景に仕えたという。

≪本日の問題≫

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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