三成の関ヶ原 その45 「西軍作戦の不統一」

『西軍作戦の不統一』

歴史に“もし”という言葉はないといいますが、仮に朝鮮役の勇将・立花宗茂をも加えた1万5千の大兵が、

西軍の有力部隊として関ヶ原の決戦に参加していたと仮定したならば、東西の勝敗は、あるいは逆転し

ていたかもしれないのです。

毛利輝元(1553-1625年)
mo.毛利輝元 001

家康との決戦を前にひかえて、西軍の有力部隊を裂いて、丹後の田辺城攻めや、近江の大津城攻めを命

じた西軍の総大将・毛利輝元は実に愚将だったと批判されます。

輝元は戦国の英雄・毛利元就の嫡孫ですが、過保護に育ちの凡将であったという。

叔父に吉川春元。小早川隆景という2人の名将がいて、補佐を勤めたので事なきを得たが1586年に元春、

1597年に隆景が死去してからは、輝元の補佐役が吉川広家(元春の3男)と、毛利の使僧・安国寺恵瓊

の両派に分かれ、輝元は恵瓊のいうままに、大坂に入城し、西軍の総大将に祭り上げられていたのです。

輝元を総大将に祭り上げたのは、恵瓊と三成の合作であり石田三成にも責任があるが、三成としても毛利

一族を西軍の味方とするためには、安国寺恵瓊のいうことを聞き入れざるを得なかったのでしょう。

そして、毛利輝元を総大将とすることで、西軍の作戦統一を極めて不統一のものにしたことが、毛利一族

その他の武将の裏切りとはまた別に、西軍の戦力を弱体化させ、敗因の主と思われます。

sakura 20130130 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:柳川城
立花宗茂は柳川城主として13万2千石を領していたが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易除封となり、この後は、石田三成を捕らえた田中吉政が筑後一国32万5千石を与えられ柳川城となっています。

≪本日の問題≫


                  
                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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三成の関ヶ原 その44 「大津城の陥落」

『大津城の陥落』

大津城攻めに取りかかった西軍の諸将は

「城内は糧食が豊かだから、長囲は不利であろう。急ぎ力攻めする」

と決定し、9月13日から猛攻撃を開始した。

琵琶湖上からも舟やイカダをもって、城際に肉迫している。

大津城(CG画像)
大津城籠城戦 小

夕刻には二の丸が陥落するとともに、西軍が白砲を三井寺に置き大津城を砲撃したという。

一弾が天守の2層目に命中したため、京極高次の姉・芳寿院(秀吉の側室・松の丸殿)の侍女2人が即死し、

芳寿院も一時気絶したという。

翌14日も、西軍は本丸を攻撃するも、城は容易に陥落しそうにもなかった。

城攻めの大将・毛利元康は、高野山の木食上人応其を遣わし、降伏を勧告させるも、城主・京極高次はこれ

を拒絶したが、家老の黒田伊予守が

「もはや城兵も戦意を喪失しております。といって、東軍の西上は、まだ、いつとも期待は出来ませぬゆえ、

いちど城を開き、東軍と合体できる日を待つほかはありますまい」

と述べて、高次を諌めたため高次もついに伊予守の意見に従い、9月15日の朝、大津城を出て園城寺に退

き、そこで剃髪し高野山に上がったという。

そこで、毛利元康は立花宗茂に命じて、大津の城を守備させることにしたが、この大津城陥落の9月15日が、

天下分け目の関ヶ原決戦の当日であったのですから、話にならないですね。


sakura 20130129 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:誾千代
立花宗茂は、大友氏の重臣・高橋鎮種(紹運)の長男ですが、立花道雪の強い望みにより、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代と結婚して娘婿となっています。
誾千代に代わって道雪から家督を譲られますが、誾千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして2人は別居したといいます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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春を待つ小動物たち

「春を待つ小動物たち」

日曜日は天気が良かったので、入園料無料・駐車場無料の小動物園に行ってきました。♪

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先ずは、ふれあい広場のドアーフ君とモルモット君

小型で愛嬌のあるモルモットは人気があり、抱っこ希望が多く忙しい状態でしたが、大きくて愛想のない

ドアーフ君は始終、座り込んでいました。

ご機嫌がよくなかったのでしょう・・・。

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つい、立ち止まりが長くなってしまう、ニホンザル

日向ぼっこする親ザルと元気に走り廻る子ザルを見ていると、時間が経つのを忘れていまいます。

動物たちは、冬毛の今が一番高価な毛皮をまとっているのでしょうね。 毛並みがとても綺麗でした。

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アネハツル

世界で一番小さいツルですが、ヨーロッパで繁殖し、ヒマラヤを越えて中国で越冬するそうです。

とても精悍な顔つきです☆

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日本に棲む最大の鳥、タンチョウ。 国の天然記念物に指定されているそうです。

サービス精神が旺盛で、翼を広げて見せてくれました。

この時期、北海道へ行って野生のタンチョウを見たいですね!

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ハニーハンターのツキノワグマ

熊は、プーさんと同じで、蜂蜜が大好物だそうです。

蜂蜜を探すショーをやっていましたが、見物客が多く近くに寄れませんでした。

まだ子供で、体重は50kgだとか。

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華麗なフラミンゴたち

華麗なお姿ですが、まなざしはチョット怖いですね。

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ミニブタさん

ペットショップでミニブタさんを見かけますが、体重100kg以下をミニブタと呼ぶそうです。

マンション住まいの方が、ペットにする場合は留意が必要ですね!

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実は、カビバラを見に行ったのですが、お昼寝中で動いてくれませんでした。

また、春になったら再訪したいと思います。

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最後になってしまいましたが、行ったところは、「大宮公園小動物園」でした。

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この動物園には、その他、たくさんの小動物がいますので、暖かい週末に如何でしょうか。

詳しくは、「こちら」のホームページで、ご確認ください。


sakura 20130127 001

大丈夫です! ツキノワグマも小動物でしたから・・・。

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三成の関ヶ原 その43 「愚将・毛利輝元の命令」

『愚将・毛利輝元の命令』

毛利輝元の命令で、近江の瀬田で大津城の監視をしていた立花宗茂は、京極高次が東軍に寝返りをうった

ことを、大坂城に報告するとともに、大津に向って発した。

立花宗茂(1567-1643年)
ta.立花宗茂

宗茂からの報告を受けた毛利輝元らは、淀殿の使者を大津城につかわし、高次を説き、その志を改めようと

したが、高次はこれを聞きいれず、ますます防備を厳重にした。

そこで西軍は、おそまきながら高次を討伐する決意を固め、毛利元康、毛利秀包を大将とし、大坂城七手組

などを大坂から進発させ、近江の瀬田にいた立花宗茂の兵と合体させ、総勢1万5千で大津城を攻略するこ

とになった。

西軍は9月12日、大将・毛利元康の本陣で、大津城攻めの軍議を練っている。

しかし、同日、東軍の主力を率いて西上した家康が、すでに尾張の清洲まで進出していたのですから、高次

を討つにしてもテンポが遅すぎます。

高次を討つのなら、もっと早くすべきだし、9月15日の関ヶ原決戦を3日後にひかえて(結果ですが…)、

いまさら1万5千の大軍で大津城を攻囲させるなど、西軍の総大将・毛利輝元の作戦方針は狂っていたので

しょう。

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:彦根城
大津城は、関ヶ原の戦い後に廃城となり、天守などが膳所城や彦根城に移築されたとされます。
昭和32年に行われた彦根城天守解体修理の際に、符号、墨書きが見つかったことを根拠としています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その42 「京極高次の寝返り」

『京極高次の寝返り』

西軍が打倒徳川の兵を挙げると、総大将の毛利輝元、副総大将の宇喜多秀家らは、みな大津城を占領し、

ここに西軍方の守備を置こうと主張。

その主旨を大津城の留守居役の黒田伊予守に伝えると、伊予守は

「われらは城主・京極高次の君命によって、この城を守備する者だ。もし開城したならば、高次公の奥方(は

つ)を、どうする気か。人質にとらないと限るまい。この上は、ただ城を死守するだけである」

と言って、西軍の要求を退けた。

大津城跡
oo.大津城

その後、前田利長が加賀の金沢に退き、北陸方面における西軍の行動が一段落をつげたのに反し、美濃

の岐阜城が東軍の先鋒部隊に8月23日に奪取されてしまった。

この敗報に接した大谷吉継らは、美濃方面に転進しようとして、京極高継に同行を求めた。

9月3日、朽木元綱は高次と出発時刻を示し合わせ、美濃に発したが、高次は大津城に帰城し、家康の直

臣・井伊直政に密書を送って、西軍を大津で阻止する決意を告げている。

これは当初から西軍に反抗することの危険を避け、西軍の指令に従っていたが、豊臣恩顧の武将派の諸

大名が、東軍の先鋒を受けたまわって西上し、一気に岐阜城を抜いた優勢さを観望し、急に行動をかえて

大津に籠城することによって、その旗幟をはじめて明らかにしたものだと思われます。

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:蛍大名
京極高次は、秀吉の側室である妹(姉との説も)・松の丸(京極)殿や、淀殿の妹である正室・初(常高院)があまりにも有名であることから、その七光りで出世したとされ、蛍大名とささやかれたという。
しかし、戦国武将としての能力も有しており、大津城の戦いでは、居城の大津城に篭もって1万人を超える西軍の大軍勢を食い止め、関ヶ原の主戦場へと向かわせなかった功により若狭一国を与えられて国持大名となっています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その41 「二股膏薬武士」

『二股膏薬武士』

大津城攻略は、西軍の戦略のうちで最も拙劣であったともいわれます。

大津城は、近江の琵琶湖の西南岸に位置し、京極高次の居城であった。

高次の妻・“はつ(常高院)”は、豊臣秀頼の生母・淀殿の妹であり、また徳川秀忠の妻・“ごう”(崇源院)

の姉にあたります。

従って、高次は豊臣氏とも徳川氏とも親密な縁族関係にあり、難しい立場でした。

京極高次(1563-1609年)
ky.京極高次 01

徳川家康は、会津遠征のため東下するにあたり、1600年6月18日に大津に宿泊したが、大坂で不慮の

事変が起きることを予測し、大津城主の京極高次を味方につけ、高次と密約を交わし、人質として高次の

老臣・山田良利を納めています。

一方、石田三成は7月17日の挙兵にあたって、大津城に朽木元綱を派遣し、豊臣秀頼と淀殿の命令だと

称して、高次に人質の提出を求め、しかも北陸方面へ出兵を命じた。

高次は、やむなく長子の熊若を大坂に送って人質とし、家臣・黒田伊予守以下約千名に命じて、大津城を

守備させ、自ら2千の兵を率いて朽木元綱とともに、北陸方面に向って出馬したが、同時に三成に挙兵計

画があることを家康に密告してます。

二股膏薬武士とは、まさにこの京極高次のための言葉です。

しかし、二股武士は、この高次に限ったことではなく、戦国時代の大名や武士は、みなこれと似た行動を

とっていたのです。

吉川広家も小早川秀秋も加藤清正も片桐且元も、みんな同じことです。

京極高次だけを責めるのは酷なことですね。

sakura 20130124 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:養源院 (養源院の記事は、「こちら」です。)
京都・養源院の本堂は、1619年に破却された秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされ、左右と正面の廊下の天井は、伏見城で最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、
血天井として知られています。
他にも、血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもあります。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その40 「伏見城落城」

『伏見城落城』

伏見城攻撃は7月26日に大々的に行なわれた。

しかし、毛利秀元と吉川広家は、当日、近江の瀬田に移り、それ以降の攻撃には加わっていない。

吉川広家が東軍に内通する気配は、既にこの頃から顕著な動きを見せ始めていたらしい。

西軍の参謀・石田三成は7月29日に、近江佐和山城の居城を出て、伏見に到着し城攻めの諸将士を激励

している。

伏見城(模擬天守)*耐震上なかに入ることはできませn。
fu.伏見城 001

諸将の兵士は競って伏見城を猛攻し、30日には城際に肉薄。

この日、長束正家は矢文を松の丸の甲賀衆に射込んで、

「西軍に内応して放火せねば、汝らの妻子を磔にする」

と書いて、脅かす。

そのため、松の丸を守備していた甲賀衆40余人は、8月1日の早朝に火を放って、西軍の城内侵入を便利

にした。

この日の夜、小早川秀明の兵士が火矢を放ち天守を焼いた。

天守閣の炎上するのを眺めた、城将・鳥居元忠の兵士は伏見城の運命を見極め、元忠に自害を勧めた。

しかし、元忠は

「この戦いは、討死を覚悟の戦いであるが、防御にばかり努めるのは、己の名誉ではなくて徳川方の禍難

を軽くするためだ。したがって、名もない兵卒のために一命を落としても、いとうどころではない」

と延べ、自ら2百余人の手兵を率いて城を討って出ること3度におよび、みごとに寄せ手を撃退したという。

しかし、そのため城兵の損害も大きく、自らも負傷し、戦い疲れた元忠は薙刀を杖につき石段に休息して

いたところ、寄せ手の雑賀重朝と名のる武士が槍をふるって、元忠を突こうとした。

元忠も名のりをあげ、薙刀を立ち上がった。

すると、寄せ手の重朝が、ひざまずき

「火はすでに御城におよんでいる。何とぞ、御自害のほどを…。それがし、謹んで、もとどりを賜り、後世の

誉れといたしたし」

と、延べたてた。

そこで、元忠も、重朝の挨拶に対して、うなずき、鎧を脱いで、腹を切ったという。


武士ですねぇ~。これが日本の兵なのでしょう!


ume 20130122 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:豊臣秀吉
伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵開始後の1592年8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため指月山に築城しています。
この伏見城は地震で倒壊しています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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